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第8話:もう一人のゴーストバスター
しおりを挟む八月に入り、季節は燃え盛る巨大な炉の中にいるかのようだった。太陽は空の最も高い場所から、慈悲のかけらもない灼熱の光線を投げつけ、アスファルトは粘り気を帯びるほどに熱せられている。乾いた風が吹き抜けるたび、街路樹は諦めたように葉を揺らし、その葉裏に溜まった白い埃をぱらぱらと落とした。
俺の左腕のギプスがようやく外れたのは、そんな、一年で最も世界が苛立っているように感じられる季節の真ん中でのことだった。まだ完全に動くわけではない。リハビリが必要な、ぎこちない腕。だが、あの忌々しい石膏の塊から解放されただけでも、世界はいくぶんかマシに見えた。
「師匠、無理は禁物ですよ!はい、特製のリハビリ応援ドリンク!」
ミソラが、氷をなみなみと入れたグラスを差し出してきた。中身は、蜂蜜とレモンと、よく分からない緑色の野菜をミキサーにかけた、見るからに健康的な液体だった。
「……見た目が青汁なんだが」
「愛ですよ、愛!」
にぱっと笑うミソラに、俺は何も言えなくなった。ここ最近、彼女は俺の「パートナー」であることを、より強く自覚したようだった。仕事のサポートはもちろん、俺の体調管理にまで口を出すようになった。そのお節介が、鬱陶しいと思いながらも、どこか心地よいと感じている自分に、俺は気づかないふりをしていた。
事務所の窓辺では、風鈴が時折、チリン、と澄んだ音を立てる。その音を聞くたび、部屋の隅にいるサキの気配が、嬉しそうにふわりと揺れる。彼女のお気に入りの音だった。暑さで少しだれていた彼女の気配も、ユウ君の調査が進んだことで、以前よりずっと明るく、安定している。この奇妙な三人の生活は、夏の盛りの、停滞した空気の中にあって、それでも確かに、穏やかな時間を刻んでいた。
そんなある日の午後、桐島と名乗る警察の男から、久しぶりに電話があった。
「……ああ、腕の調子はまあまあだ」
俺は、動かしにくい左腕をさすりながら答えた。
『それは良かった。実は、耳に入れておきたいことがあってな』
桐島の声は、いつものように低く、感情が読めない。
『最近、君と同じ“同業者”が、都内で派手に動いているらしい。腕は確かなようだが、そのやり方が少々、強引でな』
「強引?」
『ああ。彼が手掛けた現場は、霊の気配が、文字通り“無”になるそうだ。成仏や浄化というより、もっと根本的な……“消滅”とでも言うべきか。君のやり方とは、まったくの正反対だなと思ってな。一応、心に留めておいてくれ』
電話を切った後、俺はしばらく受話器を握りしめたまま、動けなかった。
霊を、消滅させる。
それは、存在そのものを、この世からも、あの世からも、完全に抹消するということだ。理由も、感情も、かつて人間だったという事実さえも、すべて無視して。
俺のやり方が、正しいとは思わない。だが、そのやり方は、俺が最も忌み嫌い、決して足を踏み入れてはならないと決めている、暗黒領域そのものだった。
◇
新たな依頼が舞い込んだのは、その数日後のことだった。
依頼主は、最近急成長を遂げているIT企業の社長。再開発された湾岸のビジネスエリアにそびえ立つ、ガラス張りの真新しい自社ビル。その特定のフロアで、夜な夜な怪奇現象が頻発し、重要なサーバーが何度も原因不明のダウンを起こしているという。警備員が、誰もいないはずのフロアに、複数の老人の人影を見たと証言しているらしかった。
「……再開発で、立ち退きになった古い商店街の跡地、か」
資料を読み上げ、俺は眉をひそめた。話が、あまりにもきな臭い。
真夏の夜。俺たちは、その近代的なビルが立ち並ぶエリアにいた。夜だというのに、生ぬるい風が肌にまとわりつき、遠くの空では、遠雷が鈍い光を放っている。ガラス張りの高層ビル群が、冷たい無機質な光を夜空に放ち、まるで墓標のように、整然と立ち並んでいた。人影もまばらな週末のビジネス街は、命の気配が希薄で、不気味なほど静まり返っていた。
俺たちがビルのエントランスに到着すると、そこには、見慣れない一台の黒い高級セダンが、音もなく停車していた。俺たちが車から降りるのとほぼ同時に、そのセダンのドアが開き、中から一人の男が姿を現した。
寸分の狂いもなく着こなされた、黒のオーダースーツ。銀縁の眼鏡の奥で、氷のように冷たい瞳が、俺たちを値踏みするように一瞥した。髪型も、靴も、寸分の隙もない。まるで、ファッション雑誌から抜け出してきたモデルのようだった。だが、その全身から発せられる空気は、真夏の熱帯夜とは真逆の、絶対零度の冷たさをまとっていた。
「……君か。噂の『感傷的なゴーストバスター』というのは」
男は、薄い唇の端を、ほんの少しだけ歪めて言った。その声は、静かだが、妙に耳に残る。
「初めまして。黒崎(くろさき)だ」
こいつが、桐島が言っていた同業者か。俺は、直感的に悟った。
「神山だ。お前が、霊を“消し去る”と噂の」
俺がそう言うと、黒崎は「おや、聞き及んでいるとは光栄だな」と、感情のこもらない声で答えた。
「なに、効率的なだけだ。手こずるようなら、私が代わろう。五分で終わる」
その時、依頼主であるIT企業の社長が、慌てた様子でエントランスから出てきた。
「おお、神山さん!お待ちしておりました!……ええと、こちらは?」
「黒崎と申します。社長が、保険として別の業者にも声をかけておられたのでね」
黒崎は、優雅に一礼した。その物腰は完璧だったが、俺には、彼の瞳の奥にある、冷たい軽蔑の色が見て取れた。
ロビーで、俺と黒崎は対峙した。社長は、どちらに頼むべきか、明らかに戸惑っている。
「神山君、だったかな」
黒崎は、俺を無視して、社長に語りかけた。
「霊、などという非科学的なものを、どう捉えるか。問題はそこにあります。私の見解では、それらはシステムに偶発的に発生したバグであり、残留思念という名の、ただのノイズに過ぎません。バグやノイズに、対話など無意味でしょう。速やかに駆除(デリート)し、システムを正常化させる。それが最も合理的で、クライアントであるあなたの利益にも繋がるはずです」
その言葉に、俺の中の何かが、カチンと音を立てた。
「彼らはバグじゃない。元は、あんたや俺と同じ、人間だ」
俺は、静かに、だがはっきりと反論した。
「理由があって、そこにいる。納得できないことがあって、そこから動けなくなっているだけだ。その理由を解きほぐし、彼らが自ら去る手助けをする。そうでなければ、本当の意味での解決にはならない」
「……甘いな」
黒崎は、鼻で笑った。
「それは君の自己満足であり、偽善だ。感傷に浸っている暇があるなら、一秒でも早くクライアントを安心させるのがプロの仕事だろう」
二つの視線が、火花を散らす。
社長は、俺たちのやり取りに顔を青くしながらも、やがて、おずおずと口を開いた。
「……今回は、神山さんにお願いしたいと思います。その、できれば、穏便に……」
それを聞いた黒崎は、肩をすくめた。
「結構。では、君のお涙頂戴ショーが終わるのを、ここで待たせていただこう。もっとも、手に負えなくなったら、遠慮なく声をかけるんだな。その時は、追加料金をいただくことになるが」
彼はそう皮肉を言うと、ロビーの高級そうなソファに、優雅に腰を下ろした。
◇
俺とミソラ、そしてサキの気配は、エレベーターで問題のフロアへと向かった。フロア全体が、まるで巨大なサーバー室のようになっている。無数のケーブルが床を這い、青や緑のランプが明滅を繰り返す。そして、夥しい数のサーバーラックが、低い唸り声を上げ続けていた。
そこに、いた。
フロアのあちこちに、何人もの老人の霊が、生前の姿で佇んでいた。ある者は、かつて自分たちが営んでいたであろう八百屋の店先のように、虚空に野菜を並べ。ある者は、馴染みの客と談笑するかのように、楽しげに手を動かし。ある者は、ただ、窓の外の夜景を、悲しそうな顔で眺めている。
彼らは、自分たちの店も、生活も、思い出も、すべてを奪っていったこの巨大なビルに対する、静かな怒りと、深い悲しみに満ちていた。
俺は、対話を試みた。
その中の一人、リーダー格らしき、頑固そうな顔つきのおじいさんの霊に、ゆっくりと近づいた。
「あんたたちの気持ちは分かる。だが、ここにいても、何も変わらない。あんたたちが守りたかったものは、もうここにはないんだ」
『……うるさい』
おじいさんの霊は、忌々しげに吐き捨てた。
『わしらの暮らしを、人生を、めちゃくちゃにしやがって。ここから、一歩もどく気はないぞ』
複数の霊の怨念は、固く、強く、凝り固まっていた。こちらの言葉が、まったく届かない。対話は、完全に暗礁に乗り上げていた。
その時だった。フロアの入り口のドアが、音もなく開いた。黒崎だった。
「まだやっているのか。ままごとは、もう終わりだ」
彼は、手に持ったタブレット型の端末を操作し始めた。画面には、複雑な数式と、霊たちのエネルギーパターンを示す波形が表示されている。
「彼らの残留エネルギーは、非常に強い憎悪の周波数で同期している。対話の成功確率は、0.3%以下だ。時間の無駄だな」
黒崎が、端末の何かをタップした。すると、彼の足元に置かれた小型の装置が、低い起動音を立て始めた。次の瞬間、フロア全体に、高周波のような不快な音が響き渡り、霊たちが一斉に苦しみ始めたのだ。
『ぐ……アア……!』
『やめろ……!』
「何をする!」
俺は叫んだ。
「何って、見ての通り、駆除作業だよ」
黒崎は、平然と答えた。
「彼らのエネルギーを、強制的に中和し、霧散させている。苦しみは、ほんの一瞬だ。むしろ、感謝されるべきだろう?」
「ふざけるな!それは救いじゃない!ただの破壊だ!」
俺は、苦しむ霊たちを守るように、黒崎の前に立ちはだかった。
「そこをどけ、神山。君の感傷に付き合う趣味はない」
「どかない。どかせるものなら、やってみろ!」
俺がそう叫んだ瞬間、黒崎の装置から放たれるエネルギー波と、俺がとっさに展開した霊的な結界が、激しく衝突した。バチバチ、と青白い火花が散る。二つの、まったく相容れない思想そのものが、この場で激突していた。
窓の外で、遠雷が、ひときわ大きく轟いた。空が、一瞬、白く光る。
「師匠!」
「ジンさん!」
ミソラと、サキの声が響く。
ミソラは、結界の後ろから、霊のおじいさんたちに向かって、必死に叫んでいた。
「お願い、思い出して!あなたたちが本当に守りたかったのは、こんな憎しみじゃないはず!みんなで笑って暮らしたかった、あの日々じゃないんですか!」
サキも、恐怖を振り絞り、黒崎の装置に向かって、ポルターガイストで近くの椅子を投げつけた。ガシャン、と大きな音がして、装置が一瞬だけエラーを起こす。
その、ほんの一瞬。
ミソラの言葉が、リーダー格のおじいさんの霊の心に、届いたようだった。
『……そうだ。わしらは、ただ……みんなで、あの商店街で、笑って暮らしたかっただけなんじゃ……』
その一言をきっかけに、霊たちの強固な憎しみが、ふっと和らぎ始めたのだ。
霊たちのエネルギー周波数が変化したことで、黒崎の装置は、完全に機能を停止した。
「チッ……非合理的な……感情というノイズが、システムを狂わせたか」
黒崎は、忌々しげに吐き捨てると、あっさりと装置の電源を切った。
「今回は、君に華を持たせてやろう。だが、覚えておけ、神山ジン。その感傷は、いつか必ず、君自身を滅ぼすことになるぞ」
彼は、そう捨て台詞を残すと、静かにフロアを去っていった。
◇
その後、俺は改めて霊たちと向き合い、彼らの話を聞いた。彼らは、自分たちの店があった場所に、今はビルの公開空地になっているその片隅に、一本でもいいから、花を植えてほしいと頼んだ。それが、自分たちがここにいた証になるのなら、もう思い残すことはないと。
俺がその約束をすると、彼らは満足そうに頷き、一人、また一人と、穏やかな光に包まれて消えていった。
帰り道。ビルの外に出ると、ゲリラ豪雨が、アスファルトを激しく叩きつけていた。
車のワイパーが、せわしなく視界を拭う。その向こうで、都会のネオンが、雨に滲んで揺れていた。
俺は、黒崎の最後の言葉を、反芻していた。
『その感傷は、いつか必ず、君自身を滅ぼすことになるぞ』
俺のやり方は、本当に正しいのだろうか。ただの自己満足、偽善に過ぎないのではないか。
俺の信念が、初めて、同じ世界の住人によって、根本から揺さぶられていた。
「……私は」
不意に、隣の席で、ミソラが静かに言った。
「私は、師匠のやり方が好きですよ。だって、温かいですから」
その言葉が、豪雨の音にかき消されそうな、小さな声が、俺の心に、小さな灯りをともした。
自分のやり方を信じてくれる人間が、隣にいる。
今は、それだけで十分なのかもしれない。俺は、そう思うことにした。
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