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二部
第9話:商業都市と黒い影
しおりを挟む盗賊団のアジトで迎えることになった三度目の朝は、同時に、新たな旅立ちの朝でもあった。夜の帳が静かに降りている間に、世界はしっとりとした朝露に包まれ、洞窟の外に広がる森全体が、まるで内側から発光しているかのような瑞々しい輝きを放っていた。
東の空を見上げれば、そこには壮大な色彩のグラデーションが広がっていた。つい先ほどまで夜空を支配していた深い藍色は、徐々にその輪郭を曖昧にし、柔らかな乳白色の層が滲み出すように現れる。そして、その乳白色のベールの向こうから、暁の光が黄金色の矢となって放たれ、空全体を荘厳な色合いへと染め上げていく。ようやく地平線の向こうから姿を現し始めた太陽の光は、まだ優しい角度で地上に降り注ぎ、木々の葉一枚一枚を繊細なガラス細工のように透かして見せた。地面に無数に散らばる露の雫は、その光を受けて天然のプリズムとなり、キラキラと七色の光を乱反射させている。その幻想的な光のシャワーの中で、森に住まう鳥たちが目を覚まし、新しい一日の始まりを祝福するかのように、どこまでも澄み渡った歌声を辺り一面に響かせていた。
フィーナは、この新たな一日の始まりを、これまでとは全く違う心境で迎えていた。彼女が今、その身にまとっているのは、王女として着飾っていた豪奢なドレスではない。ヴァレリアが「これなら動きやすいだろう」と言って譲ってくれた、旅人用の丈夫な服と、要所を硬い革で補強した実用的な鎧だった。王宮で着ていたドレスは、確かに美しかったが、同時に彼女の身体を締め付け、自由を奪うコルセットのようでもあった。しかし、この服と鎧は違う。窮屈さは微塵もなく、それでいて身体の急所は硬質な革によって確かに守られているという安心感があった。機能的で、動きやすい。これこそが、これからの自分に必要なものなのだと、フィーDナは強く感じていた。
アジトにはもちろん、姿を映すための大きな鏡など存在しない。フィーナは洞窟の入り口近くにある、静かな泉の水面を覗き込んだ。そこに映る自分の姿は、もはや悲劇に見舞われ、ただ守られるだけだったか弱い王女ではなかった。その瞳には、これから始まるであろう過酷な旅に、自らの意志で挑もうとする強い光が宿っている。厳しい現実を前にしてもなお、希望を失わない一人の女性の姿が、そこにはあった。自分の内から湧き上がってくる、これまで感じたことのない力強い感情に、フィーナは少しだけ誇らしい気持ちになった。
「姫様、これをお持ちください」
不意に背後からかけられた声に振り向くと、屈強な体つきをした団員の一人が、少しはにかみながら立っていた。彼が無骨な手で差し出してくれたのは、清潔な布で丁寧に包まれた、手作りのサンドイッチのようなものだった。おそらく、彼らの乏しい食料の中から、自分たちのために分けてくれたのだろう。
「こっちは水です。新しく汲んできました」
別の団員が、革の水筒を差し出してくれる。表面にはまだ冷たい水滴がついており、彼が急いで用意してくれたことが伝わってきた。彼らは口数が多く、器用なわけではない。だが、その行動の一つ一つに、言葉以上の優しさと誠意が込められていることを、フィーナは痛いほど感じていた。胸の奥から、温かいものが込み上げてくる。
「皆さん…本当に、ありがとうございます。このご恩は、決して忘れません」
彼女の心からの感謝の言葉に、いかつい顔の団員たちは、まるで子供のように照れくさそうに頭を掻いたり、そっぽを向いたりしている。その微笑ましい光景が、フィーナの心をさらに温かくした。
その和やかな輪から少しだけ離れた場所で、この旅立ちの感傷的な雰囲気を全く意に介さない男が一人いた。健太である。彼は、巨大な猪の骨付き肉を両手で掴み、獣のようにかぶりついていた。朝から信じがたいほどの食欲だ。肉の焼ける香ばしい匂いと、滴り落ちる脂が、彼の周囲にだけ別の空間を作り出している。
「んぐっ…んぐ…うめぇ…この世界の肉、マジで最高だな…」
旅立つ前の仲間との別れを惜しむ繊細な空気など、彼にとっては腹の足しにもならないらしい。ただひたすらに、目の前の食欲という本能を満たすことに全神経を集中させていた。
「アンタは、少しは雰囲気を読みなよ…」
呆れ果てたヴァレリアの呟きが、肉を咀嚼する音にかき消されていく。その声が彼の耳に届いているのかどうかすら、定かではなかった。
やがて、感傷に浸る時間は終わりを告げ、本当の旅立ちの時が来た。盗賊団の長であるヴァレリアが、フィーナの前に進み出た。
「姫様。これを」
ヴァレリアがフィーナに手渡したのは、一枚の使い古された羊皮紙だった。長い年月を経て飴色に変色したその紙には、インクのかすれた部分もあったが、紛れもなくこの地方一帯の地理が、詳細な手書きで記されていた。山脈の稜線、森の深さ、川の流れ、そして小さな村々の位置までが、几帳面に描き込まれている。
「アタシらのアジトはここだ」と、ヴァレリアは地図上の一点を、傷だらけの指で示した。「この森を東に真っ直ぐ抜ければ、大きな街道に出る。その街道を南に三日ほど進めば、この大陸でも有数の商業都市、『ランドール』にたどり着くはずさ」
「商業都市、ランドール…」
フィーナは、初めて聞くその都市の名前を、復唱するように呟いた。その響きには、希望と同時に、未知なるものへの不安が混じっていた。
「ああ。ありとあらゆる人間が集まる場所さ。いや、人間だけじゃねえ。森の民であるエルフも、山で暮らす頑固なドワーフも、獣の血を引くしなやかな獣人も、あらゆる種族がごちゃ混ぜになって暮らしてる、まさにごった煮みてぇな街だよ。情報も、物も、金も、欲望も、何もかもがそこに集まる。アンタの言う『勇者様』とやらが本当にいるのか、その情報を探すにしても、まずはそこを拠点にするのが定石だろうね」
ヴァレリアの具体的で力強い言葉が、フィーナの心の中にあった漠然とした旅の目的を、初めて明確な形へと変えてくれた。そうだ、まずはランドールへ行こう。そこで、この国を、人々を救うための希望の糸口を探すのだ。彼女の瞳に、再び強い決意の光が灯った。
ヴァレリアは、フィーナに力強く頷き返すと、今度は健太に向き直った。その表情は、先ほどまでの仲間としての親しげなものから一変し、組織の長としての真剣なものへと変わっていた。
「ケンタ」
その呼び声には、有無を言わせぬ重みがあった。
「姫様を、頼んだよ。アンタのそのふざけた、規格外の強さが、今の非力なアタシらにとって、姫様を守れる唯一の希望なんだ。わかるかい?」
その射抜くような真剣な眼差しに、健太はようやく巨大な骨付き肉から顔を上げた。口の周りを猪の油でテカテカにさせながらも、彼はその言葉の重みを正確に理解したようだった。肉の骨を無造作に放り投げると、彼は力強く自分の胸を叩いて答えた。
「おう、任せとけって。フィーナちゃんは、俺のハーレム要員候補、その1だからな。誰にも指一本触れさせねえよ」
「…この朴念仁が…!」
刹那、ゴッ!という鈍い、しかし確かな重みのある音が響いた。ヴァレリアの渾身の拳が、健太の後頭部にめり込んだのだ。もちろん、健太にとっては蚊に刺された程度の影響もない。彼は「いてっ」と口先だけで言いながらも、けろりとしている。そのあまりに緊張感のないやり取りに、それまで静かに見守っていた周囲の団員たちから、こらえきれない笑い声が湧き起こった。張り詰めていた空気が一気に和らぎ、彼ららしい見送り方へと変わっていく。
洞窟の入り口まで、団員全員が見送りに来てくれた。彼らの手には、武器や農具が握られている。それは彼らの日常であり、生活そのものだった。
「姫様、どうかご無事で!」
「何かあったら、いつでもこの森に帰ってこいよ!」
「ケンタの旦那、姫様のこと、マジで頼みましたぜ!」
次々と投げかけられる温かい声援に送られ、フィーナは何度も、何度も振り返り、涙がこぼれ落ちそうになるのを必死でこらえながら、力いっぱい手を振った。
こうして、フィーナと健太、そして道案内役を買って出てくれたヴァレリの三人は、暁の光が黄金色に染め上げた森の中へと、その確かな一歩を踏み出したのだった。
***
ヴァレリアの案内で進む森の道は、数日前にフィーナがたった一人で絶望の中を彷徨っていた時とは、比べ物にならないほど安全で、穏やかなものだった。ヴァレリアは、まるで自分の庭を散歩するかのように、この広大な森を知り尽くしていた。彼女は、人間が踏み固めた道なき道、獣たちだけが知る秘密の獣道を正確に見分け、危険な肉食の魔物が縄張りとしている湿地帯や谷筋を巧みに避けながら、最短かつ最も安全なルートを選んで進んでいく。風の匂いの変化で天候を読み、地面に残された微かな足跡から獲物や敵の存在を察知する。その姿は、もはや単なる盗賊の長ではなく、森と共に生きる熟練の狩人そのものだった。
太陽が真上から降り注ぎ、再び西の空へと傾いていく。そんな穏やかな道程を二日ほど歩き続けた頃、フィーナは森の空気が明らかに変わったことに気づいた。これまで頭上を覆い尽くし、昼間でも薄暗かった木々の密集が徐々にまばらになり、空の青が見える面積が大きくなってくる。湿り気を帯びた腐葉土の濃厚な匂いが薄れ、代わりに、乾いた土と太陽の光をたっぷりと浴びた草の香りが、心地よい風に乗って運ばれてきた。
そして、ついに彼らは、深く暗い森を完全に抜け、一本の開けた道へとたどり着いた。
道、と呼ぶにはあまりにも粗末なものだったかもしれない。ただ土が剥き出しになり、草が踏み固められているだけだ。しかし、そこには二本の轍が、遥か先までくっきりと続いていた。多くの人や、商品を積んだ馬車が、ここを頻繁に行き交っていることを示す、紛れもない証だった。
街道だ。
フィーナは、その光景を前にして、思わず息を呑んだ。祖国が滅び、王都が灰燼に帰してから、初めて目にする、人間の文明が確かに維持されている証。それは、彼女にとって、希望の見えない灰色の世界の中でようやく見つけ出した、確かな秩序の光のように思えた。もう、自分は独りではない。この道の先には、人々の営みがある。その事実が、彼女の心を強く、そして温かく支えてくれた。
街道をしばらく歩くと、その実感はさらに強いものとなった。時折、前方からやってくる他の旅人や、荷台に山のような荷物を満載した馬車とすれ違うようになったのだ。武装した屈強な傭兵の一団、遠い異国から来たと思われる行商人、あるいは聖地を目指す巡礼者の列。すれ違う人々は、フィーナたちの、特に健太の現代的な服装や、ヴァレリアの盗賊然とした出で立ちを訝しげに一瞥するが、深く詮索したり、何かを言ってくることはない。おそらく、この無法地帯に近い辺境の地では、他人に無闇に関わらないことが、自らの身を守るための処世術であり、暗黙のルールとなっているのだろう。
やがて、前方にそびえる小高い丘の向こうに、巨大な建造物の影がおぼろげに見えてきた。それは蜃気楼ではなく、確かにそこに存在する、圧倒的な存在感を放つものだった。
「…見えてきたね。あれが、商業都市ランドールさ」
丘の頂上に立ったヴァレリアが、どこか誇らしげな口調で言った。
その光景は、まさに圧巻の一言だった。天を突くような高さの城壁が、巨大な円を描くようにして街全体を完璧に囲んでいる。その堅牢な壁の外側には、見渡す限りの広大な畑が広がり、小さな点のように見える人々が、黙々と農作業に勤しんでいた。城壁の内側に目を向ければ、様々な形、様々な色の屋根を持つ建物が、まるで生き物のようにひしめき合い、互いに競い合うようにして林立している。そして、その密集した街並みの中央には、ひときわ高く、街のどこからでも見えるであろう巨大な時計塔のようなものが聳え立っていた。街全体が、一つの巨大な生命体のように、力強い活気と熱気に満ちているのが、これほど離れた場所からでもはっきりと分かった。
フィーナの故郷である王都クライロードは、政治と文化の中心地として、整然とした気品と歴史の重みがもたらす威厳に満ちた街だった。しかし、目の前に広がるこのランドールは、それとは全く質の違うエネルギーを放っている。あらゆるものが混然一体となった、雑多で、混沌として、それでいて抗いがたいほどエネルギッシュな生命力に溢れていた。
「さて、アタシらはここまでだ」
丘の上で、ヴァレリアはぴたりと足を止めた。その横顔には、わずかな寂しさが滲んでいるように見えた。
「アタシらみてぇな、お尋ね者一歩手前のやさぐれた連中が、あんな大きな街にのこのこ入って行ったら、目ざとい衛兵に目をつけられて面倒が起きるのがオチだからね。ここからは、二人で行きな」
「ヴァレリアさん…」
フィーナが、名残惜しそうに彼女の名前を呟く。短い間だったが、彼女から受けた恩は計り知れない。
「…姫様。アンタは、もう一人じゃない。そこのどうしようもない朴念仁がいる」
ヴァレリアは、何も言わずに前方を向いていた健太の背中を、バン!と音がするほど強く、しかし愛情を込めて叩いた。
「こいつの強さは、このアタシが保証する。理不尽なくらいにな。だから、アンタは、もう後ろを振り返るな。前だけを見て、自分の使命を果たすんだ。いいね?」
「……はい」
フィーナは、込み上げてくる感情をぐっとこらえ、力強く頷いた。ヴァレリアの言葉が、何よりも心強いお守りのように感じられた。
「絶対に、死ぬんじゃないよ」
「あなたも、どうかご無事で。アジトの皆さんにも、よろしくお伝えください…」
二人の間に交わされた言葉は少なかったが、そこにはもはや、騎士とその主君といった主従関係ではなく、同じ困難な時代を生きる一人の女性同士としての、確かな絆が結ばれた瞬間だった。
ヴァレリアは、最後に健太に向き直ると、悪戯っぽくニヤリと笑った。
「ケンタ。姫様を頼んだよ。もし、万が一、姫様の身に何かあったら、アタシは地の果てまで追いかけて、アンタの大事なキンタマを握り潰してやるからね。覚えときな」
「うわ、こわっ。物騒なこと言うなよ。大丈夫だって、任せとけ。フィーナちゃんは、俺が責任を持って幸せにするからさ」
「どの口が言うか!」
ヴァレリアのしなやかで鋭い蹴りが、健太の尻に見事に炸裂した。しかし、健太は全く意に介さず、けらけらと子供のように笑っている。
「じゃあな、二人とも。また、どこかで会おうぜ!」
ヴァレリアは、それだけを言うと、くるりと背を向け、もう振り返ることはなかった。ひらひらと片手を振りながら、彼女は来た道を引き返し、再びあの深い森の中へとその姿を消していった。
残された健太とフィーナは、彼女の背中が見えなくなるまで、しばらくその場に佇んでいた。やがて、二人は改めて目の前にそびえる巨大な都市、ランドールを見据えた。
二人の、本当の旅が、今、ここから始まる。
***
商業都市ランドールの城門は、遠くから見た印象を裏切らない、想像を絶するほどの巨大さと威圧感を放っていた。分厚い石を寸分の狂いもなく組み上げて作られた壁は、それ自体が権力と富の象徴のようだ。門の上には、いくつもの櫓が組まれ、そこでは鋭い目つきをした衛兵たちが、長い槍を手に絶えず周囲を警備している。
門を通過しようとする人々の流れは、決してスムーズではなかった。人々は一人ひとり、衛兵の前で足を止め、身分を証明する木札や、ギルドが発行した通行許可証のようなものを提示している。それを持たない者は、銀貨を支払うことで通行を許されているようだった。
「うわ、なんかめんどくさそうだな。役所の手続きみたいだ」
健太が、現代日本の感覚で率直な感想を呟く。フィーナもまた、不安そうな顔でその光景を見ていた。王女であった頃、彼女が城の門を通過するのに、このような煩雑な手続きなど必要であったはずがない。しかし今は、自らの身分を証明するものは何一つ持っていなかった。盗賊団にもらった食料と、わずかばかりの金貨があるだけだ。
やがて、長い列は進み、二人の番が来た。恰幅が良く、だらしなく伸びた髭面の衛兵が、いかにも面倒くさそうに、顎で二人をしゃくって言った。
「おい、お前ら。身分証を見せな。持ってねえなら、一人につき銀貨二枚だ」
「えーと、ごめん。どっちも持ってないんだけど」
健太が、全く悪びれることなく正直に答えると、その瞬間、衛兵の目がカモを見つけたというように、いやらしく光った。彼の視線が、フィーナの姿を頭のてっぺんからつま先まで、舐めるように這う。
「持ってねえだと? そいつは怪しい奴らだな。だったら、身体検査させてもらうぜ。そこのお嬢ちゃんもな、念入りに調べてやらないとなぁ?」
衛兵が、下卑た笑いをその顔に浮かべながら、フィーナに向かって汚れた手を伸ばそうとした、その時だった。
その手は、目的地にたどり着く前に、健太の手によって、ひょいと掴まれた。
「おっさん。女の子に乱暴すんのは、感心しねえな」
その声は、いつもと同じように呑気で、抑揚に欠けていた。だが、健太に握られた衛兵の手は、まるで鋼鉄の万力に締め付けられたかのように、びくともしない。
「な、なんだ、てめえ! この手を離せ!」
衛兵は、自らの権威を侮辱された怒りで顔を真っ赤にして腕を引こうとするが、健太の手は岩のように全く動かなかった。それどころか、健太が掴んだ指先にほんの少し力を込めただけで、ミシミシ、と、衛兵の屈強であるはずの腕の骨が軋む、嫌な音が響いた。
「ひぃっ! わ、分かった! 分かったから、頼む、離してくれ!」
屈辱と痛みで顔を歪め、衛兵は情けない悲鳴を上げた。健太が、ぱっと手を離すと、彼は慌てて数歩後ずさり、まるで恐ろしい化け物から逃れるかのように、二人のために道を空けた。
「……行け! とっとと行っちまえ!」
健太は、「どーも」と軽く会釈すると、目の前の出来事が信じられず呆気に取られているフィーナの手を引き、まるで近所のコンビニにでも入るかのように、何事もなかったかのように堂々と城門を通過した。
城門をくぐった瞬間、二人は、圧倒的な情報の奔流に飲み込まれた。
喧騒。熱気。そして、あらゆるものが混じり合った、濃厚な匂い。
「さあ、買った買った! 今日採れたての新鮮なララノアの実だよ! 甘くて美味しいよ!」
「そこの旦那! うちの剣は、オークの分厚い首も一刀両断だぜ! 見てきな!」
「一杯どうだい! 旅の疲れを癒す、キンキンに冷えたエールだよ!」
道の両脇には、所狭しと露店が立ち並び、その店主たちが、まるで喉の強さを競い合うかのように大声で呼び込みをしている。その間を、様々な人種の人々が、肩をぶつけ合いながら忙しなく行き交っていた。全身を鋼の鎧で固めた屈強な傭兵。フードを目深に被り、素顔を見せない怪しげな魔術師。背中に身の丈ほどもある大きな荷物を背負った、たくましい商人。そして、フィーナが書物でしか見たことのなかった、背が低くがっしりとした体格のドワーフや、猫のような愛らしい耳と、しなやかな尻尾を持つ獣人の姿も、そこにはあった。
あらゆる匂いが、渾然一体となって鼻腔をくすぐる。炭火で焼かれた肉の香ばしい匂い。遠い東の国から運ばれてきたであろう、様々なスパイスが混じり合ったエキゾチックな香り。なめした革製品の独特の匂い。そして、この街に生きる人々の汗と、生活そのものが発する、力強い匂い。
フィーナは、王宮の整然と管理された、洗練された空気の中でしか生きてこなかった。この、猥雑で、混沌として、しかし、抗いがたいほどに力強い生命力に満ち溢れた光景は、彼女にとって、文字通り生まれて初めて体験するものだった。彼女はただ、目を真ん丸くして、子供のようにキョロキョロと周囲を見回すことしかできない。
一方、健太は、まるで故郷の繁華街に帰ってきたかのように、その喧騒を心から楽しんでいた。
「うおー! すげー! なんか、年末のアメ横みてえだな! 活気が半端ない!」
彼は、数ある露店の中でも、特に食べ物の屋台に強く興味を惹かれているようだった。巨大な鉄の串に刺され、炭火の上で豪快に焼かれている、正体不明の肉の塊。色とりどりの、見たこともないような形をした果物。様々な穀物で作られた、素朴なパン。その全てが、彼の食欲を刺激していた。
「フィーナちゃん、あれ食おうぜ、あれ!」
健太は、すっかり子供のようにはしゃぎながら、フィーナの手を引いて、一軒のひときわ賑わっている屋台へと向かった。そこでは、何種類ものスパイスを混ぜ込んだ真っ赤なタレにじっくりと漬け込んだ肉を、大きなナイフで削ぎ落とし、焼きたての薄いパン生地でたっぷりの野菜と共に巻いた、ケバブによく似た料理が売られていた。
健太は、有り金を惜しげもなくはたいてそれを二つ買うと、一つをフィーナに手渡した。
「ほら、食ってみなよ。見た目通り、絶対うまいって」
フィーナは、おずおずとそれを受け取り、恐る恐る一口かじってみた。その瞬間、彼女の口の中に、経験したことのない衝撃が走った。スパイシーで濃厚な肉汁と、新鮮な野菜のシャキシャキとした小気味よい食感、そして、もちもちとしたパンの確かな歯ごたえが、完璧な調和をもって一体となる。それは、彼女がこれまで王宮で食べてきた、どんな洗練された宮廷料理よりも、刺激的で、野性的で、そして美味しかった。
「……おいしい…です…」
行儀も忘れ、夢中で頬張るフィーナのその幸せそうな姿を見て、健太は、心から満足そうに笑った。
***
その時だった。
二人が、人混みの中で立ち食いを楽しみ、しばしの平穏を味わっていると、すぐ近くの、建物と建物の間にできた薄暗い路地裏から、くぐもったような短い悲鳴と、何かが激しく争うような物音が微かに聞こえてきた。
「ん?」
健太は、眉をひそめた。その顔には、明らかに「面倒くさいことになった」という感情がはっきりと書かれている。
しかし、その不穏な音を聞き逃さなかったフィーナは、瞬時に表情を変えた。彼女の中に眠る、王族としての正義感と責任感が、危険を察知していた。
「…ケンタさん! 今の音…!」
「はいはい、分かってるよ、フィーナちゃんは真面目だなあ」
フィーナの、困っている人を決して見過ごすことのできない、まっすぐな瞳に見つめられ、健太は、やれやれ、といった風にわざとらしく溜息をついた。まだ熱いケバブを咥えたまま、彼はフィーナと共に、その不穏な気配が漂う路地裏へと、仕方なさそうに足を踏み入れた。
路地裏は、大通りが嘘のように、昼間だというのに薄暗く、じめじめとした空気が澱んでいた。両側の建物の壁には、不潔な苔が一面に生え、どこからか漂ってくる下水のような悪臭が鼻をつく。
その一番奥で、事件は起きていた。
三人の、頭からつま先まで、全身を漆黒の衣服で包んだ男たちが、見るからに裕福そうな商人風の恰幅の良い男を、壁際に追い詰めて取り囲んでいた。
「…お前が、禁制品である『魔石』を、ギルドを通さずに闇市場へ横流ししているという情報は、我々の方で掴んでいるんだ」
黒ずくめの一人が、まるで蛇が這うような、冷たく感情のない声で言った。彼らの衣服の胸元には、光輪を背負った太陽を象った、見慣れない紋章が、鈍い銀糸で刺繍されているのが見えた。
「ひぃっ! わ、私は何も…! 人違いでございます!」
商人は、恐怖で顔を真っ青にしながら、必死に無実を訴えた。
「まだ白を切るか。ならば、神の御名において、貴様を『異端』として正式に拘束し、我々の聖堂にて真実を語らせるまでだ」
黒ずくめの男たちが、じりじりと商人との距離を詰めていく。その手には、音もなく鞘から抜かれた、光を吸い込むような黒い刃の短剣が握られていた。絶体絶命。商人の顔に、深い絶望の色が浮かんだ。
「あのー、ちょっと、よろしいでしょうか?」
そんな絶望的な空気をぶち壊すように、健太の、どこまでも間延びした声が、薄暗い路地裏に響き渡った。
黒ずくめの男たちが、一斉にその声の主を振り返る。その目は、顔を覆うフードの奥で、人間的な感情を一切感じさせない、冷たい光を放っていた。
「…何者だ、貴様ら」
「いやー、なんか、そこのおっちゃんがだいぶ困ってるみたいだからさ。三人で一人をいじめるのは良くないと思うんだよね、うん」
健太は、ケバブの最後のひとかけらを、もぐもぐと美味しそうに咀嚼しながら、まるで世間話でもするかのように言った。
黒ずくめの男の一人が、ちっ、と鋭く舌打ちをした。その音には、明らかな殺意が込められていた。
「…見られたか。ならば、仕方ない。これも神の思し召し。目撃者は消すのが我々の流儀だ。神の御慈悲に感謝しながら、死ぬがいい」
次の瞬間、三人の黒ずくめは、何の合図もなく、しかし完璧な連携で、健太とフィーナに同時に襲いかかってきた。その動きには、騎士が持つような正面からの剛直さも、盗賊が持つような荒々しさもない。ただ、目的を達成するためだけに、一切の無駄を削ぎ落とした、暗殺者のような、冷徹で効率的な動きだった。
フィーナは、咄嗟にヴァレリアからもらった短剣を抜き、身構えた。だが、健太は、その殺気を前にしても全く動じる気配がなかった。
正面から最短距離で切りかかってきた男の、黒い短剣を、彼は、つい今までケバブを食べていた右手の、人差し指と中指の二本だけで、まるで飛んできた蝶でもつまむかのように、いともたやすく、ひょいと挟み止めてしまった。
「なっ…!?」
ありえない光景に、男が驚愕に目を見開く。健太は、
「あ、タレがついちゃった」
と呑気に呟きながら、指先に、きゅ、とほんのわずかに力を込めた。
パリン!
硬い鋼鉄でできているはずの短剣が、まるで薄いガラス細工のように、あまりにもあっさりと砕け散った。
その一瞬の隙を見逃さず、左右から襲いかかってきた残りの二人の攻撃が、健太の身体に寸分違わず迫る。だが、彼らの渾身の力を込めた拳や蹴りが、健太の身体に触れる、まさにその寸前で、まるで見えない分厚い壁に阻まれたかのように、ぴたりと空中で停止した。
「邪魔」
健太が、心底面倒くさそうに、そう呟いた、次の瞬間。
三人の黒ずくめの男たちは、まるで巨大な透明のハンマーで同時に殴りつけられたかのように、後方へと凄まじい勢いで吹き飛び、路地裏の硬い石の壁に叩きつけられて、ぐにゃりと崩れ落ちた。もはや、ぴくりとも動かない。
助けられた商人は、腰を抜かしてその場にへたり込んだまま、今目の前で起こったことが信じられないという目で、健太を呆然と見上げていた。
「あ…あ…ありがとう…ございます…。あ、あなたは、一体…何者様で…?」
「ん? 俺? 通りすがりのハーレム王だけど」
意味不明な健太の返答に、商人は、さらに混乱した表情になった。だが、彼は、すぐに気を取り直すと、真剣な顔つきで二人に忠告した。
「どうか、お気をつけください。奴らは、今、この大陸中で急速に勢力を拡大している、『神聖法国』の異端審問官です。奴らは、自分たちの太陽神の教えに背く者を、一方的に『異端』と断じ、容赦なく狩り立てる教会の狗…。一度目をつけられたら最後、決して関わらないのが、身のためです」
その時、気絶していた黒ずくめの一人が、うわごとのように苦しげに呟くのが聞こえた。
「…偉大なる、太陽神の御名において…我らに、正義の裁きを…」
「神聖法国…」
フィーナが、その不穏な響きを持つ言葉を、眉をひそめながら繰り返した。それは、彼女の知るどの国の名前とも違う、異質な響きを持っていた。
健太は、そんな世界のきな臭い事情には全く興味がない、といった風に、商人の言葉を軽く聞き流すと、
「ふーん、なんかヤバそうな奴らなんだな。で、おっちゃん、悪いけどさ、この辺でどこか安くて美味い飯が食える宿屋、知らない?」
と、極めて呑気な質問を投げかけていた。
活気に満ちた、巨大な商業都市ランドール。その眩いほどの光の裏側には、神の名を騙る、黒い影が深く潜んでいた。
二人の旅が、ただの「勇者探し」では終わらない、より大きな世界のうねりに否応なく巻き込まれていくことを、彼らは、まだ知らなかった。
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なんで旅行ということで大型連休を取ったのですが
飛行機に乗って寝て起きたら異世界でした……
スキルが簡単に得られるようなので頑張っていきます
備蓄スキルで異世界転移もナンノソノ
ちかず
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久しぶりの早帰りの金曜日の夜(但し、矢作基準)ラッキーの連続に浮かれた矢作の行った先は。
見た事のない空き地に1人。異世界だと気づかない矢作のした事は?
異世界アニメも見た事のない矢作が、自分のスキルに気づく日はいつ来るのだろうか。スキル【備蓄】で異世界に騒動を起こすもちょっぴりズレた矢作はそれに気づかずマイペースに頑張るお話。
鈍感な主人公が降り注ぐ困難もナンノソノとクリアしながら仲間を増やして居場所を作るまで。
【完結】幼馴染にフラれて異世界ハーレム風呂で優しく癒されてますが、好感度アップに未練タラタラなのが役立ってるとは気付かず、世界を救いました。
三矢さくら
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【本編完結】⭐︎気分どん底スタート、あとはアガるだけの異世界純情ハーレム&バトルファンタジー⭐︎
長年思い続けた幼馴染にフラれたショックで目の前が全部真っ白になったと思ったら、これ異世界召喚ですか!?
しかも、フラれたばかりのダダ凹みなのに、まさかのハーレム展開。まったくそんな気分じゃないのに、それが『シキタリ』と言われては断りにくい。毎日混浴ですか。そうですか。赤面しますよ。
ただ、召喚されたお城は、落城寸前の風前の灯火。伝説の『マレビト』として召喚された俺、百海勇吾(18)は、城主代行を任されて、城に襲い掛かる謎のバケモノたちに立ち向かうことに。
といっても、発現するらしいチートは使えないし、お城に唯一いた呪術師の第4王女様は召喚の呪術の影響で、眠りっ放し。
とにかく、俺を取り囲んでる女子たちと、お城の皆さんの気持ちをまとめて闘うしかない!
フラれたばかりで、そんな気分じゃないんだけどなぁ!
最初から最強ぼっちの俺は英雄になります
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いつも通りに一人ぼっちでゲームをしていた、そして疲れて寝ていたら、人々の驚きの声が聞こえた、目を開けてみるとそこにはゲームの世界だった、これから待ち受ける敵にも勝たないといけない、予想外の敵にも勝たないといけないぼっちはゲーム内の英雄になれるのか!
スティールスキルが進化したら魔物の天敵になりました
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第18回ファンタジー小説大賞 奨励賞、いただきました!!
スティールスキル。
皆さん、どんなイメージを持ってますか?
使うのが敵であっても主人公であっても、あまりいい印象は持たれない……そんなスキル。
でもこの物語のスティールスキルはちょっと違います。
スティールスキルが一人の少年の人生を救い、やがて世界を変えてゆく。
楽しくも心温まるそんなスティールの物語をお楽しみください。
それでは「スティールスキルが進化したら魔物の天敵になりました」、開幕です。
2025/12/7
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