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第一章:『泥まみれの騎士と、空っぽの祈り』
第九話:道は、今ここにある
しおりを挟む夜は、あらゆるものを平等にする。
昼間、あれほどまでに鮮明だった世界の輪郭は、今はもう、深い闇の中に溶け落ちていた。騎士たちの鎧を照らした太陽も、カインの絶望を映した夕日も、今はもうない。代わりに、空には、まるで黒いビロードの上に無数のダイヤモンドを撒き散らしたかのような、満天の星が瞬いていた。その光は、太陽のように何かを暴き出すことはしない。ただ、静かに、遠くから、地上で繰り広げられるちっぽけな営みを、瞬きもせずに見下ろしているだけだった。
俺たちは、街道から少し外れた、風化した岩陰で焚き火を囲んでいた。
ぱちり、ぱちり、と乾いた薪がはぜる音。その度に、小さな火の粉が舞い上がり、螺旋を描きながら、夜の闇に吸い込まれて消えていく。その儚い光の軌跡が、まるで人間の命のようだ、などと、柄にもない感傷的な考えが頭をよぎった。
遠くで、夜行性の虫の声が、りん、りんと、涼しげな音色を奏でている。時折、風が岩肌を撫でて、ひゅう、と寂しげな口笛を吹く。それ以外の音は、何もない。
火の光が、俺たちの顔を、不規則に、そして優しく照らし出していた。光が当たれば、それぞれの顔に深い影が落ち、光が揺らめけば、その影もまた、まるで生き物のように蠢く。昼間の激しい戦闘と、魂を吐き出すような感情の爆発の後、三人の間には、重く、そしてどこか気まずい沈黙が、分厚い毛布のように横たわっていた。
俺は、どこからか見つけてきた木の枝の先に、これまたどこからか取り出したマシュマロを突き刺し、火にかざしてくるくると回していた。エリスは、焚き火の揺らめきを、まるで貴重なデータでも収集するかのように、じっと、無表情で見つめている。
そして、カインは。
彼は、膝を抱えるようにして座り込み、ただ、揺れる炎の奥にある、何も映らない闇を、見つめているようだった。
第八話の夕暮れ時、エリスの無慈悲な真実の宣告を受けてから、彼はほとんど口を利いていない。ただ、黙って歩き、黙って食事の準備を手伝い、そして、今も黙ってそこにいる。彼の内側で、どんな嵐が吹き荒れているのか、あるいは、嵐が過ぎ去った後の静寂が訪れているのか、俺には全く分からなかった。
その、張り詰めた、しかしどこか不思議な一体感のある沈黙を、破ったのは、カイン自身だった。
「レン」
その声は、ひどくかすれていた。まるで、何年も使っていなかった扉を、無理やりこじ開けた時のような、ぎしりとした響きがあった。
俺は、マシュマロから視線を上げ、彼の方を見た。カインは、炎の向こうの闇から、ようやく視線をこちらへと移していた。火の光に照らされたその瞳は、昼間の怒りとも、夕暮れの絶望とも違う、何か、探るような、そして迷子のような色をしていた。
彼は、言葉を選ぶように、ゆっくりと、しかし、心の底から湧き上がってきたであろう、根源的な問いを、俺に投げかけた。
「お前は、一体何者なんだ?」
その問いは、あまりにも真っ直ぐで、重かった。
「なぜ、俺に剣を向けられたというのに、俺を助けた? なぜ、こんな面倒で、何の得にもならない男を、見捨てないんだ?」
俺は、きょとんとして、カインの顔を見つめ返した。少し焦げ目がついて、とろりと溶け始めたマシュマロから、甘い匂いが立ち上る。
「んー」
俺は、熱々のマシュマロを、ふーふーと冷ましながら口に放り込んだ。甘さが、じゅわっと口の中に広がる。うまい。
「なんでって言われても、なぁ」
俺は、もぐもぐと口を動かしながら、真剣に考えた。なぜだろう。この男に、どう説明すれば伝わるだろうか。
俺は、もう一個のマシュマロを枝に突き刺すと、火にかざしながら、ようやく、自分の中にある、一番正直な答えを見つけ出した。
「理由なんて、ねぇよ」
俺は、あっけらかんと、そう言った。
「だってよ、カイン。お前、酒場であった時、めちゃくちゃ強かったじゃんか。あんなすげぇ剣、俺、初めて見たぜ。見てて、すげぇ、かっけー!って思ったんだ」
俺は、あの時の興奮を思い出しながら、目を輝かせて言った。
「それに、だ」
俺は、言葉を続ける。
「あの時、なんか、すげぇ苦しそうな顔、してたからさ。見てると、こっちの胸のあたりが、なんか、こう、ムズムズするっていうか、ざわざわするっていうか。うまく言えねぇけど」
俺は、自分の胸を、ごしごしとこすった。
「だから、放っとけなかった。理由なんて、そんだけだぜ」
そこには、憐れみも、計算も、同情も、何一つなかった。それは、雨に濡れた子犬を見つけたら、思わず駆け寄ってしまう子供のような、あまりにも純粋で、説明のつかない、ただの衝動。ただ、それだけのことだった。
カインは、俺の答えに、完全に言葉を失っていた。その顔には、「全く理解できない」と、はっきりと書かれていた。彼の生きてきた、論理と、損得と、プライドが支配する世界には、俺の答えを解読するための辞書が存在しないようだった。
彼は、困惑したように視線を彷徨わせると、今度は、焚き火の向こうで静かに座っている、もう一人の理解不能な存在へと、その問いを向けた。
「エリス」
「はい」
「お前は、違うだろう。お前にとって、俺の苦しみはただの『バグ』だ。俺の過去にも、興味がないと言った。では、なぜ、お前は俺といる? 合理性を何よりも重んじるお前にとって、感情的で、予測不能な俺は、リスクでしかないはずだ」
カインの問いは、先程よりも、さらに鋭く、そして論理的だった。
エリスは、焚き火から視線を外し、カインの目を、まっすぐに見つめ返した。その瞳には、何の感情も浮かんでいない。ただ、純粋な知的好奇心の光だけが、静かに揺らめいていた。
そして、彼女は、まるで研究レポートの要旨を読み上げるかのように、淡々と、そして正確に、その理由を述べ始めた。
「二つの、明確な理由が存在します」
彼女は、細く、美しい指を一本立てる。
「第一に。あなたは、『苦しみ』という、極めて非合理的な内部状態から、外部環境、すなわち我々との相互作用によって、自己の行動原理を再定義するという、非常に興味深いシステム変化の、観測サンプルです。あなたのその変容プロセスのデータは、私の主目的である、『好き』を含む『感情の構造理解』という研究において、極めて有益な参照データを提供し続けています」
そして、彼女は、すっと二本目の指を立てた。
「第二に。あなたの卓越した戦闘能力と、この地域におけるサバイバル技術は、このパーティ全体の生存確率を、推定で、17パーセント向上させます。私にとって、あなたという可変要素をパーティに加えることは、一定のリスクを許容した上で、なお、明確な論理的メリットが存在するのです」
カインは、絶句していた。
一方は、あまりにも打算がない。もう一方は、あまりにも打算しかない。
感情と、直感と、衝動。
論理と、合理性と、計算。
あまりにも対照的で、水と油のように決して交わることのないはずの、二つの答え。
しかし、カインは、その全く異なる二つの答えの中に、一つの、あまりにも衝撃的な、共通点を見出してしまった。
どちらの答えにも。
『元王国騎士カイン』や、『裏切り者カイン』という、彼の過去の栄光や、汚名といった、肩書や、社会的評価が、判断の材料として、一ミリたりとも、含まれていなかったのだ。
レンは、酒場で出会った、ただの「強くて苦しそうな、おっちゃん」を見ている。
エリスは、観測対象であり、パーティの戦力である、「現在のカイン」というシステムを見ている。
彼らは、二人とも、カインの過去など、全く見ていなかった。興味すら、持っていなかった。
彼らはただ、目の前にいる、「今、ここ」に存在する、カインという、ただの一個の存在だけを、それぞれのやり方で、見て、判断していた。
その、あまりにも当たり前で、しかし、カインが生まれてから一度も向けられたことのなかった、純粋な視線。
その事実に気づいた瞬間。
カインの中で、ずっと、ずっと彼を縛り付けていた、重く、硬く、そして冷たい鎖が、まるでガラスのように、音を立てて、砕け散るのを感じた。
過去の栄光も、過去の汚名も。
『王国の盾』と呼ばれた自分も、『裏切り者』と罵られた自分も。
この二人の前では、何の意味も、持たない。
ならば。
自分自身も、もう、それに縛られる必要は、ないのかもしれない。
彼は初めて、過去という重い荷物から解放された、本当の意味での「からっぽ」の状態になっていた。しかし、それは、夕暮れ時に感じた、絶望的な虚無ではなかった。
それは、これから、何か新しいものを、自分の手で入れていくことができる、広大で、静かで、そして、可能性に満ちた、「空(くう)」だった。
「おい、エリス! お前のその言い方じゃ、カインが可哀想だろ! もっとこう、オブラートに包む、とかさぁ!」
「オブラート? 半透明の、可食性フィルムのことですか? 何のために?」
「言葉の綾だよ! ああもう!」
焚き火の向こうで、いつも通りの、不毛で、しかしどこか心地よい言い争いが始まった。
カインは、その光景を、ただ、黙って見ていた。
そして、彼の口元に、本当に、ほんの少しだけ。彼が、何年もの間、忘れてしまっていた、穏やかで、そして、少しだけ自嘲気味な笑みが、まるで、凍てついた大地から芽吹く、小さな若葉のように、そっと、浮かび上がったのを、夜空の星々だけが、確かに見ていた。
道は、過去にも、未来にもなかった。
道は、ただ、「今、ここ」に、始まっていた。
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