空っぽの魔王様に「好き」を教える方法(物理)~無敵の俺と仲間たちの、世界で一番不毛な布教活動~

Gaku

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第二章:『孤高の魔導師と、計算外のぬくもり』

第十六話:私の魔法

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世界から、音が消えた。

いや、正確には、ありとあらゆる音が一つの、耳に痛いほどの高周波となって飽和し、聴覚という感覚そのものを麻痺させてしまった、と言うべきだった。ソラリスの中央広場を蹂躏していたゴーレムの轟音も、魔法協会が放つ甲高い呪文の炸裂音も、そして、遠巻きに見ていた市民たちの無感動な囁き声さえも、すべてが溶け合い、意味をなさなくなっていた。

その絶対的な音響飽和の中心で、フィオナの身体から溢れ出した魔力の奔流は、もはや術式という窮屈な器に収まりきることをやめ、純粋な祈りの光となって世界を塗り替えていた。

広場全体を、巨大な光のドームが優しく包み込む。

それは、ソラリスを常に照らす、管理され、計算され尽くした青白い魔光石の光とは、その存在の次元からして異なっていた。まるで、永い冬の眠りから覚めた大地が初めて迎える、夜明けの太陽の光。触れれば温かく、その身を委ねれば、心の最も深い場所にある傷さえも癒してしまいそうな、慈しみに満ちた黄金色の光だった。

暴力と破壊の痕跡は、その光に照らされて聖なるモザイク画へと変貌する。ゴーレムが砕いた石畳の破片は、光を受けてきらめく宝石となり、舞い上がっていた粉塵は、まるで祝福の紙吹雪のように、光の中をきらきらと輝きながら、ゆっくりと、本当にゆっくりと舞い降りていく。その一つ一つが、暴力の記憶を洗い清めるかのように、地面を、建物の残骸を、そして人々の肩を、静かに覆っていく。

遠巻きに見ていたソラリスの市民たちの、硝子玉のように無表情だった瞳に、初めて自分たちの知らない「光」の色が映り込んだ。彼らの脳が、その光景に適切なラベルを貼ることができずに混乱する。データベースのどこを探しても、「効率的」「非効率的」という二つのフォルダには分類できない、未知の現象。完璧にプログラムされた彼らの世界に、初めて予測不能な「バグ」が生じた瞬間だった。そのバグは、彼らが遠い昔に失ってしまった「美しい」という感情の、小さな、本当に小さな種火だった。

光のドームの中心で、フィオナは静かに瞳を開けていた。しかし、彼女が見ているのは目の前のゴーレムではない。彼女の意識は、自らが紡いだ光の糸を伝って、ゴーレムの内部、その汚染された制御核の最も深い場所へと潜行していた。

そこは、混沌の海だった。

ソラリスの住民たちが、完璧な秩序を維持するために捨て続けた、無数の「心のゴミ」が渦巻く、ヘドロの海。

『なんで俺だけが評価されないんだ』という、粘りつくような嫉妬。
『どうせ私なんて、誰にも理解されない』という、氷のように冷たい諦め。
『あいつさえいなければ』という、焼けつくような憎悪。
『明日が来るのが怖い』という、底なしの不安。
怒り、悲しみ、絶望、劣等感。名もなき人々が心の奥底に蓋をし、見ないふりをし続けた、ありとあらゆる負の感情が、そこでは意思を持った生命体のように蠢いていた。

かつての自分なら、この濁流に触れた瞬間に飲み込まれ、同じ憎悪の色に染まっていただろう。自分を拒絶したこの街の、この人々が捨てたゴミの醜悪さに、心の底から毒を吐いていたに違いない。

だが、今の彼女は違った。

背中に、温かい壁を感じる。どんな理不尽な暴力も、笑い飛ばしてくれる、底抜けに明るい壁。
側面から、鋭く、しかし静かな剣風を感じる。どんな災厄の火の粉も、自分に届く前に切り払ってくれる、信頼に足る剣。
頭上から、星のように冷静な視線を感じる。混沌の戦場の全てを見通し、進むべき道を照らしてくれる、揺るぎない目。

仲間たちに守られている。

その絶対的な安心感が、彼女の心を嵐の海に浮かぶ小舟から、嵐そのものを静かに見下ろす灯台へと変えていた。彼女は、渦巻く負の感情の濁流に、もはや恐怖も憎しみも感じなかった。代わりに湧き上がってきたのは、不思議なほどの静けさと、そして、これまで知らなかった種類の、深い共感だった。

(ああ、そうか)

彼女の意識が、ヘドロの海に優しく語りかける。

(あんたたちも、苦しかったんだね)

才能があるから。才能がないから。美しいから。醜いから。人と違うから。人と同じでなければならないから。この完璧な街で、誰もが「普通」という名の窮屈な鎧を着ることを強いられ、そこからはみ出した部分を、自分で切り落とさなければならなかった。その痛みを、苦しみを、誰にも言うことができずに、心のゴミ箱に捨て続けてきた。

フィオナは、自分を追放した人々への憎しみではなく、彼らが抱える苦しみそのものに、自らの心の波長を合わせた。それは同情ではない。同じ痛みを抱える者としての、魂の共振だった。

『――私の魔法は、いつだって、誰かを傷つけるか、誰かに妬まれるためのものだった』

彼女の唇が、詠唱とは違う、心の声を紡ぐ。

『――でも、今は違う』

彼女の脳裏に、底抜けの笑顔でサンドイッチを差し出すレンの顔が浮かぶ。
『――誰かに勝つためじゃない。誰かに認めさせるためでもない』
ぶっきらぼうな口調の中に、不器用な信頼を滲ませるカインの背中が浮かぶ。
『――ただ、苦しんでいるあんたたちを、助けたい』
そして、自分の才能を、嫉妬も打算もなく、ただ純粋な探究心で見つめてくれたエリスの、宝石のような瞳が浮かぶ。

『――仲間が、見ててくれるから』

その瞬間、フィオナの魔法は、その性質を劇的に変えた。汚染を力ずくで浄化する「術式」から、凍てついた心を優しく溶かす「ぬくもり」へと。黄金色の光は、ゴーレムの制御核に溜まった憎悪の氷塊を、まるで春の陽光が雪を溶かすように、ゆっくりと、しかし確実に、その根源から溶かしていく。

すると、信じられないことが起こった。

暴走のエネルギーを放ち続けていたゴーレムの動きが、ゆっくりと、本当にゆっくりと鎮まっていく。その巨大な機械の身体から、軋むような、どこか悲しげな音が響き渡る。まるで、長い悪夢から覚め、自らが犯した破壊の跡を見て嗚咽しているかのように。

やがて、その岩のような、感情を映すはずのない瞳から、ぽつり、と黒く粘り気のある液体が流れ落ちた。一滴、また一滴と。それは、浄化され、行き場を失った負の感情の残滓が、物理的な形となって排出されたものだった。

だが、広場にいた誰もが、それを見て同じことを思った。

――ゴーレムが、泣いている。

涙を流し尽くしたゴーレムは、ゆっくりと膝をつき、まるで祈るかのように頭を垂れた。そして、完全に動きを止め、ただの石と鉄の塊に戻った。

広場に、風の音さえしない完璧な静寂が訪れる。

光のドームが、役目を終えた星々のように、きらめきながら空に溶けて消えていく。フィオナは、最後の一滴まで魔力を使い果たし、糸が切れた人形のように、その場に崩れ落ちた。

地面に叩きつけられる寸前、その華奢な身体を、力強く、しかし驚くほど優しい手つきで、カインが支えた。
「……見事だった」
元騎士の、短く、しかし最大限の賞賛が込められた言葉が、フィオナの耳に届く。
「すっげぇ!今まで見たどんな魔法より、一番エモかったぞ!」
レンが、満面の笑みで駆け寄ってくる。その顔は、まるで自分のことのように誇らしげだった。

フィオナは、全身を支配する心地よい疲労感の中で、生まれてから一度も感じたことのない、温かい充足感に満たされている自分に気づいた。胸の奥が、ぽかぽかと温かい。才能を誇示し、敵を打ち負かした時の、脳が痺れるような興奮とは全く違う。じんわりと、心の芯から湧き上がってくる、穏やかで、満ち足りた感覚。

自分の力が、誰かを救った。
自分の魔法が、仲間たちに笑顔をもたらした。

その単純な事実が、こんなにも心を温かくするものなのだと、彼女は三十秒前の爆発の恐怖など忘れて、ただ呆然と感じていた。
「……腹、減った」
かろうじて絞り出した彼女の言葉に、レンが「おう!じゃあ、約束のゆで卵、食いに行こうぜ!」と笑い、カインが「まずは宿に戻って休むのが先だ」と呆れたように言う。

その、どこにでもありふれた、温かいやり取り。それこそが、フィオ-ナが人生を賭けて求め続けていた、本当の「魔法」なのかもしれなかった。

仲間たちに囲まれ、安堵の表情を浮かべるフィオナ。彼女の心は、ようやく長い冬を終え、春を迎えようとしていた。

しかし、その柔らかな陽光を遮るように、冷たい影が広場に差し込んだ。
広場の向こうから、魔法協会の豪奢な紋章を掲げた一団が、硬い足音を響かせながら近づいてくる。先頭に立つのは、ソラリスの魔法の全てを統べる、三人の長老たち。彼らの顔に刻まれていたのは、街を救った少女への感謝の色ではなかった。自分たちの築き上げた完璧な秩序を脅かし、大衆の前でその権威に泥を塗った「異物」に対する、凍てつくような怒りと、どす黒い嫉妬の色だった。

その敵意を誰よりも早く感知したエリスが、脳内に直接、警告を送る。
「注意してください。フィオナ、レン、カイン。新たな脅威パラメータを検出しました」

エリスの瞳は、近づいてくる長老たちを、まるで次の実験対象を観察するかのように、冷徹に見据えていた。

「覚えておくといいでしょう。いかなるシステムにとっても、最大の脅威は、外部からの攻撃ではありません」

彼女の言葉は、これから始まる新たな混沌の、不吉な序曲だった。

「――内部の秩序を、予測不能な形で乱す『異物』の存在、そのものです」
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