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第二章:『孤高の魔導師と、計算外のぬくもり』
第十八話:合理的じゃない選択
しおりを挟む三十秒。
エリスが告げたその時間は、生物の脳が現実を認識し、絶望するには長すぎ、しかし、その絶望から逃れるには絶望的に短すぎた。
世界から、音が消えた。
いや、正しくは、ありとあらゆる音が、もはや音として認識できない領域へと昇華してしまったのだ。暴走するゴーレムが放つ、全てを原子に還元するかのごとき超高周波の駆動音。それに呼応して震える大気の悲鳴。そして、ようやく事態を理解した市民たちが発する、声にならない絶叫。それら全てが溶け合い、混ざり合い、人の可聴域を遥かに超えた絶対的な飽和音となって、世界を完璧な静寂で満たしていた。
時間は、まるで濃厚な蜂蜜の中を進むかのように、引き伸ばされていく。
ゴーレムから放たれる光が、急速にその色を失い、目に痛いほどの純白の輝きへと収束していく。視界の全てが、その暴力的な光に白く、白く染め上げられていく。世界の輪郭が溶け、自分と世界の境界さえも曖昧になっていくような、終末的な光景。
空気は、もはや呼吸のための媒体ではなかった。魔力という高密度のエネルギーで完全に飽和し、吸い込めば肺が内側から焼き切れ、肌に触れれば感電したかのようにビリビリと痺れる。それは、世界の終わりを告げる、神の吐息そのものだった。
逃げ惑う人々も、その圧倒的なエネルギーの奔流の前では、まるで琥珀の中に閉じ込められた虫のように、その動きをスローモーションに引き伸ばされていた。開かれた口、見開かれた瞳。彼らの顔に浮かぶのは、純粋で、原始的で、しかしもう手遅れの「恐怖」という名の彫刻。
終末。
誰もが、その二文字を、抗いようのない絶対的な現実として、脳髄に直接刻み付けられた。
その、絶対的な静寂と、完璧な絶望が支配する世界の中心で。
ただ一人、レンだけが、いつもと変わらない、太陽のような笑顔を浮かべていた。ニッと口角を上げたその顔には、恐怖も、焦りも、絶望も、一欠片たりとも存在しなかった。まるで、これから始まる壮大な花火大会を、特等席で見上げる子供のような、純粋な期待感だけがそこにあった。
「ごめん……!」
絶望的な静寂を引き裂いたのは、フィオナの、魂を絞り出すような悲痛な叫びだった。
彼女は、魔力を使い果たし、震える膝でかろうじて立ちながら、最後の力を振り絞っていた。その小さな両手の前に、仲間たちだけをかろうじて覆うことができる程度の、儚く、揺らめく光の壁が展開される。それは、これから世界を飲み込もうとしている純白の光の奔流を前にしては、まるで嵐の海に浮かぶ一枚の木の葉のように、あまりにも無力だった。
「私じゃ、これが……これが、限界……!」
その声は、自分の無力さを責める、血を吐くような響きを帯びていた。自分の才能が、自分の力が、またしても最悪の事態を招いてしまった。自分さえいなければ、この街は、この仲間たちは、こんな絶望的な状況に陥ることはなかったのではないか。その罪悪感が、彼女の心を内側から食い破ろうとしていた。
しかし、彼女の詠唱が終わることはなかった。
「――限界とか、関係ねぇよ」
その詠唱を遮ったのは、すぐ隣から聞こえた、底抜けに明るい声だった。
フィオナがはっと顔を上げると、レンがその小さな身体を、まるで赤子のように軽々と、しかし驚くほど優しく、左脇に抱えていた。そして、その右手は、呆然と立ち尽くすカインの鎧の襟首を、鷲掴みにしていた。
「なっ……!?」
「貴様、何を……!?」
二人の驚愕の声を意にも介さず、レンは地面を強く蹴った。
その進む方向は、誰もが予想し得ない、狂気の沙汰としか思えない方向だった。
――逃げるのとは、真逆。爆心地であるゴーレムの、その目の前に向かって。
猛然と、一直線に。
まるで、死神とのダンスにでも飛び入り参加するかのように。
「エリス!」
その背中から、レンの、いつになく真剣な声が響いた。
「みんなを、頼む!」
その言葉に、迷いは一切なかった。
その瞬間、エリスは、これまでの人生で初めて、自らの思考回路がフリーズするのを感じた。
彼女の脳内で、秒間数兆回を超える速度で回転していた超並列思考プロセッサが、コンマ数秒だけ、完全に動きを止めた。
レンの行動は、彼女が持ちうる、ありとあらゆる論理体系、いかなる行動原理のモデルにも、全く合致しなかった。それは、ただの非合理ではない。合理性の対極、狂気という名の座標軸にさえ存在しない、完全に未知の、観測不能な行動だった。
思考回路が再起動し、彼女はこれまでの人生で経験したことのない速度で、選択肢のシミュレーションを開始する。
【選択肢A】
行動:レンの指示を無視し、レンの救助を最優先する。
予測結果:レンの生存確率は推定2.7%上昇する。しかし、広場に残された市民の生存確率は、現状の0.2%から、ほぼ0%へと収束する。
【選択肢B】
行動:レンの指示に従い、市民の避難を最優先する。
予測結果:市民の生存確率は、最大で14.8%まで上昇する可能性がある。しかし、爆心地に自ら飛び込んだ最優先観測対象、コードネーム『レン』の生存確率は――
――『不明』。
どちらの選択肢も、彼女のシステムが依拠する「合理的最適解の導出」という基本原理に反していた。選択肢Aは、より多くの個体を犠牲にして、価値の高い単一の個体(観測対象)を救うという冷徹なロジックだが、レン自身の「みんなを頼む」という最終命令に背くことになる。選択肢Bは、より多くの個体を救うという功利主義的なロジックだが、最も価値のある観測対象を、生存確率『不明』という、あまりにも不確定な未来に委ねることを意味する。
論理が、袋小路に陥る。
最適解が、存在しない。
彼女の思考回路は、答えの出ない無限ループに陥り、システムダウンの寸前まで追い詰められた。
その時、彼女の記憶領域の、論理回路とは全く別の場所から、一つの、ノイズのようなデータが浮かび上がってきた。
それは、これまでの旅で蓄積されてきた、膨大な量の、非合理的な観測記録だった。
――泥まみれの騎士の、再生の瞬間。
――ゴミ山の魔女が、初めて笑った、あの日の光。
――機械人形を愛した発明家の、涙の温かさ。
――復讐を捨てた女王の、気高い選択。
――老賢者が見つけた、新しい役割の喜び。
――完璧であることをやめた勇者の、一番ダサくて、一番カッコよかった雄叫び。
そして、その全ての中心に、いつも、この男がいた。
この男の、予測不能で、非合理的で、しかし、常に自分の計算を遥かに超えた、最良の結果を生み出してきた、あの太陽のような笑顔が。
彼女は、初めて、論理ではない、別のパラメータに全てを賭けることを、選択した。
それは、これまでの観測データから導き出された、一つの仮説。
彼女が、自らのデータベースに、最近ようやく登録したばかりの、新しい単語。
――『信頼』。
「了解しました」
その、いつもと変わらない、体温のない短い返答。しかし、それは彼女にとって、自らの存在意義そのものを書き換えるほどの、重い、重い決断だった。
彼女は即座に踵を返し、最も近くで立ち尽くしていた子供の腕を掴むと、超人的な速度で広場の外、建物の陰へと運び始めた。その動きに、もはや一切の躊躇いはなかった。
「馬鹿野郎!死ぬ気か、レン!」
レンの腕の中で、カインが魂からの絶叫を上げる。正気ではない。いくら頑丈でも、都市そのものを消滅させるほどのエネルギーの奔流を、生身の人間が受け止められるはずがない。
しかし、レンは、その必死の形相のカインを見て、不敵に、そしてどこまでも楽しそうに笑うだけだった。
「大丈夫だって!」
その笑顔は、極限の状況下で、異常なほどの、そして根拠のない安心感を放っていた。
「俺、無敵だから!」
フィオナは、その光景を、その狂気としか思えないやり取りを、ただ呆然と見ていることしかできなかった。
自分を、助ける?
自分を拒絶し、石を投げ、ゴミ山に追いやった、あの街の人々を、助ける?
何の躊躇いもなく?
何の打算もなく?
何のメリットもないのに?
ただ、「仲間だから」という、その、たった一つの理由だけで?
彼女が、これまでの人生で信じてきた、全ての法則が、ガラガラと、根本から音を立てて崩れ落ちていく。
才能が全ての世界。
人間は、必ず裏切る生き物。
信じられるのは、自分の力だけ。
その、彼女を長年縛り付けてきた、冷たくて硬い世界の法則が、目の前の、この、太陽のように笑う、底抜けの馬鹿によって、いとも簡単に、粉々に砕かれていく。
――ああ、そうか。
彼女は、白く染まっていく世界の中で、ぼんやりと思った。
――私が、ずっと間違っていたのか。
やがて、ゴーレムの身体が、その形を保てなくなり、臨界点に達したエネルギーが、全てを無に帰す純白の光となって、解き放たれた。
その光の津波は、レンたち三人を、完全に、飲み込んだ。
エリスは、最後の一人となった老婆を、頑丈な教会の扉の陰に押し込み、その小さな身体を爆風から庇うように、自らの身を盾にした。
彼女の、宝石のような瞳には、爆心地の、世界が生まれる瞬間のような、あるいは終わる瞬間のような、荘厳なまでの光が、静かに、静かに映り込んでいた。
観測対象は、今、まさに消滅しようとしている。
彼女の論-理的な思考は、それを「計画の失敗」であり、「最優先事項の喪失」であると結論付けるはずだった。
しかし、彼女のシステムが、彼女の魂が、今、弾き出しているのは、悲しみでも、後悔でもなく、ただ一つの、静かで、どこまでも深遠な、問いだった。
「レン」
「あなたという存在は、一体、何なのですか?」
世界が、光に包まれた。
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