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第10話:希望の糸口
しおりを挟む八月も終わりに近づくと、あれほど空を支配していた暴力的なまでの太陽の力は、まるで峠を越えた老いた王のように、ほんの少しだけその威厳を翳らせ始めた。日中の日差しは依然として肌を焼き、アスファルトはまだ熱を帯びて揺らめいている。だが、朝晩の風は、不意にひやりとした秋の欠片を忍ばせるようになり、夜の闇に響き渡る虫たちの声も、いつしか蝉時雨から、リンリン、コロコロという涼やかな音色へと主役を交代させていた。
空を見上げれば、雲の形が明らかに変わっていた。天を衝くような巨大な入道雲は姿を消し、その代わりに、薄い絹を刷毛で伸ばしたような巻雲や、鰯の群れのようなうろこ雲が、夕暮れの空を淡く彩っている。季節は、確かに、終わりの始まりを告げていた。
俺の左腕のギプスが外れてから二週間。まだ完治とはいかないが、日常生活に支障がない程度には回復していた。先日の墓参りを経て、俺の心の中に居座っていた重たい澱のようなものも、少しだけ軽くなっていた。黒崎に突きつけられた自分の矛盾。その棘は、まだ完全には抜けていない。だが、俺はもう、自分のやり方を「偽善」だとか「感傷」だとか、そう卑下するのをやめた。
俺は、妹のナギが大好きだった、優しい兄でありたい。
ただ、それだけのことだ。
俺のやり方を信じてくれるパートナーが隣にいて、俺が救うべき存在が、すぐそばにいる。今の俺には、それだけで十分な理由だった。
「さて、と」
夏の終わりの気だるい午後。俺はソファから立ち上がり、固まった体を伸ばした。
「止まってた宿題を、片付けるとしますか」
俺がそう言うと、事務所の資料整理をしていたミソラが、ぱっと顔を上げた。その瞳が、待ってましたとばかりに輝いている。部屋の隅にいるサキの気配も、期待に満ちて、ふわりと揺れた。
俺たち三人の、最後の、そして最大の仕事。
サキの数十年にわたる長い待ち時間を終わらせるための、調査の再開だった。
◇
だが、調査は、夏の終わりの停滞した空気のように、再び暗礁に乗り上げていた。
俺たちは、前回突き止めた「結城」という苗字と、オルゴール工房「響天堂」という名前を元に、あらゆるデータベースを虱潰しに当たっていた。古い電話帳のデジタルアーカイブ、廃業した会社の登記情報、地方新聞の過去記事データベース。考えつく限りの手段を尽くしたが、得られた情報は、あまりにも断片的だった。
『響天堂』は、サキが亡くなってから数年後に、ひっそりと廃業していた。店主であった結城氏のその後の足取りは、ぷっつりと途絶えている。まるで、この世から蒸発してしまったかのように。
「ダメだ……。これ以上は、ネットの情報だけじゃ限界がある」
連日の調査で、俺たちは疲れ果てていた。茹だるような残暑の中、エアコンが効いた事務所に籠もり、来る日も来る日もノートパソコンの画面とにらめっこを続ける。その終わりの見えない作業は、じわじわと俺たちの気力を削いでいった。窓の外で、ツクツクボウシが「ツクツクボーシ、ツクツクボーシ」と鳴いている。その声が、まるで俺たちの焦りを煽るためのタイマーのように聞こえて、妙に気に障った。
「うーん……」
ミソラも、こめかみを押さえて唸っている。
サキの気配も、この行き詰まった状況を察してか、元気がなかった。彼女の周囲の空気は、少しだけひんやりとしていて、その沈黙が、俺たちの焦燥感を一層際立たせた。
その夜だった。
調査は完全に行き詰まり、重たい沈黙が事務所を支配していた。もう、今日は終わりにしよう。俺がそう切り出そうとした時だった。気分転換のつもりで、俺はサキの気配に話しかけた。
「なあ、サキ。お前が昔、ユウ君に作ってもらったっていうオルゴール、どんな曲だったんだ?」
すると、サキの気配が、少しだけ嬉しそうに揺れた。そして、俺の脳内に、直接、そのメロディーが流れ込んできた。
それは、どこか物悲しくて、でも、星の光のように透き通った、美しい旋律だった。俺は、その記憶の欠片を、できるだけ正確に、鼻歌で口ずさんでみた。
俺の拙い鼻歌を聞いていたミソラが、突然、ハッとしたように顔を上げた。
「師匠!そのメロディー、もう一回!」
「え?ああ……」
俺がもう一度口ずさむと、ミソラは、まるで天啓を得たかのように、自分のスマホを手に取った。
「師匠、ちょっと失礼します!そのメロディー、スマホのマイクに向かって歌ってみてください!」
彼女は、何かを確信したような顔で、あるアプリを起動させた。それは、周囲の音や鼻歌から、曲名を検索するという、現代の魔法のようなツールだった。
「こんなんで、分かるわけ……」
俺は半信半疑だったが、ミソラの真剣な眼差しに押され、言われるがままに、スマホに向かって、あの物悲しい旋律を口ずさんだ。
アプリは、数秒間、波形を解析するようなアニメーションを表示した後、ぴこん、という軽やかな音と共に、一つの検索結果を弾き出した。
『もしかして:Yuu - “窓辺の桜”』
「……え?」
俺とミソラは、画面に表示された文字を、信じられない思いで見つめた。
それは、あるインディーズの作曲家が、数年前に個人の動画サイトでひっそりと公開した、ピアノのインストゥルメンタル曲だった。俺たちは、震える指で、その曲を再生した。
スピーカーから流れ出してきたのは、間違いなく、サキの記憶にあった、あの旋律だった。拙い俺の鼻歌とは比べ物にならない、プロの演奏。切なくて、優しくて、聴く者の胸を締め付けるような、美しいピアノの音色。
曲が流れている間、サキの気配は、懐かしむように、そして泣いているかのように、静かに、静かに揺れていた。
俺たちは、急いで、その『Yuu』と名乗る作曲家のプロフィールページへと飛んだ。
そこには、当たり障りのない経歴が書かれていただけだった。だが、そのページの、本当に小さな片隅に、こう記されていたのだ。
『父は、かつて武蔵野の片隅で、小さなオルゴール工房を営んでおりました』
俺たちは、息を呑んだ。
そして、その作曲家の本名を見て、確信した。
『結城 悠(ゆうき ゆう)』
「……見つけた」
俺は、震える声で言った。
ユウ君。本名は、結城悠。彼は、今、作曲家として活動していたのだ。
「やった……!やりましたよ、師匠!ついに……!」
ミソラが、椅子から飛び上がって叫んだ。その目には、うっすらと涙が浮かんでいる。
その声に呼応するように、サキの気配が、喜びを爆発させた。事務所の中を、まるで竜巻のように駆け巡り、棚の上の書類が、ぱらぱらと祝福の紙吹雪のように宙を舞った。物がガタガタと揺れる。だが、それを咎める気には、到底なれなかった。
俺は、込み上げてくる熱い感情を抑えきれず、ただ、天井を仰いだ。長い、本当に長いトンネルの、その先に、ようやく、確かな光が見えたのだ。
プロフィールには、彼の現在の活動拠点も記されていた。彼は、都心から遠く離れた、北陸の小さな海辺の町で、子供たちに音楽を教えながら、静かに暮らしているらしかった。
「……会いに行くぞ」
俺は、二人に向かって、力強く宣言した。
「ユウ君に。結城悠に」
サキの、数十年にわたる、長い長い待ち時間を終わらせるための、旅立ちの時が、来たのだ。
◇
その夜、俺たちは、旅立ちの準備を進めていた。
窓は開け放たれ、昼間の熱気をすっかり忘れた、涼しい夜風が、事務所の中を吹き抜けていく。虫の声が、まるでオーケストラのように、心地よく響いていた。見上げた空には、夏の星座と秋の星座が同居し、無数の星が瞬いている。
ローテーブルの上には、コンビニで買ってきた、ささやかなご馳走が並んでいた。それは、来るべき「別れ」を前にした、俺たち三人の、最後の晩餐のようだった。
「まさか、あんなアプリで見つかるなんて、思いませんでしたね」
ミソラが、少しだけ寂しそうに微笑んだ。
「ああ。文明の利器様々だな」
俺も、そう言って笑った。
出会った日のこと。プリンで大喧嘩したこと。炎上アイドルのために、二人で歌ったこと。不器用な老夫婦の、橋渡しをしたこと。強大な悪霊に、三人で立ち向かったこと。そして、俺が、自分の過去と向き合えたこと。
走馬灯のように、これまでの日々が、脳裏をよぎる。
ミソラは、サキの成仏を、心の底から喜んでいた。だが、同時に、この奇妙で、騒々しくて、でも温かかった三人の生活が終わってしまうことに、どうしようもない寂しさを感じているのが、痛いほど伝わってきた。
俺も、同じだった。
だが、もう迷いはない。俺は、この手で、彼女を解放しなければならない。
「ミソラ」
俺は、意を決して言った。
「最後まで、付き合ってくれるか。パートナー」
俺の言葉に、ミソラは、一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、すぐに、これまでで一番の、力強い笑顔で頷いた。
「……当たり前じゃないですか。どこまでだって、付き合いますよ」
その時、俺たちの間に、サキの気配が、そっと割り込んできた。
それは、感謝と、これから始まる旅への期待と、そして、ほんの少しの不安で、複雑に、でも、とても温かく揺れていた。
ありがとう。
ごめんね。
そして、本当に、ありがとう。
言葉にはならない、彼女の想いが、痛いほど、俺の心に伝わってきた。
明日、俺たちは、この事務所を旅立つ。
サキの、長い物語に、終止符を打つために。
俺は、窓の外の、どこまでも澄み渡った夜空を見上げた。
夏の終わりは、いつだって、少しだけ切ない。だが、その先には、必ず新しい季節が待っている。俺は、そう信じることにした。
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