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第六話 涙のカスタードと『再起の米粉シュークリーム』(後編)
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じっとりとした、湿度の高い空気が、部屋の隅々にまで満ちていた。八月も終わりに近いというのに、太陽は未だその権勢を諦める気配もなく、分厚い雲の向こう側から、地上をじりじりと焙り続けている。時折、風が吹いても、それは網戸を通り抜けるうちに生ぬるい吐息と化し、私の頬を撫でては消えていった。
アパートの裏手にある公園の木々は、濃すぎるほどの緑の葉を重たげに垂らし、まるで、この終わらない夏に、うんざりしているかのように、静まり返っている。蝉の声も、最盛期の、あの空気を震わせるような勢いはなく、ジ、ジ、と途切れがちに、どこか疲れたように鳴いては、ふと黙り込む。その沈黙が、かえって、部屋の中の重苦しい静寂を際立たせていた。
あの、シュークリームとの戦いに、完膚なきまでに叩きのめされてから、もう三日が過ぎていた。
キッチンに、立つ気になれない。
オーブンを見るだけで、あの、膨らまなかった、無残な生地の残骸が、目に浮かぶ。ハンドミキサーの、甲高い音を聞けば、耳の奥で、「失敗だ」という幻聴が聞こえる気がした。
私の部屋は、荒れていた。
キッチンのシンクには、洗うのを諦めた、粉と卵の塊がこびりついたボウルが、二、三、放置されている。テーブルの上には、コンビニで買ってきた、惣菜のプラスチック容器が、虚しく転がっていた。ベッドも、万年床だ。
コンテストの締め切りは、あと四日に迫っている。
焦りだけが、空回りして、私の心を、内側から、じりじりと、焦がしていく。
もう、諦めようか。
私には、無理だったんだ。プロの世界なんて、おこがましかった。橘さんにも、女王陛下にも、申し訳ない。
そんな、負の感情が、澱のように、心に溜まっていく。
私は、ただ、座椅子に沈み込み、意味もなく、スマートフォンの画面を、なぞっていた。
その時だった。
ピンポーン、と、来客を告げる、軽やかなチャイムが鳴った。
こんな時間に、誰だろう。居留守を使おうか。
そう思った、次の瞬間。
「開けなさい、ひよこ豆! この、私が、直々に、来てやったのですから、光栄に思うがよい!」
ドアの向こうから、有無を言わせぬ、女王陛下の声が、響き渡った。
私は、観念して、重い腰を上げた。ドアを開けると、そこには、まるで、冬の夜空を支配する女王のように、黒貂の毛皮をまとった(もちろんフェイクファーだと信じたい)、女王陛下が、仁王立ちになっていた。
彼女は、私の、荒れ果てた部屋と、死人のような顔を、一瞥するなり、深く、深く、ため息をついた。
「まあ、なんと、情けない。汝の魂は、すっかり、敗北主義という名の、カビに、蝕まれているようですわね」
彼女は、ずかずかと部屋に上がり込むと、まず、窓を、全開にした。ひやり、とした、冬の空気が、淀んだ部屋の空気を、一気に、浄化していく。
「ポエムでは、もはや、汝のその、腐った心には、届かぬようだ。よろしい」
彼女は、私のキッチンへと向かうと、腕を組み、きっぱりと、宣言した。
「ならば、今度は、**『科学』**の力で、この、シューという名の、難攻不落の城を、完全に、攻略してしんぜましょう。汝の、その、感情論で動く、ひよこ豆の脳みそに、揺るぎない、論理と、理性を、直接、叩き込んでやる!」
彼女は、どこからともなく、一枚の、小さなホワイトボードと、ペンを取り出した。そして、私の部屋の、散らかったテーブルの上を、さっと片付けると、そこに、まるで、大学教授のように、仁王立ちになった。
「講義を、始めます。心して、聞きなさい!」
女王陛下の、特別講義。テーマは、『なぜ、汝のシューは、無残な死を遂げたのか』。
「まず、第一の失敗。そもそも、膨らまなかった、あの、哀れな、かわうそのフン。その原因は、ただ一つ。**『糊化(こか)不足』**ですわ」
彼女は、ホワイトボードに、鍋の絵を、さらさらと描いた。
「米粉の主成分は、デンプン。このデンプンは、水と熱が加わることで、その構造が変化し、粘りを持つようになる。これが、糊化。この、粘りの膜こそが、グルテンを持たぬ我らが、水蒸気を閉じ込めるための、唯一の、武器。汝は、焦げることを恐れ、この、糊化の儀式を、中途半端に、終わらせてしまった。生地が、まだ、青白いままだったでしょう? 違うかしら?」
図星だった。
「弱火で、最低でも、一分半。木べらで、絶えず、練り続けるのです。生地が、一つにまとまり、艶が出て、鍋底に、薄い膜が張るくらいまで。そこまで、やって初めて、デンプンは、完全に、その力を、覚醒させるのです」
次に、彼女は、しぼんでしまった、シューの絵を描いた。
「第二の失敗。一度は、膨らんだものの、哀れにも、潰えてしまった、儚い夢。その原因は、**『焼成不足』**。すなわち、骨格形成不全ですわ」
「骨格?」
「さよう。シュー生地が、その形を保つのは、熱によって、タンパク質と、糊化したデンプンが、変性し、固い、骨格を作るから。汝は、表面に、焼き色がついたことに、満足し、まだ、骨格が、完全に固まりきっていない、未熟な状態で、彼らを、オーブンという名の、安全な子宮から、取り出してしまった。結果、内部の、水蒸気の圧力が、急激に低下し、自らの重みに、耐えきれず、潰れてしまったのです。焼き始めてから、最低でも、十五分は、決して、オーブンの扉を開けてはなりませぬ。そして、全体が、しっかりと、濃い焼き色になるまで、じっくりと、焼き固める勇気を、持ちなさい」
最後に、彼女は、ひび割れた、シューの絵を描いた。
「そして、第三の失敗。汝が、最も、苦しんだ、生地の、硬さの、問題。これは、**『卵の量の不均衡』**が、原因ですわ」
彼女は、ボウルと、ヘラの絵を描き加えた。
「卵は、生地に、水分と、乳化作用を与え、滑らかにする、重要な役割を担う。だが、その量は、あまりに、繊細な、バランスの上に、成り立っている。卵が、少なすぎれば、生地は、硬くなり、膨らむ力に、耐えきれず、ひび割れる。逆に、多すぎれば、生地は、緩くなりすぎて、水蒸気を、保持することが、できなくなる。その、完璧な、一点を、見極めるための、指標を、授けましょう」
彼女は、ヘラの先に、生地が乗っている絵を描いた。
「完成した生地を、ヘラで、すくい上げた時、生地が、途切れることなく、ゆっくりと、**『逆三角形』**の形になって、落ちていく。その状態こそ、完璧な、硬さの証。卵は、レシピ通りに、全量入れるのではなく、生地の、様子を見ながら、少しずつ、加え、この、『逆三角形』のサインが、現れた時点で、止めるのです。それが、王道ですわ」
講義は、終わった。
ポカン、としていた私の頭の中に、今まで、もやもやとしていた、霧が、すうっと、晴れていくような、感覚があった。
失敗には、すべて、理由があったのだ。
それは、根性とか、気合とか、そういう、精神論ではない。明確な、科学的な、根拠が。
それでも。
頭では、理解できた。だが、私の心は、まだ、立ち上がることが、できなかった。また、失敗するのが、怖い。
私が、うつむいたまま、黙り込んでいると、ふと、スマートフォンの画面が、ぽん、と明るくなった。
SNSの、通知だった。
それは、私の、数少ない、フォロワーの一人からだった。
『こむぎさん、最近、更新がなくて、寂しいです。コンテスト、頑張ってくださいね。こむぎさんのお菓子には、人を、元気にする力があると思います。陰ながら、応援しています』
その、見知らぬ誰かからの、温かい言葉に、私の目の奥が、ツン、と熱くなった。
さらに、追い打ちをかけるように、別の通知が届く。
今度は、橘圭一からだった。
『花巻さん、その後、いかがですか。締め切りも、近いですが、焦らず、あなたらしい、お菓子を作ってください。あなたの作品、楽しみにしています』
憧れの、あの人まで。
私のことを見ていてくれる人がいる。待っていてくれる人がいる。
私は、ただ、自分のために、作っていたんじゃない。私の、この、小さなキッチンは、いつの間にか、世界と、繋がっていたんだ。
月曜日。会社に行くと、私の、死人のような顔を見かねたのか、田中部長が、声をかけてきた。
「花巻さん、大丈夫か。あまり、無理するなよ」
「だ、大丈夫です」
「そうか。あの、この前の、キッシュ。すごく、美味しかった。なんだか、元気が出たよ。だから、その、また、いつか、花巻さんの作るもの、食べたいな」
彼は、そう言って、少し、照れたように、笑った。
その、一言が、私の心の、最後の、スイッチを押した。
(私は、なんて、馬鹿だったんだろう)
自分の、未熟さばかりを、嘆いて。応援してくれる、たくさんの、優しい心を、忘れていた。
私は、もう一度、作りたい。
みんなのために。そして、何より、私自身の、ために。
その日の夜。私は、再び、女王陛下の、キッチンに立っていた。
私の目に、もう、迷いはなかった。
「女王陛下。もう一度だけ、私に、チャンスをください」
私の、その言葉に、彼女は、何も言わず、ただ、静かに、頷いた。
最後の、挑戦。
女王陛下の、科学的理論。SNSの、フォロワーの、温かい言葉。田中部長の、優しい笑顔。そのすべてを、胸に抱いて。
私は、一つ一つの工程を、完璧に、トレースしていった。
鍋で、生地を、徹底的に、糊化させる。艶が出て、鍋底に、薄い膜が張るまで。
溶き卵を、少しずつ、加える。生地の、様子を見ながら。そして、ヘラですくい上げた生地は、美しい、逆三角形を描いて、ゆっくりと、落ちていった。完璧だ。
天板に、生地を絞り出し、オーブンへ。
私は、祈るような気持ちで、ガラス窓を、見つめた。
生地が、膨らんでいく。ぐんぐん、と、天に向かって。
そして、今度は、しぼまない。ひび割れない。
オーブンの中で、その、誇らしげな、球体を、保ち続けている。
濃い、美しい、きつね色に、焼きあがっていく。
その光景に、私の頬を、一筋の、熱いものが、伝っていった。
焼きあがった、シュー生地は、完璧だった。
軽く、そして、中には、大きな、大きな、空洞が、できていた。
私は、その、空洞を、感謝の気持ちで、満たしたかった。
優しい甘さの、豆乳カスタードクリームを作る。
鍋に、豆乳、きび砂糖、コーンスターチを入れ、焦げ付かないように、絶えず、混ぜながら、火にかける。バニラビーンズの、甘い香りが、キッチンに広がる。とろみがつき、艶やかな、クリームが、完成した。
粗熱を取った、シュー生地の底に、小さな穴を開ける。
そして、絞り袋に入れた、カスタードクリームを、たっぷりと、たっぷりと、その、夢の空洞へと、注ぎ込んでいく。
ずっしり、とした、重み。
私の、希望と、感謝が、詰まった、重みだ。
最後に、溶けない粉糖を、雪のように、ふわりと、振りかける。
できた。
私の、『希望のぷちガトー』。
私は、その、シュークリームを、写真に撮り、震える指で、コンテストの、応募フォームへと、添付した。
送信ボタンを押す。
もう、結果は、どうでもよかった。
この、挑戦を通して、私は、技術よりも、もっと、ずっと、大切なものを、手に入れたのだから。
それは、私を、支えてくれる、温かい、人の心の、存在だった。
---
### **女王陛下直伝『再起の米粉シュークリーム・豆乳カスタード入り』**
**【材料】(約8個分)**
* **米粉のシュー生地**
* 水 100ml
* 米油(または無塩バター) 40g
* 塩 ひとつまみ
* 米粉(製菓用) 60g
* 卵 2~3個
* **豆乳カスタードクリーム**
* 豆乳(無調整) 250ml
* 砂糖(きび砂糖など) 50g
* コーンスターチ 20g
* バニラエッセンス(またはバニラビーンズ1/4本) 少々
* **仕上げ**
* 溶けない粉糖 適量
**【作り方】**
1. **シュー生地作り**
* 小鍋に水、米油、塩を入れ、中火にかける。沸騰したら、一度火からおろし、米粉を一度に加え、木べらで手早く混ぜる。
* 再び弱火にかけ、生地を鍋底に押し付けるように、1分半~2分ほど、練り続ける。(※ここで、デンプンを、完全に『糊化』させるのです! 艶が出て、鍋底に薄い膜が張るのが、サインですわ)
* 生地をボウルに移し、溶きほぐした卵を、少しずつ加えながら、ハンドミキサーで混ぜ合わせる。卵は、一度に加えず、生地の硬さを見ながら調整すること。
* ヘラですくった時に、生地が、滑らかな『逆三角形』になって、ゆっくり落ちるくらいの硬さになったら、卵を加えるのを止める。
* 生地を、口金をつけた絞り袋に入れ、クッキングシートを敷いた天板に、直径4~5cmの大きさに丸く絞り出す。
* 表面に霧吹きで水をかけ、190℃に予熱したオーブンで20分、その後、170℃に下げて10~15分、全体に、しっかりと濃い焼き色がつくまで焼く。(※焼き始めてから、最低15分は、決して、オーブンの扉を、開けてはなりませぬ!)
2. **豆乳カスタード作り**
* 小鍋に、豆乳以外の材料を入れ、泡立て器でよく混ぜる。豆乳を少しずつ加え、ダマにならないように溶きのばす。
* 中火にかけ、絶えず、木べらや泡立て器で、底からかき混ぜながら、加熱する。とろみがつき、ふつふつとしてきたら火から下ろし、バニラを加える。
* バットなどに移し、表面に、ラップをぴったりと貼り付け、氷水などで急冷する。
3. **仕上げ**
* 焼きあがって、完全に冷めたシュー生地の底に、菜箸などで小さな穴を開ける。
* カスタードクリームを、絞り袋に入れ、シューの中に、たっぷりと、愛情を込めて、絞り入れる。
* 仕上げに、粉糖をふりかけて、完成。さあ、汝の、血と、汗と、涙の結晶を、味わうがよい!
**【女王陛下からの科学的アドバイス】**
* 「シュー生地作りは、感情論にあらず。すべては、物理と、化学の、法則の上に、成り立っている。糊化、焼成、乳化。この三つの、科学的根拠を、理解し、支配した時、汝は、初めて、シュークリームという名の、神の創造物を、その手で、生み出すことができるのです」
アパートの裏手にある公園の木々は、濃すぎるほどの緑の葉を重たげに垂らし、まるで、この終わらない夏に、うんざりしているかのように、静まり返っている。蝉の声も、最盛期の、あの空気を震わせるような勢いはなく、ジ、ジ、と途切れがちに、どこか疲れたように鳴いては、ふと黙り込む。その沈黙が、かえって、部屋の中の重苦しい静寂を際立たせていた。
あの、シュークリームとの戦いに、完膚なきまでに叩きのめされてから、もう三日が過ぎていた。
キッチンに、立つ気になれない。
オーブンを見るだけで、あの、膨らまなかった、無残な生地の残骸が、目に浮かぶ。ハンドミキサーの、甲高い音を聞けば、耳の奥で、「失敗だ」という幻聴が聞こえる気がした。
私の部屋は、荒れていた。
キッチンのシンクには、洗うのを諦めた、粉と卵の塊がこびりついたボウルが、二、三、放置されている。テーブルの上には、コンビニで買ってきた、惣菜のプラスチック容器が、虚しく転がっていた。ベッドも、万年床だ。
コンテストの締め切りは、あと四日に迫っている。
焦りだけが、空回りして、私の心を、内側から、じりじりと、焦がしていく。
もう、諦めようか。
私には、無理だったんだ。プロの世界なんて、おこがましかった。橘さんにも、女王陛下にも、申し訳ない。
そんな、負の感情が、澱のように、心に溜まっていく。
私は、ただ、座椅子に沈み込み、意味もなく、スマートフォンの画面を、なぞっていた。
その時だった。
ピンポーン、と、来客を告げる、軽やかなチャイムが鳴った。
こんな時間に、誰だろう。居留守を使おうか。
そう思った、次の瞬間。
「開けなさい、ひよこ豆! この、私が、直々に、来てやったのですから、光栄に思うがよい!」
ドアの向こうから、有無を言わせぬ、女王陛下の声が、響き渡った。
私は、観念して、重い腰を上げた。ドアを開けると、そこには、まるで、冬の夜空を支配する女王のように、黒貂の毛皮をまとった(もちろんフェイクファーだと信じたい)、女王陛下が、仁王立ちになっていた。
彼女は、私の、荒れ果てた部屋と、死人のような顔を、一瞥するなり、深く、深く、ため息をついた。
「まあ、なんと、情けない。汝の魂は、すっかり、敗北主義という名の、カビに、蝕まれているようですわね」
彼女は、ずかずかと部屋に上がり込むと、まず、窓を、全開にした。ひやり、とした、冬の空気が、淀んだ部屋の空気を、一気に、浄化していく。
「ポエムでは、もはや、汝のその、腐った心には、届かぬようだ。よろしい」
彼女は、私のキッチンへと向かうと、腕を組み、きっぱりと、宣言した。
「ならば、今度は、**『科学』**の力で、この、シューという名の、難攻不落の城を、完全に、攻略してしんぜましょう。汝の、その、感情論で動く、ひよこ豆の脳みそに、揺るぎない、論理と、理性を、直接、叩き込んでやる!」
彼女は、どこからともなく、一枚の、小さなホワイトボードと、ペンを取り出した。そして、私の部屋の、散らかったテーブルの上を、さっと片付けると、そこに、まるで、大学教授のように、仁王立ちになった。
「講義を、始めます。心して、聞きなさい!」
女王陛下の、特別講義。テーマは、『なぜ、汝のシューは、無残な死を遂げたのか』。
「まず、第一の失敗。そもそも、膨らまなかった、あの、哀れな、かわうそのフン。その原因は、ただ一つ。**『糊化(こか)不足』**ですわ」
彼女は、ホワイトボードに、鍋の絵を、さらさらと描いた。
「米粉の主成分は、デンプン。このデンプンは、水と熱が加わることで、その構造が変化し、粘りを持つようになる。これが、糊化。この、粘りの膜こそが、グルテンを持たぬ我らが、水蒸気を閉じ込めるための、唯一の、武器。汝は、焦げることを恐れ、この、糊化の儀式を、中途半端に、終わらせてしまった。生地が、まだ、青白いままだったでしょう? 違うかしら?」
図星だった。
「弱火で、最低でも、一分半。木べらで、絶えず、練り続けるのです。生地が、一つにまとまり、艶が出て、鍋底に、薄い膜が張るくらいまで。そこまで、やって初めて、デンプンは、完全に、その力を、覚醒させるのです」
次に、彼女は、しぼんでしまった、シューの絵を描いた。
「第二の失敗。一度は、膨らんだものの、哀れにも、潰えてしまった、儚い夢。その原因は、**『焼成不足』**。すなわち、骨格形成不全ですわ」
「骨格?」
「さよう。シュー生地が、その形を保つのは、熱によって、タンパク質と、糊化したデンプンが、変性し、固い、骨格を作るから。汝は、表面に、焼き色がついたことに、満足し、まだ、骨格が、完全に固まりきっていない、未熟な状態で、彼らを、オーブンという名の、安全な子宮から、取り出してしまった。結果、内部の、水蒸気の圧力が、急激に低下し、自らの重みに、耐えきれず、潰れてしまったのです。焼き始めてから、最低でも、十五分は、決して、オーブンの扉を開けてはなりませぬ。そして、全体が、しっかりと、濃い焼き色になるまで、じっくりと、焼き固める勇気を、持ちなさい」
最後に、彼女は、ひび割れた、シューの絵を描いた。
「そして、第三の失敗。汝が、最も、苦しんだ、生地の、硬さの、問題。これは、**『卵の量の不均衡』**が、原因ですわ」
彼女は、ボウルと、ヘラの絵を描き加えた。
「卵は、生地に、水分と、乳化作用を与え、滑らかにする、重要な役割を担う。だが、その量は、あまりに、繊細な、バランスの上に、成り立っている。卵が、少なすぎれば、生地は、硬くなり、膨らむ力に、耐えきれず、ひび割れる。逆に、多すぎれば、生地は、緩くなりすぎて、水蒸気を、保持することが、できなくなる。その、完璧な、一点を、見極めるための、指標を、授けましょう」
彼女は、ヘラの先に、生地が乗っている絵を描いた。
「完成した生地を、ヘラで、すくい上げた時、生地が、途切れることなく、ゆっくりと、**『逆三角形』**の形になって、落ちていく。その状態こそ、完璧な、硬さの証。卵は、レシピ通りに、全量入れるのではなく、生地の、様子を見ながら、少しずつ、加え、この、『逆三角形』のサインが、現れた時点で、止めるのです。それが、王道ですわ」
講義は、終わった。
ポカン、としていた私の頭の中に、今まで、もやもやとしていた、霧が、すうっと、晴れていくような、感覚があった。
失敗には、すべて、理由があったのだ。
それは、根性とか、気合とか、そういう、精神論ではない。明確な、科学的な、根拠が。
それでも。
頭では、理解できた。だが、私の心は、まだ、立ち上がることが、できなかった。また、失敗するのが、怖い。
私が、うつむいたまま、黙り込んでいると、ふと、スマートフォンの画面が、ぽん、と明るくなった。
SNSの、通知だった。
それは、私の、数少ない、フォロワーの一人からだった。
『こむぎさん、最近、更新がなくて、寂しいです。コンテスト、頑張ってくださいね。こむぎさんのお菓子には、人を、元気にする力があると思います。陰ながら、応援しています』
その、見知らぬ誰かからの、温かい言葉に、私の目の奥が、ツン、と熱くなった。
さらに、追い打ちをかけるように、別の通知が届く。
今度は、橘圭一からだった。
『花巻さん、その後、いかがですか。締め切りも、近いですが、焦らず、あなたらしい、お菓子を作ってください。あなたの作品、楽しみにしています』
憧れの、あの人まで。
私のことを見ていてくれる人がいる。待っていてくれる人がいる。
私は、ただ、自分のために、作っていたんじゃない。私の、この、小さなキッチンは、いつの間にか、世界と、繋がっていたんだ。
月曜日。会社に行くと、私の、死人のような顔を見かねたのか、田中部長が、声をかけてきた。
「花巻さん、大丈夫か。あまり、無理するなよ」
「だ、大丈夫です」
「そうか。あの、この前の、キッシュ。すごく、美味しかった。なんだか、元気が出たよ。だから、その、また、いつか、花巻さんの作るもの、食べたいな」
彼は、そう言って、少し、照れたように、笑った。
その、一言が、私の心の、最後の、スイッチを押した。
(私は、なんて、馬鹿だったんだろう)
自分の、未熟さばかりを、嘆いて。応援してくれる、たくさんの、優しい心を、忘れていた。
私は、もう一度、作りたい。
みんなのために。そして、何より、私自身の、ために。
その日の夜。私は、再び、女王陛下の、キッチンに立っていた。
私の目に、もう、迷いはなかった。
「女王陛下。もう一度だけ、私に、チャンスをください」
私の、その言葉に、彼女は、何も言わず、ただ、静かに、頷いた。
最後の、挑戦。
女王陛下の、科学的理論。SNSの、フォロワーの、温かい言葉。田中部長の、優しい笑顔。そのすべてを、胸に抱いて。
私は、一つ一つの工程を、完璧に、トレースしていった。
鍋で、生地を、徹底的に、糊化させる。艶が出て、鍋底に、薄い膜が張るまで。
溶き卵を、少しずつ、加える。生地の、様子を見ながら。そして、ヘラですくい上げた生地は、美しい、逆三角形を描いて、ゆっくりと、落ちていった。完璧だ。
天板に、生地を絞り出し、オーブンへ。
私は、祈るような気持ちで、ガラス窓を、見つめた。
生地が、膨らんでいく。ぐんぐん、と、天に向かって。
そして、今度は、しぼまない。ひび割れない。
オーブンの中で、その、誇らしげな、球体を、保ち続けている。
濃い、美しい、きつね色に、焼きあがっていく。
その光景に、私の頬を、一筋の、熱いものが、伝っていった。
焼きあがった、シュー生地は、完璧だった。
軽く、そして、中には、大きな、大きな、空洞が、できていた。
私は、その、空洞を、感謝の気持ちで、満たしたかった。
優しい甘さの、豆乳カスタードクリームを作る。
鍋に、豆乳、きび砂糖、コーンスターチを入れ、焦げ付かないように、絶えず、混ぜながら、火にかける。バニラビーンズの、甘い香りが、キッチンに広がる。とろみがつき、艶やかな、クリームが、完成した。
粗熱を取った、シュー生地の底に、小さな穴を開ける。
そして、絞り袋に入れた、カスタードクリームを、たっぷりと、たっぷりと、その、夢の空洞へと、注ぎ込んでいく。
ずっしり、とした、重み。
私の、希望と、感謝が、詰まった、重みだ。
最後に、溶けない粉糖を、雪のように、ふわりと、振りかける。
できた。
私の、『希望のぷちガトー』。
私は、その、シュークリームを、写真に撮り、震える指で、コンテストの、応募フォームへと、添付した。
送信ボタンを押す。
もう、結果は、どうでもよかった。
この、挑戦を通して、私は、技術よりも、もっと、ずっと、大切なものを、手に入れたのだから。
それは、私を、支えてくれる、温かい、人の心の、存在だった。
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### **女王陛下直伝『再起の米粉シュークリーム・豆乳カスタード入り』**
**【材料】(約8個分)**
* **米粉のシュー生地**
* 水 100ml
* 米油(または無塩バター) 40g
* 塩 ひとつまみ
* 米粉(製菓用) 60g
* 卵 2~3個
* **豆乳カスタードクリーム**
* 豆乳(無調整) 250ml
* 砂糖(きび砂糖など) 50g
* コーンスターチ 20g
* バニラエッセンス(またはバニラビーンズ1/4本) 少々
* **仕上げ**
* 溶けない粉糖 適量
**【作り方】**
1. **シュー生地作り**
* 小鍋に水、米油、塩を入れ、中火にかける。沸騰したら、一度火からおろし、米粉を一度に加え、木べらで手早く混ぜる。
* 再び弱火にかけ、生地を鍋底に押し付けるように、1分半~2分ほど、練り続ける。(※ここで、デンプンを、完全に『糊化』させるのです! 艶が出て、鍋底に薄い膜が張るのが、サインですわ)
* 生地をボウルに移し、溶きほぐした卵を、少しずつ加えながら、ハンドミキサーで混ぜ合わせる。卵は、一度に加えず、生地の硬さを見ながら調整すること。
* ヘラですくった時に、生地が、滑らかな『逆三角形』になって、ゆっくり落ちるくらいの硬さになったら、卵を加えるのを止める。
* 生地を、口金をつけた絞り袋に入れ、クッキングシートを敷いた天板に、直径4~5cmの大きさに丸く絞り出す。
* 表面に霧吹きで水をかけ、190℃に予熱したオーブンで20分、その後、170℃に下げて10~15分、全体に、しっかりと濃い焼き色がつくまで焼く。(※焼き始めてから、最低15分は、決して、オーブンの扉を、開けてはなりませぬ!)
2. **豆乳カスタード作り**
* 小鍋に、豆乳以外の材料を入れ、泡立て器でよく混ぜる。豆乳を少しずつ加え、ダマにならないように溶きのばす。
* 中火にかけ、絶えず、木べらや泡立て器で、底からかき混ぜながら、加熱する。とろみがつき、ふつふつとしてきたら火から下ろし、バニラを加える。
* バットなどに移し、表面に、ラップをぴったりと貼り付け、氷水などで急冷する。
3. **仕上げ**
* 焼きあがって、完全に冷めたシュー生地の底に、菜箸などで小さな穴を開ける。
* カスタードクリームを、絞り袋に入れ、シューの中に、たっぷりと、愛情を込めて、絞り入れる。
* 仕上げに、粉糖をふりかけて、完成。さあ、汝の、血と、汗と、涙の結晶を、味わうがよい!
**【女王陛下からの科学的アドバイス】**
* 「シュー生地作りは、感情論にあらず。すべては、物理と、化学の、法則の上に、成り立っている。糊化、焼成、乳化。この三つの、科学的根拠を、理解し、支配した時、汝は、初めて、シュークリームという名の、神の創造物を、その手で、生み出すことができるのです」
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このままだと、10年後に無実の罪であっさり処刑されちゃう!!
「むりむりむりむり、ぜったいにムリ!!」
生き延びるには、なんとか好感度を稼ぐしかない。
とにかく周りに気を使いまくって!
王子様たちは全力尊重!
侍女さんたちには迷惑かけない!
ひたすら頑張れ、ぼく!
――猶予は後10年。
原作のお話は知ってる――でも、5歳の頭と体じゃうまくいかない!
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