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第五章:『色褪せた伝説と、記されざる魔導書』
第四十九話:賢者の席
しおりを挟む儀式から一夜が明けた。
谷には、これまで誰も経験したことのないような、穏やかで、清浄な朝が訪れていた。仲間たちの力が一つとなって再創造された結界は、もはや谷を外部から隠すための冷たい壁ではない。それは、昇り始めた太陽の光を、まるで巨大なレンズのように優しく集め、温かい黄金色の光として、谷の隅々にまで降り注がせていた。
空気は、戦いの後の火薬と血の匂いが嘘のように浄化され、若草と、湿った土と、そして希望の匂いで満ちていた。あれほど谷を支配していた鉛のような緊張感は、まるで夜霧が晴れるように消え失せ、鳥たちが、新しい世界の始まりを祝福するかのように、高らかにさえずっている。
広場には、民たちが、誰からともなく集まり始めていた。彼らは、大声で騒ぐでもなく、ただ、生まれ変わった谷の空気を深く吸い込み、この奇跡的な勝利と、守られた命の余韻を、静かに、しかし心の底から噛み締めているようだった。子供たちの笑い声が、以前よりもずっと明るく、高く響き渡る。
谷は、物理的に守られただけではなかった。一つの巨大な絶望を、全員の力で乗り越えたという経験が、彼らを一つの家族のように固く結びつけ、精神的にも、一つの共同体として生まれ変わらせていた。
◇
その日の夕刻、谷は感謝の宴に包まれた。
広場の中央には大きな焚き火が焚かれ、その炎は、民たちの喜びを映して、夜空を焦がすかのように力強く燃え盛っている。持ち寄られた食料で作られた素朴な料理の匂い、誰かが奏でる軽快なリュートの音色、そして、人々の尽きることのない笑い声。その全てが渾然一体となり、生命そのものが謳歌する、温かい祝祭の空間を作り出していた。
その宴の中心で、一行とゼフは、民たちから英雄として、最大級の感謝と称賛を受けていた。
やがて、民の中から選ばれた代表の老人が、ゼフの前に進み出ると、深く、深く、頭を下げた。
「ゼフ様。我々は、あなた様という偉大な指導者を得て、この谷で新しい国を築きたい。どうか、我々をお導きください」
その言葉は、心からの尊敬と、未来への懇願に満ちていた。それは、かつてのゼフが、心のどこかで渇望していたかもしれない、最高の栄誉の言葉だった。忘れ去られた英雄が、再び歴史の表舞台へと返り咲く瞬間。
しかし、今のゼフの心は、その言葉に全く揺れ動かなかった。
彼は、穏やかに、そしてどこか悪戯っぽく微笑むと、民の前で、ゆっくりと首を横に振った。
「ワシは、もう伝説でも、英雄でもない」
その静かな、しかし、谷の隅々にまで響き渡るような声に、全ての喧騒が、ぴたりと止んだ。
「ましてや、お前たちを導く指導者などという、大層な器ではないわい」
彼は、仲間たちが座るテーブルを、温かい、そして誇らしげな眼差しで見つめた。
そこには、相変わらずレンに説教しているカインがいて、魔法と科学の優位性について口論しているフィオナとベルがいて、その様子を面白そうに見ているレイヴンと、貴族とは思えないだらしない格好で酒を飲んでいるアレクがいた。やかましくて、不完全で、そしてどうしようもなく愛おしい、彼の新しい家族の姿があった。
「ワシは、ただの、少し物知りな、頑固じじいじゃ」
ゼフは、晴れやかな顔で言った。
「そして、未来を創る、あのやかましい若者たちの、後見人じゃよ。それで、十分すぎるほどじゃ」
その言葉に、民たちは、最初は戸惑いの表情を浮かべた。しかし、やがて、その言葉に込められた、彼の新しい覚悟の深さと、若者たちへの絶対的な信頼を理解し、誰からともなく、温かい拍手が沸き起こった。その拍手は、次第に大きなうねりとなり、夜空へと響き渡っていった。
宴の席で、ゼフはあっという間にフィオナとベルに捕まっていた。
「先生!あの時の古代語の第七節、あれは一体どういう意味だったんですか!?私のエーテル理論と関係が!?」
「じーさん!あの魔力制御、やっぱりロスが多すぎるわよ!私の新しい設計図を見てくれれば、あと15%は効率を上げられるわ!」
二人の天才少女は、まるで新しい玩具を見つけた子供のように、目を輝かせてゼフに質問攻めにする。
「やかましいわ、この小娘どもが!少しは静かに酒を飲ませんか!」
ゼフは、顔をしかめて怒鳴りながらも、その口元は、彼自身も気づかないうちに、心からの笑みを形作っていた。
その微笑ましい光景を、少し離れた場所からカインが、酒を一口飲みながら、静かに見つめていた。
「……ようやく、本当に自分の席を見つけられたようだな、大賢者殿」
◇
宴が終わり、谷が再び静寂に包まれた頃。
ゼフは一人、再び塔の最上階にある展望台で、星空を眺めていた。
数日前、同じ場所で、同じ星空を見上げていた時とは、全く違う心で。
かつては、埋めようのない孤独と、過ぎ去った過去への虚無感を紛らわすためだけに見上げていた、冷たく、遠い星々。
今は、この美しい星空の下で、まだ自分が生きていること、そして、未来を託せる、あのやかましい若者たちと出会えたことへの、静かで、しかし確かな感謝の念で、彼の心は満たされていた。
風が、彼の白い髭を優しく揺らす。
彼は、もはや色褪せた過去の英雄ではない。
未来を創る若者たちを導き、その成長を見守る、かけがえのない「賢者」として。
今、ここに、生まれ変わったのだ。
月光が、彼の穏やかで、満ち足りた横顔を、まるで祝福するように、優しく照らし出していた。
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