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第五章:『色褪せた伝説と、記されざる魔導書』
第四十六話:最後の魔法
しおりを挟む谷に、束の間の静寂が戻っていた。
帝国軍の偵察部隊を退けた傷跡は、焦げた土の匂いや、魔法の残滓であるオゾンの匂いとなって、まだ空気中に生々しく漂っている。しかし、民たちの間にあった絶望は、確かな希望の光へと変わっていた。戦いを生き延びたことへの安堵、そして何より、自分たちにはあの規格外の仲間たちと、伝説の大魔導師がついているという、揺るぎない信頼。子供たちの笑い声が、以前よりも少しだけ高く、谷の夕暮れに響き渡っていた。
夜。満月が、谷全体を覆う再生された結界のドームに、淡く柔らかな光を反射させていた。それはまるで、世界が巨大な水晶玉の中に封じ込められたかのような、幻想的で、神聖な光景だった。その光の下、ゼフは一人、塔の最上階にある展望台で、凍てつく夜気の中に佇んでいた。見上げる夜空には、数億年、何一つ変わらぬ軌道を描き続ける星々が、無慈悲なまでに美しく瞬いている。
彼の心は、凪いだ冬の湖面のように、静まり返っていた。もはや、若者たちへの嫉妬も、自らの衰えへの焦りも、忘れられることへの恐怖も、その水面を揺らすことはない。ただ、深く、そしてどこか寂しげな静寂だけが、彼の魂を満たしていた。
彼は、自分の人生という、あまりにも長すぎた旅路が、今まさに終着点を迎えようとしていることを、静かに、そして確かに受け入れていた。風が、彼の長く白い髭を揺らす。それは、まるでロウソクの最後の炎が、消え去る前に一度だけ大きく揺らめくかのようだった。
「ふむ。悪くない夜じゃわい」
その呟きは、誰に聞かれることもなく、澄み切った夜空に溶けて消えた。彼の瞳には、これから自分が演じるべき「最後の役目」への、揺るぎない覚悟が宿っていた。伝説は、伝説にふさわしい終わり方を選ぶべきなのだ。そう、彼は信じていた。
◇
翌朝、その静寂は、地獄の釜が開いたかのような喧騒によって、無慈悲に打ち破られた。
レイヴンが率いる、最も練度の高い偵察隊が、血相を変えて谷へと駆け込んできたのだ。その報告は、昨日までの希望を根こそぎ薙ぎ払う、純粋な絶望の塊だった。
「帝国の……本隊だ。その数、およそ三千。谷は、すでに完全に包囲されている」
作戦会議のために集められた一行と民の代表者たちの間に、死んだような沈黙が落ちた。三千。それは、もはや戦術や個々の武勇で覆せる規模ではない。ただの、暴力的な数字の塊だった。
「それだけではない」レイヴンは、悔しそうに唇を噛み締めながら続ける。「敵は、谷の周囲に、大規模な結界破壊のための術式陣を構築中だ。フィオナ、ゼフ様、もってあとどのくらいだ?」
フィオナは青ざめた顔で計算し、ゼフは厳しい表情で天を仰いだ。そして、二人はほとんど同時に、同じ結論を口にした。
「もって、三日じゃな」「三日もてば、奇跡よ」
民の間に、嗚咽と動揺が走る。「そんな」「我々は、ここで終わりなのか」。レイヴンとカインが必死に平静を保たせようと声を張り上げるが、圧倒的な戦力差という動かしがたい事実を前に、人々の顔から急速に希望の色が消えていく。
「どうすんだよ!三千って、俺が全員殴り飛ばすのに、何日かかるんだ!?」
レンの、いつも通りの能天気な発言も、今は空しく響くだけだった。
フィオナの広範囲魔法も、ベルの機械も、数千の軍勢を正面から相手取るには限界がある。アレクが必死に地形図と睨めっこするが、完全包囲された状況では、どんな奇策も描き出せない。
その、誰もが有効な打開策を見出せず、重苦しい沈黙が支配する会議の場に、杖を突きながら、一人の老人がゆっくりと姿を現した。
「案ずるな。ワシに、考えがある」
ゼフだった。その声は、老いてなお、絶対的な自信と威厳に満ちていた。全員の視線が、彼に集中する。
彼は、地図の中心、谷の湖に浮かぶ小島の祭壇を、杖の先でとん、と指し示した。そこは、この谷の結界の魔力が集中する、まさに心臓部だった。
「この谷の結界は、ただの防衛のためだけにあるのではない。もともとは、国が滅びるような、どうしようもない事態に陥った時のための、最後の切り札として設計されたものじゃ」
ゴクリと、誰かが喉を鳴らす音がした。
「術者の生命力そのものを魔力に変換し、この谷に満ちる全ての自然エネルギーを強制的に励起させ、一つの巨大な攻撃魔法として解き放つ……『最後の仕掛け』が、この祭壇には施してある」
彼の計画は、あまりにも壮絶で、あまりにもシンプルだった。
自らの命を燃料とし、谷に満ちる全ての魔力を暴走させ、帝国軍を、この美しい谷ごと跡形もなく吹き飛ばす。
それは、民を守るための、しかし術者の死を前提とした、まさに「最後の魔法」だった。
「馬鹿なことを言うな!そんなことをすれば、あんたは!」
フィオオナが、悲鳴のような声を上げた。同じ魔導師として、その儀式がどれほど術者の魂を削り、そして確実に死に至らしめるものか、痛いほど理解できたからだ。
「自己犠牲は、決して美しいものではない。他に全ての選択肢が尽きた時にのみ許される、最も効率の悪い、最後の手段だ」
カインが、静かに、しかし鋼のような強い意志で諌める。
「じーさん!死ぬなんて言うなよ!俺、まだあんたの昔話、全部聞いてねぇんだぞ!みんなで生き延びる方法を、考えようぜ!」
レンが、子供のように、ゼフの肩を力強く掴んだ。
しかし、ゼフの覚悟は、岩のように固く、揺るぎなかった。彼は、レンの手をそっと外すと、集まった仲間たちを、そして民たちを、慈しむような、それでいてどこか寂しげな瞳で見つめた。
「お前たちには、まだ分からん。これは、ワシの、ワシ自身のけじめなんじゃ」
彼の声は、静かだった。
「ワシはな、あまりに長く生きすぎた。かつて共に戦った仲間は、皆とっくに土に還った。愛した女も、ワシを慕ってくれた弟子たちも、皆、ワシを置いて逝ってしもうた。ワシの名を覚えている者さえ、もうほとんどおらん」
彼は、自嘲するように、ふっと笑った。
「ただ老いさらばえ、過去の栄光というカビの生えた寝物語にすがりついていただけのこの命。最後に、お前たちのような、未来ある若者たちのために使えてこそ、伝説の大魔導師として、ようやく胸を張って、仲間たちの元へ逝けるというものよ」
その言葉は、あまりにも悲壮な覚悟に満ちていた。誰もが、返す言葉を見つけられない。
ただ一人、エリスだけが、その光景を、一切の感情を排して観察していた。そして、彼女の脳内では、ゼフの言葉と、彼の微細な表情の変化、声のトーンが、膨大なデータと照合され、一つの冷徹な結論が導き出されていた。
『分析結果。対象(ゼフ)の行動原理は、純粋な利他行動というよりも、「伝説の英雄として、華々しく物語を完結させたい」という、自己の理想イメージ(我)の維持を目的とした、極めて高度な自己満足(ナルシシズム)である可能性、78.4%。彼は、無様に老いて忘れ去られるという、コントロール不能な現実(諸行無常)を、自己犠牲という、自らがコントロール可能な美しい物語で上書きし、自己を肯定しようとしている。極めて、非合理的です』
その夜、ゼフは一人、儀式に必要な道具を揃えるため、塔の中へと姿を消した。仲間たちは、彼を止めようと塔の入り口に殺到したが、そこにはゼフの張った、老いてなお強力な結界が、冷たい光を放って彼らの行く手を阻んでいた。
「くそっ!じーさん!開けろよ!」
レンが「俺がぶっ壊す!」と拳を振り上げる。しかし、その肩をエリスが掴んで止めた。
「待ちなさい、レン。この結界は、内部の術式と直結しています。物理的な破壊は、内部の魔力を暴走させ、最悪の場合、今すぐ儀式が強制的に始まってしまう可能性がある。必要なのは、暴力ではなく、論理的な説得です」
しかし、どうすれば、死を決意した老人の、数百年かけて凝り固まったプライドを、論理で崩せるというのか。一行は、為すすべもなく、固く閉ざされた塔の前で、ただ立ち尽くすしかなかった。
◇
塔の中は、しんと静まり返っていた。ゼフは、書庫の床に古文書を広げ、儀式の最終手順を、一つ一つ指でなぞりながら確認していた。不思議と、その手は震えていなかった。むしろ、久しぶりに感じる、人生の確かな充実感に、彼の心は満たされていた。
これが、ワシの死に場所だ。ワシの物語の、最後のページだ。
そう思った時、ふと、書庫の隅に、一枚の丸められた羊皮紙が落ちているのに気づいた。昼間の会議の混乱で、フィオナが忘れていったものらしかった。
何気なくそれを広げたゼフの目が、見開かれた。
そこには、彼女がゼフから教わった古代魔法の理論を、彼女自身の独創的な視点で発展させ、ベルの機械工学と融合させるという、あまりにも奇抜で、あまりにも美しい、新しい術式の走り書きが、熱っぽい文字でびっしりと書き込まれていた。
それは、未完成で、荒削りで、理論的な欠陥も多い、ただのアイデアの断片だった。
しかし、その文字の向こうに、ゼフは、無限の可能性が広がる、新しい魔法の地平を見た。
その、若々しく、情熱に満ちた文字を眺めていると、ゼフの胸の奥、固く凍りついていたはずの場所に、ちくりと、小さな、しかし確かな痛みが走った。
『この才能の行く末を、この答えの続きを、もう少しだけ、見てみたかったやもしれんな』
初めて彼の完璧な覚悟に生じた、ほんの僅かな「未練」。
それは、彼自身もまだ気づかない、心の分厚い氷が、内側から溶け始める、最初の兆候だった。
儀式の開始まで、残り24時間を切っていた。
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