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第2話「宿場の夜、仮面の内側」
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帝都の夜は、這い寄るようにしてやってくる。
空を覆っていた暴力的な茜色が赤黒い紫へと腐っていく頃、街は昼間とは全く別の顔を見せ始めていた。
レンガ造りの建物の隙間に溜まった冷たい影が、路地から路地へと音もなく広がっていく。
『カラン、コロン』
石畳を叩く馬車の車輪の音が、乾いたアスファルトの上で妙に甲高く響き、どこか遠くで酔っ払いが割ったガラス瓶の「ガシャン!」という破砕音が夜風に乗って運ばれてきた。
和洋折衷の奇妙な彫刻が施された魔導瓦斯灯(ガスとう)が、チリチリ……と微かな魔力の火花を散らしながら、一斉に青白い炎を噴き上げる。
光に群がる羽虫たちが、ジリッ、と焼け焦げてはパラパラと地面に落ちていく。
帝都の下町にある安宿『木漏れ日亭』の食堂には、安っぽい獣脂のロウソクが放つツンとした匂いと、煮詰まった豆スープの酸っぱい匂いが充満していた。
使い込まれて黒光りするオーク材のテーブルには、無数の刃物の傷跡が刻まれ、客が体重をかけるたびに「ギシッ……ギシシッ……」と、建物の骨組みそのものが苦しげな悲鳴を上げている。
「きゃっ!」
短い悲鳴と共に、アリアが派手に——しかし極めて安全な角度で——床に転んだ。
「あいたた……ごめんなさい、ジンさん。私、また何にもないところで躓いちゃって……」
床にペタンと座り込み、涙目で自分を見上げるアリア。
着物の裾からチラリと覗く白いふくらはぎと、恥じらいに染まった頬。
誰が見ても「可憐で少しドジで、守ってあげたくなる少女」の完璧な造形だった。
(完璧。転ぶ時の膝の角度、涙を溜める秒数、上目遣いの角度。どれを取っても芸術点満点よ)
表面上は痛みに耐える健気な少女を演じながら、アリアの脳内では冷酷な計算機が猛スピードで弾かれていた。
この二日間、アリアはジンの行動パターンを、狩りが獲物を狙うように観察し続けていた。
この男は、驚くほど無防備で、そして驚くほど強い。
だからこそ「私が守ってあげなくちゃいけない、弱くて庇護すべき存在」という記号を、これでもかと脳内に刷り込んでおく必要があるのだ。
「大丈夫ですか、アリアさん」
ジンは微かな衣擦れの音を立ててしゃがみ込むと、全く疑う様子のない、湖面のように穏やかな瞳で手を差し伸べてきた。
「怪我はないですか? 床の板が少し浮いていたみたいですね」
(馬鹿ね。板なんて浮いてないわよ。私が自分で足首を捻っただけ。ああ、本当にこの男は最高に都合の良い馬鹿だわ!)
「あ、ありがとうございます……ジンさんがいてくれて、本当に良かったですわ」
アリアは差し出された手を取りながら、胸の奥でドス黒い嘲笑を噛み殺した。
その時だった。
——ドッガァァァン!!
食堂の入り口の木製ドアが、蝶番(ちょうつがい)ごと吹き飛ぶような暴力的な音を立てて蹴り開けられた。
分厚いオーク材のドアが壁に激突し、「バキィッ!」と壁の漆喰が粉々に砕け散る。
細かい白い粉塵が、ロウソクの光の中でゆらゆらと舞い上がった。
「おうおうおう! 随分とシケたツラして飯食ってやがるじゃねえか、ええ!?」
入り口に立っていたのは、熊を二回りほど凶暴にしたような巨漢だった。
顔の半分を占める赤黒い傷跡、首の太さは丸太のようで、着ている革鎧は不快な獣の脂の匂いを放っている。
その後ろには、ニタニタと嫌らしい笑いを浮かべたチンピラが数人、腰の長剣をこれ見よがしにチャキチャキと鳴らしながら控えていた。
近隣の裏通りを牛耳る顔役、通称『毒牙のボッシュ』だ。
食堂の空気が、一瞬にして凍りついた。
スプーンを口に運ぼうとしていた客の動きが止まり、スープの滴が「ピチャン……」と皿に落ちる音だけが、やけに大きく響く。
誰もが呼吸を殺し、視線を皿に縫い付けた。
「ひいっ……! ボ、ボッシュさん……今月のみかじめ料は、三日前に払ったはずじゃ……」
宿の主人が、カウンターの奥から震えながら這い出てきた。
顔面は蒼白で、額からは滝のような冷や汗が吹き出している。
床に膝をつき、両手を擦り合わせるその姿は、哀れを通り越して惨めだった。
「あァ? 三日前? 馬鹿野郎、アレは『三日前の分』だ! 今日は『今日の分』の場所代をもらいに来たんだよ! それともアレか? 俺の若い衆が、このボロ宿の火の不始末を見つけてやらなきゃならねェってか!?」
ボッシュが怒鳴るたびに、彼の口から飛んだ唾液がロウソクの火に当たり、「ジューッ」と嫌な音を立てて蒸発した。
(あーあ、面倒なのが来たわね)
アリアはジンの背中に隠れるようにして震えるフリをしながら、冷静に状況を分析していた。
(この規模の顔役なら、確実に金を持っている。主人が隠している帳場の引き出し……あそこに金が集まるはず。でも、今は動けないわね。ジンがどう出るか、見物させてもらうわ)
主人は歯を食いしばり、涙を浮かべながら、カウンターの奥の引き出しに手を伸ばした。
チャリン、チャリンと、重ったるい銀貨の音が響く。それは、この宿が何日もかけて稼いだ血と汗の結晶だった。
ボッシュが下劣な笑いを浮かべ、その金に分厚い手を伸ばそうとした、その瞬間。
——スッ。
古い羽織の擦れる、ごく微かな音がした。
ジンが、立ち上がったのだ。
武器は持っていない。
錫杖は壁に立てかけたまま。
ただ、静かに、まるで散歩の途中で立ち止まったかのように、自然な動作で。
彼はボッシュの目の前に歩み寄ると、その見上げるような巨体に対して、一切の緊張感のない声で言った。
「旦那。随分とお疲れのようで。そんなに大声で怒鳴り続けて……喉、痛くないですか?」
静寂。
それは、音が消えたという生易しいものではない。
空間そのものが真空パックされたかのような、鼓膜が痛くなるほどの重い静寂だった。
ボッシュの顔が、極限の驚愕で歪んだ。
「……あァ? てめェ、誰に向かって口きいてるか分かって……」
ボッシュが腰の剣の柄に手をかけ、ジンを睨み下ろす。
殺気が膨れ上がり、周囲の空気がビリビリと震えた。
だが、ジンは微動だにしない。
ただそこに立っているだけ。
しかし、アリアの研ぎ澄まされた目にははっきりと見えていた。
ジンの足元から、底なしの沼のような、果てしなく深く静かなプレッシャーが滲み出ているのを。
ボッシュは、剣を抜くことができなかった。
いや、体が本能的に『この男に刃を向ければ、自分が消滅する』と理解し、足がガクガクと震え始めていたのだ。
額から、先ほどの主人以上に濃い脂汗が吹き出し、目が見開かれたまま固定されている。
ジンは、少し悲しそうな目でボッシュを見つめ、静かに言葉を紡いだ。
「人を怖がらせるのが仕事になっちゃうと、一番怖くなってるのは自分自身なんですよね。誰かに後ろから刺されるんじゃないか。誰かに見下されるんじゃないか。そうやって周りを威嚇し続けて、鎧を何重にも着込んで……息、苦しくないですか? もう、そんなに自分を大きく見せなくていいんですよ。疲れたでしょう」
それは、恫喝でも、説教でもなかった。
ただの、事実の確認。
あるいは、どうしようもなく深い同情。
「あ……が……」
ボッシュの喉から、空気が漏れるような音がした。
彼は、信じがたいことに、その凶悪な顔をくしゃくしゃに歪ませ、ボロボロと大粒の涙をこぼし始めたのだ。
「俺だって……俺だって、こんなことしたくてやってるわけじゃねェんだよ……! ただ、舐められたら終わりだから……!」
先ほどまで威圧感の塊だった巨漢が、まるで子供のようにしゃくり上げながら泣き崩れる。
その後ろにいたチンピラたちも、親分の予想外すぎる崩壊に完全にドン引きし、武器を下ろしてオロオロと顔を見合わせている。
極度の緊張状態から一転、あまりにも滑稽で、しかしどこか清々しいドタバタ劇の結末。
食堂にいた客たちも、ポカンと口を開けたまま、この異常な光景を見つめていた。
「もういいよ。ほら、涙を拭いて。帰って温かいものでも食べて、ゆっくり寝てください」
ジンが優しく肩を叩くと、ボッシュは「うぅ……うぅ……」と嗚咽を漏らしながら、主人から巻き上げようとした金をカウンターにそっと置き、子分たちに抱えられながらフラフラと宿を出て行った。
(……まただわ)
アリアは、ジンの背中を見つめながら、背筋に冷たいものが走るのを感じていた。
(また、暴力も使わず、怒鳴りもせず、あの凶悪な男を泣かせた。説教でも恫喝でもなく、ただ喋っただけなのに。相手の心の急所を、一瞬で、無自覚にえぐり出す。何なの、この人は。人間じゃないみたい)
だが、アリアの優秀な脳内計算機は、その恐怖すらも一瞬で利益に変換した。
彼女の視線は、ボッシュがカウンターに置いていった金貨と、それをまだ信じられない思いで見つめている主人の顔を行き来した。
(あの主人は、まだ事態を飲み込めていない。あのお金を取り返すのもためらっている状態ね……なら、今夜がチャンスだわ。誰もが今日の騒動の余韻で眠りが浅くなるか、あるいは安堵で深く眠るか。どちらにせよ、私の時間よ)
◆ ◆ ◆
その夜、深夜二時。
宿は完全な静寂に包まれていた。
聞こえるのは、風が古い窓枠をガタガタと揺らす音と、遠くで鳴く夜鷹の「キョッ、キョッ」という寂しげな声だけ。
アリアは、音もなくベッドから滑り降りた。
着物ではなく、動きやすい黒いスラックスと体にフィットしたシャツ姿。
足元には、足音を完全に殺すための革底の薄い靴を履いている。
ドアノブに手をかけ、1ミリずつ、摩擦音を最小限に抑えながら回す。
蝶番のわずかな歪みを計算し、音が鳴らない角度でドアを開け、廊下へと滑り出た。
暗闇の中、彼女の五感は極限まで研ぎ澄まされている。
床板のどこを踏めば軋まないか。
誰の部屋からどのような寝息が聞こえているか。
空気の流れで、どこに隙間風があるか。
すべてが手に取るようにわかる。
帳場(フロント)は一階の奥。
主人は奥の部屋で寝ているが、鼾(いびき)のリズムが少し乱れている。
おそらく今日の騒動で神経が高ぶっているのだろう。
アリアは、猫よりも静かに階段を下り、帳場へと忍び込んだ。
月明かりが、カウンターの上の引き出しを薄青く照らしている。
彼女は懐から細い金属のピックを取り出し、引き出しの鍵穴に滑り込ませた。
カチャリ、という音すら立てず、指先の感覚だけで内部のピンを押し上げていく。
(三……二……一……よし)
『コトッ』という極小の音と共に、鍵が開いた。
引き出しをゆっくりと引き出す。
中には、ボッシュが置いていった金貨と銀貨が、無造作に放り込まれていた。
アリアは、その中から正確に『半分』だけを掴み取った。
全部盗めば騒ぎになる。
だが、半分なら「ボッシュが置いていったと思ったが、実は最初から少なかったのかもしれない」と主人が自分を納得させる余地が残る。人間の「希望的観測」を利用した、完璧な搾取だ。
金貨を布袋に入れ、音が鳴らないように縛り、再び引き出しを閉めて鍵をかける。
全てが完了するまで、わずか一分。
彼女は暗闇の中で、満足げに薄く笑った。
(役者は続けなければ。明日の朝も、可愛いアリアちゃんでいなくちゃね)
◆ ◆ ◆
翌朝。
宿の食堂は、昨夜の嵐が嘘のように穏やかな朝の光に包まれていた。
朝日が窓から差し込み、空中に舞う埃を黄金色に輝かせている。
外からは、市場へ向かう荷馬車の音や、焼きたてのパンの香りが流れてきていた。
「ジンさん! 本当に、本当にありがとうございました! お陰で店が救われました!」
宿の主人が、ジンの手を取って涙ながらに感謝を述べていた。
その顔は昨夜の絶望から一転し、希望に満ち溢れている。
「お金も……半分は減っていましたが、ボッシュが少し持っていったんでしょう。それでも、残してくれただけで御の字です! 今日は私のおごりです、腹いっぱい食べてくだせえ!」
ジンは「いえ、俺は何もしていませんよ」と微笑んで頷き、出された温かい麦粥を美味しそうに食べている。
その隣で、アリアは主人の言葉に両手を合わせ、天使のような笑顔を浮かべていた。
「本当によかったですわね、ご主人! ジンさんがいてくれて、私たちも安心しましたわ」
(半分減っていた? 当然よ、私がいただいたんだから。でも、これであなたはジンに恩を感じて、私は疑われない。完璧な朝だわ)
朝食後。
出発の準備を整え、宿の縁側に腰掛けているジンに、アリアは近づいた。
朝の冷たい風が、縁側の風鈴を「チリン」と寂しげに鳴らした。
「ジンさん」
アリアは、小首を傾げて純粋な疑問を投げかけるフリをした。
「なぜ、そんなに人に親切にするんですか? 昨日のような恐ろしい人にまで……普通なら、関わりたくないと思うのが人間ですわ」
ジンは、縁側から見える帝都の空を、少し眩しそうに見上げた。
流れる雲の影が、彼の顔を通り過ぎていく。
「なぜ、ですかね」
ジンは少し考えてから、ぽつりと言った。
「止められないからですかね。苦しそうな人を見ると、ほっとけなくて。あの人も、ただ怖くて、必死に鎧を着ていただけなんだなって思うと、何か言わずにはいられなかったんです」
その横顔は、一切の嘘偽りがない、純度百パーセントの善意で構成されていた。
アリアは、目を伏せて「まあ……ジンさんは本当に、お優しいのですね」と呟いた。
だが、その伏せた瞳の奥で、彼女の心は冷ややかに嗤っていた。
(馬鹿みたい。自分が傷つくかもしれないのに、他人のために動くなんて。善人は利用されて死ぬだけの馬鹿よ。でも……)
アリアは、日傘の柄をギュッと握りしめた。
(だからこそ、使いやすい。この男がその『お人好し』という致命的な弱点を抱えている限り、私はどこまでもこの男を利用できる。骨の髄までしゃぶり尽くしてやるわ)
「行きましょうか、アリアさん」
ジンが立ち上がり、錫杖を手に取った。
シャン、という澄んだ音が朝の空気に溶けていく。
「はいっ! どこまでもご一緒しますわ、ジンさん!」
アリアは満面の笑みで答え、彼の半歩後ろを歩き出した。
太陽の光を背に受けて歩く二人の影が、長く伸びる。
だが、アリアの影だけが、奇妙に歪んで、どこまでも黒く、深く、地面に張り付いているように見えた。
(さあ、次はどんな獲物が待っているのかしらね?)
続く沈黙の中、アリアの足取りは驚くほど軽かった。
空を覆っていた暴力的な茜色が赤黒い紫へと腐っていく頃、街は昼間とは全く別の顔を見せ始めていた。
レンガ造りの建物の隙間に溜まった冷たい影が、路地から路地へと音もなく広がっていく。
『カラン、コロン』
石畳を叩く馬車の車輪の音が、乾いたアスファルトの上で妙に甲高く響き、どこか遠くで酔っ払いが割ったガラス瓶の「ガシャン!」という破砕音が夜風に乗って運ばれてきた。
和洋折衷の奇妙な彫刻が施された魔導瓦斯灯(ガスとう)が、チリチリ……と微かな魔力の火花を散らしながら、一斉に青白い炎を噴き上げる。
光に群がる羽虫たちが、ジリッ、と焼け焦げてはパラパラと地面に落ちていく。
帝都の下町にある安宿『木漏れ日亭』の食堂には、安っぽい獣脂のロウソクが放つツンとした匂いと、煮詰まった豆スープの酸っぱい匂いが充満していた。
使い込まれて黒光りするオーク材のテーブルには、無数の刃物の傷跡が刻まれ、客が体重をかけるたびに「ギシッ……ギシシッ……」と、建物の骨組みそのものが苦しげな悲鳴を上げている。
「きゃっ!」
短い悲鳴と共に、アリアが派手に——しかし極めて安全な角度で——床に転んだ。
「あいたた……ごめんなさい、ジンさん。私、また何にもないところで躓いちゃって……」
床にペタンと座り込み、涙目で自分を見上げるアリア。
着物の裾からチラリと覗く白いふくらはぎと、恥じらいに染まった頬。
誰が見ても「可憐で少しドジで、守ってあげたくなる少女」の完璧な造形だった。
(完璧。転ぶ時の膝の角度、涙を溜める秒数、上目遣いの角度。どれを取っても芸術点満点よ)
表面上は痛みに耐える健気な少女を演じながら、アリアの脳内では冷酷な計算機が猛スピードで弾かれていた。
この二日間、アリアはジンの行動パターンを、狩りが獲物を狙うように観察し続けていた。
この男は、驚くほど無防備で、そして驚くほど強い。
だからこそ「私が守ってあげなくちゃいけない、弱くて庇護すべき存在」という記号を、これでもかと脳内に刷り込んでおく必要があるのだ。
「大丈夫ですか、アリアさん」
ジンは微かな衣擦れの音を立ててしゃがみ込むと、全く疑う様子のない、湖面のように穏やかな瞳で手を差し伸べてきた。
「怪我はないですか? 床の板が少し浮いていたみたいですね」
(馬鹿ね。板なんて浮いてないわよ。私が自分で足首を捻っただけ。ああ、本当にこの男は最高に都合の良い馬鹿だわ!)
「あ、ありがとうございます……ジンさんがいてくれて、本当に良かったですわ」
アリアは差し出された手を取りながら、胸の奥でドス黒い嘲笑を噛み殺した。
その時だった。
——ドッガァァァン!!
食堂の入り口の木製ドアが、蝶番(ちょうつがい)ごと吹き飛ぶような暴力的な音を立てて蹴り開けられた。
分厚いオーク材のドアが壁に激突し、「バキィッ!」と壁の漆喰が粉々に砕け散る。
細かい白い粉塵が、ロウソクの光の中でゆらゆらと舞い上がった。
「おうおうおう! 随分とシケたツラして飯食ってやがるじゃねえか、ええ!?」
入り口に立っていたのは、熊を二回りほど凶暴にしたような巨漢だった。
顔の半分を占める赤黒い傷跡、首の太さは丸太のようで、着ている革鎧は不快な獣の脂の匂いを放っている。
その後ろには、ニタニタと嫌らしい笑いを浮かべたチンピラが数人、腰の長剣をこれ見よがしにチャキチャキと鳴らしながら控えていた。
近隣の裏通りを牛耳る顔役、通称『毒牙のボッシュ』だ。
食堂の空気が、一瞬にして凍りついた。
スプーンを口に運ぼうとしていた客の動きが止まり、スープの滴が「ピチャン……」と皿に落ちる音だけが、やけに大きく響く。
誰もが呼吸を殺し、視線を皿に縫い付けた。
「ひいっ……! ボ、ボッシュさん……今月のみかじめ料は、三日前に払ったはずじゃ……」
宿の主人が、カウンターの奥から震えながら這い出てきた。
顔面は蒼白で、額からは滝のような冷や汗が吹き出している。
床に膝をつき、両手を擦り合わせるその姿は、哀れを通り越して惨めだった。
「あァ? 三日前? 馬鹿野郎、アレは『三日前の分』だ! 今日は『今日の分』の場所代をもらいに来たんだよ! それともアレか? 俺の若い衆が、このボロ宿の火の不始末を見つけてやらなきゃならねェってか!?」
ボッシュが怒鳴るたびに、彼の口から飛んだ唾液がロウソクの火に当たり、「ジューッ」と嫌な音を立てて蒸発した。
(あーあ、面倒なのが来たわね)
アリアはジンの背中に隠れるようにして震えるフリをしながら、冷静に状況を分析していた。
(この規模の顔役なら、確実に金を持っている。主人が隠している帳場の引き出し……あそこに金が集まるはず。でも、今は動けないわね。ジンがどう出るか、見物させてもらうわ)
主人は歯を食いしばり、涙を浮かべながら、カウンターの奥の引き出しに手を伸ばした。
チャリン、チャリンと、重ったるい銀貨の音が響く。それは、この宿が何日もかけて稼いだ血と汗の結晶だった。
ボッシュが下劣な笑いを浮かべ、その金に分厚い手を伸ばそうとした、その瞬間。
——スッ。
古い羽織の擦れる、ごく微かな音がした。
ジンが、立ち上がったのだ。
武器は持っていない。
錫杖は壁に立てかけたまま。
ただ、静かに、まるで散歩の途中で立ち止まったかのように、自然な動作で。
彼はボッシュの目の前に歩み寄ると、その見上げるような巨体に対して、一切の緊張感のない声で言った。
「旦那。随分とお疲れのようで。そんなに大声で怒鳴り続けて……喉、痛くないですか?」
静寂。
それは、音が消えたという生易しいものではない。
空間そのものが真空パックされたかのような、鼓膜が痛くなるほどの重い静寂だった。
ボッシュの顔が、極限の驚愕で歪んだ。
「……あァ? てめェ、誰に向かって口きいてるか分かって……」
ボッシュが腰の剣の柄に手をかけ、ジンを睨み下ろす。
殺気が膨れ上がり、周囲の空気がビリビリと震えた。
だが、ジンは微動だにしない。
ただそこに立っているだけ。
しかし、アリアの研ぎ澄まされた目にははっきりと見えていた。
ジンの足元から、底なしの沼のような、果てしなく深く静かなプレッシャーが滲み出ているのを。
ボッシュは、剣を抜くことができなかった。
いや、体が本能的に『この男に刃を向ければ、自分が消滅する』と理解し、足がガクガクと震え始めていたのだ。
額から、先ほどの主人以上に濃い脂汗が吹き出し、目が見開かれたまま固定されている。
ジンは、少し悲しそうな目でボッシュを見つめ、静かに言葉を紡いだ。
「人を怖がらせるのが仕事になっちゃうと、一番怖くなってるのは自分自身なんですよね。誰かに後ろから刺されるんじゃないか。誰かに見下されるんじゃないか。そうやって周りを威嚇し続けて、鎧を何重にも着込んで……息、苦しくないですか? もう、そんなに自分を大きく見せなくていいんですよ。疲れたでしょう」
それは、恫喝でも、説教でもなかった。
ただの、事実の確認。
あるいは、どうしようもなく深い同情。
「あ……が……」
ボッシュの喉から、空気が漏れるような音がした。
彼は、信じがたいことに、その凶悪な顔をくしゃくしゃに歪ませ、ボロボロと大粒の涙をこぼし始めたのだ。
「俺だって……俺だって、こんなことしたくてやってるわけじゃねェんだよ……! ただ、舐められたら終わりだから……!」
先ほどまで威圧感の塊だった巨漢が、まるで子供のようにしゃくり上げながら泣き崩れる。
その後ろにいたチンピラたちも、親分の予想外すぎる崩壊に完全にドン引きし、武器を下ろしてオロオロと顔を見合わせている。
極度の緊張状態から一転、あまりにも滑稽で、しかしどこか清々しいドタバタ劇の結末。
食堂にいた客たちも、ポカンと口を開けたまま、この異常な光景を見つめていた。
「もういいよ。ほら、涙を拭いて。帰って温かいものでも食べて、ゆっくり寝てください」
ジンが優しく肩を叩くと、ボッシュは「うぅ……うぅ……」と嗚咽を漏らしながら、主人から巻き上げようとした金をカウンターにそっと置き、子分たちに抱えられながらフラフラと宿を出て行った。
(……まただわ)
アリアは、ジンの背中を見つめながら、背筋に冷たいものが走るのを感じていた。
(また、暴力も使わず、怒鳴りもせず、あの凶悪な男を泣かせた。説教でも恫喝でもなく、ただ喋っただけなのに。相手の心の急所を、一瞬で、無自覚にえぐり出す。何なの、この人は。人間じゃないみたい)
だが、アリアの優秀な脳内計算機は、その恐怖すらも一瞬で利益に変換した。
彼女の視線は、ボッシュがカウンターに置いていった金貨と、それをまだ信じられない思いで見つめている主人の顔を行き来した。
(あの主人は、まだ事態を飲み込めていない。あのお金を取り返すのもためらっている状態ね……なら、今夜がチャンスだわ。誰もが今日の騒動の余韻で眠りが浅くなるか、あるいは安堵で深く眠るか。どちらにせよ、私の時間よ)
◆ ◆ ◆
その夜、深夜二時。
宿は完全な静寂に包まれていた。
聞こえるのは、風が古い窓枠をガタガタと揺らす音と、遠くで鳴く夜鷹の「キョッ、キョッ」という寂しげな声だけ。
アリアは、音もなくベッドから滑り降りた。
着物ではなく、動きやすい黒いスラックスと体にフィットしたシャツ姿。
足元には、足音を完全に殺すための革底の薄い靴を履いている。
ドアノブに手をかけ、1ミリずつ、摩擦音を最小限に抑えながら回す。
蝶番のわずかな歪みを計算し、音が鳴らない角度でドアを開け、廊下へと滑り出た。
暗闇の中、彼女の五感は極限まで研ぎ澄まされている。
床板のどこを踏めば軋まないか。
誰の部屋からどのような寝息が聞こえているか。
空気の流れで、どこに隙間風があるか。
すべてが手に取るようにわかる。
帳場(フロント)は一階の奥。
主人は奥の部屋で寝ているが、鼾(いびき)のリズムが少し乱れている。
おそらく今日の騒動で神経が高ぶっているのだろう。
アリアは、猫よりも静かに階段を下り、帳場へと忍び込んだ。
月明かりが、カウンターの上の引き出しを薄青く照らしている。
彼女は懐から細い金属のピックを取り出し、引き出しの鍵穴に滑り込ませた。
カチャリ、という音すら立てず、指先の感覚だけで内部のピンを押し上げていく。
(三……二……一……よし)
『コトッ』という極小の音と共に、鍵が開いた。
引き出しをゆっくりと引き出す。
中には、ボッシュが置いていった金貨と銀貨が、無造作に放り込まれていた。
アリアは、その中から正確に『半分』だけを掴み取った。
全部盗めば騒ぎになる。
だが、半分なら「ボッシュが置いていったと思ったが、実は最初から少なかったのかもしれない」と主人が自分を納得させる余地が残る。人間の「希望的観測」を利用した、完璧な搾取だ。
金貨を布袋に入れ、音が鳴らないように縛り、再び引き出しを閉めて鍵をかける。
全てが完了するまで、わずか一分。
彼女は暗闇の中で、満足げに薄く笑った。
(役者は続けなければ。明日の朝も、可愛いアリアちゃんでいなくちゃね)
◆ ◆ ◆
翌朝。
宿の食堂は、昨夜の嵐が嘘のように穏やかな朝の光に包まれていた。
朝日が窓から差し込み、空中に舞う埃を黄金色に輝かせている。
外からは、市場へ向かう荷馬車の音や、焼きたてのパンの香りが流れてきていた。
「ジンさん! 本当に、本当にありがとうございました! お陰で店が救われました!」
宿の主人が、ジンの手を取って涙ながらに感謝を述べていた。
その顔は昨夜の絶望から一転し、希望に満ち溢れている。
「お金も……半分は減っていましたが、ボッシュが少し持っていったんでしょう。それでも、残してくれただけで御の字です! 今日は私のおごりです、腹いっぱい食べてくだせえ!」
ジンは「いえ、俺は何もしていませんよ」と微笑んで頷き、出された温かい麦粥を美味しそうに食べている。
その隣で、アリアは主人の言葉に両手を合わせ、天使のような笑顔を浮かべていた。
「本当によかったですわね、ご主人! ジンさんがいてくれて、私たちも安心しましたわ」
(半分減っていた? 当然よ、私がいただいたんだから。でも、これであなたはジンに恩を感じて、私は疑われない。完璧な朝だわ)
朝食後。
出発の準備を整え、宿の縁側に腰掛けているジンに、アリアは近づいた。
朝の冷たい風が、縁側の風鈴を「チリン」と寂しげに鳴らした。
「ジンさん」
アリアは、小首を傾げて純粋な疑問を投げかけるフリをした。
「なぜ、そんなに人に親切にするんですか? 昨日のような恐ろしい人にまで……普通なら、関わりたくないと思うのが人間ですわ」
ジンは、縁側から見える帝都の空を、少し眩しそうに見上げた。
流れる雲の影が、彼の顔を通り過ぎていく。
「なぜ、ですかね」
ジンは少し考えてから、ぽつりと言った。
「止められないからですかね。苦しそうな人を見ると、ほっとけなくて。あの人も、ただ怖くて、必死に鎧を着ていただけなんだなって思うと、何か言わずにはいられなかったんです」
その横顔は、一切の嘘偽りがない、純度百パーセントの善意で構成されていた。
アリアは、目を伏せて「まあ……ジンさんは本当に、お優しいのですね」と呟いた。
だが、その伏せた瞳の奥で、彼女の心は冷ややかに嗤っていた。
(馬鹿みたい。自分が傷つくかもしれないのに、他人のために動くなんて。善人は利用されて死ぬだけの馬鹿よ。でも……)
アリアは、日傘の柄をギュッと握りしめた。
(だからこそ、使いやすい。この男がその『お人好し』という致命的な弱点を抱えている限り、私はどこまでもこの男を利用できる。骨の髄までしゃぶり尽くしてやるわ)
「行きましょうか、アリアさん」
ジンが立ち上がり、錫杖を手に取った。
シャン、という澄んだ音が朝の空気に溶けていく。
「はいっ! どこまでもご一緒しますわ、ジンさん!」
アリアは満面の笑みで答え、彼の半歩後ろを歩き出した。
太陽の光を背に受けて歩く二人の影が、長く伸びる。
だが、アリアの影だけが、奇妙に歪んで、どこまでも黒く、深く、地面に張り付いているように見えた。
(さあ、次はどんな獲物が待っているのかしらね?)
続く沈黙の中、アリアの足取りは驚くほど軽かった。
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