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第四章:『盗賊女帝の亡霊と、盗めない未来』
第三十六話:過去の亡霊、再び
しおりを挟む戦場となった渓谷は、夕暮れの斜光に照らされ、赤黒い影を長く、長く伸ばしていた。
陽が傾き、空の半分は穏やかな藍色に沈み始めているというのに、西の地平線だけが、まるで世界が最後に流す血のように、燃えるような茜色に染まっている。その残酷なまでに美しい光が、骸(むくろ)の転がる谷底や、おびただしい血の染みでまだらに濡れた赤茶けた岩肌を照らし出し、この世の終わりのような壮絶な光景に、どこか神々しいとさえ思えるような、歪な荘厳さを与えていた。
乾いた風が砂塵を巻き上げ、岩の隙間をヒューヒューと物悲しい音を立てて吹き抜けていく。風が運んでくるのは、もう土や草の匂いではない。流れ落ちた血が生温かく乾いていく鉄臭い匂い、フィオナとゼフが放った魔法の残滓である微かなオゾンの匂い、そして、拭い去ることのできない死の匂い。それらが混じり合い、呼吸をするたびに、魂がわずかに削られていくような感覚があった。
岩壁にこだまするのは、もはや断末魔の叫びでも、勝利を告げる鬨(とき)の声でもない。聞こえるのは、あちこちで矢を受け、剣に傷つき、あるいはただ疲労困憊して倒れ伏す者たちの、か細いうめき声。そして、帝国軍の兵士たちが、まるで感情のない機械のように、規則正しく、そして無慈悲に陣形を立て直していく、鎧の擦れる金属音だけだった。
戦いは、膠着していた。
レイヴンの巧みなゲリラ戦術と、レンたち一行の常識を超えた介入によって、帝国軍の圧倒的な進軍は、確かに止められていた。レンという物理法則を無視した巨大な壁が、敵の主力を完全に釘付けにし、カインとレイヴンが率いる遊撃部隊がその側面を乱し、フィオナ、ゼフ、ベルの三人が後方から戦場そのものを混沌の渦へと叩き込んでいた。帝国軍は、この予測不能な「混沌」の前に、初めて進軍の足を止めたのだ。
しかし、それは勝利ではなかった。帝国軍の陣形は、微塵も崩れていない。彼らはただ、獲物がかかった巨大な蜘蛛の巣のように、静かに、そして着実に、この渓谷という名の罠にかかった獲物――レイヴンの民と仲間たち――を、じわじわと、しかし確実に締め上げているかのようだった。
そんな中、レイヴンは、渓谷全体を見渡せる高台の岩陰から、双眼鏡を手に、冷静に戦況を見つめていた。その双眸は、燃え盛る憎悪ではなく、冷徹な計算の色を宿していたはずだった。
敵の陣形、兵の消耗度、こちらの残存兵力と魔力。彼女の頭脳は、戦場という複雑怪奇な盤面の上で、次の一手、そしてそのまた次の一手を、高速でシミュレートし続けていた。感情を挟むな。憎しみは視野を狭め、判断を誤らせる。リーダーである自分が冷静さを失えば、全滅は必至。彼女は、そう自分に何度も言い聞かせていた。
帝国軍の本陣に、動きがあった。これまで後方で指揮を執っていた指揮官が、数人の屈強な魔導騎士を伴って、前線近くの丘へと姿を現したのだ。おそらく、膠着した戦況を動かすための、何らかの指示を出すつもりなのだろう。
レイヴンは、双眼鏡の焦点を、その男の横顔に合わせた。
その瞬間だった。
レイヴンの世界から、音が、消えた。
風の音も、味方の声も、遠くで響く剣戟の音も、そして、脳内に直接響いていたはずのエリスの冷静な戦況分析さえも。全てが、分厚い水の中に沈んだように、遠く、曖おまいになった。
代わりに聞こえてきたのは、遠い昔の、決して忘れることのできない音。
炎が、木材を爆ぜさせながら燃え盛る音。
女たちの悲鳴と、男たちの断末魔の叫び。
そして、冷たい石の床に崩れ落ちる、父と母の、最後のうめき声。
双眼鏡のレンズの向こうに見える男の横顔は、十数年の時を経ても、ほとんど変わっていなかった。鷲のように鋭い目、冷酷に引き結ばれた唇。あの日、燃え盛る王城の玉座の間で、まだ幼かった彼女の腕を無造作に掴み、赤熱した帝国の紋章の烙印を焼き付けながら、嘲笑うように彼女を見下ろしていた、憎むべき男の顔、そのものだった。
じゅっ、と肉の焼ける音と、凄まじい痛み。そして、自分の悲鳴。
あの日の絶望が、鮮やかに、網膜の内側で再生される。
「見つけた」
レイヴンの唇から漏れたのは、囁きというにはあまりに重く、地の底から響くような、憎悪に満ちた声だった。レンズを睨みつける彼女の瞳が、血のように赤く染まっていく。
『レイヴン。敵指揮官が前線に出たのは、あなたを誘い出すための罠です。突出行動は、こちらの戦線崩壊に直結します。冷静な判断を要求します』
エリスの、感情のないテレパシーが脳内に響く。しかし、今の彼女には、その論理的な警告は、ただの耳障りなノイズにしか聞こえなかった。
「黙れ」
彼女は、エリスの警告を、まるで鬱陶しい羽虫でも払うかのように、振り払った。
「レイヴン!待て、罠だ!その男は、お前が出てくるのを待っているんだ!」
すぐ隣で、カインが切羽詰まった声で彼女の肩を掴んだ。しかし、彼女の耳にはもう、仲間の声さえ入らない。彼女の瞳には、もはや戦況も、仲間も、守るべき民の姿さえ映ってはいなかった。ただ一点、あの男の首だけを見据えていた。
「まただ」
レイヴンの脳裏に、あの日の絶望が、黒い津波のように押し寄せる。
「また私は、何もできずに、全てを奪われるのか」
父が殺され、母が辱められ、故郷が焼かれていくのを、ただ玉座の陰で、震えながら見ていることしかできなかった、あの日の無力な少女。あの時の絶望を、二度と味わうものか。今度こそ、この手で、あの男の喉笛を掻き切ってやる。
彼女は、カインの手を荒々しく振り払うと、一切の命令系統を無視し、漆黒の鴉が獲物に向かって音もなく急降下するように、高台の岩から単独で駆け下りた。その動きは、もはや熟練の指揮官が見せる戦術的な美しさを完全に失い、ただ憎悪に突き動かされる、一匹の飢えた獣のそれだった。
丘の上の敵指揮官は、一直線に自分に向かってくるレイヴンの姿を認めると、待っていたとばかりに、その口の端を愉悦に吊り上げた。
「ようやくお出ましか、シルヴァニアの亡霊よ。この程度で我を忘れるとは、血は争えんな」
レイヴンが、指揮官まであと数メートルという距離にまで肉薄した、まさにその瞬間。
彼女の周囲、それまでただの岩陰にしか見えなかった場所から、帝国最強と謳われる魔導騎士たちが、まるで地面から湧き出すように、一斉に姿を現した。それは、あまりにも完璧で、あまりにも古典的で、そして、あまりにも効果的な罠だった。
退路は、瞬時に断たれた。
同時に、強力な拘束魔法の術式が、蜘蛛の巣のように、彼女の足元に幾何学的な光の紋様となって展開される。
「くっ!」
足が、まるで地面に縫い付けられたように動かない。全身を、見えない鎖で締め上げられるような圧迫感が襲う。絶体絶命。憎しみに目が眩み、リーダーとして、いや、戦士として最も愚かな過ちを犯したことを、彼女は、この期に及んでようやく悟った。
「まただ。また私は、自分の感情のせいで、全てを台無しにするのか」
絶望に膝をつき、周囲から突きつけられる無数の槍の穂先が、自らに迫ってくるのを、スローモーションのように見つめる。
その、永遠のようにも感じられる一瞬。
レイヴンの脳裏に、エリスの冷静すぎる分析が、まるで天からの冷たい宣告のように、皮肉たっぷりに響き渡った。
『観測報告。対象、レイヴン。過去の記憶データ(トラウマ)の再生により、論理的思考能力が著しく低下。行動原理が「集団の生存」から「個人の復讐」へと強制的に書き換えられました。結果、生存確率は92%から、1.3%へと低下。復讐という感情は、極めて非効率的な、自滅を誘発するシステムバグであると結論付けます』
魔導騎士たちの刃が、レイヴンに届く、その寸前。
もう、何も守れない自分の無力さに、彼女は、ただ唇を血が滲むほど強く噛み締めることしかできなかった。
しかし、その刃が彼女の肌を裂くことはなかった。
代わりに響いたのは、脳髄を揺さぶるような、甲高い金属音。
そして、彼女のすぐ隣で、地の底から響くような、静かで、しかし抑えきれない怒りに満ちた声だった。
「――お前の相手は、この俺だ」
物語は、絶望するレイヴンの前に、帝国最強の魔導騎士たちの刃をその一刀で受け止め、立ちはだかる、カインの広く、そして頼もしい後ろ姿を映し出して、幕を閉じる。
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