16 / 50
第二章:『孤高の魔導師と、計算外のぬくもり』
第十六話:私の魔法
しおりを挟む世界から、音が消えた。
いや、正確には、ありとあらゆる音が一つの、耳に痛いほどの高周波となって飽和し、聴覚という感覚そのものを麻痺させてしまった、と言うべきだった。ソラリスの中央広場を蹂躏していたゴーレムの轟音も、魔法協会が放つ甲高い呪文の炸裂音も、そして、遠巻きに見ていた市民たちの無感動な囁き声さえも、すべてが溶け合い、意味をなさなくなっていた。
その絶対的な音響飽和の中心で、フィオナの身体から溢れ出した魔力の奔流は、もはや術式という窮屈な器に収まりきることをやめ、純粋な祈りの光となって世界を塗り替えていた。
広場全体を、巨大な光のドームが優しく包み込む。
それは、ソラリスを常に照らす、管理され、計算され尽くした青白い魔光石の光とは、その存在の次元からして異なっていた。まるで、永い冬の眠りから覚めた大地が初めて迎える、夜明けの太陽の光。触れれば温かく、その身を委ねれば、心の最も深い場所にある傷さえも癒してしまいそうな、慈しみに満ちた黄金色の光だった。
暴力と破壊の痕跡は、その光に照らされて聖なるモザイク画へと変貌する。ゴーレムが砕いた石畳の破片は、光を受けてきらめく宝石となり、舞い上がっていた粉塵は、まるで祝福の紙吹雪のように、光の中をきらきらと輝きながら、ゆっくりと、本当にゆっくりと舞い降りていく。その一つ一つが、暴力の記憶を洗い清めるかのように、地面を、建物の残骸を、そして人々の肩を、静かに覆っていく。
遠巻きに見ていたソラリスの市民たちの、硝子玉のように無表情だった瞳に、初めて自分たちの知らない「光」の色が映り込んだ。彼らの脳が、その光景に適切なラベルを貼ることができずに混乱する。データベースのどこを探しても、「効率的」「非効率的」という二つのフォルダには分類できない、未知の現象。完璧にプログラムされた彼らの世界に、初めて予測不能な「バグ」が生じた瞬間だった。そのバグは、彼らが遠い昔に失ってしまった「美しい」という感情の、小さな、本当に小さな種火だった。
光のドームの中心で、フィオナは静かに瞳を開けていた。しかし、彼女が見ているのは目の前のゴーレムではない。彼女の意識は、自らが紡いだ光の糸を伝って、ゴーレムの内部、その汚染された制御核の最も深い場所へと潜行していた。
そこは、混沌の海だった。
ソラリスの住民たちが、完璧な秩序を維持するために捨て続けた、無数の「心のゴミ」が渦巻く、ヘドロの海。
『なんで俺だけが評価されないんだ』という、粘りつくような嫉妬。
『どうせ私なんて、誰にも理解されない』という、氷のように冷たい諦め。
『あいつさえいなければ』という、焼けつくような憎悪。
『明日が来るのが怖い』という、底なしの不安。
怒り、悲しみ、絶望、劣等感。名もなき人々が心の奥底に蓋をし、見ないふりをし続けた、ありとあらゆる負の感情が、そこでは意思を持った生命体のように蠢いていた。
かつての自分なら、この濁流に触れた瞬間に飲み込まれ、同じ憎悪の色に染まっていただろう。自分を拒絶したこの街の、この人々が捨てたゴミの醜悪さに、心の底から毒を吐いていたに違いない。
だが、今の彼女は違った。
背中に、温かい壁を感じる。どんな理不尽な暴力も、笑い飛ばしてくれる、底抜けに明るい壁。
側面から、鋭く、しかし静かな剣風を感じる。どんな災厄の火の粉も、自分に届く前に切り払ってくれる、信頼に足る剣。
頭上から、星のように冷静な視線を感じる。混沌の戦場の全てを見通し、進むべき道を照らしてくれる、揺るぎない目。
仲間たちに守られている。
その絶対的な安心感が、彼女の心を嵐の海に浮かぶ小舟から、嵐そのものを静かに見下ろす灯台へと変えていた。彼女は、渦巻く負の感情の濁流に、もはや恐怖も憎しみも感じなかった。代わりに湧き上がってきたのは、不思議なほどの静けさと、そして、これまで知らなかった種類の、深い共感だった。
(ああ、そうか)
彼女の意識が、ヘドロの海に優しく語りかける。
(あんたたちも、苦しかったんだね)
才能があるから。才能がないから。美しいから。醜いから。人と違うから。人と同じでなければならないから。この完璧な街で、誰もが「普通」という名の窮屈な鎧を着ることを強いられ、そこからはみ出した部分を、自分で切り落とさなければならなかった。その痛みを、苦しみを、誰にも言うことができずに、心のゴミ箱に捨て続けてきた。
フィオナは、自分を追放した人々への憎しみではなく、彼らが抱える苦しみそのものに、自らの心の波長を合わせた。それは同情ではない。同じ痛みを抱える者としての、魂の共振だった。
『――私の魔法は、いつだって、誰かを傷つけるか、誰かに妬まれるためのものだった』
彼女の唇が、詠唱とは違う、心の声を紡ぐ。
『――でも、今は違う』
彼女の脳裏に、底抜けの笑顔でサンドイッチを差し出すレンの顔が浮かぶ。
『――誰かに勝つためじゃない。誰かに認めさせるためでもない』
ぶっきらぼうな口調の中に、不器用な信頼を滲ませるカインの背中が浮かぶ。
『――ただ、苦しんでいるあんたたちを、助けたい』
そして、自分の才能を、嫉妬も打算もなく、ただ純粋な探究心で見つめてくれたエリスの、宝石のような瞳が浮かぶ。
『――仲間が、見ててくれるから』
その瞬間、フィオナの魔法は、その性質を劇的に変えた。汚染を力ずくで浄化する「術式」から、凍てついた心を優しく溶かす「ぬくもり」へと。黄金色の光は、ゴーレムの制御核に溜まった憎悪の氷塊を、まるで春の陽光が雪を溶かすように、ゆっくりと、しかし確実に、その根源から溶かしていく。
すると、信じられないことが起こった。
暴走のエネルギーを放ち続けていたゴーレムの動きが、ゆっくりと、本当にゆっくりと鎮まっていく。その巨大な機械の身体から、軋むような、どこか悲しげな音が響き渡る。まるで、長い悪夢から覚め、自らが犯した破壊の跡を見て嗚咽しているかのように。
やがて、その岩のような、感情を映すはずのない瞳から、ぽつり、と黒く粘り気のある液体が流れ落ちた。一滴、また一滴と。それは、浄化され、行き場を失った負の感情の残滓が、物理的な形となって排出されたものだった。
だが、広場にいた誰もが、それを見て同じことを思った。
――ゴーレムが、泣いている。
涙を流し尽くしたゴーレムは、ゆっくりと膝をつき、まるで祈るかのように頭を垂れた。そして、完全に動きを止め、ただの石と鉄の塊に戻った。
広場に、風の音さえしない完璧な静寂が訪れる。
光のドームが、役目を終えた星々のように、きらめきながら空に溶けて消えていく。フィオナは、最後の一滴まで魔力を使い果たし、糸が切れた人形のように、その場に崩れ落ちた。
地面に叩きつけられる寸前、その華奢な身体を、力強く、しかし驚くほど優しい手つきで、カインが支えた。
「……見事だった」
元騎士の、短く、しかし最大限の賞賛が込められた言葉が、フィオナの耳に届く。
「すっげぇ!今まで見たどんな魔法より、一番エモかったぞ!」
レンが、満面の笑みで駆け寄ってくる。その顔は、まるで自分のことのように誇らしげだった。
フィオナは、全身を支配する心地よい疲労感の中で、生まれてから一度も感じたことのない、温かい充足感に満たされている自分に気づいた。胸の奥が、ぽかぽかと温かい。才能を誇示し、敵を打ち負かした時の、脳が痺れるような興奮とは全く違う。じんわりと、心の芯から湧き上がってくる、穏やかで、満ち足りた感覚。
自分の力が、誰かを救った。
自分の魔法が、仲間たちに笑顔をもたらした。
その単純な事実が、こんなにも心を温かくするものなのだと、彼女は三十秒前の爆発の恐怖など忘れて、ただ呆然と感じていた。
「……腹、減った」
かろうじて絞り出した彼女の言葉に、レンが「おう!じゃあ、約束のゆで卵、食いに行こうぜ!」と笑い、カインが「まずは宿に戻って休むのが先だ」と呆れたように言う。
その、どこにでもありふれた、温かいやり取り。それこそが、フィオ-ナが人生を賭けて求め続けていた、本当の「魔法」なのかもしれなかった。
仲間たちに囲まれ、安堵の表情を浮かべるフィオナ。彼女の心は、ようやく長い冬を終え、春を迎えようとしていた。
しかし、その柔らかな陽光を遮るように、冷たい影が広場に差し込んだ。
広場の向こうから、魔法協会の豪奢な紋章を掲げた一団が、硬い足音を響かせながら近づいてくる。先頭に立つのは、ソラリスの魔法の全てを統べる、三人の長老たち。彼らの顔に刻まれていたのは、街を救った少女への感謝の色ではなかった。自分たちの築き上げた完璧な秩序を脅かし、大衆の前でその権威に泥を塗った「異物」に対する、凍てつくような怒りと、どす黒い嫉妬の色だった。
その敵意を誰よりも早く感知したエリスが、脳内に直接、警告を送る。
「注意してください。フィオナ、レン、カイン。新たな脅威パラメータを検出しました」
エリスの瞳は、近づいてくる長老たちを、まるで次の実験対象を観察するかのように、冷徹に見据えていた。
「覚えておくといいでしょう。いかなるシステムにとっても、最大の脅威は、外部からの攻撃ではありません」
彼女の言葉は、これから始まる新たな混沌の、不吉な序曲だった。
「――内部の秩序を、予測不能な形で乱す『異物』の存在、そのものです」
0
あなたにおすすめの小説
魔眼の剣士、少女を育てる為冒険者を辞めるも暴れてバズり散らかした挙句少女の高校入学で号泣する~30代剣士は世界に1人のトリプルジョブに至る~
ぐうのすけ
ファンタジー
赤目達也(アカメタツヤ)は少女を育てる為に冒険者を辞めた。
そして時が流れ少女が高校の寮に住む事になり冒険者に復帰した。
30代になった達也は更なる力を手に入れておりバズり散らかす。
カクヨムで先行投稿中
タイトル名が少し違います。
魔眼の剣士、少女を育てる為冒険者を辞めるも暴れてバズり散らかした挙句少女の高校入学で号泣する~30代剣士は黒魔法と白魔法を覚え世界にただ1人のトリプルジョブに至る~
https://kakuyomu.jp/works/16818093076031328255
戦国鍛冶屋のスローライフ!?
山田村
ファンタジー
延徳元年――織田信長が生まれる45年前。
神様の手違いで、俺は鹿島の佐田村、鍛冶屋の矢五郎の次男として転生した。
生まれた時から、鍛冶の神・天目一箇神の手を授かっていたらしい。
直道、6歳。
近くの道場で、剣友となる朝孝(後の塚原卜伝)と出会う。
その後、小田原へ。
北条家をはじめ、いろんな人と知り合い、
たくさんのものを作った。
仕事? したくない。
でも、趣味と食欲のためなら、
人生、悪くない。
屑スキルが覚醒したら追放されたので、手伝い屋を営みながら、のんびりしてたのに~なんか色々たいへんです(完結)
わたなべ ゆたか
ファンタジー
タムール大陸の南よりにあるインムナーマ王国。王都タイミョンの軍事訓練場で、ランド・コールは軍に入るための最終試験に挑む。対戦相手は、《ダブルスキル》の異名を持つゴガルン。
対するランドの持つ《スキル》は、左手から棘が一本出るだけのもの。
剣技だけならゴガルン以上を自負するランドだったが、ゴガルンの《スキル》である〈筋力増強〉と〈遠当て〉に翻弄されてしまう。敗北する寸前にランドの《スキル》が真の力を発揮し、ゴガルンに勝つことができた。だが、それが原因で、ランドは王都を追い出されてしまった。移住した村で、〝手伝い屋〟として、のんびりとした生活を送っていた。だが、村に来た領地の騎士団に所属する騎馬が、ランドの生活が一変する切っ掛けとなる――。チート系スキル持ちの主人公のファンタジーです。楽しんで頂けたら、幸いです。
よろしくお願いします!
(7/15追記
一晩でお気に入りが一気に増えておりました。24Hポイントが2683! ありがとうございます!
(9/9追記
三部の一章-6、ルビ修正しました。スイマセン
(11/13追記 一章-7 神様の名前修正しました。
追記 異能(イレギュラー)タグを追加しました。これで検索しやすくなるかな……。
【完結】うさぎ転生 〜女子高生の私、交通事故で死んだと思ったら、気づけば現代ダンジョンの最弱モンスターに!?最強目指して生き延びる〜
旅する書斎(☆ほしい)
ファンタジー
女子高生の篠崎カレンは、交通事故に遭って命を落とした……はずが、目覚めるとそこはモンスターあふれる現代ダンジョン。しかも身体はウサギになっていた!
HPはわずか5、攻撃力もゼロに等しい「最弱モンスター」扱いの白うさぎ。それでもスライムやコボルトにおびえながら、なんとか生き延びる日々。唯一の救いは、ダンジョン特有の“スキル”を磨けば強くなれるということ。
跳躍蹴りでスライムを倒し、小動物の悲鳴でコボルトを怯ませ、少しずつ経験値を積んでいくうちに、カレンは手応えを感じ始める。
「このままじゃ終わらない。私、もっと強くなっていつか……」
最弱からの“首刈りウサギ”進化を目指して、ウサギの身体で奮闘するカレン。彼女はこの危険だらけのダンジョンで、生き延びるだけでなく“人間へ戻る術(すべ)”を探し当てられるのか? それとも新たなモンスターとしての道を歩むのか?最弱うさぎの成り上がりサバイバルが、いま幕を開ける!
【完結】転生したら最強の魔法使いでした~元ブラック企業OLの異世界無双~
きゅちゃん
ファンタジー
過労死寸前のブラック企業OL・田中美咲(28歳)が、残業中に倒れて異世界に転生。転生先では「セリア・アルクライト」という名前で、なんと世界最強クラスの魔法使いとして生まれ変わる。
前世で我慢し続けた鬱憤を晴らすかのように、理不尽な権力者たちを魔法でバッサバッサと成敗し、困っている人々を助けていく。持ち前の社会人経験と常識、そして圧倒的な魔法力で、この世界の様々な問題を解決していく痛快ストーリー。
スキル【迷宮管理者】に目覚めた俺氏、スレ民たちとめちゃくちゃに発展させるw
もかの
ファンタジー
『【俺氏】なんかダンジョン作れるようになったからめちゃくちゃにしようぜwww【最強になる】』
ある日急に、【迷宮管理者】なるダンジョンを作って運営できるスキルを……あろうことかそのへんの一般スレ主が手に入れてしまった!
スレ主:おいww一緒にヤバいダンジョン作ろうぜwww
長年の付き合いであるスレ民たちと笑いながら『ぼくのかんがえたさいきょうのダンジョン』を作っていく。
それが世界を揺るがすことになるのは、まだ先のお話である。
趣味で人助けをしていたギルマス、気付いたら愛の重い最強メンバーに囲まれていた
歩く魚
ファンタジー
働きたくない元社畜、異世界で見つけた最適解は――「助成金で生きる」ことだった。
剣と魔法の世界に転生したシンは、冒険者として下積みを積み、ついに夢を叶える。
それは、国家公認の助成金付き制度――ギルド経営によって、働かずに暮らすこと。
そして、その傍で自らの歪んだ性癖を満たすため、誰に頼まれたわけでもない人助けを続けていたがーー
「ご命令と解釈しました、シン様」
「……あなたの命、私に預けてくれるんでしょ?」
次第にギルドには、主人公に執着するメンバーたちが集まり始め、気がつけばギルドは、愛の重い最強集団になっていた。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる