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第一章:『泥まみれの騎士と、空っぽの祈り』
第三話:苦しみという名のバグ
しおりを挟む夜は、音を吸い込む。
昼間の喧騒、人々のざわめき、荷馬車の軋む音、その全てが分厚い闇の帳の向こうに消え去り、世界は深い静寂に包まれていた。俺たちが身を寄せているのは、酒場の裏手にある、打ち捨てられた馬小屋だ。宿を取る金など、もちろんない。
壁の隙間からは、容赦なく冷たい夜風が吹き込んでくる。それは、昼間の熱気を忘れさせる、肌を刺すような冷たさだった。空気は、乾いた干し草の匂いと、微かな獣の匂い、そして雨上がりの湿った土の匂いが混じり合った、どこか物悲しい匂いで満ちていた。
屋根には、誰かが忘れていった大きな穴が空いていて、そこから冴え冴えとした月光が、まるで舞台のスポットライトのように、まっすぐに差し込んでいる。その光は、部屋の隅で山と積まれた干し草の上で眠る、カインの姿を白く照らし出していた。
世界から、色が消えていた。月光に照らされた干し草は銀色に、壁の木材は黒檀のように、そしてカインのやつれた寝顔は、まるで石膏像のように青白く見えた。聞こえるのは、隙間風がひゅう、と寂しげに鳴く音と、遠くで聞こえる夜鳥の、まるで魂を呼ぶかのような、か細い鳴き声だけ。
ここは、世界の果てだった。少なくとも、カインという男にとっては、そうなのかもしれない。栄光も、名誉も、未来さえも失った男が、最後に流れ着くのにふさわしい、静かで、冷たく、そして絶望的に孤独な場所。
俺は、そんな場所で、眠れずにいた。隣では、エリスが壁にもたれて、静かに星の位置を観測している。彼女にとって、この場所も、王宮のベッドの上も、大差ないのかもしれない。ただの、物理法則が支配する空間の一つに過ぎないのだろう。
不意に、カインの眠る干し草の山が、ごそりと動いた。
「う……うぅ……」
呻き声。それは、悪夢にうなされている者の、苦しげな声だった。彼は何かから逃れるように、大きく身をよじった。その拍子に、彼の体は干し草の山から転がり落ち、月光が照らす床の上に、無様にその身を投げ出した。
「……はっ……はぁ……」
カインは、大きく目を見開いて、荒い呼吸を繰り返していた。その瞳は何も映しておらず、ただ、今しがたまで見ていたであろう悪夢の残滓を、虚ろに追いかけているようだった。
やがて、彼の呼吸が少しずつ落ち着きを取り戻し、その瞳に、屋根の穴から見える冷たい月の光が映り込んだ。彼は、まるでその月に語りかけるかのように、ぽつり、ぽつりと、誰に聞かせるともなく、その物語を語り始めた。
「……ジェラルド……」
その声は、昼間の怒声とは似ても似つかない、ひどくか細く、そして乾いた声だった。
「なぜなんだ……お前だけは……信じていたのに……」
俺とエリスは、物陰で息を殺していた。これは、聞いてはいけない独白のような気がした。しかし、耳を塞ぐことも、この場を離れることも、なぜかできなかった。
「俺は……完璧だったはずなんだ……」
彼の瞳が、過去を映し出す。その瞳に導かれるように、俺の頭の中にも、鮮やかな光景が流れ込んできた。
――陽光。降り注ぐ、祝福のような光。王宮の練兵場で、磨き上げられた銀の鎧が、その光を乱反射している。若い騎士たちの、汗と熱気に満ちた鬨の声。その中心に、二人の若者がいた。一人は、今の見る影もないほど精悍な顔つきのカイン。そしてもう一人は、彼と瓜二つの、太陽のような笑顔を持つ騎士。
「カイン! 今日こそは貴様に一本取ってやる!」
「面白い、ジェラルド! 百年早いと教えてやろう!」
剣を交える二人。その剣技は、他の騎士たちとは明らかに次元が違っていた。鋼と鋼がぶつかる甲高い音、ほとばしる火花。それは、憎しみ合う戦いではなく、互いを高め合う、喜びと信頼に満ちた舞踏のようだった。訓練が終われば、肩を組み、酒を酌み交わし、夜空を見上げて語り合う。
「なあ、カイン。俺たち二人で、この国の双璧になろう。お前が『王国の盾』なら、俺は『王国の剣』だ。二人いれば、この国は永遠に安泰だ」
あの頃は、未来が無限に輝いて見えた。信じていた。この友情も、この誓いも、永遠に続くのだと。
――戦場。隣国との戦で、カインの名は英雄となった。彼の守る部隊は、決して崩れることがなかった。どんな絶望的な状況でも、彼は民を守り、仲間を守り、その身を盾にして、勝利をもたらした。民衆は彼を讃え、国王は彼に最大の賛辞を贈った。彼は、名実ともに『王国の盾』となった。しかし、その眩しすぎる光が、すぐ隣にあったはずの、最も近しい友の心に、深い、深い影を落としていたことに、彼は気づかなかった。
――法廷。冷たい石造りの、薄暗い部屋。窓の外は、冷たい雨が降りしきっていた。被告席に立たされたカインは、信じられないという顔で、証言台に立つ親友を見つめていた。国家機密漏洩。身に覚えのない、あまりにも重い罪状。
「証人、ジェラルド・オーブライト。前に」
裁判官の冷たい声が響く。ジェラルドは、ゆっくりと前に進み出た。その顔には、かつての太陽のような笑顔はない。ただ、能面のような、一切の感情を排した無表情が張り付いているだけだった。
「証人は、被告カイン・アシュフォードが、敵国の密偵と接触していたのを見た、ということで間違いないか」
ジェラルドは、一度もカインの方を見ようとはしなかった。ただ、まっすぐに前を見据え、はっきりとした声で、こう言った。
「はい。私は、この目で見ました。彼が、我が国の機密情報を、敵に渡すところを」
その瞬間、カインの世界から、音が消えた。人々の囁き声、雨音、自分の心臓の音さえも。全てが、遠い世界の出来事のようだった。ただ、ジェラルドの唇から紡がれた、その冷たい言葉だけが、永遠に、彼の頭の中で反響し続けた。
国王は激怒し、民衆は手のひらを返したように彼を罵った。『裏切り者』『国の恥さらし』。昨日までの英雄は、一夜にして、国賊へと堕ちた。騎士の称号を剥奪され、全てを奪われ、彼は雨の中に一人、放り出された。
「……俺は、『王国の盾』カインだった。そうあるべきだったんだ」
独白が、現在に戻ってくる。カインは、月明かりの下で、自分の両手を見つめていた。それは、かつて国を守り、民を救った、英雄の手のはずだった。
「だが、ジェラルドが……あいつが、俺からすべてを奪った。今の俺は……ただの抜け殻だ。何もない、空っぽの……」
彼の声は、怒りというよりも、深い、深い虚無感に震えていた。その背中は、あまりにも小さく、そして脆く見えた。
俺は、何も言えなかった。どんな言葉をかければいい?「元気出せよ」?「お前は悪くない」?そんな陳腐な言葉が、彼の絶望の深さに届くはずがない。彼の背負う痛みの重さに、俺はただ、胸を締め付けられる思いで、立ち尽くすことしかできなかった。俺の無敵の力も、こんな時には、何の役にも立たない。
その、重苦しい沈黙を破ったのは、エリスだった。
彼女は、何の足音も立てずに、闇の中からすっと現れると、月光に照らされたカインの前に、静かに立った。その姿には、感傷も、同情も、ためらいも一切ない。まるで、故障した機械を診断しに来た、技術者のようだった。
カインは、突然現れたエリスの姿に、驚いて顔を上げた。
エリスは、その虚ろな瞳を、じっと見つめ返すと、静かに、しかし、その場の空気を切り裂くほど、はっきりと告げた。
「あなたの現在の状態を、分析します」
「……なんだと?」
「あなたの自己認識システムは、『王国の盾、カイン』という、過去の記録データに基づいて構築されています。そのシステムは、『民から賞賛される』『親友から信頼される』という外部からの肯定的なフィードバックを受け取ることで、正常に機能していました」
エリスの言葉は、一切の感情を排した、事実の羅列だった。
「しかし、現在、あなたのシステムにリアルタイムで入力されている外部データは、『追放され、酒に溺れる、誰からも評価されない無名の男』というものです」
「この、あなたの内部に保存された古い記録データと、外部から入力される現在のデータの間には、解決不可能な、致命的な論理的矛盾(パラドックス)が発生しています」
「あなたの脳は、この矛盾を解消しようと、過去の栄光という古いデータを、繰り返し、繰り返し再生し、現実のデータを『間違いだ』と拒絶しようと試みる。しかし、それは成功しない。この、出口のない無限ループに陥ったあなたのシステムが、その矛盾を解決するために膨大なエネルギーを浪費し、異常な熱を発生させている状態。それが、あなたの言う、『苦しみ』の正体です」
その言葉は、慰めでも、励ましでも、同情でもなかった。それは、天才プログラマーが、致命的なバグに陥って暴走しているコードを、一行一行、淡々と解説するかのようだった。無慈悲なまでに正確で、冷徹なまでに真実だった。
カインは、エリスの言葉に、ただ呆然としていた。怒ることも、悲しむことも忘れ、ぽかんと口を開けて、彼女を見つめている。
これまで、誰も彼の苦しみを理解してはくれなかった。同情する者はいたかもしれない。しかし、その苦しみが、どのような「仕組み」で自分を苛んでいるのかを、このように解剖して見せた者はいなかった。
彼は初めて、自分の苦しみを、熱い感情の渦の中からではなく、まるで他人事のように、遠くから、客観的な「現象」として、眺める視点を与えられたのだ。それは、慰めではない。しかし、出口のない真っ暗な迷路の中で、誰かが突然、迷路全体の設計図を、彼の目の前に広げて見せたかのような、圧倒的な衝撃だった。
「お、おい、エリス! いくらなんでも、言い方ってもんが……!」
俺は、たまらず二人の間に割って入った。あまりにも無慈悲なエリスの言葉に、ハラハラしたのだ。
しかし、エリスは、俺の方をゆっくりと見ると、心の底から不思議そうに、その美しい首をかしげた。
「私は、観測した事実と、それに基づく論理的な推論を述べただけです。何か、問題でも?」
彼女には、なぜ自分の発言が「無慈悲」で、「言い方が悪い」のか、全く理解できていないようだった。彼女にとっては、カインの心の痛みも、夕焼けの空の美しさも、等しく分析と解説の対象でしかないのだ。
三者三様の思いが交錯する馬小屋に、再び、静寂が戻る。
しかし、その静寂は、物語の始まりの、あの絶望的な静寂とは、明らかにその質を変えていた。
月光の下、カインは、ゆっくりと自分の手を見つめている。それは、まだ「元王国騎士カイン」の手だ。しかし、明日、朝日の中で見た時、その手は、ほんの少しだけ、違うものに見えるかもしれない。
何かが、ほんの少しだけ、動き始めた。そんな予感をはらんだ、静かな、静かな夜だった。
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