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第六話:背後の視線と不揃いなチームの誕生
しおりを挟むかさり、と草が揺れる音。
それは、世界が俺に突きつけた、明確な宣戦布告だった。
風の悪戯ではない。小動物の気配でもない。その音には、質量と、温度と、そして、淀んだ悪意が込められていた。ネットの向こう側にいたはずの、顔のない監視者。そいつが今、物理的な肉体を持って、俺たちのすぐ背後の、手の届く距離の闇の中に、潜んでいる。
全身の血が、急速に凍っていく感覚。指一本、動かせない。金縛り、というやつは、本当に存在するのだと、俺はこの時初めて知った。闇が、まるで生き物のように、じろり、と俺たちを睨みつけている。逃げなくては、と思うのに、足は根を張ったように地面に縫い付けられていた。
「――逃げるわよ、天野君!」
沈黙を破ったのは、月読の、張り詰めた囁き声だった。
彼女は、俺の腕を強く、爪が食い込むほどの力で掴んだ。その痛みと、切迫した声が、俺の思考を麻痺させていた恐怖の呪縛を、かろうじて打ち破る。
「う、おおっ!」
我に返った俺は、ほとんど雄叫びに近い声を上げ、月読の手を引いて、がむしゃらに走り出した。背後の闇に、背を向ける。それがどれほど無防備で、危険なことか。考える余裕もなかった。
ただ、走る。
荒れた花壇のぬかるみに足を取られ、もつれそうになる。雑草が足に絡みつく。息が、苦しい。心臓が、破裂しそうだ。背後から、何かが追いかけてくる気配がする。気のせいではない。確かな殺気を、肌で感じる。
旧校舎の壁を伝い、渡り廊下を抜け、見慣れた本館の明かりが見えた時も、俺たちは足を止めなかった。昇降口を転がるように飛び出し、固く閉ざされた校門を乗り越え、アスファルトの道に出る。
どこまでも、どこまでも走った。
やがて、煌々と明かりが灯る、駅前の商店街の喧騒にたどり着いた時、俺たちはようやく足を止めた。
「はあっ、はあっ、はあっ……」
二人して、近くの小さな公園のベンチに倒れ込む。俺は、肩で、全身で、必死に酸素を体内に取り込んだ。心臓が、警鐘のように激しく鳴り響いている。街灯のオレンジ色の光が、やけに目に染みた。自販機の明かりだけが、俺たちをぼんやりと照らしている。
しばらくして、ようやく呼吸が落ち着いてきた頃、俺は隣に座る月読の顔を見た。
彼女もまた、肩で息をし、その白い額には汗が滲んでいた。月明かりの下では完璧な人形のように見えた彼女の、初めて見る、人間らしい姿だった。
「……あんたも、怖かったのか」
俺が尋ねると、彼女はゆっくりと顔を上げた。その瞳は、いつものように冷静さを装ってはいたが、その奥に、明らかに恐怖とは違う、強い緊張の色が宿っているのを、俺は見逃さなかった。
「……物理的な、殺気だったわ」
彼女は、呟いた。
「あれは、幽霊や呪いの類じゃない。もっと直接的で、原始的な、人間の悪意よ。……少し、想定が甘かったわね」
初めて、彼女の口から、オカルトではない、現実的な脅威の分析を聞いた。そのことが、かえって事態の深刻さを、俺の体に叩きつけてきた。
これ以上、二人だけで抱え込める問題ではない。
俺は、決意した。
翌日の昼休み。俺は、健太を体育館裏の、ほとんど人が来ない場所に呼び出した。
強い日差しがコンクリートの壁に照りつけ、もわりとした熱気が立ち上っている。
「なんだよ陽介、改まって。愛の告白か?」
健太は、いつものようにおどけて見せた。
俺は、そんな彼の冗談に付き合う余裕もなく、単刀直入に切り出した。
「健太。お前に、全部話す。俺が今、何に巻き込まれてるのか」
俺の真剣な表情に、健太の顔から笑みが消えた。
俺は、洗いざらい、全てを話した。
学園の七不思議から始まった、くだらない罰ゲームのこと。月読と出会い、マンドラゴラの伝説を調べ始めたこと。その裏に隠されていた、五年前の結城翔という生徒の死の謎。見つけ出したタイムカプセルと、その中にあったマイクロSDカードのこと。そして、昨夜、俺たちが正体不明の「監視者」に、物理的に狙われたこと。
健太は、黙って、時々眉をひそめながら、俺の話を聞いていた。
俺が全てを話し終えると、そこには長い沈黙が落ちた。遠くから、吹奏楽部が練習する楽器の音が、微かに聞こえてくる。
やがて、健太は、ごしごしと自分の坊主頭を掻きながら、口を開いた。
「……なんだよ、それ」
その声は、震えていた。
「……面白そうじゃねえか!」
彼は、次の瞬間、ニヤリと歯を見せて笑った。その顔は、恐怖ではなく、抑えきれない好奇心と、親友を放ってはおけないという、強い友情の色に染まっていた。
「お前、そんなヤバいことになってんなら、なんで最初に俺に言わねえんだよ、水臭えなあ! ったく、しょうがねえな!」
彼は、バン、と力強く俺の背中を叩いた。その痛みに、俺は思わず顔をしかめたが、同時に、胸の奥に温かいものがじわりと広がるのを感じた。
「俺にできることなら、何でも手伝え。用心棒くらいにはなってやるよ。そいつが姿を現したら、俺のダンクで吹っ飛ばしてやるぜ」
その、あまりに脳筋な解決策に、俺は思わず吹き出してしまった。
「……サンキュ、健太」
「おう!」
こうして、俺たちの不揃いなチームに、最も頼りになる(物理的に)メンバーが、正式に加わった。
事態を共有した俺たちは、健太の発案で、安全な場所で作戦を練るため、橘晶の自宅を訪ねることになった。
晶の家は、駅から少し離れた、古いアパートの一室だった。表札には、「橘」とだけ、小さなプレートが貼られている。
インターホンを鳴らすと、しばらくして、ガチャリと鍵の開く音がして、扉が少しだけ開いた。隙間から、晶が眼鏡の奥の瞳でおどおどとこちらを覗いている。
「姫……と、陽介さん……と、ええと……」
「よお! 俺、陽介のダチの大林健太! よろしくな!」
健太が、太陽のような笑顔で挨拶すると、晶はびくりと肩を震わせ、さらに扉の影に隠れてしまった。
俺たちは、半ば強引に部屋の中へと入った。
晶の部屋は、想像通り、異様な空間だった。窓は遮光カーテンで閉め切られ、部屋の明かりは、いくつものPCモニターが発する青白い光だけ。壁際には、分解されたPCパーツや、用途不明の機材が山積みになっている。部屋の中は、ハンダの匂いと、エナジードリンクの甘い香りが混じり合った、独特の空気が漂っていた。
「監視者のハッキング、すごかったわね」
月読が、感心したように言う。
「うん……」
晶は、小さな声で頷いた。
「相手のハッキングの手口、少しだけだけど、逆探知してプロファイリングしてみた。使われてる技術やコードの書き方の癖……。元々は、軍事技術か、それに準ずるレベルのセキュリティを突破するために開発されたものだと思う。とても、そこらのハッカーが使える代物じゃない」
晶の口から告げられた言葉に、俺と健太は息を呑んだ。
話のスケールが、俺たちの想像を遥かに超えていた。
晶の部屋の、唯一片付いている小さなローテーブルを囲んで、俺たち四人は、マイクロSDカードのパスワードについて、改めて議論を始めた。
「結城翔の誕生日、命日、一条雅の誕生日、二人のイニシャル……考えられるものは、全部試した。けど、ダメだった」
晶が、力なく首を振る。
「くそー、なんだよそのパスワード! ロックをかけた奴、性格悪すぎだろ!」
健太が、苛立ったように頭を掻いた。
議論は、完全に行き詰まっていた。
その、重苦しい沈黙を破ったのは、それまで黙って目を閉じ、何かを瞑想するように座っていた、月読だった。
「……パスワードは、文字や数字じゃないわ」
彼女は、静かに、しかし確信に満ちた声で呟いた。
「え?」
「"音"よ。彼らが共有していた、二人だけの、特別な音……。それが、鍵」
まるで、どこかから神託でも受けたかのように、彼女は言った。
「音……?」
俺たちは、顔を見合わせた。
その時だった。俺の目が、晶のモニターに映し出されていた、一枚の写真に釘付けになった。
タイムカプセルに入っていた、一条と結城が笑い合う、あの写真だ。
俺は、ハッとして、その写真を指差した。
「これだ……!」
写真の中の、結城翔。彼の首元に、何か小さな、銀色のものが光っている。よく見ると、それは、鳥の形をした、小さな笛のようなものだった。
「これ、なんだ……?」
俺が呟くと、その写真を見ていた健太が、あ、と声を上げた。
「これ……俺、見たことあるかもしんねえ」
「え、本当か!?」
「ああ。俺がまだ中坊の頃だ。部活の体験でこの高校に来た時、音楽室の前を通ったんだよ。そしたら、中から、すげえ綺麗なピアノの曲が聞こえてきてさ」
健太は、遠い記憶をたどるように、目を細めた。
「気になって、こっそり覗いたら、ピアノを弾いてる高校生が二人いたんだ。一人は、間違いなく一条先輩だった。で、もう一人が、たぶん、この……結城先輩だ。結城先輩が、時々、小さな笛を吹いて、メロディを確かめるようにしててさ。一条先輩と、二人で笑いながら、一つの曲を作ってるみたいだった。俺、バスケしか興味なかったけど、あの曲だけは、なぜか今でも覚えてるんだよな……」
健太の、思わぬ記憶。月読の、"音"という神託。そして、結城翔が首から下げていた、小さな笛。
ばらばらだったパズルのピースが、一つの絵を形作り始める。
パスワードは、二人が作った、あの曲のメロディ。
そして、メモにあった「約束の場所」とは、二人にとって、最も特別だったはずの、あの「音楽室」ではないのか。
「……ええ、間違いないわ」
月読が、俺の思考を読んだかのように、強く頷いた。
「音楽室は、様々な想念が音の霊となって漂う、最もエネルギーの強い場所の一つ。彼らの魂は、今も、そこにいるのよ」
監視者は、すぐそこまで迫っている。危険なのは、百も承知だ。
だが、全ての謎を解く鍵は、そこにある。
俺は、覚悟を決めた。
「行こう。音楽室へ」
俺たちが、再び夜の学校へ忍び込むことを決意した、その時だった。
ピコン、と、晶のPCから、乾いたアラート音が鳴り響いた。
晶は、弾かれたようにモニターに顔を近づけ、そして、その顔色をサッと変えた。
「……学校の、防犯カメラの映像だ」
彼女は、震える声で言った。
「今、誰かが……音楽室に……」
モニターには、暗視モードで撮影された、ざらついた映像が映し出されていた。
そこに映っていたのは、フードを目深にかぶり、一人、静かに音楽室へと向かう、見慣れた後ろ姿。
「……一条君だ」
月読が、その名前を呟いた。
彼は、一体、何をしようとしているんだ?
彼もまた、俺たちと同じように、謎を追っているのか?
それとも、監視者に、既に……?
モニターの中で、一条雅は、まるで何かに導かれるように、音楽室の扉に、そっと手をかけた。
その瞬間を、見逃すな。
俺たちの、不揃いなチームの、最初の戦いが、今、始まろうとしていた。
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