夏空の鎮魂歌(レクイエム)は、君の的外れな推理から始まった

Gaku

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第三話:雨音と過去の亡霊と境界線の虹

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空が泣き出したのは、明け方のことだった。


目を覚ました時、窓の外は厚い鉛色の雲に覆われ、世界から一切の色が奪い去られていた。

ぽつ、ぽつ、と窓ガラスを叩き始めた雨粒は、やがて、ざあざあと音を立てる激しい本降りへと変わっていく。

それはまるで、空が溜め込んでいた巨大な悲しみを、一気に吐き出しているかのようだった。

今日の霧ヶ峰高校は、昨日までの陽気な顔を完全に隠し、湿った溜め息をついていた。

昇降口には、色とりどりの傘が立てかけたられ、雫が床に小さな水たまりを作っている。

廊下は、生徒たちの上履きが運んだ水分で、ところどころ暗い染みになっていた。

すれ違う生徒たちの制服も心なしかしんなりとして見え、話し声さえも、この重く湿った空気に吸い込まれていくのか、いつもよりくぐもって聞こえた。

「――なあ、陽介。お前、昨日なんか一条とあったんだって?」

朝のホームルーム前。

前の席の健太が、椅子をぎいと鳴らして振り返った。

その声は、好奇心と、ほんの少しの警戒心を含んでいた。


「なんで知ってんだよ」

「C組の女子が話してたぜ。『一条様が、あの月読さんと天野を連れてた』ってな。尾ひれがつきまくって、お前が二人を従える魔王みたいになってたぞ」

「どんな噂だよ……」

俺はこめかみを押さえた。

学園の噂の伝達速度は、光より速い。

「で、どうだったんだよ、一条のやつ」

「どうって……まあ、普通だったよ。にこやかで、感じのいい、いつもの一条雅だった」

嘘だ。

俺は、あの瞬間に見た彼の瞳の奥の、氷のような光を思い出していた。

「ふうん。まあ、あいつ、昔、家族を事故で亡くしてるっていうしな。色々あんのかもな」

健太が、ぽつりと言った。

それは学園でまことしやかに囁かれている噂の一つだった。

完璧すぎる彼に、人間味を与えるためのスパイスのような、悲しい噂。

誰も真相は知らない。

だが、その噂が、彼の完璧な笑顔に、どこか儚い影を落としているのも事実だった。

「……そうなのか」

「ああ。だからまあ、あんま刺激すんなよ」

健太がそう言い終えた瞬間、教室の入り口がすっと開いた。

月読恋だった。

雨に濡れた彼女の長い黒髪は、いつもよりさらに艶と重みを増し、白い肌とのコントラストを際立たせていた。

彼女は、廊下の湿気をその身に纏いながら、まるで水の中から現れた精霊のように、静かに俺の席へと歩み寄ってきた。

「天野君」

その声は、雨音の中でも凛と響いた。

「雨は、あらゆるエネルギーを増幅させるわ。霊的な障壁は薄れ、普段は見えないものが見え、聞こえないものが聞こえる。今日は、調査に最適な日ね」

彼女は、うっすらと頬を紅潮させ、心なしか嬉しそうに言った。

この陰鬱な空気を楽しんでいるのは、校内で彼女だけだろう。

俺は、健太の「うわ、出た」という顔を横目で見ながら、大きく、そして深く、ため息をついた。

放課後。

雨脚はさらに強まっていた。

俺たちは、いつもの旧校舎への渡り廊下で、雨が激しく窓を叩きつける音を聞いていた。

外の景色は、灰色のもやの向こうに沈み、ほとんど見えない。

「さて、天野君。昨日の橘さんの報告、あなたはどう解釈したかしら」

月読は、腕を組んで、まるで教師が生徒を試すような口調で言った。

「高橋先輩が、過去の成績データを調べていた、ってやつだろ。それも、留年とか退学した生徒の記録を。氷川先輩が言ってた、『脅されていた』って話と繋がるかもしれねえ」

「甘いわね」

月読は、俺の答えを鼻で笑った。

「あなたは、あまりに物理現象に囚われすぎている。いいこと、天野君。過去のデータというのは、いわば"呪われた古文書"よ。高橋先輩は、そこに記された過去の亡霊に取り憑かれてしまったの。そして、その亡霊の正体を突き止めるには、これが必要不可欠」

そう言って彼女が懐から取り出したのは、銀色のチェーンの先に、先端の尖った水晶が吊るされた振り子だった。

「ダウジング!?」

「ええ。この水晶が、古文書に眠る霊的な残留思念を指し示してくれるはずよ」

「いやいやいや! それで何がわかるんだよ! そもそも古文書って、ただの電子データだろ!」

俺は全力でツッコんだ。

雨音に負けないくらいの大声で。

「天野君、あなた、わかってないわね。電子データとは、0と1で構成された、現代の魔法陣なのよ? そこには、作成者の思念が色濃く残……」

「わかった! わかったから! とりあえず、その前に、橘さんにもっと詳しく調べてもらうのが先だ!」

俺は、彼女のオカルト講釈を遮り、半ば強引に提案した。

このままでは、俺たちは一日中、この薄暗い渡り廊下で振り子を揺らし続ける羽目になる。

結局、俺たちはPCルームへと向かった。


橘晶は、今日も部屋の隅で、ディスプレイの青白い光だけを浴びてキーボードを叩いていた。

「姫、それに、陽介……さん」

俺の名前を呼ぶ時だけ、少し声が上ずる。どうやら、まだ俺には慣れていないらしい。

「"賢者の目"。その後の解析で、何か分かったかしら」

月読が尋ねると、晶はヘッドフォンをずらし、眼鏡の位置を指で押し上げた。

「うん。高橋先輩がアクセスしていた過去のデータ、その中でも、特に執拗に閲覧していた名前が一つだけあった」

彼女は、キーボードを数回叩いた。

目の前のモニターに、一つのデータベースファイルが表示される。

「これ。5年前に、この学校を"退学"した生徒。名前は――結城翔(ゆうき かける)」

モニターに映し出された、その名前に、俺は息を呑んだ。

初めて出てきた、具体的な名前。


この物語の、最初のキーパーソン。


「結城翔……」

月読も、その名前を静かに反芻する。

「この生徒について、もっと詳しくわかることは?」

「それが、妙なんだ。学籍データは残ってるけど、付随する情報がほとんど削除されてる。顔写真も、部活動の記録も、何もかも。まるで、最初から存在しなかったみたいに……」

橘晶の声が、部屋のサーバーのうなり音に混じって、不気味に響いた。

誰かが、意図的に彼の存在を消そうとしている。

その事実に、俺たちは図書館へと急いだ。

雨に濡れた渡り廊下を走る。

俺たちの上履きが、床の水たまりを跳ねて、ぱしゃ、ぱしゃ、と乾いた音を立てた。
雨の日の図書館は、昨日よりもさらに静かで、薄暗かった。

窓を激しく打ちつける雨音が、まるでこの空間を外界から隔絶する壁のように響き渡っている。
俺たちは、司書に断って、書庫から五年分の学校新聞と卒業アルバムを引っ張り出した。

テーブルの上に広げられた資料を、二人でめくっていく。

古い紙の匂いが、湿った空気と混じり合って鼻をついた。

「……あった」

月読が、小さな声を上げた。

五年前の、秋に発行された学校新聞。

その隅に、本当に小さな、ベタ記事があった。

『生徒の訃報について』

記事は、ごく簡潔だった。

在校生一名が、校舎内での不慮の事故により亡くなったこと、そして、ご遺族の意向により、氏名や事故の詳細についての公表は差し控える、とだけ記されていた。


「不慮の事故……」

「日付は、結城翔が退学したとされる日の一週間前ね」

月読の指が、記事の日付をなぞる。

嫌な予感がした。退学ではなく、死亡。

そして、学校はその事実を隠蔽したのではないか。

俺は、隣にあった卒業アルバムを開いた。

結城翔が在籍していたはずの、当時の1年C組のページ。

クラス全員が、少しぎこちない笑顔で並んでいる。

だが、俺はすぐにその異変に気づいた。

後列の、端から三番目。

そこにいるはずの生徒の顔の部分だけが、まるでカッターナイフか何かで、綺麗にくり抜かれていたのだ。

その切り口はあまりに鋭利で、不自然だった。

まるで、強い悪意か、あるいは深い悲しみをもって、その存在そのものを、この世から消し去ろうとしたかのように。

ぞくり、と背筋が冷たくなった。

これはもう、単なるオカルト話ではない。

この学校の過去に、深く、暗い何かが埋まっている。

図書館からの帰り道、俺たちは体育館の入り口で、練習を終えたらしい健太とばったり出くわした。

「お、陽介。また月読と一緒かよ」

タオルで汗を拭きながら、健太がニヤニ-ヤと笑う。

「お前、本気であいつとつるむのか? クラスの奴ら、お前もそっち側の人間だって噂し始めてるぞ」

「ほっとけ」

「まあ、俺は別にいいけどよ。それより、一条だよ。あいつ、やっぱ気に食わねえ。今日の練習試合でも、あいつ一人にやられた感じだぜ。なんか、前より動きにキレが増してるっていうか……」

健太は、心底悔しそうに言った。

彼の中では、事件よりも、バスケのライバルの方が重要らしい。

その時だった。

「――まだ、そんな無駄なことに時間を費やしているのね」

冷たい声が、背後から聞こえた。

振り返ると、傘を差した氷川凛が、俺たちを軽蔑したような目で見下ろしていた。

「氷川先輩……」

「感心するわ。その根拠のない憶測と、非科学的な妄想のために、どれだけ時間を浪費すれば気が済むのかしら」

彼女の言葉は、相変わらず鋭い。

俺は、その挑発に乗る気はなかった。

それよりも、確かめたいことがあった。

「氷川先輩、一つだけ。……結城翔、という名前、知りませんか?」

その名前を口にした瞬間、確かに、彼女の表情が凍りついた。

ほんの一瞬。

瞬きするほどの短い時間。

だが、彼女の完璧なポーカーフェイスに、初めて明確な亀裂が入ったのを、俺は見逃さなかった。

「……知らないわ」

彼女は、すぐに平静を取り戻し、そう即答した。

「聞いたこともない名前ね。失礼するわ」

そう言って、彼女は雨の中に消えていった。

その足早な後ろ姿は、何かから逃げているようにも見えた。

彼女は、嘘をついている。

そして、何かを、知っている。

その日の放課後、あれほど激しく降り続いていた雨が、嘘のようにぴたりと止んだ。

雲の分厚いカーテンがゆっくりと開かれ、その隙間から、神々しいほどの夕日が差し込んでくる。

西の空には、巨大な虹がかかっていた。七色の光の帯が、この灰色の世界に、鮮やかな希望を描き出している。

雨上がりの空気は、ガラスのように澄み渡り、濡れた土と草の匂いが、あたり一面に満ちていた。

校庭の水たまりが、夕日を反射して、まるで溶かした金のようにきらめいている。

俺と月読は、校舎の窓から、その非現実的なほど美しい光景を、ただ黙って眺めていた。

「……虹は、境界線なのよ」

先に沈黙を破ったのは、月読だった。

「雨の世界と、晴れの世界。生者の世界と、死者の世界。異なる二つの世界が、ほんの一瞬だけ触れ合った時に現れる、架け橋」

彼女は、虹に魅入られたように、うっとりと呟いた。

「結城翔という、過去に囚われた亡霊。高橋先輩という、現在を生きる生者。今、あの虹の橋を通って、二つの魂が結ばれようとしているのよ。高橋先輩は、彼に呼ばれているんだわ……」

壮大で、いつものように的外れな推理。

だが、俺はなぜか、それを笑い飛ばす気にはなれなかった。

境界線、か。

結城翔と高橋先輩。

氷川凛と月読恋。

そして、一条雅と、俺。

この物語に登場する人間たちを隔て、そして繋いでいる「境界線」とは、一体何なのだろう。

俺が、そんなことを考えていた、その時だった。

ふと、校舎の裏手の方に、人影が見えた。

雨上がりのぬかるんだ地面に、誰かが膝をついている。

目を凝らすと、それが誰なのかがわかった。

一条雅だった。

彼は、旧校舎の裏手にある、あの荒れ放題の花壇の前で、地面に膝をついていた。

そして、雨に濡れた柔らかい土を、まるで何かを探すように、あるいは、何かを慈しむように、その指で、そっと、優しく払っている。

彼は、一体そこで、何をしているんだ?

あの花壇には、何があるというんだ?

夕日を浴びて、虹を背負った彼の姿は、まるで一枚の絵画のように美しく、そして、底知れないほど不気味だった。



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