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第2話:見えない同居人と初めての対話
しおりを挟む翌朝、俺は重たい頭痛と共に目を覚ました。事務所のソファで眠ってしまったらしい。首が痛い。窓の外からは、しとしとと地面を叩く雨音が聞こえていた。六月の、典型的な梅雨の朝だった。
部屋の中は薄暗く、湿気で満ちている。昨日から閉め切ったままの窓ガラスには細かな水滴がびっしりと張り付き、外の景色を歪ませていた。コーヒーを淹れようと立ち上がると、古い木の床が湿気を吸って、いつもより鈍く軋んだ。湯を沸かす間、俺は部屋の隅に目をやった。
そこには、昨日連れ帰った少女の霊――サキが、相変わらず黒いモヤの姿でうずくまっていた。昨日と少し違うのは、その輪郭が心なしかはっきりしていることと、彼女の周囲だけ、空気が張り詰めるようにひんやりとしていることだ。まるで、彼女自身が小さな雨雲をまとっているかのようだった。
「……俺は、とんでもないことをしちまったな」
独り言が、静かな室内に落ちた。後悔が、ずしりと鉛のように胃に溜まっていく。俺の流儀は、感情を挟まず、対象を「処理」すること。それは、二度と過ちを繰り返さないための、俺自身が俺に課した戒めだった。なのに、昨日の俺は、涙を流し、共感し、あろうことか除霊対象を事務所にまで連れ帰ってしまった。自分のルールを、いともたやすく破ってしまったのだ。
コーヒーの苦い香りが、部屋に立ち込める。その湯気だけが、この重苦しい空気の中で唯一、生きているものの証のように思えた。マグカップを手に、ソファに戻る。サキは、ただ静かにそこに在るだけだった。時折、黒いモヤがゆらりと揺れる。それは、彼女が外の雨音に耳を澄ませているようにも見えた。見捨てることなんて、もうできそうになかった。
その時だった。事務所のドアが、けたたましい音を立てて開いた。
「おはようございまーっす!師匠、生きてますかー?」
湿気を吹き飛ばすような快活な声と共に、桜井ミソラが飛び込んできた。外の雨とは正反対の、太陽みたいな明るさだ。傘についた雨粒を払いながら、濡れた髪から爽やかなシャンプーの香りを振りまいている。
「朝からうるせえな、お前は……」
「だって、昨日の師匠、めちゃくちゃ様子がおかしかったですから!心配で早く来ちゃいました。で、どうなったんですか、あの家は?」
「……ああ。まあ、一応は片付いた」
俺は言葉を濁しながら、部屋の隅に視線を送った。ミソラもつられてそちらを見るが、彼女の目には当然、埃っぽい壁しか映らない。
「片付いたって…、でも師匠、なんかそっちの隅っこ、すごい気にしてません?」
「ああ。まあ、な」
「まさか、取り残しが!?まだいるんですか!?」
「いや、取り残しっていうか……連れて帰ってきちゃった、っていうか……」
「はい?」
ミソラの目が点になる。俺は意を決して、昨日の出来事をかいつまんで話した。少女の霊だったこと、悲しい記憶が流れ込んできたこと、そして、どうしても祓えずにここに連れてきたこと。
俺の話を聞き終えたミソラは、数秒間ぽかんとした後、とんでもないことを言い放った。
「え、幽霊を連れ帰ったんですか!?何ですかそれ、捨て猫拾ってくるみたいなノリですか!?」
「ノリじゃねえよ!俺だって、こんなことになるなんて思ってなかったんだ!」
「へぇー。で、その子はどこに?」
「だから、そこだよ。隅っこ」
ミソラはもう一度、部屋の隅をじーっと見つめた。そして、恐る恐る、といった感じで一歩近づいた。
「うーん……。何も見えませんけど、なんか、そこだけ空気冷たくないですか?エアコンの風向き、そっちになってます?」
「なってねえよ。それが、そいつだ」
「マジですか……。えーっと、初めましてー?桜井ミソラですー。師匠の助手の、1号の方でーす」
ミソラが屈託なく手を振った瞬間、部屋の隅で、チリン、と小さな鈴のような音がした気がした。サキの、警戒音だった。
こうして、俺と騒々しい助手1号と、姿の見えない同居人2号の、奇妙で厄介な共同生活は、梅雨空の下でひっそりと始まったのである。
◇
「ないっ!ないっ!私のプリンがないんですけどっ!」
数日後、雨の合間の晴れ間がのぞいた午後。ミソラの甲高い声が、事務所に響き渡った。昼休憩に、近所のコンビニで『頑張った自分へのご褒美』とかなんとか言って、一個三百円もする高級プリンを買ってきたのだ。それを食後の楽しみに取っておいたらしい。
「師匠!食べましたね!さては!」
「食うか、そんな女子みたいなもん。俺はコーヒーゼリー派だ」
デスクで書類整理をしながら、俺は顔も上げずに答えた。犯人の目星は、だいたいついていた。俺は部屋の隅にいるサキの気配を探った。
「……おい、サキ。お前だろ」
俺がそう言うと、部屋の隅で、ふいっと気配がそっぽを向いた気がした。そして、どこからともなく、あのオルゴールの幻聴が微かに聞こえてくる。彼女が機嫌を損ねたり、とぼけたりする時のサインだった。
連れてきてから数日、サキは少しずつその存在感を明確にしていた。嬉しい時は、部屋の空気がふわりと温かくなる。悲しい時は、ひんやりと冷たくなる。そして、面白くない時は、こうしてオルゴールの音を鳴らすのだ。もちろん、そのすべてを感じ取れるのは、今のところ俺だけだった。
「サキ?誰ですそれ?新しい彼女ですか!?」
「ちげえよ!助手2号だ!」
俺が説明している、まさにその時だった。ミソラの頭上に、ぽすっ、と何かが落ちてきた。見ると、それは空になったプリンの容器だった。中身は綺麗になくなっている。
「きゃっ!……て、これ!私のプリンの容器!」
ミソラは目を吊り上げた。
「師匠、やっぱり師匠が……って、あれ?なんで棚の上に?」
「俺じゃねえって。……サキ、お前、食べたのか?」
俺が尋ねると、サキの気配が『知らない』とでも言うように、ぷいっと横を向いた。
食べられるはずがない。霊体なのだから。おそらく、ミソラへの嫉妬か、ただのイタズラ心で、ポルターガイストを起こしてプリンをどこかへ隠したのだろう。そして、空の容器だけをミソラの頭に落とした、と。性格が悪いにも程がある。
「この野郎……!見えないからってやりたい放題しやがって!どこにあんのよ、私のプリンは!」
ミソラが、何もない空間に向かって拳を振り上げる。
その瞬間、突然事務所の電気がチカチカと明滅し始めた。サキの機嫌が、さらに悪くなった証拠だ。テーブルの上の雑誌が、ばさりと床に落ちる。
「うわっ!やんのかコラ!上等じゃないの!」
「やめろお前ら!てかミソラ、お前、誰と戦ってんだよ!はたから見たら、ただのヤバい奴だぞ!」
俺はこめかみを押さえた。頭痛がひどくなる。どうしてこうなった。俺の静かだった事務所は、今や女子二名(一人は霊体)の喧嘩場所へと成り下がっていた。
結局、その日はミソラが新しいプリンを買い直すことで、戦いは終結した。ちなみに、消えたプリンは、翌日、事務所のエアコンの室外機の上で、カピカピになった状態で発見された。
◇
そんなドタバタが日常になりつつあった、ある雨上がりの日の夕暮れ。一本の相談の電話が鳴った。近所の主婦からで、「駅前の公園にある、特定のベンチに座ると、必ず気分が悪くなるんです」という、よくある相談だった。
「よし、行くか。ミソラ、お前は留守番だ」
「えー!行きます!」
「ダメだ。まだお前を本格的な現場に連れて行くわけには……」
「サキちゃんは?」
不意にミソラが言った。
「サキちゃんも連れて行ってあげましょうよ。ずっと事務所にいるのも、退屈だろうし」
俺は部屋の隅に目をやった。サキの気配が、少しだけ期待するように揺れている。
「……分かったよ。ただし、何かあっても絶対前に出るなよ」
俺は大きなため息をついて、見えない助手も含めた三人で、夕暮れの公園へと向かった。
公園は、雨上がりの匂いに満ちていた。湿った土と、青々とした芝生の匂い。色とりどりの紫陽花が、雨粒を纏って宝石のようにきらめいている。西の空では、厚い雲の切れ間からオレンジ色の光が差し込み、まるで天からのスポットライトのように、公園の一角を神々しく照らし出していた。
問題のベンチは、その光の中にあった。
近寄ると、すぐに分かった。ベンチには、半透明の老人が座っていた。チェックのシャツにスラックス。どこにでもいそうな、穏やかそうな老人だ。彼の足元には、古びた犬のリードが落ちている。彼はそれに気づく様子もなく、ただぼんやりと、公園の入り口を見つめていた。
「……いたな」
「どこです?私の目には、ロマンチックな光景にしか見えませんけど」
「ど真ん中だよ。……よし、ちょっと話しかけてみる」
俺はミソラとサキ(の気配)に「ここで待ってろ」と告げ、一人でベンチに近づいた。そして、老人の隣に、ことわりもなく腰を下ろした。
「いい天気になりましたね、おじいさん」
老人は俺の方を見ようともせず、入り口を見つめたままだ。
「……ああ」
「誰か、待ってるんですか?」
「……ポチをな」
か細い声だった。
「ポチ?ああ、ワンちゃんですか」
「ああ。わしの、自慢の息子だ。もうすぐ、散歩の時間なんだが……なかなか、来なくてな」
そうか。愛犬を待っているのか。犬がもうこの世にいないことも、そして、自分自身が死んでしまったことにも気づかずに。彼の執着は、このベンチで愛犬を待つという、ありふれた日常の一コマにこそあった。
俺は、どうすればいいか分からなかった。今までの俺なら、問答無用で祓っていただろう。だが、今の俺には、それが正しいことだとは思えなかった。
俺の背後で、サキの気配が悲しそうに揺れた。彼女もまた、「待つ」ことの辛さを知っている。その孤独に、共鳴しているかのようだった。
「いい子だったんでしょうね、ポチくん」
俺は、ただ語りかけた。
「ああ。わしが仕事から帰ると、いつも尻尾を振って出迎えてくれた。わしが落ち込んでいると、黙って膝に顔をうずめてきてな……。あいつがいたから、わしは……」
老人の目から、半透明の涙がこぼれ落ちた。
俺は、彼がずっと握りしめているように見える、古いリードに気づいた。それが、彼の執着の核だ。この世界に彼を繋ぎとめている、最後の絆。
「おじいさん」
俺は覚悟を決めた。
「もう、待たなくていいんですよ」
「……何を、言っとるんじゃ」
「ポチくんは、もういません。でも、ちゃんと、向こうであなたを待ってます。だから、今度はあなたが行ってあげる番ですよ」
俺はそっと、老人が握るリードに手を伸ばした。指が触れた瞬間、温かい記憶が流れ込んできた。
子犬のポチとの出会い。一緒に駆け回った公園。病気になった妻を、二人で励ました夜。そして、老衰で動けなくなったポチを、涙ながらに看取った最後の日。幸せで、どうしようもなく愛おしい日々の記憶だった。
「……そうか」
老人は、すべてを思い出したようだった。
「ポチは……もう、逝ってしもうたんじゃったな。わしも、あいつを追って……」
涙が、次から次へと溢れ出す。
その時だった。老人の足元が、ふわりと光った。光の中から、尻尾を振る柴犬の霊が現れた。ポチだ。
「ポチ!おお、ポチ!」
一人と一匹は、光の中で再会を喜び、じゃれ合っている。やがて、老人は俺の方を振り返った。その顔は、晴れやかな笑顔だった。
「ありがとう、兄ちゃん。これで、心置きなく行けるよ」
一人と一匹の姿は、ゆっくりと光の粒子に変わり、夕暮れの空に溶けていくように消えていった。
後には、静寂と、濡れたベンチだけが残されていた。風が吹き抜け、公園の木々を揺らし、どこかからか、クチナシの甘い香りが運ばれてきた。西の空は、燃えるようなオレンジ色に染まっていた。
「……師匠」
ミソラが、駆け寄ってきた。彼女の目も、少し潤んでいる。
「今の……」
「ああ。行ったよ。自慢の息子のところに」
「……今日の師匠、今までで一番、カッコよかったです」
俺は何も答えず、ただ空を見上げていた。初めてだった。霊を祓って、こんなにも胸が温かいのは。非効率で、感情を揺さぶられて、ひどく面倒くさい。でも、決して、悪い気分ではなかった。
ふと、隣に立つサキの気配が、いつもより少しだけ温かいことに気づいた。彼女も、何かを感じたのかもしれない。
俺のやり方は、間違っていたのかもしれない。
この新しい道の先に、一体何が待っているのだろうか。
俺は、答えの出ない問いを胸に、夕闇が迫る公園を後にした。
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