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第二章:『孤高の魔導師と、計算外のぬくもり』
第十七話:心のノイズ
しおりを挟む浄化の光が完全に空に溶け、ソラリスの中央広場に、まるで嵐が過ぎ去った後のような、奇妙な静寂が戻ってきた。しかし、その静寂は安堵の色を帯びてはいない。むしろ、次の嵐が来る前の、息を殺したような張り詰めた空気だった。風のない街に、どこからか冷たい空気が流れ込み、人々の肌を粟立たせる。先ほどまでフィオナの魔法が生み出した温かい光に照らされていた広場は、再びソラリス特有の、管理された青白い魔光石の光に支配され、血の気の失せた骸のような色合いを取り戻していた。
その冷たい空気の源は、広場の向こうからゆっくりと、しかし確かな足取りで近づいてくる三つの人影だった。
豪奢な、しかしどこか古めかしいデザインのローブを纏った、三人の老人。彼らこそ、この魔法都市ソラリスの全てを統べる、魔法協会の頂点に君臨する長老たちだった。
彼らの一歩一歩が、まるで広場の空気を凍らせていくかのように、冷たく、重く、そして威圧的だった。先ほどまで遠巻きに事の成り行きを見守っていた市民たちは、その姿を認めるやいなや、蜘蛛の子を散らすように左右に道を開け、恐怖と、長年刷り込まれた畏敬の念がない交ぜになった表情で、深く、深く頭を垂れた。彼らの存在そのものが、この街の絶対的な「規則」であり、「秩序」だった。
先頭を歩くのは、骨張った指にいくつもの魔力増幅の指輪をはめた、最も年嵩の男、長老オルバン。彼の顔に刻まれた深い皺は、長年の研鑽の証というよりは、失われゆく権威にしがみつく者の、意地と不安を物語っていた。その隣には、肥満した身体をローブに包み、常に不機嫌そうな表情を浮かべる長老バルトーク。そして最後尾には、狐のように痩せこけ、常に計算高い光を目に宿す長老コーネリウスが続く。
三人の視線は、仲間たちに支えられてようやく立ち上がった、煤と疲労にまみれた一人の少女――フィオナ――に、寸分の狂いもなく正確に、そして冷たく突き刺さっていた。
その瞳に宿る色は、街を救った英雄を称える温かい光では断じてなかった。
自分たちの築き上げた完璧なシステムの予測を超え、制御不能な結果を生み出した、忌むべき「バグ」。自分たちの権威の及ばないやり方で、自分たちが解決できなかった問題を解決してしまった、許しがたい「異物」。彼らの瞳は、偉業を成し遂げたフィオナを、救世主としてではなく、ただそれだけの、無機質で冷たい対象としてしか捉えていなかった。
カインは、その敵意を敏感に感じ取り、フィオナの前に半身をずらして庇うように立った。その手は、いつでも剣を抜けるように、静かに柄に添えられている。レンは、相変わらず状況がよく分かっていないのか、「お、偉そうなじーさんたちが出てきたな!」などと呑気なことを呟いている。
やがて、一行の目の前で足を止めた長老オルバンが、その乾いた唇を開いた。その声は、まるで墓石を爪で引っ掻くような、不快な響きをしていた。
「フィオナ……。追放された身でありながら、許可なく市内に立ち入り、あまつさえ市の重要資産である清掃ゴーレムに干渉するとは。その大罪、どう償うつもりだ?」
その言葉に、カインが思わず声を荒らげた。
「何を言っている!彼女は暴走したゴーレムを鎮め、この街を救ったのだぞ!感謝こそすれ、罪に問うなど、正気の沙汰ではない!」
しかし、オルバンはカインを一瞥だにせず、ただフィオナだけを、その蛇のような瞳で見据えている。
「救っただと?笑わせるな。我々の計算によれば、あのゴーレムはあと数時間もすれば魔力を自己消費し、自然に沈静化するはずだった。それを、この小娘が、得体の知れない異端の術を使い、あろうことかゴーレムを『乗っ取ろう』とした。我々が駆けつけた時には、その邪悪な計画は寸でのところで失敗に終わったようだがな。危険な魔女め」
完全に歪曲された、白を黒と言いくるめるための理屈。いや、彼らにとっては、それこそが守るべき「真実」なのだろう。自分たちの手に負えなかった問題を、追放したはずの、自分たちよりも遥かに若い小娘が、自分たちの知らない方法で解決してしまった。その屈辱的な事実を認めるくらいなら、世界の方を捻じ曲げてでも、自分たちの無能さを糊塗し、権威を守り通す。その醜い意志が、オルバンの言葉には満ちていた。
フィオナの顔から、血の気が引いていく。やっと手に入れたと思った、仲間との温かい繋がり。誰かのために力を使うことの喜び。その全てが、再び、この街の醜い嫉妬と権威主義によって踏み躙られようとしていた。彼女の唇が、絶望に震える。
「違う……私は、ただ……」
そのか細い声を遮るように、一つの、静かで、体温のない声が響いた。
「長老オルバン。あなたの現在の発言には、少なくとも三つの、致命的な論理的エラーが検出されます」
全員の視線が、その声の主――いつの間にか一歩前に出ていた、エリス――に集まった。
彼女は、何の感情も浮かべていない、硝子玉のような瞳で、泰然自若と佇む三人の長老を真っ直ぐに見据えていた。まるで、興味深い昆虫を観察するかのように。
オルバンが、眉間に深い皺を寄せ、不快感を露わにする。
「なんだ、貴様は。ただの機械人形(オートマタ)が、人間の会話に口を挟むな」
エリスは、その侮辱的な言葉にも一切動じることなく、淡々と分析結果を告げ始めた。その声は、静かでありながら、広場の隅々にまで不思議とよく通った。
「エラー1:事実誤認。あなたの『ゴーレムは自然鎮静する』という仮説は、前提条件の観測不足に基づいています。私の計算によれば、制御核の汚染レベルは臨界点を遥かに超えており、放置した場合のシステム暴走確率は94.2%。その場合、半径200メートル以内の全てを巻き込む魔力爆発が発生していました。フィオナの介入は、街の崩壊を防いだ唯一の最適解です」
「エラー2:因果関係の逆転。あなたは『フィオナが異端の術を使ったから、ゴーレムは危険な状態に陥った』と主張していますが、観測事実はその逆です。ゴーレムが危険な状態に陥ったからこそ、既存の術式では対応できず、彼女は自らの独創的な術式を用いざるを得なかった。あなたの論理は、結果を原因と取り違える、初歩的な思考エラーを犯しています」
エリスは、そこで一度言葉を区切ると、核心を突く最後の分析を、冷徹に告げた。
「そして、エラー3:目的関数の不整合。あなたは、表向きは『市の安全と秩序の維持』を目的として行動していると主張しています。しかし、あなたのこれまでの発言パターン、瞳孔の収縮率、そして声の微細な周波数の変化を総合的に分析した結果、あなたの真の行動原理は、全く別の目的関数に基づいていると結論付けられます」
オルバンの顔が、みるみるうちに蒼白になっていく。エリスは、一切の容赦なく、その心の奥底に隠された醜い本性を、白日の下に晒しあげた。
「その目的関数とは、『自己の権威の維持』と『自己の無能さの隠蔽』。あなたは、市の利益ではなく、あなた個人の、極めて非合理的なプライドという名のパラメータを守るためだけに、今、ここに立っている。あなたの脳は、客観的な事実を認識することを拒絶し、自己の価値観に合致する情報だけを選択的に採用する、深刻な認知バイアスに汚染されている」
エリスは、三人の長老をゆっくりと見回すと、その完璧な分析に、無慈悲なまでの、しかし的確な結論を与えた。
「簡潔に言えば、あなた方のその言動は、『嫉妬』という、極めて原始的で、非生産的な感情的ノイズによって引き起こされた、致命的な判断エラーです」
広場に、再び静寂が訪れる。しかし、先ほどまでのそれとは質の違う、息苦しいほどの沈黙だった。
論理で、完膚なきまでに追い詰められ、大衆の面前で、自分たちの心の最も醜い部分を解剖され、晒し者にされた。長老たちのプライドは、もはやズタズタだった。
最初に理性のタガを外したのは、最も血の気の多い、肥満した長老バルトークだった。彼の顔は、蒼白から一転、豚の血のような赤黒い色に変貌していた。
「だ……黙れぇぇぇえええ!!この、鉄屑人形があああぁぁっ!!」
嫉妬という名のノイズは、彼の脳の許容量を超え、完全に思考回路を焼き切った。彼は、もはや目の前の現実を正しく認識することも、自らの行動が何を引き起こすかを予測することもできなくなっていた。ただ、自分を否定する存在を、この世界から消し去りたいという、純粋な破壊衝動だけが、彼を支配していた。
「秩序を乱す異物は!その存在ごと、消し去ってくれるわああぁぁっ!!」
バルトークは、その肥えた身体からは想像もつかない速度で、一つの呪文を詠唱する。それは、鎮まりかけていたゴーレムの、浄化されたばかりで極めて不安定な状態にある制御核に向け、その機能を強制的に暴走させるための、最も悪質な、憎悪に満ちた妨害魔術だった。
黒紫色の、禍々しい魔力の槍が、バルトークの手から放たれる。
「やめろぉっ!!」
フィオナの絶叫が響く。
「馬鹿か貴様は!街ごと吹き飛ばす気か!」
カインが、信じられないものを見る目で叫ぶ。
しかし、憎悪の槍は、誰の制止も間に合わず、沈黙していたゴーレムの胸に、深々と突き刺さった。
一瞬の静寂。
次の瞬間、ゴーレムの全身から、凄まじい光と熱が迸った。浄化された純粋なエネルギーと、叩き込まれた負の魔力が、その内部で激しく衝突し、反発し合い、制御不能な核融合炉のように、暴走を始める。それはもはや、誰にも止められない、巨大な爆弾と化していた。
その絶望的な光景を前に、エリスは即座に計算結果を、全員の脳内に直接、冷たく伝達した。
「――エネルギー量、臨界点を超えます。半径500メートル以内の全てが消滅。確率、99.8パーセント」
広場に、絶対的な絶望が訪れる。
「――脱出までの猶予時間。30秒」
自分たちの犯した罪の大きさに、長老オルバンとコーネリウスがようやく気づき、顔面蒼白になる。しかし、彼らが取った行動は、謝罪でも、事態の収拾でもなかった。
「ひぃっ!」
「こ、こうなれば仕方あるまい!」
彼らは、慌てふためきながら、自分たちだけが助かるための転移魔法を詠唱し、光と共にその場から消え去っていった。あまりにも無責任で、あまりにも醜い退場だった。
残されたのは、絶望的なカウントダウンと、何が起きたのかも理解できずに逃げ惑う市民たち、そして、その爆心地で立ち尽くす一行だけだった。
フィオナは、最後の力を振り絞って、仲間たちだけでも守ろうと防御壁を張ろうとするが、消耗しきった身体から生み出せる魔力はあまりにも小さく、儚い。自分の才能が、自分の力が、またしても最悪の事態を引き起こしてしまった。その無力感と絶望に、彼女の瞳から、光が消えかけていた。
その時だった。
ガシッ、と。
絶望に震える彼女の肩を、力強い、しかし温かい手が、強く掴んだ。
見上げると、そこには、この世の終わりのような光景を前にして、ただ一人、いつもと変わらない、不敵な笑みを浮かべているレンの顔があった。
「まだだ」
彼の声は、不思議なほど落ち着いていた。
「まだ、終わってねぇぞ!」
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