『空っぽの英雄叙事詩。~幸運がすぎる僕の周りで、なぜか世界が救われていく件~』

Gaku

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第2部:王都への道

第12話『単独逃亡は最高の選択肢であり、仲間との合流は最悪の事故である』

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夜明け前の森は、世界がまだ目を覚ますのを拒んでいるかのように、深い藍色と乳白色の霧に沈んでいた。  木々の梢(こずえ)から滴り落ちる朝露が、下草を濡らし、ひんやりとした湿った空気が肺の奥まで入り込んでくる。

 ルーシャン・アークライト(六歳)たち一行は、北門から数キロほど離れた山中にある、打ち捨てられた廃村に辿り着いていた。  かつて軍が駐屯していたというその場所には、崩れかけた厩舎(きゅうしゃ)が残されており、運の良いことに、野生化した馬の群れが雨露をしのいでいた。

「すごい! 本当に馬がいましたね!」  アウレリアが目を輝かせる。 「これなら、王都までの道のりを大幅に短縮できます!」

 ヴァレリウスやセラフィーナたちが、手際よく元気そうな馬を選んでいく中、ルーシャンは厩舎の最も奥まった暗がりに、一頭の「それ」を見つけた。

 ロバだった。  しかも、ただのロバではない。  毛並みはタワシのようにボサボサで、色は褪せたジャガイモ色。あばら骨が浮き出るほど痩せており、目は死んだ魚のように濁っている。立っているのが奇跡。歩き出せば三分で寿命が尽きそうな、哀愁の塊のようなロバだ。

(……これだ!)

 ルーシャンの脳内で、邪悪な閃きがスパークした。

(このロバを選べば……間違いなく「足手まとい」になれる!)

 彼の計算はこうだ。  皆が速い馬に乗る中、自分だけこの瀕死のロバに乗る。「ごめん、この子が遅くて……」と言い訳をすれば、自然と隊列から遅れることができる。  そして、距離が開いたタイミングを見計らって、「ああっ、はぐれちゃった! 先に行ってて!」と叫んでフェードアウト(離脱)。そのまま森に隠れ、ほとぼりが冷めた頃に別の町へ逃亡する。  完璧な計画だ。

「ルーシャン? そっちの馬のほうが毛並みがいいぜ?」  セラフィーナが、立派な栗毛の馬を指差して言う。

「いいや、僕はこの子にするよ」  ルーシャンは、慈愛に満ちた(演技の)声で言った。 「誰も選ばないなら、僕が連れて行くよ。命に貴賎はないからね(=これなら絶対について行けずに遅れる! 最高だ!)」

「……っ!!」  クロエが感動で口元を押さえた。 「なんてお優しい……。弱き者に寄り添うそのお心、まさに聖職者の鏡です!」

 誤解である。純度100%の悪巧みである。  こうしてルーシャンは、その薄汚れたロバを「ポテト」と名付け、意気揚々と(心の中ではニヤニヤしながら)旅の相棒に選んだのだった。

          * * *

 ザッ、ザッ、ザッ。  一行は廃村を出発し、険しい山道へと踏み入った。

 皆がこれからの過酷な旅路や馬の揺れに顔をしかめる中、ルーシャンだけはリュックから愛用の『安眠枕』を取り出し、ポテトの背中の上で優雅に二度寝を決め込んでいた。  「どうせ遅れるんだから、果報は寝て待てだ」とばかりに、彼は自身の「平穏」を最優先していたのである。

「……帰りたい」

 だが、出発から数時間後。目を覚ましたルーシャンは、蚊の鳴くような声で呟いた。  計画が、根本から狂っていた。

(……なんでこいつ、こんなに速いんだ!?)

 ルーシャンが跨(また)がっているロバ――ポテトは、淡々とした無表情のまま、驚くべき健脚で山道を登っていたのだ。  息一つ切らさない。蹄(ひづめ)の運びは正確無比で、泥濘(ぬかるみ)も木の根も最小限の動作で回避していく。ヴァレリウスたちの乗る若い馬が岩場で脚をもたつかせる中、ポテトだけは平地を歩くようにスイスイと進んでいく。  まるで、この程度の山道など散歩ですらないと言わんばかりの、熟練の職人のような足取り。

 ルーシャンが「疲れた、休もう」と手綱を引いても、ポテトは「甘ったれるな小僧」という目つきで一瞥し、無視してグイグイと進んでいく。

(話が違う! なんだこのロバ! エンジン積んでるのか!?)

 ルーシャンの目論見(執着)は、またしても現実(諸行無常)によって粉砕された。  彼は知る由もなかったが、このポテト、かつてこの駐屯地で「魔大戦」の激戦を補給部隊として生き抜いた、伝説の軍用ロバだったのだ。  爆撃の中を駆け抜け、将軍を背負って雪山を越えた経験を持つポテトにとって、子供一人の遠足など、準備運動にもならなかった。  ポテトの濁った瞳の奥には、数多の修羅場をくぐり抜けた者だけが宿す、虚無と悟り(ニルヴァーナ)の光が宿っていた。

「……はぁ、はぁ。ポテト、お願いだから、もう少しゆっくり……」 「ブルル(訳:遅れるな、新兵)」

 ルーシャンは、自分の「策略」という名の紐に首を絞められながら、必死でしがみついているしかなかった。

          * * *

 太陽が中天に昇り、木漏れ日が斑(まだら)模様を描く頃、一行は開けた河原で休憩をとることになった。  川のせせらぎが、火照った体に心地よい。  本来ならピクニック気分で楽しむ場面だが、ルーシャンは河原の石の上に崩れ落ち、ただ空を見上げていた。

「お腹、空きましたね」  アウレリアが空腹を訴える。王女として育った彼女にとって、野宿や粗食は未知の体験のはずだが、彼女の適応力は異常に高かった。「お腹が空くのも、生きてる証拠!」とポジティブ変換している。眩しい。

「食料なら、私が持ってきました!」  クロエが、誇らしげに自分の大きなリュックを下ろした。  彼女は神官見習いだ。教会からの支援物資を任されていた。

「これです! 教会特製の『聖パン』のレシピで、私が夜なべして焼いてきました!」

 クロエが取り出したのは、レンガのような色と形をした、直方体の物体だった。  ゴトッ。  彼女がそれを河原の岩の上に置いた瞬間、鈍く重い音が響いた。

(……え? 今、石を置く音がしなかったか?)

 全員の視線が、その「パン」に釘付けになる。  表面は荒涼とした大地のようにひび割れ、色は焦げ茶色を通り越して黒に近い。そして何より、物質としての「密度」が異常に高そうだった。

「張り切って、焼き締めすぎちゃいました! でも、保存性は抜群ですよ!」  クロエは笑顔で、その「鈍器」を一人一人に配っていく。  ルーシャンの手にも渡された。  ずしり。  重い。鉄アレイかと思うほどの重量感だ。

「……クロエさん? これ、本当にパン?」  アルフォンスが恐る恐る尋ねる。 「もちろんです! 『旅人の友』と呼ばれるレシピです。ちょっと硬いですけど、よく噛めば味が出ますよ」

 ちょっと、というレベルではない気がする。  ヴァレリウスが「いただきます」と礼儀正しくかぶりついた。  ガッ!!  凄まじい衝撃音が響き、ヴァレリウスが「ぐっ!」と呻いて口を押さえた。

「だ、大丈夫かヴァレリウス!?」 「あ、ああ……。顎が外れるかと思ったが……平気だ。しかし、これは……」

 それはパンではなかった。  クロエのドジ(火力調整ミス)によって極限まで水分を抜かれ、圧縮され、さらに焼き固められたことで、鋼鉄に匹敵する硬度を獲得した「食用建材」だった。  「食べ物」としてのアイデンティティ(色・受・想・行・識)を失い、ただの「質量」と化した悲しき物質。

「なんで……こんなものを……」  ルーシャンは絶望した。  ポテトの荷物がやけに重そうだったのは、この大量の「岩石」を積んでいたからか。  僕たちは、わざわざ重い石を背負って、山登りをしていたのか?  これは何の修行だ?

「水に浸せば……あるいは……」  アルフォンスが川の水にパンを浸す。  三分経過。  パンは水を弾き返し、ふやける気配が一切ない。防水加工でもされているのか。

「チッ、面倒くせぇな!」  セラフィーナが短剣を抜き、パンに突き立てた。  キンッ!  火花が散り、短剣の刃が欠けた。 「あぁ!? アタシのナイフが!」

 その光景を見ながら、ルーシャンは虚ろな目でポテトを見た。  ポテトは、河原の雑草を美味しそうに食んでいる。  彼(ロバ)だけが、この場の勝者だった。  人間は、知恵があるゆえに「保存食」などという不自然なものを作り出し、その結果、歯を折り、ナイフを折り、苦しんでいる。  草を食むロバの姿は、あるがままを受け入れる「無為自然」の尊さを教えているようだった。

(……いや、感心してる場合じゃない。腹減った)

 結局、彼らはその「聖パン」を石で砕き(砕くのにも十分かかった)、粉末状にして水で流し込むという、離乳食のような昼食をとる羽目になった。  味は、埃と小麦粉を混ぜたような、虚無の味がした。

          * * *

 昼食後、再び歩き出した一行の空気は重かった。  胃の中に溜まった「セメント(聖パン)」が、物理的に体を重くしている。

 山道は険しさを増し、空には厚い雲が垂れ込め始めていた。  風が変わり、鳥の声が消えた。  ルーシャンは、背筋に悪寒が走るのを感じた。  これは「嫌な予感」だ。前世で、上司に呼び出される直前に感じたあの感覚。何かが来る。

 その時。  退屈凌ぎに、セラフィーナが口笛を吹き始めた。  それは、どこかで聞いたことのある、古臭い民謡のような旋律だった。  どこか哀愁を帯びた、戦場に散った兵士を悼むようなメロディ。

 ピタリ。  突然、ルーシャンが跨っていたポテトが足を止めた。

「……え? ポテト?」  手綱を引くが、動かない。  ポテトは、まるで石像になったかのように凝固している。その長い耳だけが、レーダーのようにピクピクと左前方の茂みに向けられていた。

「どうしたんだ、ルーシャン。遅れてるぞ」  ヴァレリウスが声をかける。

「いや、ポテトが急に……。おい、動けよ」  ルーシャンはポテトのお尻を押した。  だが、ポテトは頑として動かない。むしろ、膝を折って、姿勢を低くし始めた。まるで「伏せろ」と言わんばかりに。

「もしかして、疲れちゃったのかな?」  アウレリアが心配そうに覗き込む。

 違う。ルーシャンは直感した。  こいつの目は「疲労」じゃない。「警戒」だ。  ポテトの視線は、一点に固定されている。風下。茂みの奥。

 ガサッ。  風音に混じって、わずかな衣擦れのような音がした。

 ルーシャンの脳内で、警報が鳴り響く。  何かがいる。  動物ではない。もっと知能のある、嫌な気配。

「……みんな、静かに」  ルーシャンは、本能的に声を殺した。  彼の「事なかれ主義」のセンサー(受)が、最大級の危険信号を発信していたのだ。  関わってはいけない。気づかれてはいけない。

 仲間たちは、ルーシャンの真剣な表情(実はビビって顔面蒼白なだけ)を見て、即座に反応した。  ヴァレリウスが音もなく剣の柄に手をかける。  セラフィーナが姿勢を低くする。  全員が、ポテトの影に隠れるように息を潜めた。

 直後。  茂みの向こう、わずか十メートルほどの獣道を、黒い影が通り過ぎていった。  全身を漆黒の鎧で覆った、異形の騎士たち。  人間ではない。兜の隙間から漏れる赤い光。漂う腐臭。  「魔族」の斥候部隊だ。

 彼らは、音もなく、幽霊のように列をなして移動していた。もしポテトが止まらず、そのまま進んでいたら、間違いなく鉢合わせしていただろう。

 ルーシャンは、恐怖で心臓が口から飛び出しそうだった。 (いたいたいた! 本当に出た! 魔族だ! 無理無理無理!)  彼はポテトの腹の下に頭を抱えて縮こまった。それは完全なる「逃避」の姿勢だった。

 数分、あるいは数時間にも感じられる緊張の時が過ぎた。  黒い騎士たちの気配が完全に遠ざかるまで、ポテトは瞬き一つせず、呼吸すら止めているかのように静止し続けた。  それは、訓練された兵士だけができる「完全なる潜伏」だった。

 やがて、ポテトが大きく鼻を鳴らし、ブルルと身震いをして立ち上がった。  「状況クリア」の合図だ。

「……助かった」  ヴァレリウスが脂汗を拭いながら、震える声で言った。 「あれは、上位の魔族兵だ。今の僕たちが見つかっていたら、全滅していたかもしれない」

 全員の視線が、再びルーシャン(とポテト)に集まる。

「すごい……」  アウレリアが感嘆のため息を漏らす。 「ルーシャン、あなたは気配だけで魔族の位置を察知して、ロバに合図を送って止めたのね? 私たち、何も気づかなかったのに……」

「え?」  ルーシャンが顔を上げる。

「あのロバ、ただのロバじゃねぇな」  セラフィーナが鋭い目を向ける。 「でも、それを使いこなすアンタは何者だ? ロバが止まった瞬間、アンタも即座に『伏せ』の体勢(※恐怖でうずくまっていただけ)に入った。まるで熟練のコンビネーションだったぜ」

「い、いや、僕はただ……」  ポテトが勝手に止まったから、怖くて隠れただけです。  そう言おうとしたが、アルフォンスが食い気味に分析を始めた。

「つまり、ルーシャンくんはこのロバの特異性(魔族感知能力)を最初から見抜いていて、あえてこの子を厩舎で選んだんですね! 一見、役立たずの老ロバに見えるこの子が、実は最強のレーダーだった。その慧眼(けいがん)……恐れ入りました!」

(……買い被りだーーー!!)

 ルーシャンの心の中で、ツッコミが木霊する。  たまたまだ。全部たまたまだ。  このロバを選んだのは、遅刻するためだ。  うずくまったのは、腰が抜けたからだ。

 だが、結果(縁起)として、彼らは救われた。  ポテトは「フン」と鼻を鳴らし、ルーシャンの服で口元の草を拭うと、再び歩き出した。その背中は、「勘違いさせておけばいい。餌が増えるぞ」と語っているようだった。

「さあ、行こう! ルーシャンがついているなら安心だ!」  仲間たちの士気が爆上がりする。  ルーシャンの評価という名の「重荷」が、また一つ増えた。リュックの中の枕より、よほど重い。

 一行は再び歩き出す。  ポテトの背中に揺れる、大量の「聖パン」が、ゴトゴトと不気味な音を立てている。  この硬すぎるパンが、次の悲劇(あるいは奇跡)の引き金になるとは、この時のルーシャンはまだ知る由もなかった。

 ただ一つ確かなことは、単独逃亡を夢見た彼の計画は、システム的な必然によって、ますます「英雄の旅路」へと固定(ロック)されつつあるということだった。

 森の出口は、まだ遠い。

 木々の隙間から見える空には、王都から立ち上る黒い狼煙が、依然として不気味に棚引いている。  目視できる距離とはいえ、山を越え谷を越えるその道のりは、果てしなく遠い。

 王都までは、まだ数日を要する険しい道のりが続いている。  彼の「思い通りにならない旅」は、まだ始まったばかりである。
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