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二部
第11話:頑固なドワーフと森の危機
しおりを挟むエルフの里『シルヴァリオン』で迎えた最初の夜は、静かで、そして、どこか現実離れしていた。
健太とフィーナに客室として与えられたのは、里で最も天に近い場所にある巨木『星見の樹』の、太い枝の上に建てられた一軒の家だった。
壁も、床も、天井も、全てが生きた木を傷つけないように、巧みに組み上げられている。
部屋の中にいても、まるで森の胎内に抱かれているかのような、不思議な安心感があった。
部屋には、華美な装飾は何一つない。
だが、そこに置かれたテーブルや椅子といった家具は、一つ一つが、卓越した職人の手による見事な木工細工だった。
流れるような曲線、寸分の狂いもない接合部。
それは、もはや家具というよりは、芸術品と呼ぶべきものだった。
開け放たれた窓からは、里の夜景が一望できた。
眼下では、谷間に点在する家々のランタンが、まるで地上に降りてきた星々のように、温かい光を瞬かせている。
谷底を流れる川のせせらぎが、子守唄のように、絶えず耳に届いていた。
夜の空気は、ひんやりと肌に心地よく、花の蜜と、湿った苔の香りが混じり合った、甘く清浄な匂いがした。
「…素晴らしい場所ですね」
テラスに出て、手すりに寄りかかりながら、フィーナは思わず呟いた。
彼女の呼吸は、いつの間にか、深く、穏やかなものになっている。
ここには、彼女が旅に出てからずっと感じてきた、張り詰めた緊張感が存在しなかった。
「そうだねぇ。家賃タダだし、最高だねぇ」
隣で、健太が、ルミナが用意してくれた、見たこともないような瑞々しい果物を、しゃくしゃくと音を立てて頬張りながら、呑気に答えた。
そんな二人の元へ、ルミナが静かにやってきた。
「気に入っていただけたようで、何よりです」
彼女の声は、夜の静寂によく馴染んだ。
「ここは、外の世界とは時間の流れが違う、と言われています。あなたたちの傷ついた心も、少しは癒えるでしょう」
「ルミナ様…」フィーナは、彼女に向き直った。「なぜ、私たちを、ここまで気にかけてくださるのですか? あなたのお父上は、人間をひどく警戒されているご様子でしたが…」
ルミナは、フィーナの問いには直接答えず、その翡翠色の瞳を、遠くの闇に覆われた山脈へと向けた。
「…我らエルフは、この森と共に生きてきました。森が豊かであれば、我らも栄える。森が病めば、我らもまた、衰退する。それが、我々の掟であり、理です」
彼女の声には、どこか憂いを帯びた響きがあった。
「ですが、その理が、今、崩れかけているのです」
「それは、魔族の…?」
「それもあります。ですが、本当の原因は、もっと根深いところにあります」
ルミナは、健太とフィーナに、この森が抱える深刻な問題について、静かに語り始めた。
「私たちの里、そして、この森全体の生命を支えているのは、森の最奥にある『聖なる泉』です。ですが、その泉が、ここ数年、枯れ始めているのです」
「泉が、枯れている…?」
「ええ。原因は、まだはっきりとはしません。ですが、私たちは、泉の水源である、あの山…『鉄槌山脈』に住む、ドワーフたちの仕業だと考えています」
ルミナの言葉に、フィーナは息を呑んだ。
ドワーフ。
山の民。
頑固で、気難しいことで知られる、もう一つの古代種族。
「彼らは、鉱石を掘り出すためなら、山の姿を変えることも厭わない。おそらく、鉱山開発の過程で、我らの森へと流れるはずだった水脈を、勝手に堰き止めるか、汚染させてしまったのでしょう」
「そんな…勝手な…」
「ですが、それを確かめる術がありません。彼らは、我々エルフを、森から一歩も出たがらない怠け者だと見下し、我々もまた、彼らを、大地を傷つけることしか能のない、野蛮な種族だと蔑んできた。両者の間の溝は、数百年の長きにわたり、深まるばかりなのです」
ルミナの白い指が、悔しそうに、ぎゅっと手すりを握りしめた。
「父が、あれほどまでに人間を警戒し、頑なになっているのも、この森の危機に対する焦りの裏返し。これ以上、森に余計な波風を立てたくないのです」
健太は、そんなシリアスな話を、どこか他人事のように、「ふーん、大変だねぇ」と相槌を打ちながら聞いていた。
彼の興味は、ルミナの美貌と、手の中にある最後の果物を、いつ食べるか、という点にしか向いていなかった。
***
翌朝。
フィーナは、鳥のさえずりと、部屋に差し込む柔らかな光で目を覚ました。
木の上の家は、朝霧に包まれ、まるで雲の上にいるかのようだった。
テラスに出ると、ひんやりとした朝の空気が、眠っていた身体を優しく目覚めさせてくれる。
眼下の谷では、霧がゆっくりと晴れていき、エルフの里が、その美しい全貌を現し始めていた。
それは、息を呑むほどに幻想的な光景だった。
朝食の後、ルミナは、約束通り、二人を森の案内へと連れ出してくれた。
「こちらです。問題の、『聖なる泉』へ」
ルミナに導かれて、一行は、里のさらに奥深くへと進んでいった。
道中は、昨日よりもさらに神聖な空気に満ちていた。
苔むした岩の間からは、清らかな湧き水が染み出し、小さなせせらぎとなって流れている。
その水の音を聞いているだけで、心が洗われるようだった。
しかし、泉に近づくにつれて、フィーナは、森の異変に気づき始めていた。
木々の葉の色が、心なしか、精彩を欠いているのだ。
生命力に満ち溢れていたはずの葉は、どこか乾いて、色褪せて見える。
風が吹いても、その揺れ方は力なく、かさかさと、悲しい音を立てるだけだった。
やがて、一行は、森の中心にある、開けた場所にたどり着いた。
そこが、聖なる泉だった。
フィーナは、その光景を見て、言葉を失った。
泉は、彼女が想像していたような、豊かな水を湛えた神秘的な場所ではなかった。
かつては湖と呼べるほどの大きさだったのだろう、その痕跡だけが、乾いた白い水際線として残っている。
だが、現在の水量は、その十分の一にも満たない。
中央に、大きな水たまりが、かろうじて残っている、という有様だった。
水面は、澱んで、よどんでいる。
水の流れも、ほとんど感じられない。
泉の周囲に生えている巨木たちも、明らかに元気がなかった。
枝葉は垂れ下がり、その姿は、まるで嘆き悲しんでいるかのようだった。
「…これが、今の、聖なる泉の姿です」
ルミナの声は、悲痛に震えていた。
「この泉の力が弱まったことで、森全体の結界も弱まり、魔族の侵入を許すようになってしまった。このままでは、この森は、いずれ、ただの魔物の巣窟と化してしまうでしょう」
フィーナは、かける言葉も見つからず、ただ、その枯れかけた泉を見つめていた。
自らの故郷が、炎によって滅ぼされた光景が、脳裏に重なる。
形は違えど、ここでもまた、一つの美しい世界が、静かに死に向かっているのだ。
その、重苦しい沈黙を破ったのは、やはり、健太だった。
彼は、その泉をしばらく眺めていたが、やがて、ぽりぽりと頭を掻きながら、至極当然といった口調で言った。
「じゃあさ、そのドワーフって奴らのとこに、直接文句言いに行けばいいじゃん。蛇口、閉めてんじゃねーぞ、ゴルァ!って」
「なっ…!」
その、あまりにも単純で、乱暴な提案に、ルミナは目を丸くした。
「無茶を言わないでください! ドワーフは、気難しく、そして誇り高い種族です。我々エルフが正面から乗り込んでいけば、彼らはそれを侮辱と捉え、間違いなく、争いになります!」
「えー、でも、このままじゃジリ貧なんだろ? やってみなきゃ、分かんなくない?」
「ですが…!」
ルミナが、なおも反論しようとした時、健太は、やれやれ、といった風に溜息をついた。
「分かった、分かった。じゃあ、俺一人で行ってくるわ。ちょっくら、話つけてくるからさ」
彼は、そう言うと、本当に一人で、鉄槌山脈の方角へと歩き出そうとした。
「待ってください!」
フィーナが、慌てて彼の腕を掴んだ。
「私も、行きます! あなた一人に、そんな危険な役目を任せるわけにはいきません!」
「フィーナ様…」
「ええ。それに、もしかしたら、彼らと話し合いで解決できる道が、あるかもしれません。
私は、もう、争いによって何かが失われるのは、見たくないのです」
彼女の、強い意志を秘めた瞳に、ルミナは言葉を失った。
ルミナは、しばらく葛藤していたが、やがて、決意を固めたように、顔を上げた。
「…分かりました。私も、同行します。森の民として、この問題から目を背けるわけにはいきません。それに…」
彼女は、ちらりと健太を見た。
「あなたのような、常識の通じない方を、一人でドワーフの元へ行かせるわけにはいきませんからね。何をしでかすか、分かったものではありません」
こうして、奇妙な三人組は、エルフとドワーフの長年にわたる対立の根源、鉄槌山脈へと、向かうことになった。
***
エルフの森を抜け、鉄槌山脈の麓にたどり着いた時、世界の風景は、再び一変した。
緑豊かで、生命力に満ち溢れていた森の景色は、完全に姿を消した。
代わりに広がるのは、ゴツゴツとした岩肌がむき出しになった、荒涼とした、男性的な風景。
空気が、乾燥している。
吹き抜ける風は、森の中のそれよりも強く、土と、微かな鉄の匂いを運んでくる。
見上げる山々は、まるで巨大な獣の背骨のように、険しく、荒々しい。その山肌には、木々はほとんど生えておらず、代わりに、鉱石を含んでいるのだろうか、太陽の光を受けて、鈍い金属光沢を放つ岩が、ところどころに見られた。
「…ここが、ドワーフの領域…」
フィーナは、その威圧的な風景に、思わず息を呑んだ。
一行は、山道に沿って、さらに奥へと進んでいった。
やがて、視線の先に、巨大な門が見えてきた。
それは、二枚の、分厚い鋼鉄の扉だった。
高さは十メートル以上あり、表面には、ハンマーと金床を組み合わせた、ドワーフの紋章が、見事に彫り込まれている。
門は、固く閉ざされており、人の気配は全くない。
「どうするんですか? 呼びかけても、出てきてくれるとは思えませんが…」
フィーナが不安そうに言う。
健太は、その巨大な鋼鉄の門を、興味深そうに眺めていたが、やがて、コンコン、と、軽くノックした。
「ごめんくださーい。宅急便でーす」
「ケンタさん! ふざけている場合では…!」
フィーナが彼を咎めた、その時だった。
門の横にある、小さな監視窓のようなものが、ガラッ!と音を立てて開いた。
そして、中から、太い眉毛と、顔の半分を覆うほどの、見事な髭を蓄えた、いかつい顔が覗いた。
「ああん? 宅急便だぁ? ふざけたこと抜かすんじゃねえ! ここがどこだか分かってんのか!」
ドワーフだった。背は低いが、その肩幅と胸板の厚みは、屈強な人間の戦士を遥かに凌駕している。
ドワーフの兵士は、健太の隣に立つルミナの姿を認めると、あからさまに、顔をしかめた。
「…なんだぁ、てめえら。とんがり耳のエルフじゃねえか。何の用だ。とっとと、自分たちの薄汚ねえ森に帰りやがれ」
その、あからさまな敵意と侮蔑の言葉に、ルミナの表情が、すっと冷たくなった。
「あなたたちに、話があって来ました。山の民よ。あなたたちが、我々の森の水源を堰き止めているという話は、本当ですか?」
ルミナが、単刀直入に問うと、ドワーフは、待ってましたとばかりに、大声で怒鳴り返した。
「ああ!? 知ったことか、そんなもん! てめえらにくれてやる水なんざ、一滴たりともねえんだよ!」
「なっ…! それが、どういう意味か、分かっているのですか! あなたたちのせいで、森が…!」
「うるせえ! そもそも、てめえらが、神様から与えられた大地を、自分たちだけのモンみてえに独占してるのが、気に食わねえんだよ!」
その時、門の奥から、別の声がした。
「おいおい、何の騒ぎだ、ゴードン」
現れたのは、先ほどの兵士よりも、少し若いドワーフだった。
歳は若いが、その腕は丸太のように太く、その目には、職人だけが持つ、強い意志と誇りの光が宿っていた。
彼が、後の仲間となる、ゴルドだった。
ゴルドは、ルミナの姿を一瞥すると、ふん、と鼻を鳴らした。
「…なんだ、エルフか。あんたら、まだそんな御伽噺みたいな森に引きこもってたのか。とっくに、滅びたかと思ってたぜ」
「なんですって…!」
ルミナが、カッとなって言い返す。
「あなたたちこそ! 大地を傷つけ、ただ鉄を叩いて悦に入っているだけの、野蛮な山の猿ではありませんか!」
「んだと、こらぁ!」
一触即発。
エルフとドワーフ。
森の民と、山の民。
その、長年にわたる根深い対立が、今、目の前で、火花を散らしていた。
フィーナは、慌てて二人の間に割って入った。
「お、お二人とも、おやめください! どうか、話し合いを…!」
しかし、一度火がついた彼らの敵対心は、もはや誰にも止められない。
その、険悪な雰囲気の、ど真ん中で。
健太が、心底、面倒くさそうに、大きな、大きな、溜息をついた。
「あーーーーー、もう。話、聞いてるだけで、めんどくせえな、お前ら」
その、あまりにも場違いな一言に、ルミナも、ゴルドも、ピタリ、と動きを止めた。そして、二人同時に、般若のような形相で、健太を睨みつけた。
「「―――なんだと、貴様(アンタ)!!!!」」
二つの種族の怒りが、今、完全に、一人の能天気な男へと向けられた。
健太は、しかし、そんなことには全く気づかず、「あー、腹減ったなー」と、別のことを考えていた。
事態は、解決するどころか、より一層、混沌の度合いを深めていた。
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