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第7話:言えなかった『愛してる』
しおりを挟む七月も下旬に差し掛かり、季節は「夏」という巨大な生き物の、その心臓の真ん中にいるかのようだった。太陽は白く燃え盛り、アスファルトを揺らめかせ、空気そのものが質量を持っているかのように、肌に重くのしかかってくる。
事務所の窓辺では、ミソラがどこからか買ってきた江戸風鈴が、時折窓から吹き込む気まぐれな風を捉えては、チリン、と涼やかで儚い音を立てていた。その音色だけが、この茹だるような熱波の中で、かろうじて季節の風情というものを感じさせてくれる、唯一のよすがだった。
俺の左腕のギプスは、まだ取れる気配がない。この暑さの中のギプスは、正直言って地獄だった。蒸れるし、痒いし、なにより鬱陶しい。だが、悪いことばかりでもなかった。サキの幼馴染「ユウ君」に繋がる大きな手がかりを見つけたあの日から、事務所の空気は、澱んだ水が流れ出したかのように、明らかに明るく、希望に満ちていたからだ。
「師匠、また難しい顔しちゃって。腕、痛みます?」
俺がソファで腕をさすっていると、麦茶の入ったグラスを差し出しながら、ミソラが屈託なく笑いかけた。
「いや、別に。それより、お前こそ、最近やけに楽しそうじゃねえか」
「そりゃそうですよ!サキちゃんのためにも、大きな一歩でしたからね!」
ミソラはそう言うと、部屋の隅にいるサキの気配に向かって、にこっと笑いかけた。サキの気配も、それに応えるように、ふわりと温かく揺れる。いつの間にやら、あのいがみ合っていた二人の間には、言葉を必要としない、不思議で確かな絆のようなものが生まれていた。俺の知らないところで、二人は二人のやり方で、友情を育んでいたのだ。その光景は、腕の痛みや夏の暑さを忘れさせるくらいには、俺の心を穏やかにしてくれた。
そんな平和な昼下がりを破ったのは、一本の丁寧な口調の電話だった。
依頼主は、市内の総合病院で看護師長を務める、タナカと名乗る女性だった。
「――ええ、終末期病棟…いわゆるホスピスの、ある特定の病室なんです」
電話口の向こうで、彼女は落ち着いた声で続けた。
「何か悪さをするわけではないんです。ただ、夜になると、誰もいないはずの病室に二つの人影が見えたり、すすり泣くような声が聞こえたり……。次の患者さんをお通しすることもできず、困っておりまして。亡くなったご夫婦の霊ではないか、と噂になっております。神山さん、どうか、穏便に……その、安らかに眠りにつかせてはいただけないでしょうか」
穏便に、か。俺の新しいやり方を見透かしたような依頼だった。
「分かりました。今夜、伺います」
俺は、静かにそう答えた。
◇
その日の夕暮れ時、俺たちは件の総合病院に到着した。
西の空が、燃えるようなオレンジと紫のグラデーションに染まっている。巨大な積乱雲の輪郭が、夕日に照らされて金色に輝いていた。日中の猛烈な暑さは少しだけ和らぎ、乾いたアスファルトの上を、涼しい風が吹き抜けていく。病院の駐車場には、消毒液の匂いが微かに漂っていた。生と死が絶えず交差するこの場所は、いつ来ても、独特の静けさと厳粛な空気に満ちている。
看護師長に案内され、俺たちは目的のホスピス病棟へと向かった。白で統一された清潔な廊下は、どこまでも無機質で、足音がやけに大きく響いた。時折すれ違う看護師たちの慌ただしい動きだけが、この静謐な空間に現実世界の時間を告げている。窓の外に見える中庭では、夏の終わりの向日葵が、最後の力を振り絞るようにして、西の空に向かって首をもたげていた。
「こちらが、問題の病室です」
看護師長は、一番奥の病室の前で立ち止まった。ドアには、何のプレートもかかっていない。彼女は深々と頭を下げると、「よろしくお願いいたします」と言い残し、足早に去っていった。
俺はミソラとサキ(の気配)に目配せし、ゆっくりとドアを開けた。
部屋の中は、夕日の最後の光に満たされていた。壁も、ベッドも、カーテンも、すべてが淡いセピア色に染まり、まるで古い映画のワンシーンのような、幻想的な光景が広がっていた。そして、そこに、いた。
ベッドの脇に置かれたパイプ椅子に、二つの半透明な人影が、寄り添うようにして座っていた。
一人は、無口で、頑固そうだが、その瞳の奥に深い優しさを湛えた、しわくちゃのおじいさん。
もう一人は、その隣で、穏やかな笑みを浮かべ、すべてを包み込むような雰囲気をまとった、小柄なおばあさん。
二人は、悪意や憎しみといった負のオーラを、まったく放っていなかった。ただ、どうしようもないほどの深い悲しみが、その周囲の空気を重く、切なくさせている。
そして、奇妙なことに気づいた。二人は、肩が触れ合うほどの距離にいながら、まるで、お互いの存在に気づいていないかのように、それぞれが別の方向を向いて、悲しみに沈んでいるのだ。
完全な、「すれ違い」だった。
俺はまず、おじいさんの方に、静かに語りかけた。
「こんばんは、おじいさん。俺は神山ジン。ちょっと、あんたたちの話を聞きに来た」
おじいさんは、ゆっくりと俺に視線を向けた。
「……話、など、何もない」
「そんなことないでしょう。あんた、ものすごく後悔している顔をしてる」
俺がそう言うと、おじいさん――政五郎(せいごろう)さんの瞳が、悲しく揺れた。
次の瞬間、彼の記憶が、俺の脳内に流れ込んできた。
それは、後悔の記憶だった。彼は、五十年連れ添った妻、千代(ちよ)さんに、ただの一度も、「愛してる」という言葉を伝えられなかった。いつでも言えると思っていた。照れくさくて、今更だと思っていた。だが、千代さんは、病であっけなく逝ってしまった。
彼の視界に映っているのは、妻が亡くなった直後の、シーツの交換された、空っぽのベッドだった。温もりの消えた、冷たいベッド。彼は、妻がもうどこにもいないこの部屋に、たった一人で囚われているのだ。
『……千代』
彼の心の中から、声にならない声が聞こえてくる。
『すまなかったな。わしは、お前に何もしてやれんかった』
いや、そんなことはない。回想シーンが、それを否定する。
毎年、春になると、千代さんの好きなコスモスの種を、黙って庭に蒔く政五郎さんの姿。
口下手な彼が、千代さんの誕生日には、ぎこちない手つきで、彼女の好物だったおはぎを作っている姿。
不器用で、言葉には出さないけれど、その行動のすべてが、深い愛情に満ちていた。だが、その想いは、最も大切な言葉となって届く前に、永遠に伝えられなくなってしまったのだ。
俺は次に、おばあさん――千代さんの方に向き直った。
「こんばんは、おばあさん。あんたは、何にそんなに悲しんでいるんだ?」
千代さんは、穏やかに微笑んだ。だが、その笑顔は、涙の膜で滲んでいた。
「……あの方が、心配で」
彼女の視線の先にいるのは、彼女を看病している、まだ生きている頃の政五郎さんの幻影だった。ベッドの脇で、うたた寝をしながらも、彼女の手を固く握りしめている、頑固で、優しい夫の姿。
「あんなに頑固で、不器用な人……。私がいなくなったら、ご飯もろくに食べないんじゃないか、風邪をひいても気づかないんじゃないかって……。あの方を一人残していくのが、それが、心残りで……」
彼女は、夫を一人残して逝くことへの、罪悪感に囚われていたのだ。
彼女の記憶の中の政五郎さんは、いつだって不愛想で、ぶっきらぼうだ。でも、千代さんは、そのすべてを理解していた。彼の行動の裏にある、深い愛情のすべてを。彼女は、幸せだったのだ。だからこそ、彼を置いていくことが、何よりも辛かった。
そうか。分かったぞ。
二人は、すぐ隣にいながら、お互いに「違う時間軸」の世界を見ていたのだ。
政五郎さんは、「妻が死んだ後」の、喪失の世界に。
千代さんは、「自分が死ぬ前」の、罪悪感の世界に。
二つの悲しみは、すぐそばにあるのに、決して交わることがない。これほど、悲しいすれ違いがあるだろうか。
「……ミソラ」
俺は、背後で固唾を飲んで見守っていたミソラを呼んだ。
「お前、ちょっと手伝え」
「え?は、はい!」
「俺が、おじいさんの橋渡しをする。お前は、おばあさんの方を頼む」
俺は政五郎さんの冷たい手を取り、ミソラは、おそるおそる千代さんの手に、自分の手を重ねた。霊体に触れるのは、初めてのはずだ。ミソラの手が、少し震えている。
「いいか、俺が言う通りに、復唱しろ」
俺はミソラにだけ聞こえるように囁き、そして、政五郎さんの心になりきって、言葉を紡ぎ始めた。
「千代。聞こえるか。わしだ」
そして、千代さんになりきったミソラが、俺の言葉を受ける。
「ええ、政さん。聞こえますよ」
俺は、政五郎さんの、五十年間言えなかった想いを、代弁した。
「ずっと、言えんかった。面と向かうと、照れくさくてな。だが、今なら言える。千代、わしは、お前を愛してる。お前がいない人生なんて、もう考えられん。すまなかった。本当に、すまなかった……」
俺の声は、震えていた。それは、政五郎さんの魂の震えだった。
次に、ミソラが、千代さんの、夫を想う心を、代弁した。
「政さん、何を言ってるんですか。謝らないでください。私は、あなたと一緒になれて、本当に幸せでしたよ。あなたの不器用な優しさも、全部、全部、分かっていました。だから、もう自分を責めないで。そして、私のことも、もう心配しないでください」
ミソラの声も、涙で濡れていた。
二つの、時空を越えた言葉が、夕日で満たされた病室で、交差した。
その瞬間だった。窓から差し込む夕日の最後の光が、ふわりと部屋全体を黄金色に満たした。
奇跡が、起こった。
二人の霊は、はっとしたように顔を上げ、初めて、お互いの存在に気づいたのだ。
彼らの視線が、数十年分の愛と、感謝と、そして後悔を込めて、ようやく、交わった。
「……千代」
「……政さん」
二人は、お互いの名前を、か細い声で呼び合った。そして、どちらからともなく歩み寄り、涙を流しながら、固く、固く、抱きしめ合った。
すると、二人のしわくちゃの体が、ふわりと光に包まれ、あっという間に、出会った頃の、若々しい姿へと戻っていく。
「兄ちゃん、姉ちゃん。ありがとうよ。おかげで、やっと、あいつに本当の気持ちを伝えられた」
「本当に、ありがとうございました。これで、心置きなく、二人で旅立てます」
若い頃の姿に戻った二人は、俺たちに向かって、最高に幸せそうな笑顔で、深々と頭を下げた。
そして、手を取り合うと、夕日の光が差し込む窓辺へと歩いていく。二人の体は、次第に透き通り、光の粒子となって、穏やかな風と共に、夜空へと溶けるように消えていった。
静けさが戻った病室には、もう、悲しみの匂いはなかった。ただ、どこからか運ばれてきた、夏の夜の、甘い花の香りが、微かに漂っているだけだった。
病院からの帰り道。俺とミソラは、並んで夏の夜道を歩いていた。空には、満点の星が、まるでダイヤモンドを散りばめたように輝いている。
「……伝えるって、本当に、大事なんですね」
ミソラが、ぽつりと呟いた。
「……ああ。全くだな」
俺は、そう答えるのが精一杯だった。いつか、俺も伝えなければならない。隣を歩くこのお節介なパートナーに、俺自身の、本当の気持ちを。だが、それは、まだもう少し先の話だ。
ふと、ミソラが立ち止まり、俺の左腕のギプスを、心配そうに見つめた。
「師匠、腕、痛みますか?」
その眼差しが、あまりにも優しくて、俺は照れ隠しに、そっぽを向いた。
「いや、もう平気だ」
「なら、よかったです」
ミソ...
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