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第七話:夜の音楽室と残された追憶の旋律
しおりを挟む橘晶の部屋の、青白い光だけが支配する静寂。
その静寂は、モニターに映し出された一つの無機質な映像によって、張り詰めた弦のように、今にも切れそうなほど緊張していた。
防犯カメラが捉えた、ざらついたモノクロームの映像。フードを目深に被った一条雅が、まるで吸い込まれるように、夜の音楽室の扉の向こうへと消えていく。
「……あいつ、何を考えてるんだ…!?」
俺の声は、自分でも驚くほど、焦りで上擦っていた。罠だとしても、一人で行かせるのはあまりに危険すぎる。
「待て、陽介! 罠かもしれねえぞ! 俺たちを誘き出すための!」
健太が、俺の肩を掴んで制止する。彼の言うことの方が、おそらく正しい。だが。
「一条君のスマホ、GPSは完全に切断されてる。誰かとの通信履歴もないわ。完全に、単独での行動よ」
晶が、別のモニターに並べた解析データを睨みながら、冷静に、しかし早口で告げた。
「違うわ」
その時、それまでじっとモニターを見つめていた月読が、静かに呟いた。
「彼は、誰かに誘われたわけじゃない。……呼ばれているのよ。過去の、"音の記憶"にね。今日という日が、彼と、そして"彼"にとって、何か特別な意味を持つ日なのかもしれない」
彼女の言葉は、いつものように非科学的だった。だが、その声には、妙な確信が宿っていた。
特別な日。音の記憶。
俺の脳裏に、ピアノを弾く二人の少年の姿と、「約束の場所」という言葉が浮かび上がる。
このまま、見ているだけでいいのか?
一条が、監視者の手にかかってしまったら?
俺たちの目の前で、取り返しのつかないことが起きてしまったら?
「……行くぞ」
俺は、腹を括った。
「一条を追う! あいつが今、何をしようとしてるのか、この目で見届ける!」
俺の決断に、健太は一瞬眉をひそめたが、すぐに「……わかった。お前が行くなら、俺も行く」と覚悟を決めた顔で頷いた。晶も、こくりと小さく頷く。
「姫、陽介さん、健太さん。気をつけて」
「ええ。あなたは、ここから私たちの"目"となってちょうだい、"賢者の目"」
月読の言葉を背に、俺たち三人は、晶の部屋を飛び出した。
夜の闇が、俺たちを待っていた。
タクシーを拾い、学校へと急ぐ。
車窓の外を、街の明かりが目まぐるしい速さで後ろへと流れていく。ファミレスのけばけばしい看板、マンションの窓に灯る生活の光、黙々と走る車のテールランプ。その、あまりに日常的な光景が、これから俺たちが向かおうとしている非日常的な闇とのコントラストを、より一層際立たせていた。
三度目となる、夜の学校への潜入。
湿り気を帯びた夜風が、俺たちの頬を撫でる。高く澄んだ空には、ナイフで切り取ったような、鋭い三日月が浮かんでいた。その冷たい光が、校舎の壁をぼんやりと照らし、窓ガラスを無機質に光らせている。
今回は、目的が明確だ。仲間もいる。だが、一条雅という先行者がおり、そして、どこかに潜んでいる監視者の存在が、これまでとは比較にならないほどの緊張感を俺たちに強いていた。
「……行くぞ」
俺の合図で、俺たちは息を殺し、壁際の影から影へと身を潜めながら、特別棟へと向かった。
音楽室は、その最上階にある。
古い階段を、足音を忍ばせて上っていく。俺たちの呼吸音と、床板が軋む、きぃ、という微かな音だけが、静寂の中に響いていた。踊り場の大きな窓からは、宝石をちりばめたような街の夜景が見える。その美しさが、今の俺たちの状況とはあまりに不釣り合いで、どこか現実感を失わせた。
最上階。音楽室の前にたどり着く。
重厚な、マホガニーの扉。その扉からは、何の音も漏れてこなかった。
健太が、用心深く、ゆっくりとドアノブに手をかける。音を立てないように、ミリ単位で回していく。やがて、かちゃり、と小さな金属音がして、扉が内側に開いた。
健太が作った、わずかな隙間から、俺たちは中を窺う。
がらん、としていた。
広大な、静寂に支配された空間。床は、月明かりを反射して、まるで水面のように鈍く光っている。部屋の中央には、巨大な黒い獣が眠るように、一台のグランドピアノが鎮座していた。壁には、ベートーヴェン、モーツァルト、バッハといった、偉大な音楽家たちの肖像画がずらりと並んでいる。その、描かれた瞳が、一斉に、俺たち侵入者を咎めるように見つめている気がした。
「……誰も、いない」
健太が、囁き声で言う。
一条雅の姿は、どこにもなかった。
晶のPCに彼の姿が映ってから、まだ十分も経っていないはずだ。彼は、一体どこへ消えたというんだ?
俺たちは、慎重に部屋の中へと足を踏み入れた。
ひんやりとした空気が、肌を撫でる。ピアノのニスと、古い木材と、そして微かな埃の匂い。
「手分けして探すぞ。何か、痕跡が残ってるかもしれん」
俺の言葉に、二人は頷いた。
俺は、部屋の中央にあるグランドピアノへと、吸い寄せられるように近づいていった。
黒く、滑らかに磨き上げられたその蓋に、月明かりに照らされた俺の不安げな顔が、ぼんやりと映っている。
鍵盤の蓋は、開かれたままになっていた。象牙と黒檀の、美しいコントラスト。その上に、何か、温かいものが残っているような、そんな錯覚を覚えた。まるで、ついさっきまで、誰かがここで何かを奏でていたかのように。
そして、俺は気づいた。
ピアノの譜面台の上に、一台のスマートフォンが、ぽつんと置かれていることに。
間違いなく、一条のものだ。
俺は、震える指で、そのスマホを手に取った。画面は、スリープ状態から復帰し、一つのアプリが開かれたままになっている。シンプルな、音声録音アプリだった。画面には、「新規録音 001」というファイル名が表示されている。
俺は、健太と月読に目配せをし、そして、意を決して、画面の再生ボタンを押した。
瞬間、静まり返った音楽室に、澄み切ったピアノの旋律が響き渡った。
それは、悲しいような、懐かしいような、それでいて、どこか温かい、不思議なメロディだった。シンプルな和音で始まり、やがて、一つの主題が、寄せては返す波のように、何度も、何度も、形を変えながら繰り返される。
切ない。
ただ、ひたすらに、切ない旋律だった。
「……これだ」
隣で、健太が、息を呑むように呟いた。
「俺が、五年前、ここで聴いた曲だ……。間違いない」
結城翔と、一条雅。二人の少年が、この場所で、笑い合いながら紡いだ、追憶のメロディ。
それは、パスワードの手がかりというだけではなかった。この曲は、それ自体が、二人の記憶の結晶であり、言葉にならない想いの塊だった。
曲が、終わる。最後の音が、静寂の中に溶けていき、長い長い余韻を残した。
その、余韻の中で、それまで目を閉じ、じっと曲に聴き入っていた月読が、震える声で語りだした。
「……見えるわ」
彼女の顔は、青ざめていた。
「楽しそうに、二人でピアノを弾いている姿が。夏の、強い日差しの中で……。でも、その二人の周りに、黒くて、大きな影が……まとわりついている。この曲は、ただ綺麗なだけじゃない。これは……誰かに向けた、"SOS"よ。助けて、って叫んでる。悲痛な、叫びが聞こえる……」
彼女の言葉に、俺は背筋が寒くなるのを感じた。
SOS。
だとしたら、なぜ、一条はこの曲を、ここに残して消えたんだ?
これは、俺たちに残された、メッセージなのか?
その時だった。
俺のポケットの中で、スマホが短く、鋭く震えた。
晶からだ。
俺は、慌ててスマホを取り出し、メッセージアプリを開く。そこに表示された文面を見て、俺は言葉を失った。
『……嘘でしょ』
その一言に続いて、一枚のスクリーンショットが送られてきていた。
それは、学内のセキュリティシステムが作動したことを示す、緊急通報ログの画面だった。
通報発生時刻は、たった今。
そして、通報場所は――
「旧校舎・屋上」
そして、ログに記された、その通報者、あるいは対象者の名前。
「高橋 誠」
最初の被害者。記憶を失い、入院していたはずの、高橋先輩。
なぜ、彼が、こんな時間に、学校に?
それも、屋上に?
瞬間、ばらばらだったパズルのピースが、恐ろしい形に組み合わさっていく。
一条は、高橋先輩を助けるために、あるいは、彼に会うために、俺たちにこのメロディを残し、屋上へ向かったんだ。
高橋先輩もまた、この過去の事件の、重要な「当事者」だったんだ。
そして。
五年前、結城翔が命を落とした、不慮の事故。その現場は、屋上だったのではないか。
メモにあった「約束の場所」とは、音楽室ではない。
始まりの場所。
そして、終わりの場所。
あの屋上だったんだ。
「……急ぐぞ!」
俺は、叫んでいた。
「屋上だ!!」
監視者の、底知れない悪意。一人で屋上へ向かった、一条の行方。そして、高橋先輩の安否。
全ての謎と、全ての危険が、一つの場所に収束していく。
俺たちは、スマホから流れる悲しいピアノの旋律を背中で聞きながら、音楽室を飛び出し、夜の校舎の、最も高い場所へと、駆け上がっていった。
クライマックスの舞台は、整った。
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