幽霊も助手も厄介すぎる!クールなゴーストバスターの騒がしくて泣ける日常

Gaku

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第9話:神山ジンが生まれた日

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八月も半ばを過ぎ、あれほど猛威を振るっていた太陽の力が、ほんの少しだけ、その勢いを和らげ始めたように感じられた。もちろん、日中のアスファルトは依然としてフライパンのように熱く、空気は蜃気楼のように揺らめいている。だが、夕暮れ時に吹き抜ける風は、ほんのりと秋の気配を運び、空を飛ぶ赤とんぼの群れや、夜の闇に響き渡る虫の音色が、季節がゆっくりと、しかし確実に次のステージへと向かっていることを告げていた。
世間は、お盆休みだった。都心の喧騒は少しだけ鳴りを潜め、事務所の窓から見える景色も、どこかのんびりとしている。遠くの寺から、ゴーン、という低い鐘の音が、熱気を含んだ風に乗って運ばれてきた。ヒグラシが、カナカナカナ、と一日を惜しむように、もの悲しく鳴いている。
俺は、事務所のソファに深く体を沈め、ただぼんやりと、その音に耳を傾けていた。
黒崎の言葉が、棘のように、ずっと心の奥に突き刺さったままだった。
『その感傷は、いつか必ず、君自身を滅ぼすことになるぞ』
俺のやり方は、偽善なのか。自己満足なのか。サキを、あの老夫婦を、炎上したアイドルを救おうとした俺の行動は、ただの感傷的なままごとなのか。黒崎という、俺とは正反対の鏡を突きつけられてから、俺の信念は、まるで根無し草のように、頼りなく揺れていた。
「……師匠」
ミソラが、心配そうに俺の顔を覗き込む。彼女は、俺の心の揺らぎに気づいているのだろう。だが、無理に元気づけようとはせず、ただ静かに、淹れたての麦茶をテーブルに置いてくれる。その沈黙の優しさが、今はありがたかった。
部屋の隅にいるサキの気配も、俺の心情を察してか、不安げに小さく揺れている。この事務所の空気は、良くも悪くも、俺の心の状態に正直に連動するのだ。
夕日が、事務所の窓をオレンジ色に染め上げる。壁に掛けられた時計の秒針の音だけが、やけに大きく聞こえた。俺は、このままではいけないと、重い腰を上げた。向き合わなければならない。俺が、なぜこの仕事を始めたのか。その、原点に。
「……少し、出てくる」
俺は、それだけを言い残し、ミソラの制止を振り切るようにして、一人で事務所を後にした。

向かった先は、都心から電車を乗り継いだ先にある、郊外の霊園だった。電車は、夕暮れの街並みをゆっくりと滑っていく。車窓から見える家々の軒先には、ぼんやりと灯る盆提灯が飾られていた。死者の魂が、この道を辿って帰ってくる。そんな、古からの言い伝えが、妙に現実味を帯びて感じられた。
霊園は、小高い山の手にあった。バスを降りると、ひんやりとした山の空気が、火照った肌を優しく撫でる。ヒグラシの声が、まるでシャワーのように頭上から降り注いでいた。湿った土の匂いと、誰かが手向けたのであろう線香の香りが、鼻腔をくすぐる。
傾きかけた夕日が、ずらりと並んだ墓石を長く、長く照らし、その影を地面に伸ばしていた。それはまるで、死者たちが、一年に一度の帰省のために、ゆっくりと身を起こしているかのようにも見えた。
俺は、その霊園の一番奥まった場所にある、一つの墓の前で立ち止まった。
『神山家之墓』
そう刻まれた、古くも新しい墓石。その横に、赤い前掛けをつけた、小さな地蔵がちょこんと置かれている。それが、俺のたった一人の妹、『神山ナギ』の墓標だった。
俺は、手桶に汲んだ水を、ひしゃくで墓石にかけた。じゅっ、という音と共に、熱せられた石が湯気を立てる。新しい花を飾り、線香に火をつける。立ち上る紫の煙が、夕暮れの赤い光の中で、ゆっくりと空に溶けていく。
その煙を、ただ、じっと見つめているうちに、俺の意識は、夏の終わりの夕暮れに溶け込むようにして、過去へと飛んだ。
俺の妹、ナギは、生まれつき、俺たちには見えないものが見える子だった。
幼い頃の彼女は、誰もいない空間に向かって話しかけたり、楽しそうに笑ったり、時には怯えて泣き出したりした。両親は、そんな彼女を気味悪がり、腫れ物に触るように扱った。俺も、最初は、頭がおかしくなったんじゃないかと、少しだけ怖かった。
でも、彼女は、決して特別な子ではなかった。花が好きで、動物が好きで、少しだけ臆病で、そして、兄である俺のことが大好きな、ただの心優しい女の子だった。
「お兄ちゃん、あのね、今ね、肩にちっちゃいおじいさん乗ってるよ。ニコニコしてる」
「嘘つけ」
「ほんとだもん!お兄ちゃんのこと、守ってくれてるんだって!」
そんな、他愛もない会話。いつしか俺は、彼女が見る世界を、当たり前のこととして受け入れていた。そして、気味悪がる親から、好奇の目で見る他人から、この世界に蔓延る悪意ある「何か」から、ナギを守ることが、兄である俺の役目だと思っていた。俺は、彼女の、たった一人の理解者だったのだ。
事件が起きたのは、今から五年前。今日と同じ、お盆の時期の、同じ夕暮れ時だった。
俺とナギは、二人でこの霊園に、祖父母の墓参りに来ていた。
「お兄ちゃん、あっち、行っちゃダメ」
ナギが、俺の服の裾を強く引っ張った。彼女が指差す先は、霊園の最も奥にある、誰にも管理されていない、古い無縁仏の墓地だった。そこだけ、空気がどろりと淀み、異様な気配を放っているのを、霊感のない俺でさえ感じることができた。
「分かってるよ。行かねえよ」
そう言って、俺たちが帰ろうとした時だった。
無縁仏の方から、黒い霧のようなものが、凄まじい速さでこちらに迫ってきたのだ。それは、もはや個人の怨念などという生易しいものではなかった。この世のすべてを憎み、呪い、引きずり込もうとする、純粋な悪意の塊。
「ナギ!」
俺は咄嗟に妹をかばったが、遅かった。黒い霧は、ナギの体に、まるで墨汁が半紙に染み込むように、すっと入り込んでしまった。
それからだった。ナギは、日に日に衰弱していった。明るかった笑顔は消え、大好きだった花を見ても、何も感じなくなった。生命の光が、内側から少しずつ、少しずつ、消えていくようだった。
俺は、なすすべもなかった。ゴーストバスターであった親父に助けを求めたが、親父の力をもってしても、ナギに取り憑いた悪霊は、あまりにも強力すぎた。
俺は、ただ、やせ細っていく妹の手を握ることしかできなかった。自分の無力さに、歯を食いしばることしか。
そして、夏の終わりの雨の夜。ナギは、俺の腕の中で、静かに息を引き取った。
「お兄ちゃん……ごめんね……」
それが、彼女の最後の言葉だった。
俺は、絶望した。妹を守れなかった無力感。自分の無知への、どうしようもない怒り。そして、ナギの優しさを、命を、理不尽に奪っていった、この世のすべての霊的な存在への、底なしの憎しみ。
その日から、俺の世界は変わってしまった。
俺は、親父に頭を下げ、ゴーストバスターになるためのすべてを叩き込んでもらった。だが、その動機は、決して「誰かを救う」ことではなかった。
『二度と、感情に流されるものか』
『すべての霊は、ナギを奪った、あの悪霊と同じだ』
『だから、俺は、一体残らず、この手で処理してやる』
それは、憎しみと復讐心に突き動かされた、歪んだ決意だった。だから、俺は自分の心を殺し、感情を捨て、霊を「処理」する機械になることを、自らに固く課したのだ。
サキを救いたい、と思った。あの老夫婦の想いを繋げたい、と思った。炎上したアイドルを解放したい、と思った。
今の俺のやり方は、あの日の誓いとは、まったく正反対のものだ。
だから、黒崎の言葉が、深く、深く、俺の罪悪感を抉ったのだ。
お前がやっていることは、ただの感傷だ、と。お前は、復讐者であることをやめ、偽善者になったのだ、と。
「……師匠」
不意に、背後からかけられた声に、俺はハッと我に返った。いつの間にか、あたりは夕闇に包まれ、空は深い藍色に染まっていた。
振り返ると、そこに、ミソラが立っていた。息を切らせ、額に汗を浮かべている。心配して、後をつけてきたのだろう。
「……なんで、ここに」
「師匠が、なんだか、すごく辛そうな顔をしていたから」
ミソラは、俺の過去を詮索しようとはしなかった。ただ、俺が持ってきた花とは別に、彼女が手にしていた小さなカスミソウの花束を、ナギの墓の横にある地蔵に、そっと手向けた。
「ナギさん、初めまして。桜井ミソラです。お兄さんには、いつも、本当にお世話になってます」
そう言って、静かに手を合わせるミソラの横顔を、俺は、ただ黙って見つめていた。張っていた心の糸が、ほんの少しだけ、緩んだ気がした。

帰り道。俺たちは、夏の夜道を、並んで歩いていた。虫の声が、まるでオーケストラのように、俺たちを包み込んでいる。見上げた空には、うっすらと、夏の天の川が横たわっていた。
「……俺には、妹がいた」
俺は、ぽつり、ぽつりと、自分でも驚くほど素直に、言葉を紡ぎ始めていた。
妹のナギのこと。彼女が、特別な子だったこと。そして、俺が、彼女を守れなかったこと。俺が、ゴーストバスターになった、本当の理由。俺の心を支配していた、憎しみと、後悔と、そして、今の自分のやり方への迷い。そのすべてを。
ミソラは、ただ黙って、俺の話を聞いてくれた。
俺がすべてを話し終えた時、彼女は、立ち止まって、俺の顔をまっすぐに見上げた。
「……師匠は、間違ってなんかいません」
その声は、静かだったが、凛とした強さを持っていた。
「師匠がやっていることは、偽善なんかじゃ、絶対にありません。だって……」
彼女は、一度言葉を切り、そして、続けた。
「だって、師匠は、ナギさんが大好きだった、あの頃の、優しいお兄ちゃんのままなんですから」
「……!」
「ナギさんを救えなかった後悔があるからこそ、他の、声なき誰かを、必死で救おうとしている。それは、復念なんかじゃなくて……ナギさんへの、途方もなく大きな、愛なんだと、私は思います」
愛、だと?
俺の、この歪んだ感情が?
ミソラの言葉が、何年も、何年も、俺を縛り付けてきた罪悪感と憎しみの、分厚い氷の壁に、初めて、小さな亀裂を入れた。
俺が「感傷」だと切り捨てようとしていたこの行動は、ナギへの愛情の、延長線上にあるのかもしれない。そう、初めて、思うことができた。
事務所に戻ると、サキが、いつになく穏やかな、優しい気配で俺たちを迎えた。彼女もまた、俺の心の氷が、少しだけ溶けたのを、感じ取ってくれたのかもしれない。
俺は、改めて思った。
黒崎のやり方は、あの日の、絶望に打ちひしがれていた俺、そのものだ。
だが、今の俺は、もう一人じゃない。
隣には、俺の歪みも、弱さも、すべてを受け止めてくれる、生意気で、真っ直ぐなパートナーがいる。
部屋の隅には、俺が救うべき、そして、俺を救ってくれている、優しい幽霊がいる。
この、温かくて、厄介で、どうしようもないほどの「感傷」こそが、今の俺の、本当の強さなのかもしれない。
俺は、迷いを振り払うように、夜空を見上げた。
夏の夜空は、どこまでも、どこまでも、澄み渡っていた。
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