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第四章:『盗賊女帝の亡霊と、盗めない未来』
第三十八話:選択の時
しおりを挟む戦場の流れが、劇的に、そして美しく反転した。
それは、まるで凍てついていた川が、春の陽光を浴びて一気に解け出し、生命力に満ちた奔流となって全てを飲み込んでいくかのようだった。その奔流の中心にいたのは、間違いなくレイヴンだった。
リーダーとしての冷静さを取り戻した彼女の声は、もはや憎悪に歪んではいない。それは、渓谷の隅々にまで清冽に響き渡る銀の鈴の音のように、絶望しかけていた盗賊たちの心を的確に捉え、最後の闘志で奮い立たせた。
そして、彼女の指揮は、もはや孤独な天才の独壇場ではなかった。
「フィオナ、ゼフ!三時の方向、敵の魔導部隊に集中砲火を!防御は考えるな!」
「無茶を言うでないわ!」「任せなさい!」
老賢者と若き天才が、まるで長年の相棒のように阿吽の呼吸で応じ、渓谷に魔法の嵐を巻き起こす。
「ベル!奴らの足元だ!プランG、『踊る土竜』を発動させろ!」
「G!?あんなのただの悪戯じゃない!」「了解!最高の舞台にしてやるわ!」
ベルが悪戯っぽく笑うと、帝国軍の足元の地面が、突如として無数の間欠泉のように噴き上がり、彼らの完璧な陣形を内側から崩壊させていく。
「カイン、アレク!道が開いた!心臓部を叩け!」
「ようやく俺たちの出番か!」「美しくない戦いだが、悪くない!」
二人の天才騎士が、まるで対の翼を持つ一羽の猛禽のように、敵陣の最も脆い一点へと、閃光のごとく突撃していく。
そして、その全てを、レンという名の絶対的な防波堤が、最前線で支えている。
レイヴンの指揮は、もはや彼女一人の思考から生まれたものではなかった。エリスの超人的な分析と予測、カインの戦術的な判断、そして仲間たちの規格外の力が、彼女の指揮とリアルタイムで有機的に結びつき、それはもはやゲリラ戦術などという矮小な言葉では表現できない、神話の戦いのような、予測不能で、芸術的な次元へと昇華されていた。
帝国軍の指揮官の顔に、初めて焦りの色が浮かんだ。彼の計算され尽くした完璧な戦術が、理解不能な「混沌」によって、少しずつ、しかし確実に、侵食され、飲み込まれていく。それは、彼が信奉する「秩序」が、名もなき者たちの「生命力」に敗北しつつある、紛れもない証だった。
仲間たちの圧倒的な力によって、帝国軍の分厚い陣形は、まるで引き裂かれた布のように崩壊した。そして、ついにその瞬間は訪れた。
レイヴンは、再び、あの男と一対一で対峙する機会を得た。
周囲では、カインやレンが、まるで彼女のためだけの舞台を設えるかのように、他の兵士たちが介入できない円形の空間を、その圧倒的な力で作り出していた。渓谷を吹き抜ける風の音、遠くで響く仲間たちの怒号。その全てが、スローモーションのように遠ざかり、世界には、自分と、この憎むべき仇敵の二人だけしか存在しないかのような、奇妙な静寂が訪れた。
これが、最後の機会だった。この男を討てば、十数年にわたる復讐の旅が終わる。故郷を焼かれ、両親を殺され、その腕に屈辱の烙印を刻まれた、あの悪夢のような日々に、ようやく終止符を打つことができる。
指揮官は、肩で荒い息をつき、その口元から血を流しながらも、レイヴンを嘲笑うように見上げた。
「どうした、王女様。随分と手こずらせてくれたではないか。だが、憎い私の首が、今、目の前にあるぞ。さあ、その剣を存分に振るうがいい。お前の、空虚な復讐を、遂げてみせろ」
その挑発に、レイヴンの瞳の奥で、かろうじて理性で抑え込んでいた憎悪の炎が、再び燃え盛った。
彼女は、咆哮と共に、その剣を高く、高く、振り上げた。
その刃が、男の首筋に届く、ほんの数センチ手前。
永遠のようにも感じられる、その一瞬。
『レイヴン。決断の時です』
エリスの、一切の感情を排した、しかしそれゆえに絶対的な重みを持つ声が、脳内に直接響き渡った。
『この男の首を取ることに、これ以上1分を費やした場合、帝国の第二波本隊が30分以内に到着。谷への撤退路は完全に遮断され、我々を含め、あなたの民の生存確率は、4.7%まで低下します』
『しかし、今すぐ全軍に撤退命令を下せば、生存確率は89.2%まで上昇します』
『復讐という、あなたの過去の感情的利益と、民と仲間の未来という、論理的利益。どちらを選択しますか?』
究極の選択だった。
目の前には、全てを奪った憎い仇。その首を刎ねれば、長年の悪夢から解放されるかもしれない。その瞬間の快楽は、計り知れないだろう。
しかし、その先にあるのは、仲間と、自分を信じてついてきてくれた民たちの、ほぼ確実な死。
彼女の脳裏に、様々な顔が、走馬灯のように浮かんでは消えた。
血の海に倒れ伏す、父と母の無念の顔。
そして、谷で、不安そうな顔で、しかし彼女の帰りを信じて待っている、あの孤児の少女の顔。
過去か、未来か。
レイヴンの振り上げた剣が、憎しみと、迷いと、そして断ち切りがたい執着に、微かに震えた。
彼女は、血が滲むほど、強く、強く、唇を噛み締めた。
そして、振り上げた剣を、まるで何トンもの重りを下ろすかのように、ゆっくりと、本当にゆっくりと、下ろした。
彼女は、驚愕の表情を浮かべる指揮官に、きっぱりと背を向けると、全軍に聞こえる、凛とした、そして涙に濡れた声で、叫んだ。
「―――撤退する! 全員、生きろ!!」
それは、彼女が、過去の亡霊との長い長い戦いに、自らの意志で、終止符を打った瞬間だった。
復讐を遂げなかったという、個人的な敗北。
しかし、未来を守り抜いたという、王としての勝利。
悔し涙を流しながらも、その横顔は、これまでで最も気高く、そして一人の人間として、この上なく美しく輝いていた。
物語は、呆然とする指揮官を背に、民を率いて未来へと歩き出す、レイヴンの後ろ姿を、夕暮れの赤い光の中に、静かに映し出して終わる。
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