君の優しさが、私の地獄だった

Gaku

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第1話「帝都の花と放浪僧」

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網膜を焼き尽くすような、強烈な茜色だった。

帝都の空を覆う夕日は、ただ沈みゆく太陽という生易しいものではない。

まるで天が巨大な溶鉱炉をひっくり返したかのように、暴力的なまでのオレンジ色が街全体を真上から押し潰そうとしていた。

足元を見れば、敷き詰められた赤茶色のレンガ道が、その光を吸い込んで鈍く照り返している。

目抜き通りを吹き抜ける風が、路地裏に溜まった埃を巻き上げ、その無数の微粒子が夕日に反射してキラキラと黄金の砂のように宙を舞っていた。

「プシューッ!」という甲高い排気音が、頭上から降り注ぐ。

見上げれば、黒々とした鉄の塊が、空を遮るように敷かれた高架線を滑り抜けていく。

蒸気ではなく、高純度の魔力を推進力として走る魔導列車だ。

金属と金属が軋む鼓膜を劈くような摩擦音と、空気を切り裂く風切り音が、帝都の近代化という名の暴力的な活気を象徴していた。

そして、夕闇が這い寄り始めた路傍では、和洋折衷の奇妙な意匠が施された魔導瓦斯灯が、チリチリと魔力の火花を散らしながら、青白い光を灯し始めている。

時代は、うねりを上げて進んでいる。

だが、そんな大仰な時代のうねりなど、路上のいざこざの前では無価値に等しい。

「返してくださいませ! あれは確かに、正当なお代を払ったはずですっ!」

大通りの一角、パン屋と古道具屋に挟まれた少し開けた場所で、悲痛な少女の叫び声が響き渡った。

声の主は、アリアと名乗る少女だった。

表向きの年齢は十八歳。

彼女は矢絣(やがすり)の着物に、艶やかな革のハイカラブーツを合わせ、手には繊細なレースが施された日傘を握りしめている。

その大きな瞳には今にもこぼれ落ちそうな大粒の涙が浮かび、唇は小刻みに震え、誰が見ても「可憐で、健気で、守りたくなる少女」そのものだった。

対峙しているのは、樽のように肥え太った中年商人である。

顔を真っ赤にして首の血管をドクドクと脈打たせ、額からは滝のような脂汗を流している。

彼の両腕には、不自然なほど大量の小箱や書類の束が抱え込まれていた。

「やかましい! この小娘が! わしを誰だと思っとる!」

商人の怒鳴り声が、レンガの壁に反響してビリビリと空気を震わせる。

商人が一歩踏み出すたびに、分厚い靴底がアスファルトの隙間の砂利を「ジャリッ」と無慈悲に踏み砕く音がした。

野次馬たちは遠巻きにそのドタバタ劇を眺めているだけで、誰一人として仲裁に入ろうとはしない。

関われば損をする、それがこの帝都の無言のルールだからだ。

(……馬鹿みたい。本当に、人間って馬鹿ばっかり)

表向きは恐怖で震えるウサギのような顔を作りながら、アリアの内心は氷のように冷たかった。

彼女は他人の不幸を「自分が優位に立っている証明」として嘲笑う、自己防衛が生んだ究極のエゴイストである。

スラムの最底辺で親に売られ、他人を突き飛ばして生き延びた過去を持つ彼女にとって、他人はすべて「自分を生き残らせるためのリソース」に過ぎない。


今、彼女の目の前で顔を真っ赤にして喚き散らしているこの豚のような商人も、野次馬たちも、すべては盤上の駒だ。

(もう少しね。この豚が私に手を上げそうになった瞬間、派手に倒れ込んで同情を引く。その隙に……)

彼女が次の計算を弾き出そうとした、まさにその時だった。

——シャン。

乾いた、しかし奇妙なほど澄み切った金属音が、喧騒を切り裂いた。

——シャラン。

それは、水面に落ちた一滴の雫が波紋を広げるように、人々の意識の奥底へと染み込んでいく音だった。

足音の主が近づいてくる。

擦り切れた古い羽織の裾が風に揺れ、その下にはなぜか和洋折衷も甚だしい、書生のような詰襟の学生服(学ラン)を着込んでいる。

手には、先ほどから鳴っている音の出所である、無骨な錫杖(しゃくじょう)が握られていた。

ジン、と呼ばれるその青年は、年齢は二十代前半。

どこからどう見ても奇妙な出で立ちの放浪僧だった。

彼は怒鳴る商人と涙ぐむアリアの間に、まるで「元からそこに生えていた木」のように、ごく自然にスッと割って入った。

空気が、止まった。

物理的な時間が停止したわけではない。

だが、ジンがそこに立った瞬間、喧騒も、遠くの列車の音も、人々の呼吸すらもが、一時停止ボタンを押されたかのように静まり返ったのだ。

沈黙。

それは耳鳴りがするほどの、重く、深く、そして果てしなく穏やかな静寂だった。

商人は面食らい、振り上げた拳のやり場を失って空中でピタッと止まっている。

ジンは武器を構えるわけでも、凄むわけでもない。

ただ、穏やかな、湖面のような瞳で商人をじっと見つめて言った。

「旦那。そんなにたくさんの荷物を抱え込んで……手が痛くないですか?」

あまりにも場違いで、意味不明な問いかけだった。

「はぁ!?」と商人が素っ頓狂な声を上げる。

怒りよりも先に、極限の困惑が勝った声だ。

しかし、ジンは微動だにせず、まるで天気の挨拶でもするように穏やかに続けた。

「両腕いっぱいに箱を抱え込んで、指先まで力を入れて。それじゃあ、本当に大事なものが転がってきた時に、手を出して拾えないじゃないですか。守りたいものが増えすぎると、かえって一番大事なものを見失って、自分自身が押し潰されちゃうんですよ」

説教くさい言葉だった。

だが、そこには一切の「押し付け」がなかった。

ただの世間話のように、春の風が頬を撫でるように、スルリと商人の耳から心へと入り込んでいく。

その直後である。

「あ……」商人の顔から、スッと血の気が引いた。

いや、違う。

「怒り」という名の憑き物が、物理的にポロリと落ちたのだ。

彼は自分の両腕を見た。

不自然なほど力み、白く鬱血した指先。

箱を落とすまいと必死になるあまり、全身の筋肉が悲鳴を上げていたことに、今更気づいたのだ。

「痛っ……! い、痛ぇ! 指がつった!」

先ほどまでの威勢はどこへやら、商人は抱えていた荷物をボロボロと地面に落とし、自分の腕を抱えて奇妙な踊りを踊り始めた。

激しい怒りによって自分を見失っていた男が、我に返って「指のつり」に悶絶する姿は、あまりにも滑稽だった。

野次馬の中から、プッと吹き出す音が聞こえ、やがてそれはクスクスという小さな笑い声へと変わっていった。

「す、すまん! わしが悪かった! 勘弁してくれ!」

もはや怒りなど微塵も残っていない商人は、真っ赤な顔を今度は羞恥で染め上げ、そそくさと落とした荷物を拾い集めると、逃げるようにその場から立ち去ってしまった。

(……なに、今の)

アリアは、日傘の柄を握る手にじっとりと冷や汗をかいているのを感じていた。

説教くさいのは反吐が出るほど嫌いだ。

だが、目の前の男はただ者ではない。

怒鳴りもせず、暴力も振るわず、ただ言葉をかけただけで、あの狂乱していた商人の勢いを完全に削いでしまった。

それに、立ち姿。

肩の力の抜け具合。

アリアの研ぎ澄まされた生存本能が警鐘を鳴らしていた。

間違いなく、この男は規格外の強さを持っている。

(……使える。この神輿に乗っていれば、一生安泰かもしれない)

瞬時に計算を終えたアリアは、完璧なタイミングで涙を指で拭い、頬をほんのりと上気させてジンを見上げた。

「あ、あの……ありがとうございます! お名前はなんとおっしゃるの? 私、アリアと申します。あなた、まるで神様みたいな方ですわ!」

目をキラキラと輝かせ、両手を胸の前で組み、命の恩人に対する無条件の全肯定と称賛を完璧な演技で叩きつける。

庇護欲を刺激する、計算し尽くされた仕草だ。

ジンは、そんなアリアの顔をじっと見つめ、そして、かすかに苦笑して自分の名を名乗った。

「ジンです。ただ歩いているだけの、通りすがりですよ」

その夜。

帝都の安宿の一室で、カチャリ、と小さな金属音が鳴った。

部屋の窓からは、魔導瓦斯灯の青白い光が薄く差し込んでいる。

アリアはベッドの上に座り、昼間持っていたレースの日傘の内側をいじっていた。

隠し金具を器用に外すと、その隙間からコロリ、コロリと、鈍い黄金色の輝きがこぼれ落ちた。

金貨が数枚。

昼間の騒ぎの最中、商人が怒り狂ってアリアに詰め寄ってきた一瞬の隙を突き、商人の上着の内ポケットから音もなく抜き取った「今日の成果」である。

「ふふっ……」

アリアの唇が、昼間の可憐な少女のそれとは全く違う、冷酷で嘲笑的な弧を描いた。

(計画通り。あの商人には最初から絡むつもりだった。あの放浪僧が来なくても、結末は同じように私が得をするようにできていた。でも……ちょっと早かったわね。あの男のおかげで、余計な手間が省けたわ)

彼女は金貨の冷たい感触を指先で楽しみながら、舌舐めずりをした。

善人は利用されて死ぬだけの馬鹿だ。

あのジンという男の、底なしのお人好しぶり。

圧倒的な強さを持ちながら、誰も傷つけようとしないその甘さ。

(最高に都合の良い馬鹿ね。利用できるだけ利用して、用済みになったら切り捨ててあげる)

彼女は金貨を日傘の隠しポケットに戻し、翌朝の計画を立てる。

ジンは同じ宿に泊まっている。

偶然を装い、可憐な少女を演じ続ければ、間違いなく彼を利用できる。

翌朝、宿のロビーでジンを見つけたアリアは、不安げに小首を傾げ、完璧な上目遣いを作った。

「あの……ジンさん。私、一人旅は心細くて……もしよろしければ、少しの間、ご一緒させていただいてもよろしいでしょうか?」

健気で、少しドジで、一生懸命な少女の顔。

ジンは彼女をしばらく見つめ、錫杖を軽く鳴らしてから、静かに微笑んだ。

「ええ、いいですよ」

その笑みが、自分の全てを見透かした上で、あえて騙されたフリをしている底知れぬ慈悲から来るものだとは、この時のアリアは知る由もなかった。
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