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第五章:『色褪せた伝説と、記されざる魔導書』
第四十二話:偏屈な賢者と、無礼な訪問者
しおりを挟む苔むした重い石の扉を、カインとレンが二人掛かりで押し開けた瞬間、一行をまず襲ったのは、時間の匂いだった。
それは、単なるカビや湿気の匂いではない。何百年という、人間の一生を遥かに超える長大な時間が、閉ざされた空間の中でゆっくりと熟成され、凝縮され、一つの独立した嗅覚情報として結晶化したかのような、濃密な匂い。
古びた羊皮紙が放つ、乾いて少しだけ甘い香り。何千、何万冊という書物を綴じるために使われたであろう、革と膠(にかわ)の香り。壁の棚で乾燥され、その役目を終えて久しい薬草のかすかな苦い香り。そして、その全てを覆い尽くすように、あらゆるものの上に降り積もった、途方もない量の埃が放つ、どこか懐かしいような、それでいて物悲しい香り。
それら全てが混じり合い、まるで古代の王墓に足を踏み入れたかのような、荘厳で、しかし決定的に生命の活気が欠落した空気が、彼らを優しく、それでいて抗いがたく包み込んだ。
塔の内部は、一つの巨大な書庫だった。壁という壁は、床から、螺旋階段に沿ってドーム状の天井まで、びっしりと古書で埋め尽くされている。しかし、その膨大な蔵書は整理されているとは到底言い難く、あちこちで本の雪崩を起こし、床にも無数の本の山が築かれていた。それはもはや書庫というよりは、「知」そのものの墓場、あるいは遺跡のようだった。
数少ない窓から差し込む午後の光が、何本もの細い筋となって、この知の遺跡を貫いている。その光の中を、静かに、そしてひっきりなしに舞い続ける無数の埃の粒子が、まるで夜空を流れる星屑のように、きらきらと、幻想的に輝いていた。
その、時間が死んだかのような空間の、ちょうど真ん中に、一つの巨大な安楽椅子があった。深紅のビロードは色褪せ、擦り切れた肘掛けからは綿がのぞいている。
そして、その椅子に深く、深く埋もれるようにして、一人の老人が座っていた。
みすぼらしい、何度も繕われた跡のある、くすんだ灰色のローブを纏い、顔の皺は、まるで乾いた大地に刻まれた無数の渓谷のように深く、長く、手入れされずに伸びた白髭は、彼の痩せた胸元まで達している。その姿は、物語に謳われる「賢者」というよりは、ただ時間に忘れ去られ、世界に見捨てられた「世捨て人」という言葉の方が、遥かにしっくりきた。
「……だから、何奴じゃと聞いとるんじゃ!」
その静寂を破ったのは、老人の、嗄(しゃが)れてはいるが、空気をビリビリと震わせるほどの魔力を帯びた怒声だった。彼は、安楽椅子から身じろぎもせずに、一行を鋭い眼光で睨みつけていた。
レイヴンが、民を代表する長として、威厳を保ちながら一歩前に出る。その声は、静かだが、どんな怒声にも屈しない、凛とした響きを持っていた。
「突然の訪問、失礼いたします。我々は、故郷を失い、安住の地を求める旅の者。あなたの聖域を荒らすつもりは毛頭ありません。ただ、この谷を、我らが民が力を取り戻すまでの一時的な避難場所として、お借りすることは叶いませんでしょうか」
その、理路整然とした、礼を尽くした申し出に対する老人の答えは、あまりにも簡潔で、そして絶対的なものだった。
「ならん!」
老人の言葉は、まるで雷鳴のように塔全体を揺るがした。
「ここはワシの隠れ家じゃ!ワシが世の喧騒から逃れ、静かに余生を送るための、最後の聖域じゃ!何人も立ち入ることは許さん!ましてや、お前たちのような騒々しい難民など、もってのほかじゃ!さっさと立ち去れ!」
そう言うと、老人は傍らに立てかけてあった、節くれだった樫の木の杖を掴み、その先端を一行に向けた。
「聞かぬというなら、力づくで追い出してやるわ!思い知るがよい、伝説の大魔導師の、その力の片鱗をな!」
老人の周囲の魔力が、にわかに渦を巻き始める。それは確かに、フィオナやゼフ(彼はまだ正体を明かしていないが、その実力は本物だ)さえも戦慄させるほどの、古く、そして強大な力の奔流だった。
しかし、その伝説の力が、一行を襲うことはなかった。
「ぐぎっ!」
老人が、渾身の魔力を込めて杖を振り上げようとした、まさにその瞬間。
彼の口から、カエルが潰れたような、あるいは油の切れたブリキ人形が軋むような、奇妙で情けない悲鳴が迸った。
そして、彼は杖を振り上げたままの、実に滑稽なポーズで、ぴたりと、完全に動きを止めてしまったのだ。
「だ、大丈夫か、じーさん!」
状況が全く飲み込めていないレンが、純粋な善意から、慌てて老人に駆け寄ろうとする。
「誰がじーさんじゃ!ワシはまだ…うぐぐぐ…」
強がる老人の額には、脂汗がびっしりと浮かび、その顔は苦痛に歪んでいた。
その異様な光景を冷静に観察していたアレクが、まるで教科書の症例を読み上げるかのように、静かに分析結果を口にした。
「急性腰痛症、いわゆるギックリ腰かと。急激な運動による、腰椎周囲の筋肉および椎間関節の損傷が原因と推測されます。絶対安静が第一ですな」
結局、伝説の大魔導師は、伝説の魔法を放つ前に、加齢という、この世で最も平凡で、そして最も抗いがたい敵の前に、あっけなく敗れ去った。一行は、動けなくなった老人を、彼の寝室まで運んでやるという、あまりにもしまらない展開に、ただただ困惑するしかなかった。
◇
ゼフの寝室もまた、書庫と同じく、雑然としていた。しかし、その部屋の隅に、まるで主の帰りを待つ忠犬のように、静かに立てかけられている一本の杖だけが、部屋の他のガラクタとは全く異質な、荘厳なオーラを放っていた。
その杖に、カインは釘付けになった。黒檀のように黒く、磨き上げられた杖の柄頭には、一つの精緻な紋章が彫り込まれている。それは、この国を建国した王家の紋章である「太陽の剣」と、その王を守護したとされる伝説の聖竜の横顔が、見事に組み合わさった意匠だった。騎士としての教育を受けた者ならば、誰もが知る、しかし、実物を見ることは決してないはずの、神話の中の紋章。
カインは、息を呑んだ。そして、ベッドの上で苦痛に呻いているみすぼらしい老人に、畏敬と、信じがたいという驚愕が入り混じった声で、問いかけた。
「この杖は…まさか。あなたは、建国神話に謳われる、かの大魔導師ゼフ様では!?」
その名を聞いた瞬間、ベッドの上の老人の雰囲気が、がらりと変わった。
腰の痛みも忘れたかのように、彼は待ってましたとばかりに、上半身をぐっと起こし、胸を張った。
「ほう!お主、なかなか見どころがあるな!いかにも、ワシこそが!かつて魔王軍の侵攻から王国を救い、その功績を以て建国王より直々にこの杖を賜った、歴史にその名を刻む、あの大魔導師ゼフであるぞ!」
その誇らしげな宣言は、塔の静寂に、朗々と響き渡った。
しかし、その伝説の英雄の、数百年ぶりのカミングアウトに対する、若者たちの反応は、あまりにも、あまりにも残酷だった。
「え、誰それ?」
フィオナが、小声で隣のベルに尋ねる。「ソラリスの王立図書館の禁書庫でも、そんな名前、見たことなかったけど」
「データベースに該当なし」
ベルが、冷静に、そして無慈悲に答える。「少なくとも、過去五百年以内に、大陸の歴史に影響を与えた主要な魔導師のリストには、存在しません」
「ゼフ?なんか、すげぇ強そうな名前だな!」
レンに至っては、その名前の響きから、全く見当違いな連想をしていた。
「海賊王みたいで、カッケーじゃんか!」
自分の偉大な名が、もはや誰の記憶にも残っていないという、動かしがたい現実。
ゼフの誇らしげな表情は、まるで仮面がひび割れるように、みるみるうちに固まっていった。そして、その瞳に、深い、深い絶望と、そして、世界からたった一人取り残されたかのような、どうしようもない孤独の色が浮かんだ。
唯一、カインだけが「おお…!本物のゼフ様にお会いできるとは!光栄の至りです!」と、目を輝かせて興奮している。しかし、その純粋な尊敬の眼差しこそが、逆に、ゼフの孤独と、時代からの完全な断絶を、無慈悲なまでに際立たせていた。
「……ワシを知っておるのが、お主のような、石頭の騎士崩れだけとはな」
ゼフは、深いため息をつくと、まるで拗ねた子供のように、ぷいと壁の方を向いて、毛布を頭まで被ってしまった。
「もう知らん!帰れ!お前らなんぞ、顔も見とうないわ!」
◇
塔の外へ追い出された一行は、途方に暮れていた。
「どうしたものか…」レイヴンが、頭を抱える。「結界を修復してもらうどころか、まともな対話さえできそうにない」
「伝説の英雄に、あのような態度を取らせてしまった…。私の配慮が足りなかった」カインが、自責の念に駆られて落ち込んでいる。
その、八方塞がりの重い空気の中、それまで黙ってゼフの生体反応と行動パターンを記録していたエリスが、静かに口を開いた。
「分析結果。対象、コードネーム『ゼフ』の行動原理は、自己の過去の栄光に関する記録データと、現在の自己の能力低下に関する観測データとの間の、著しい不協和(矛盾)によって生じる、自己防衛プログラムと推測されます」
彼女は、いつも通りの、感情のない声で続ける。
「端的に言えば、彼は、傷つくことを極度に恐れている」
そして、エリスは、ゼ-フがギックリ腰になった際に、その手から滑り落ちた一枚の羊皮紙を、いつの間にか拾い上げていたことを明かした。そこには、結界の術式の一部が、震える文字で書きつけられている。
「そして、彼は、この谷を覆う結界の綻びを、誰よりも正確に理解しています。しかし、それを独力で修復する魔力が、もはや自分に残されていないことも、知っている」
エリスの言葉は、塔の中にいる、孤独な老人の心の、その最も柔らかい場所に、静かに、しかし容赦なく突き刺さっていくようだった。
「だから、私たちを拒絶するのです。自分の無力さを、誰にも知られたくないから」
その言葉は、偏屈で、コミカルでさえあった老人の、硬い甲羅の下に隠された、本当の「苦しみ」の正体を、静かに、そして無慈悲に暴き出していた。
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