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第一章:『泥まみれの騎士と、空っぽの祈り』
第四話:無駄な優しさと、合理的な世話
しおりを挟む夜の闇を最初に切り裂いたのは、一羽の鳥の、高く澄んだ鳴き声だった。
それに呼応するように、あちこちで他の鳥たちがさえずり始め、それはやがて、世界の目覚めを祝福する賑やかな大合唱へと変わっていく。馬小屋の扉の隙間から差し込む光は、最初は頼りない乳白色の筋だったが、時間が経つにつれて、次第に力強い黄金色の光の帯へとその姿を変えていった。その光の中を、昨夜はただの汚れにしか見えなかった干し草の埃が、まるで意思を持っているかのように、きらきらと、そしてゆっくりと舞い踊っている。
夜の間に支配していた、冷たく、湿った、絶望の匂いを孕んだ空気は、どこかへ消え去っていた。代わりに、ひんやりと、しかし乾いた清潔な朝の空気が、壁の隙間から流れ込んでくる。それは、雨上がりの土の匂いと、朝露に濡れた草の匂い、そして、新しい一日が始まるという、言葉にならない希望の匂いが混じり合った、深呼吸したくなるような空気だった。
昨夜の、あの重苦しい独白が、まるで遠い昔の出来事だったかのように、世界は無慈悲なまでに美しく、新しい朝を迎えていた。
カインは、そんな世界の再生を、頭蓋骨の内側でガンガンと鳴り響く警鐘の音と共に迎えた。
「……ッ……」
呻き声すら、頭に響く。二日酔い。それも、ここ数ヶ月で最もひどいものだった。胃の中身が、まるで鉛の塊になったかのように重く、そして不愉快にぐるぐると渦を巻いている。
しかし、肉体的な苦痛など、どうでもよかった。彼を苛んでいたのは、それよりもずっと深く、そして惨めな、精神的な苦痛だった。
(……言ってしまった……)
昨夜の記憶が、断片的に、しかし鮮明に蘇る。月明かりの下で、誰に聞かせるともなく、自分の惨めな過去を、洗いざらい吐き出したこと。親友への恨み言、失われた栄光への未練、そして、今の自分への絶望。その全てを、あの得体の知れない二人組に、聞かれてしまった。
羞恥。後悔。自己嫌悪。
どす黒い感情の渦が、彼の思考をかき乱す。騎士としての誇りはどこへ行った。王国一と謳われた男の矜持は。全てを失い、酒に溺れ、挙句の果てに見ず知らずの他人に弱音を吐く。これ以上、無様なことがあるだろうか。
カインは、干し草の山に顔を埋めた。このまま、土になって消えてしまいたい。そんな、子供じみた逃避願望だけが、彼の心を支配していた。
その時だった。
「よぉ、おっちゃーん、おはよう!」
馬小屋の入り口から、太陽そのものが飛び込んできたかのような、眩しく、そしてあまりにも脳天気に明るい声が響いた。カインは、びくりと肩を震わせる。一番会いたくない男の声だった。
「昨日は大変だったな! これでも食って、元気出せよ!」
顔を上げると、そこにはレンが立っていた。その手には、湯気の立つ温かいスープの入った木の椀と、こんがりと狐色に焼かれた、見るからに美味そうなパンが二つ、乗せられていた。その笑顔には、昨夜の彼の独白を聞いたことによる気まずさや、同情、憐れみといった感情は、微塵も浮かんでいなかった。ただ、腹を空かせた友人(?)に朝飯を持ってきた、という純粋な喜びだけがきらきらと輝いている。
その、何の裏表もない善意が、今のカインには、何よりも鋭い刃となって突き刺さった。
「……施しは、受けん」
カインは、喉の奥から絞り出すように、そう言った。それは、今の彼が、辛うじてかき集めることのできた、プライドという名の最後の鎧だった。見ず知らずの若造からの、憐れみによる食事など、死んでも受け取るわけにはいかない。
「ん? ほどこし?」
レンは、きょとんとして首をかしげた。難しい言葉が、よく分からなかったらしい。
「いらんと言っているんだ。持って失せろ」
カインは、再び顔を背けた。これで、この話は終わりだ。そう、思った、その時だった。
腹の、虫が鳴いた。
いや、鳴いた、などという生易しいものではなかった。それは、まるで、腹の中に飢えた巨大な獣でも飼っているかのような、低く、長く、そしてどこか悲しげな、壮大な咆哮だった。
「ぐぎゅるるるるるるぅぅぅぅ………」
馬小屋の、静かな朝の空気に、その音は、あまりにも不似合いに、そして雄大に響き渡った。鳥のさえずりが、一瞬だけ止んだような気さえした。
しん、と静まり返る空間。カインは、ゆっくりと、本当にゆっくりと、時が止まってくれと願いながら、レンの方を振り返った。
レンは、最初はぽかんとしていたが、やがて状況を理解すると、その顔をくしゃくしゃにして、ぷるぷると震え始めた。そして、次の瞬間。
「ぶっははははははははははははは!!」
腹を抱え、床を転げ回りながら、レンは涙を流して大笑いを始めた。
「ひーっ、ひーっ、おっちゃん! お前の腹、すげー鳴くな! 俺、こんなすげぇ音、初めて聞いたぜ! あはははは!」
カインの顔から、血の気が引いていく。そして、次の瞬間には、耳まで真っ赤に染まっていた。人生でこれほどの屈辱を味わったのは、あの法廷で、親友に裏切られた時以来かもしれない。いや、もしかしたら、あれ以上かもしれない。
カインは、あまりの羞恥に、再び干し草に顔を埋め、今度こそ本当に土になろうと、固く決意した。
「レン。静かに」
その、笑い声と屈辱感が渦巻くカオスな空間に、まるで温度のない一本の氷柱を突き立てるかのような、静かな声が響いた。エリスだった。彼女は、いつの間にか馬小屋の中に入ってきており、カインの前に、静かに立っていた。
彼女は、カインの前にしゃがみ込むと、まるで医師が患者を診察するかのように、その美しい瞳で、カインの顔色、瞳孔の開き具合、肌の乾燥状態を、無言で、そして精密にチェックし始めた。その視線には、好奇心も、軽蔑も、同情もない。ただ、故障した機械を診断する技術者のような、純粋な探究心だけがあった。
やがて、彼女は診断を終えると、真顔で、分析結果を読み上げるかのように、淡々と宣言した。
「対象、コードネーム『カイン』のバイタルデータをスキャン。極度の栄養失調と、アルコールによる脱水症状を併発。血中アミノ酸濃度、およびビタミンB群の欠乏が顕著であり、このまま放置した場合、14日以内に、不可逆的なアルコール性肝硬変、および、それに伴う多臓器不全で活動を停止する確率、87.4%」
カインは、ぽかんとして彼女を見つめていた。自分が、あと14日で死ぬ確率を、小数点第一位まで正確に宣告されたのは、初めての経験だった。
エリスは、カインの呆然とした表情など全く意に介さず、続ける。
「あなたは、レンの精神的安定に(現時点では)寄与する、極めて興味深い観測対象です。あなたの非論理的な感情の起伏と、それに伴う行動パターンのデータは、私が『好き』という感情の構造を理解する上で、有益な参照データとなる可能性があります。したがって、あなたを生存させることは、我々の旅における、レンの予測不能な非合理性を低減させるための、現時点における最適な投資と判断します」
そう言うと、エリスはレンが持っていたパンの一つをひったくり、カインの目の前に突きつけた。
「これは、施しではありません。あなたという観測対象に対する、生存確率向上のための、論理的帰結に基づく、リソースの提供です。摂取を推奨します」
カインは、何も言えなかった。
施しではない。投資だ。リソースの提供だ。
彼のプライドという名の鎧は、その完璧なまでのロジックの前に、全くの無力だった。反論する言葉が見つからない。そもそも、反論すべき論点が存在しない。これは、優しさでも、憐れみでもない。ただの、事実と、計算と、取引だった。
カインが、何かを言う前に、エリスはパンを半分にちぎると、その片方を、半ば強引に、彼の口に押し込んだ。
カインは、されるがままだった。口の中に押し込まれたパンを、彼は、ほとんど無意識に咀嚼し始める。
そして、気づいた。
(……温かい……)
そのパンは、まだ焼きたての温かさを保っていた。そして、噛めば噛むほど、小麦の、素朴で、力強い甘みが、口の中に広がっていく。スープを飲むと、塩味の効いた、野菜の優しい味が、空っぽの胃に、じんわりと染み渡っていく。
それは、彼が、ここ数ヶ月、いや、もしかしたら、騎士団を追放されてから、初めて口にする、「まともな食事」の味だった。
彼は、無我夢中で、パンとスープを胃の中に流し込んだ。食べ終わった後、ようやく彼は、自分が生きている、という当たり前の事実を、思い出していた。
「だろ? エリスも、言い方は変だけど、優しいんだよ!」
食事を終えたカインを見て、レンが、なぜか自分のことのように得意げに胸を張った。
エリスは、その言葉を、即座に、そして冷たく否定した。
「違います。私は、あなたの非合理的な『放置できない』という行動原理が、我々全体の生存確率に与える負の影響を最小化するために、最も効率的な手段を選択しただけです。そこに、感情的なパラメータが介入する余地は、一切ありません」
レンの、一切の打算のない、太陽のような優しさ。
エリスの、一切の感情のない、氷のような合理性。
この、あまりにも両極端な二人の間に挟まれて、カインは、自分のこれまでの価値観が、まるで砂上の楼閣のように、ガラガラと崩れ落ちていくのを感じていた。騎士の誇りも、裏切りへの怒りも、絶望も、この二人(?)の前では、まるで意味をなさない。
食事が終わり、一行は、埃っぽい馬小屋を出た。朝日はすっかり高くなり、新しい一日が、否応なく始まろうとしていた。
レンは、大きく伸びをすると、「よし、じゃあ行くか!」と、何の躊躇もなく、次の街へと続く道を歩き出した。
カインは、その場を動けずにいた。
「俺は……お前たちとは、行けない。俺は……」
行く当てもないくせに、彼の最後のプライドが、そう言わせた。
レンは、数歩先で振り返ると、心の底から不思議そうな顔をして、言った。
「え? なんで? 行く場所、ないんだろ? だったら、とりあえず一緒に行こうぜ。腹も減るし、一人より二人、二人より三人の方が、なんか、楽しいじゃんか」
その言葉には、何の計算も、同情も、憐れみもなかった。ただ、子供が友達を遊びに誘うような、あまりにも純粋で、揺るぎない「事実」として、そこに提示された。
エリスも、その言葉を補強するように、付け加える。
「あなたの戦闘能力と、この地域に関する地理的知識は、我々の旅の行程における時間的コストを、推定で17%削減させる可能性があります。同行を、論理的に要請します」
感情的な理由と、合理的な理由。カインに残された、全ての逃げ道が、塞がれた。
彼は、天を仰いだ。空は、忌々しいほどに、青く澄み渡っていた。
彼は、深いため息を一つ、吐き出した。それは、絶望のため息ではなく、何かを諦め、そして、何かを受け入れた、不思議な響きを持つため息だった。
彼は、何も言わなかった。ただ、黙って、二人の後を、少しだけ距離を置いて、ゆっくりと歩き始めた。
それは、新しい旅の、そして、新しい自分を探すための、不本意ながらも、しかし、確かな、最初の一歩だった。
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