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第四章:『盗賊女帝の亡霊と、盗めない未来』
第三十一話:無法の荒野と、見えざる秩序
しおりを挟むベルが仲間になってから、三週間が過ぎようとしていた。
一行が足を踏み入れたのは、どの国の法も届かない「無法の荒野」と呼ばれる広大な土地だった。
そこは、生命に対する優しさという概念が、まるで遠い昔に絶滅してしまったかのような、殺伐とした風景がどこまでも続いていた。空は、遮るもののない強烈な日差しを大地に叩きつけ、乾ききった風が砂塵を巻き上げては、奇妙な形に削られた赤茶けた岩肌を、まるで巨大なヤスリで削るかのように撫でていく。空気は、土と、枯れた草と、そして遠い昔に朽ち果てた獣の骨の匂いがした。地平線の彼方には陽炎が立ち上り、世界の輪郭を曖昧に揺らめかせている。その様は、まるで世界そのものが、終わりのない高熱にうなされているかのようだった。
「なんというか……心がささくれ立つような土地だな」
改造された馬車の御者台で手綱を握るカインが、苦々しげに呟いた。彼の騎士としての本能が、この土地に潜む目に見えない暴力の気配を敏感に感じ取っている。
一見、そこは力だけが全てのルールを支配する、完全な混沌の世界に見えた。しかし、カインの鋭い観察眼は、その混沌の奥に潜む、奇妙で、しかし確かな「秩序」の存在を捉えていた。
誰が決めたわけでもないのに、旅人たちの間には、暗黙の了解が存在していた。特定の鳥の鳴き声が聞こえたら、それは「この先、危険あり」の合図。三つの岩が積まれた場所は、旅人同士が安全に情報を交換できる中立地帯。地平線に狼煙が二本上がれば、それは「水を求む」のサイン。
すれ違う武装した商人たちは、言葉を交わす代わりに、指の形で互いの所属と敵意の有無を確認し合っている。人差し指と中指を立てるのは「我、武器商人。商いに来たのみ」。親指だけを立てるのは「我、傭兵。仕事を探している」。
国家という巨大で分かりやすいシステムが崩壊したこの地で、人々は生き延びるため、独自のルールとコミュニケーション体系を、まるでサンゴ礁が何世代もかけて形成されるように、自律的に、そして静かに築き上げていたのだ。それは、明確なリーダーも、書き記された法典も存在しない、無数の人々の相互作用から自然に生まれた、しなやかで、逞しい秩序だった。
「面白いですね」
カインの隣で、エリスがその光景を硝子玉のような瞳で見つめていた。「中央集権的な制御システムを失った個体群が、生存確率を最大化するために、ボトムアップ型の情報ネットワークを自己組織化させている。極めて合理的な現象です。まるで、一つの巨大な生命体のようです」
「生命体、ね。俺には、でっかい獣の腹の中を旅している気分だがな」
カインがため息をついた、その時だった。馬車の後方から、すさまじい喧騒が聞こえてきた。
「フィオナ!お前のその魔力循環理論は、エネルギー保存の法則を無視している!非科学的だ!」
「なんですって、このガラクタ狂い!魔法の神秘が、あんたみたいな機械頭に理解できるわけないでしょ!」
「二人とも落ち着かんか!そもそも、その議論の発端となったゼフ先生の古代魔法理論の解釈がだな!」
「若者の議論に口を挟むでない、この老いぼれが!それよりアレク、あんたのその薔薇、馬車の振動で花びらが全部落ちてるわよ!」
「なんですと!?おお、我が美の象徴が!これもまた、移ろいゆく世界の儚さの現れか……!」
馬車の内部では、フィオナ、ベル、ゼフ、アレクの四人が、それぞれの専門分野と価値観を懸けて、いつものように壮大な口喧嘩を繰り広げていた。
ベルが仲間になったことで、一行の旅は格段に快適に、そして格段に騒々しくなっていた。彼女が徹底的に改造した馬車は、もはや移動手段というより、移動要塞兼快適住居と呼ぶべき代物だった。屋根に設置されたベル特製のパネルは、この荒野の強烈な太陽光を魔力に変換し、蓄積する。そのエネルギーを使って、夜はフィオナが車内を快適な温度に保つ生活魔法を発動させ、ゼフは古代の知恵で湿気を取り除き、カインは食料の保存庫を管理し、アレクはなぜか常に完璧な温度のお茶を淹れることに命を懸けていた。
「ははは!みんな元気だなぁ!」
馬車の屋根の上で大の字になって空を眺めていたレンが、その喧騒をBGMに、心底楽しそうに笑っている。彼の周りだけ、この殺伐とした荒野の空気が、まるで春のピクニックのようにのどかだった。
「レン。そろそろ昼食の時間です。今日のメニューは、干し肉と、固くなったパン、そしてカインが昨夜仕留めた砂トカゲの燻製です」
「おお!トカゲ!エモいじゃんか!」
エリスが淡々と告げると、レンは腹の虫を鳴らした。
そんな、あまりにも平和で、あまりにも緊張感のない午後。
その日常が、何の予兆もなく、暴力的に引き裂かれたのは、一行が緩やかな谷間に差し掛かった、まさにその時だった。
ヒュッ、と。
風を切る、鋭い音が、レンの耳にだけ届いた。
次の瞬間、馬車の四つの車輪に、寸分の狂いもなく、四本の矢が突き刺さった。木製の車輪は、その衝撃で大きな音を立てて砕け散り、馬車は急停止し、大きく傾いだ。
「な、なんだ!?」
御者台のカインが叫ぶのと、馬車の両脇に繋がれていた馬の首筋に、さらに二本の矢が浅く突き刺さるのが、ほぼ同時だった。馬は苦痛に嘶き、暴れ狂う。
「落ち着け!」
カインが必死に手綱を引くが、馬のパニックは収まらない。
その時、傾いた馬車の中から、仲間たちが次々と転がり落ちてきた。
「うぐっ……なんだか、急に……眠く……」
フィオナが、呂律の回らない口調で呟き、その場に崩れ落ちる。
「矢羽に……毒か……いや、これは……強力な、眠り薬……」
ゼフが、朦朧とする意識の中で分析するが、彼の身体もまた、糸が切れた人形のように地面に倒れた。
ベルも、アレクも、そして屈強なカインでさえも、抗いがたい眠気に襲われ、次々と意識を手放していく。
「くそっ……こんな、初歩的な罠に……!」
カインが最後に見たのは、周囲の岩陰から、統率の取れた動きで静かに現れる、数十人の武装集団と、その中心で悠然と馬を駆る、黒髪の女の、冷たいシルエットだった。
レンは、眠り薬がたっぷりと塗られた矢羽の匂いを吸い込んでも、「なんか、ラベンダーみたいな、いい匂いがするなー」と呑気なものだった。しかし、仲間たちが誰一人として動かなくなり、ただ穏やかな寝息を立て始めたのを見て、初めて顔色を変えた。
「おい!みんな、どうしたんだよ!起きろって!昼寝にはまだ早いぞ!」
彼が仲間たちを揺り起こそうとした時、すでに武装集団は、彼を完全に包囲していた。
その動きには、一切の無駄も、殺気さえもなかった。ただ、目的を遂行するためだけに最適化された、冷たい機械のような練度。
「てめぇら!俺の仲間に、何しやがった!」
レンが、生まれて初めて見せるような、本気の怒りの形相で叫んだ。
武装集団の数人が、一斉にレンに斬りかかる。しかし、彼らの剣は、レンの身体に当たった瞬間、甲高い音を立ててへし折れた。
「うおおおおぉぉぉっ!!」
レンが咆哮し、周囲の空気がビリビリと震える。
しかし、次の瞬間、彼は動きを止めた。
眠っている仲間たちの首筋に、何本もの冷たい剣の切っ先が、寸分の隙もなく突きつけられていたからだ。
「……動くな」
武装集団の一人が、低い声で言った。
「動けば、こいつらの命はない」
レンは、歯を食いしばった。自分の身体がどれだけ頑丈でも、仲間を守ることはできない。圧倒的な力は、時に、圧倒的な無力さと同義だった。彼の無敵の肉体は、彼個人の生存を保証するだけで、仲間を守る盾としては、脆く、そしてあまりにも不完全だった。
「……わかった。動かない」
レンは、両手をゆっくりと上げた。
「俺をどうしたっていい。だから、こいつらには、絶対に手を出すな」
その言葉を聞き、武装集団は、まるで一つの生き物のように、滑らかな動きで一行を拘束し始めた。
レンの体には、彼を傷つけることはできなくとも、その動きを封じるための、極太の鎖が何重にも巻き付けられた。
一行は、なすすべなく捕らえられた。
意識を失った仲間たちと共に、馬車に乗せられ、揺られること数時間。
連行された先は、巨大な岩山をくり抜いて作られた、広大な盗賊団のアジトだった。
そこで一行を待っていたのは、先ほどの襲撃を率いていた、黒髪の女頭目。
歳は二十代半ばだろうか。着古した革鎧に身を包んでいるが、その立ち姿には、そこらの王族など足元にも及ばない、圧倒的な威厳と、磨き上げられた刃物のような気品が満ちていた。
「私が、この『亡国の鴉』の頭、レイヴンだ」
彼女は、捕虜となった一行を、まるで品定めするかのように、一人ずつ、冷徹な瞳で見つめていく。
まず、眠らされているカインの前に立つと、彼の剣の柄にできたタコと、その立ち姿に残る騎士の癖を一瞥した。
「ほう。その立ち方は、王国騎士団の、それも実戦経験豊富な者のものだ。だが、その目の下の隈と酒の匂い……今は、ただの抜け殻か」
次に、フィオナのローブに刺繍された、消えかけた紋様を見る。
「ソラリスの魔法協会の紋章。しかし、意図的に消されているな。追放された魔導師崩れ、といったところか」
彼女は、一人、また一人と、その驚異的な洞察力で、仲間たちの素性を、いともたやすく言い当てていく。
その鋭い視線に、意識を取り戻しかけていた仲間たちは、誰もが息を呑んだ。この女は、ただの盗賊の頭ではない。
やがて、レイヴンは、一行の荷物を検め始めた。ベルが作った精密な機械の数々、ゼフが命より大事にしている古代語で書かれた魔導書、そしてアレクの鎧に刻まれたヴァレンシュタイン家の紋章。彼女は、それらに特に強い興味を示した。
「ほう、これは面白い。お前たちは、ただの旅人ではないようだな」
彼女の瞳が、冷たい計算の色を浮かべる。
「しばらく、我がアジトの客として、丁重に遇してやる」
「お前たちの価値を、じっくりと、そして根本から、見定めさせてもらうぞ」
その言葉は、決して温かいもてなしの響きを持たなかった。
それは、これから始まる、長い長い尋問と、そして、一行の運命を左右する「査定」の始まりを告げる、冷たい、冷たい宣告だった。
レンは、鎖に巻かれたまま、その女頭目を、ただ、じっと睨みつけていた。
彼の心にあったのは、恐怖でも、屈辱でもない。
ただ一つ。
仲間を危険に晒してしまった、自分自身への、どうしようもない怒りだけだった。
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