空っぽの魔王様に「好き」を教える方法(物理)~無敵の俺と仲間たちの、世界で一番不毛な布教活動~

Gaku

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第三章:『絡繰人形(オートマタ)の心と、測れない魂』

第二十七話:私の、子供

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ベルの瞳から溢れた涙が、ヘッドライトの光を乱反射させ、まるでダイヤモンドのように頬を伝って落ちていく。その一粒の雫が、坑道の床に溜まった粉塵に、小さな黒い染みを作った。その染みが、じわりと、永遠のように時間をかけて広がっていく。

その、ほんの数秒にも満たない時間の隙間に、ベルの脳裏を、走馬灯のように、アルクと共に過ごした孤独で、しかし輝かしい日々の記憶が駆け巡っていた。

オイルと金属の匂いだけが支配する、静かで、広すぎる工房。分厚い鉄の扉は、彼女が自ら望んで閉ざした、世界との断絶の象徴だった。窓から差し込む月明かりだけが、床に散らばる歯車や、壁に走り書きされた数式の複雑な影を、ぼんやりと描き出していた。

その中で、彼女は、来る日も来る日も、たった一人で、一つの小さな生命に魂を吹き込む作業に没頭していた。

最初は、失敗の連続だった。ショートした回路が、彼女の繊細な指先を容赦なく焼き、計算を間違えたアクチュエータが暴走し、壁に突き刺さったこともあった。その度に、彼女は「くそっ!」と悪態をつき、悔し涙をオイルで汚れた袖で拭い、それでも決して諦めなかった。人間は彼女を裏切った。しかし、物理法則は、決して嘘をつかない。正しく組み上げれば、必ず応えてくれる。その一点だけが、彼女の揺るぎない信仰だった。

そして、ある雨の降る夜、ついにその瞬間は訪れた。最後の配線を繋ぎ、動力炉にエーテルを注ぎ込む。震える指で、起動スイッチを入れる。

――カシャリ。

初めてアルクの動力炉に、生命の証である青白い光が灯った。そして、その小さなレンズアイが、まるで生まれたての雛鳥が初めて世界を見るかのように、ゆっくりと開かれた、あの瞬間。

『ハロー、ワールド』

紡ぎ出されたのは、ぎこちなく、どこか調子の外れた合成音声。しかし、そのありふれた文字列を聞いた時、ベルは、子供が初めて自分の名前を呼んでくれた母親のように、その場にへたり込み、声を上げて泣いた。初めて、自分の創造物が、自分の意図を超えて、世界に応答した瞬間だった。

それからの日々は、色鮮やかな光に満ちていた。

彼女は、アルクに世界の全てを教えた。工房の窓辺に咲いた、名もなき野花。その花弁の複雑な構造と、なぜ美しいと感じるのかという、答えのない問い。空の青さ。なぜ空は青いのかという物理法則と、それを見上げた時に胸に広がる、説明のつかない開放感。蓄音機から流れる、古い音楽。音の周波数が空気を震わせ、鼓膜を揺らすという科学的な事実と、それがなぜ人の心を慰め、時に涙させるのかという、魔法のような現象。

アルクは、その小さなメモリの中に、ベルが見せるもの、教えるもの全てを、驚異的な速度で吸収していった。人間と目を合わせて話すのが、心の底から苦手な彼女にとって、アルかクは唯一の話し相手であり、唯一の家族であり、そして、もう一人の自分自身だった。

「……やるわ」

回想の海から引き戻されたベルは、震える声で、しかし、坑道の全ての闇を貫くほど、はっきりとした口調で、そう言った。

「私が、やるのよ」

「待て、ベル!」
「考え直しなさい!」

レンとフィオナが、なおも彼女の前に立ちはだかろうとする。その優しい制止が、今はただ痛かった。

ベルは、それを、震える手で制した。

「あんたたちの言う通りよ」

彼女は、アルクをそっと胸の高さまで持ち上げ、その冷たい金属のボディに、自分の頬を寄せた。そこには、機械が発する微かな熱以上の、確かな温もりを感じた。

「アルクは、ただの機械じゃない。私の、たった一人の……私の、子供よ」

その、初めて明かされた本心に、レンもフィオナも、言葉を失った。ただの便利な道具や、自慢の発明品というレベルの話ではない。彼女は、この小さな機械に、母が子に向けるのと同じ、無償で、絶対的な愛情を注いでいたのだ。

「だから、やるのよ」

ベルは、涙で濡れた瞳で、仲間たちを一人ずつ、その目に焼き付けるように見つめた。

「レン。あんたは、価値なんて分かんねぇって言ったわね。才能とか、過去とか、そんなもの全部すっ飛ばして、ただ、泣いてるみたいな顔してたからって、助けてくれた。あんたのその馬鹿みたいなお節介がなかったら、私は、今もあのガラクタの山の中で、一人で腐ってたわ」

「フィオナ。あんたは、私の才能を、初めて嫉妬もせず、ただ対等な技術者として認めてくれた。あんたと魔法と科学の話ができて、生まれて初めて、誰かと話すのが『楽しい』って、そう思えたのよ」

「カイン。あんたは、元騎士様で、堅物で、融通の利かないクソ真面目な男だけど、誰よりも仲間を大事にしてる。あんたのその不器用な背中を見てて、少しだけ……ほんの少しだけ、人間も悪くないなって、思えた」

「エリス。あんたは本当にムカつく女だけど……でも、あんたがいたから、私は、自分が間違ってなかったんだって、胸を張ることができた。ありがとう」

彼女は、一度、息を吸い込んだ。その息は、震えていた。

「私は、ずっと一人だった。人間なんて信じられるかって、自分の殻に閉じこもってた。でも、あんたたちと会って、初めて、仲間っていうものができた。初めて、誰かのために、この力を使いたいって、心の底から、そう思ったのよ」

彼女は、再びアルクに視線を落とした。そのレンズアイが、まるでベルの顔を覗き込むように、微かに角度を変えた。

「この子は、私が生み出した、私の最高傑作。私の夢であり、私の誇り。そして、私の、唯一の子供。だからこそ、この子の最後の役目は、ただのガラクタとして、私の工房で静かに朽ち果てることじゃない」

「私の、そして、私が生まれて初めて、守りたいと思った、あんたたちという仲間が信じる未来のために、その全てを捧げることであるべきなのよ」

その、魂からの絶叫。それは、母親が、我が子を戦場へと送り出す兵士に志願させるような、あまりにも痛ましく、そして、あまりにも崇高な覚悟だった。もう誰も、彼女を止めることなど、できるはずもなかった。

その、張り詰めた静寂の中、エリスが、静かにベルに問いかけた。

『ベル。あなたは以前、ギルドの職人たちに、あなたの発明を「魂のこもらないガラクタ」と罵られ、深く傷ついた。では、問います』

エリスの、感情を一切含まない、クリスタルのように透明な声が響く。

『今、あなたは、アルクをただの『ガラクタ』として、この作戦の『道具』として、犠牲にしようとしているのですか?』

その問いは、ベルの覚悟の、その最後の核心を、鋭く、そして正確に突いていた。彼女が過去に受けた最も深い傷と、今まさに彼女が下そうとしている決断。その二つが、一直線に結びつけられた。

ベルは、ふっと、穏やかに微笑んだ。それは、全ての苦しみを乗り越え、全てを受け入れた、聖母のような、慈愛に満ちた笑みだった。

「いいえ」

彼女は、きっぱりと首を横に振った。

「私は、この子をガラクタだなんて、生まれてから一度も、思ったことはないわ」

「私は、この子に宿った、私の『魂』そのものを、未来に託すのよ」

その言葉は、もはや悲壮な決意ではなかった。それは、愛する我が子の、最も輝かしい門出を祝う、母親としての、最大の祝福の言葉だった。

ベルは、アルクの小さな頭に、そっと、最後の口づけをした。そして、震える指で、最後のプログラムを、携帯モニターに打ち込んでいく。

目的地は、岩盤の核。
任務は、動力炉の最大出力での自爆。

その、あまりにも無慈悲なプログラムの、最後のコマンドラインに、彼女は、たった一言だけ、メッセージを打ち込んだ。

『ありがとう、アルク』

彼女は、アルクを岩盤の亀裂の前に、まるで初めて歩き出す我が子を地面に立たせるかのように、そっと置いた。

「行って、アルク」

その声は、もう、震えてはいなかった。

アルクのレンズアイが、一度だけ、青く、優しく点滅した。それは、肯定のシグナルだったのか、あるいは、別れの挨拶だったのか。ベルには、そのどちらにも思えた。

そして、小さな英雄は、迷いなく、自らの最後の役目を果たすため、冷たい岩の闇の中へと、その姿を消していった。

物語は、携帯モニターに映し出される、アルクの進んでいく、暗く、孤独なモノクロームの視界を、ベルと、彼女の仲間たちが、ただ息を殺して見守る、その緊迫した瞬間で終わる。
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