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第五章:『色褪せた伝説と、記されざる魔導書』
第四十五話:教えるとは、学ぶこと
しおりを挟む戦いの喧騒が嘘のように、谷には再び、何百年も変わることのなかったであろう、静かな夜が訪れた。民たちは、帝国という現実的な脅威を退けた安堵と、未来への漠然とした希望を胸に、それぞれの仮設住居で、深い眠りについている。
しかし、谷の中心に立つ、あの蔦に覆われた古い塔だけは、最上階の窓から、ロウソクの頼りない光が煌々と漏れ、まるで眠ることを忘れた巨大な一つ目の巨人のように、静まり返った谷を見下ろしていた。
塔の中、ゼフは、埃っぽい書庫の床に、ただ一人、座り込んでいた。
彼の膝の上には、分厚く、そして革の装丁が擦り切れた一冊の魔導書が、開かれている。それは、彼が若い頃、その有り余る才能と情熱の全てを注ぎ込んで書き上げた、彼自身の最高傑作だった。かつては、ページをめくるたびに、胸が高鳴った。自分の知性が、この世界の真理の一端を解き明かしたという、全能感にも似た喜びがあった。
しかし、今。
そのページに記された、流麗で、自信に満ち溢れた術式の数々は、ただの色褪せたインクの染みにしか見えなかった。
あの戦い。若者たちの、あの連携。
自分の魔法は、もはや自分一人のものではなかった。フィオナという天才によって補助・増幅され、ベルという異才によって吸収・再利用され、そして、仲間たちの連携の中で、全く新しい形の「力」へと生まれ変わった。
その事実は、彼の心を、深い、深い虚無感で満たしていた。
自分の知識も、経験も、もはやこの世界では、それ単独では何の役にも立たない。それは、新しい時代の、新しい才能たちのための、ただの「部品」か「燃料」でしかないのだ。
「もう、ワシの時代は、とっくに終わっておったんじゃな」
その呟きは、誰に聞かれることもなく、静かに舞う埃と共に、冷たい月光が差し込む書庫の闇へと、ゆっくりと溶けて消えていった。
彼は、英雄としての死に場所さえも、失ってしまったのだ。
◇
コン、コン。
その時、塔の重い扉が、控えめに、しかし澄んだ音でノックされた。
「誰じゃ。もう寝るわい」
ゼフは、億劫そうに、誰何(すいか)の声を返す。
「フィオナです、先生。夜分に申し訳ありません。ですが、どうしても、お聞きしたいことがあって。少しだけ、ほんの少しだけでいいのです。お時間を、いただけませんか」
その声には、いつものような棘も、皮肉もなかった。ただ、純粋な探究心と、そして、偉大な先達の眠りを妨げることへの、少しの緊張と、最大限の敬意が込められていた。
ゼフは、深いため息をつくと、のろのろと立ち上がり、扉を開けた。
そこに立っていたのは、フィオナだった。その手には、羊皮紙の巻物と、インク瓶が、まるで神殿への供物のように、大切そうに握られている。その瞳は、戦いの時のように鋭くはなく、ただ、どうしても解けない難問を前にした、一人の学生のように、キラキラと、そして少し不安げに輝いていた。
「何の用じゃ。ワシに教わることなど、もう何もないじゃろう。お前さんたちの、あの新しいやり方の方が、よほど効率的じゃわい」
ゼフの、自嘲気味な言葉に、フィオナは、まるで自分のことのように傷ついた顔で、慌てて首を横に振った。
「そんなこと、ありません!」
彼女の声は、切実だった。
「先生、私は、どうしても理解できないのです。先日の戦いで、先生が使われた、あの古代魔法の理論が。私の知るどんな術式にも当てはまらない。あれは、ただのエネルギーの放出ではない。まるで、世界の法則そのものに、直接、語りかけているような……。そこには、現代魔法が効率化の果てに失ってしまった、何か、根源的な力が眠っている気がするのです。どうか、教えてください!」
彼女は、その場で、深々と頭を下げた。
その、あまりにも真摯な、純粋な知的好奇心。自分の力を利用するためでもなく、自分の力を否定するためでもなく、ただ、知りたい、学びたいという、その真っ直ぐな眼差し。
ゼフの中で、錆びついて、もう二度と動くことはないと思っていた、古い、古い歯車が、カチリと、小さな音を立てて動き始めた。
「ふん。まあ、そこまで言うなら、少しだけじゃぞ」
ぶっきらぼうに言いながらも、その口元は、彼自身も気づかぬうちに、かすかに緩んでいた。
ゼフは、フィオナを中に招き入れた。それは、彼の内に眠っていた、「師」としての魂が、数百年ぶりに、再び目を覚ます瞬間だった。
◇
最初は、一方的な講義だった。
ゼフは、羊皮紙の上に、古代語のルーンを走らせながら、彼の魔法理論の根幹を、何十年ぶりかに、誰かに語り始めた。
「現代の魔法は、術式という『器』に、魔力という『水』を注ぐだけの、おままごとに過ぎん。ワシの魔法は違う。世界の根源に流れる、巨大な『川(マナの流れ)』そのものに、ルーンという名の『水路』を掘り、その流れを、ほんの少しだけ、こちらに引き込むだけじゃ」
しかし、フィオナの質問は、的確で、鋭かった。
「先生、その『川』とは、物理的にはエーテルの流れと同一と考えていいのですか?もしそうなら、その流れの向きを強制的に変えるのではなく、川の流れに沿って『水車』を回すような形でエネルギーを取り出すことは?」
その、ゼフ自身も思いつかなかったような、新しい発想。
「ほう、面白いことを言う。しかし、それには、流れに逆らわずにエネルギーを変換する、極めて高度な『歯車』が必要になるが」
「それなら、私の出番じゃないかしら」
その時、話を聞きつけたベルが、興奮した様子で議論に加わった。その手には、いつの間にか新しい機械の設計図が握られている。
「その『水車理論』、私の動力炉に応用すれば、外部からの魔力供給なしに、半永久的にエネルギーを生み出す、革命が起きるわ!じーさん、あんた、やっぱり天才だよ!」
ゼフは、呆然としていた。
自分の、もはや色褪せた化石でしかないと思っていた、古い知識。
それが、フィオナという現代最高の魔導師の、そして、ベルという異分野の天才の、二つの全く異なるフィルターを通すことで、化学反応を起こし、全く新しい、未来の技術へと、目の前で生まれ変わっていく。
教えるとは、一方的に知識を与えることではなかった。
それは、相互作用の中で、自分自身もまた、新しい発見を得る、創造的なプロセスだったのだ。
彼の心は、かつてないほどの、知的な興奮と、そして、深い喜びに満たされていた。
◇
気づけば、塔の窓から、朝の、柔らかい光が差し込んでいた。
夜を徹して続いた三人の議論は、ようやく一息ついた。
フィオナとベルは、新しい知識と、これから始まるであろう新しい発明への期待に、子供のように目を輝かせている。
ゼフの顔には、もう昨夜までの虚無感はなかった。そこにあったのは、徹夜明けの心地よい疲労感と、そして、自分の知識が、まだこの世界で大きな役割を持つことを見出した、深い、深い充足感だった。
「先生」
フィオ-ナが、尊敬の眼差しで、彼を見つめている。
「ありがとうございました。私、まだ、学ぶべきことが、たくさんあります」
彼は、もはや色褪せた過去の英雄ではない。
未来を創る若者たちを導き、そして、彼らから学びさえする、かけがえのない「賢者」として、今、ここに、生まれ変わったのだ。
物語は、自分の新しい役割を見つけ、穏やかな、しかし確かな喜びを噛み締める、ゼフの皺くちゃの横顔を、新しい一日の始まりを告げる朝の光が、優しく、そして祝福するように照らし出すシーンで、静かに幕を閉じる。
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