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四部
第16話:水の王国と帝国の野望
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神の沈黙。
それが、大聖堂の中庭を支配する、全ての答えだった。
健太の、あまりにも単純で、しかし、世界の理そのものに問いかけるような言葉と、それを裏付ける、理解を超えた現象。
それらを前に、神聖法国が数百年かけて築き上げてきた、絶対的な権威と、揺るぎないはずだった信仰は、まるで砂上の楼閣のように、あっけなく崩れ去った。
法王グレゴリウス三世は、玉座のような椅子に腰掛けたまま、わなわなと震えていた。
その瞳からは、もはや、かつての狂信的な光は消え失せ、代わりに、自らの理解を超えた存在に対する、原始的な恐怖と、権力を失った老人の、無力な絶望だけが浮かんでいた。
百を超えるテンプル騎士団もまた、同じだった。
彼らは、砕け散った己の剣を見下ろし、あるいは、目の前の、けろりとした顔で立つ青年の姿を見上げ、ただ、呆然と立ち尽くしている。
彼らの心の中では、「神の敵」を討つという使命感と、「この男に逆らえば、死ぬ」という本能的な恐怖が、激しくせめぎ合っていた。
だが、もはや、誰一人として、健太に剣を向けようとする者はいなかった。
その、奇妙な静寂を破ったのは、レオン率いるレジスタンス『暁の翼』だった。
「――今だ! 法王を捕らえろ!」
レオンの号令と共に、物陰に潜んでいたレジスタンスのメンバーたちが、一斉に姿を現し、戦意を喪失したテンプル騎士団と、抜け殻のようになった法王を、次々と拘束していく。
もはや、まともな抵抗は、ほとんどなかった。
「…終わったのですね…」
フィーナが、震える声で呟いた。目の前で起きた、あまりにも現実離れした光景に、彼女の心は、まだ追いついていない。
「ああ。終わった、そして、始まるのさ」
レオンが、その横で、深く、感慨深げに頷いた。
「この国から、偽りの神を追い払い、人々が、真に、自らの意志で祈りを捧げられる国を、俺たちは、これから作っていく」
彼の瞳には、困難な未来を見据える、強い光が宿っていた。
健太は、そんな彼らの様子を、少し離れた場所から、興味なさそうに眺めていた。
彼は、自分の背後で、ずっと震えていた、一人の少女に、向き直った。
司祭の娘、セシル。
彼女は、解放された他の囚人たちと共に、この信じがたい逆転劇を、ただ、呆然と見つめていた。
彼女の隣では、親友であったリナが、地面に膝をつき、嗚咽を漏らしながら、何度も、何度も、セシルに謝罪の言葉を繰り返している。
「ごめんなさい…セシル…ごめんなさい…! 私は、ただ、怖くて…!」
セシルは、そんな彼女を、静かな、凪いだ瞳で見下ろしていた。
憎しみは、なかった。
軽蔑も、なかった。
ただ、深い、深い悲しみと、そして、もう二度と、元の関係には戻れないという、冷徹な諦観があるだけだった。
「…もう、いいの、リナ」
セシルは、静かに言った。
「あなたのしたことを、許すことは、できないかもしれない。でも、あなたを、責めることも、私には、できない。ただ…もう、私の前から、いなくなって」
その言葉を最後に、セシルは、リナに背を向けた。
そして、彼女を絶望の淵から救い出してくれた恩人――健太たちの元へと、ふらつく足で、しかし、確かな意志を持って、歩み寄った。
彼女は、健太の目の前で、深々と、その頭を下げた。
汚れた亜麻色の髪が、地面につきそうになる。
「あの…本当に、ありがとうございました。あなた方がいなければ、私は、今頃…」
「いーってことよ。気にすんな」
健太は、いつもの調子で、ひらひらと手を振った。
セシルは、顔を上げた。
その瞳には、涙が溜まっていたが、もはや、絶望の色はなかった。
そこには、自らの意志で、未来を選び取ろうとする、強い光が宿っていた。
「一つ、お願いがあります」
彼女は、きっぱりとした声で言った。
「私の居場所は、もう、この街には、どこにもありません。父も、友人たちも、私が『異端』の烙印を押されたことで、私を遠ざけるでしょう。そして、私自身、もはや、偽りの神を信じることはできません」
彼女は、一行の顔を、一人ひとり、順番に見つめた。
「どうか、私を、あなたたちの旅に、連れて行ってはいただけないでしょうか。私は、戦う力もありませんし、足手まといになるだけかもしれません。ですが、何でもします。掃除でも、洗濯でも、どんな雑用でも、喜んでやらせていただきます。ですから…どうか…」
その声は、最後には、懇願になっていた。
健太は、その申し出に、にぱーっと、だらしない笑顔を浮かべた。
「お、マジで? また女の子が増えるのか。もちろん、大歓迎だぜ!」
「こら、ケンタ! 少しは真面目に…!」
フィーナが、呆れて彼を窘める。
ゴルドが、腕を組んで、唸った。
「うーん、だがよぉ。こいつは、見ての通り、戦力にゃならんぞ。足手まといが増えるだけじゃねえか?」
「そうですね」
ルミナも、冷静に同意した。
「私たちの旅は、ただの遊覧ではありません。危険が伴います。覚悟のない者を、連れて行くわけには…」
二人の、もっともな反対意見。
しかし、それを遮ったのは、フィーナだった。
「――いいえ。私は、この方をお連れするべきだと思います」
彼女は、セシルの手を、優しく握った。
「彼女の気持ち、今の私には、痛いほど、分かります。故郷を失い、帰る場所をなくした、その孤独と、絶望が。だからこそ、この方を、一人にしておくことは、私にはできません」
フィーナの、王女としての、そして、同じ痛みを分かち合う者としての、強い言葉に、ルミナもゴルドも、ぐっと、言葉を詰まらせた。
最終的に、健太が、いつものように、あっさりと結論を出した。
「はい、決定ー! これで、うちのパーティーは五人な! よろしくな、セシルちゃん!」
こうして、司祭の娘セシルは、半ば強引な形で、健太一行の、新たな仲間となった。
***
法国の混乱は、予想以上だった。
絶対的な権力者であった法王が失脚したことで、国全体が、巨大な嵐に見舞われたかのように、揺れていた。
レオン率いるレジスタンスが、一時的に、街の秩序維持に努めていたが、彼らだけの力では、限界がある。
各地で、権力の空白を狙う、大小様々な派閥が、不穏な動きを見せ始めていた。
「…この街も、長居はできそうにないな」
レオンは、一行に、心からの感謝を伝えた後、そう言った。
「君たちは、この国の歴史を、動かしてくれた。本当に、感謝している。この後の、泥臭い仕事は、俺たちに任せて、君たちは、君たちの旅を続けてくれ」
「レオンさん…」
「心配するな、姫様。俺は、誓う。この国を、恐怖ではなく、真の祈りと、人々の笑顔に満ちた場所に、必ず、変えてみせる」
レオンと、固い握手を交わし、一行は、混乱するアークライトの街を、静かに後にした。
街道に戻った一行は、今後の進路について、話し合った。
「東へ向かうのは、危険でしょう」
ルミナが、地図を広げながら言った。
「この先は、魔族の支配領域に、ますます近づいていきます。フィーナ様の言う『勇者』の手がかりも、今のところ、全くありません」
「うむ」
ゴルドも、頷いた。
「一度、南へ下り、人間の国々の中で、最も栄えていると言われる、『水の王国アクアフォール』へ向かうのが、得策だろう。そこからなら、船で、大陸の別の場所へ渡ることもできるはずだ」
こうして、一行の、次なる目的地は、南の水の王国、アクアフォールと決まった。
新たにセシルを加えた、五人の旅路は、これまで以上に、賑やかなものとなった。
セシルは、最初こそ、おどおどとしていたが、フィーナが、姉のように、優しく彼女の面倒を見た。
ルミナも、口では厳しいことを言いながら、さりげなく、彼女の歩調を気遣ったり、薬草の知識を教えたりしていた。
ゴルドは、不器用ながらも、夜、焚き火の番をするセシルに、自分の上着を、黙ってかけてやったりしていた。
そして、健太は、相変わらずだった。
「セシルちゃん、これ、美味いぞ! 食うか?」
「うわっ! ケンタさん、それは毒キノコです! 食べられません!」
そんな、どこか、ちぐはぐで、しかし、温かい日々が、続いた。
***
南へ向かうにつれて、風景は、劇的に変化していった。
乾いた土の大地は、次第に、瑞々しい緑の牧草地へと姿を変えていく。
街道沿いには、無数の小川が、せせらぎの音を立てて流れ、その水面に、夏の強い太陽の光が、キラキラと乱反射していた。
空気も、変わった。乾いた風ではなく、湿り気を帯びた、穏やかな風が、肌を優しく撫でていく。
その風は、海の匂いを、微かに運んできているようだった。
そして、数日の旅の後。
一行は、地平線の向こうに、信じがたいほどに美しい、青い光景を目にした。
巨大な湖。その湖の中心に、まるで、宝石を散りばめたかのように、浮かぶ、白と青の都市。
それが、『水の王国アクアフォール』だった。
都市は、大小様々な島々が、優美な曲線を描く、純白の橋で結ばれて、構成されていた。
建物は、白壁と、鮮やかな青い屋根で統一されており、そのデザインは、どこか、貝殻や、波の形を彷彿とさせる。
街の中には、道路の代わりに、無数の水路が、網の目のように走っていた。
ゴンドラと呼ばれる、美しい装飾が施された小舟が、その水路を、静かに行き交っている。
水は、底が見えるほどに透き通り、色とりどりの魚の群れが、優雅に泳いでいた。
太陽の光が、常に、水面に反射し、街全体が、まばゆい光の粒子に包まれているかのようだ。
ランドールの、混沌とした活気とも、アークライトの、息詰まるような秩序とも違う。
アクアフォールは、穏やかで、優雅で、そして、芸術的なまでに、美しい都だった。
「……きれい……」
フィーナも、セシルも、その光景に、ただ、感嘆のため息を漏らす。
「ふむ。水の上に、これほどの都市を築くとはな。人間の技術も、なかなか、大したものだ」
ゴルドが、珍しく、感心したように言った。
「水の精霊の、ご加護があるのでしょう。この街からは、とても、清らかなマナの流れを感じます」
ルミナも、その美しい光景に、目を細めていた。
健太は、といえば。
「うおー! 水上都市! まるで、ヴェネツィアじゃんか! シーフード! シーフード食いてえ!」
と、一人、食欲に満ちた叫びを上げていた。
一行が、長い橋を渡り、街の入り口にたどり着くと、そこには、青いマントを羽織った、王国の衛兵たちが待っていた。
彼らは、健太たちを見ると、敬礼し、代表者らしき騎士が、一歩前に進み出た。
「お待ちしておりました、旅の方々。我が王が、皆様に、謁見を求めておられます」
「え?」
フィーナが、驚いて聞き返す。
「神聖法国での、あなた方の、英雄的なご活躍の噂は、既に、このアクアフォールにも、届いております」
どうやら、彼らの名は、彼ら自身が思うよりも、遥かに速く、この大陸を駆け巡っているらしい。
王宮へと案内された一行は、アクアフォールの国王と、謁見した。
国王は、壮年だが、穏やかで、理知的な雰囲気を持つ、好人物だった。
彼は、健太たちの功績を心から称えた後、しかし、その表情を曇らせ、深刻な口調で、語り始めた。
「…あなた方に、このようなことをお願いするのは、大変、心苦しい。だが、この国は今、存亡の危機にあるのです」
国王によると、北の大陸に位置する、巨大な軍事国家『ガレマール帝国』が、アクアフォールに対し、不当な領土の割譲と、莫大な貢物を要求してきたのだという。
「我々は、もちろん、その不当な要求を、拒否した。すると、帝国は、それを口実に、十万を超える大軍勢を、我が国の北の国境へと、差し向けたのです。今、この瞬間にも、彼らは、進軍を続けている」
十万。
その、あまりにも現実離れした数字に、フィーナは、息を呑んだ。
「どうか、お願いしたい」
国王は、玉座から立ち上がると、一行に、深々と頭を下げた。
「あなた方の、あの、神の軍勢すらも退けたという、信じがたい力が、我らにとって、最後の、最後の、希望なのです」
その時、遥か北。
帝国軍の、巨大な陣営の中。
豪華な天幕の中で、一人の若い女性が、地図を広げ、冷たい笑みを浮かべていた。
彼女は、この十万の軍勢を率いる、総司令官。
ガレマール帝国の、皇女にして、最強の将軍、『氷の魔女』と恐れられる、ヒルデガルドだった。
彼女の、雪のように白い肌と、氷のように冷たい青い瞳が、地図上の一点――アクアフォールを、射抜いていた。
「――伝令」
彼女が、鈴のように美しい、しかし、絶対零度の冷たさを帯びた声で、呟く。
「全軍に、伝えよ。これより、進軍を再開する、と」
彼女は、立ち上がると、天幕の外に広がる、地平線の果てまで続く、自軍の兵士たちを見渡した。
「あの、美しく、しかし、無力な、水の王国のアヒルどもに、我ら、ガレマール帝国の、絶対的な力を、見せつけてやれ。抵抗する者は、一人残らず、湖の底に沈めてしまえ」
宗教国家の、歪んだ正義が去った後。
今度は、軍事帝国の、剥き出しの暴力が、この美しき水の都を、蹂躙しようとしていた。
健太は、王宮のテラスから、キラキラと輝く、アクアフォールの街並みを見下ろしながら、ぽつりと、呟いた。
「ふーん。こんな綺麗な街が、壊されんのは、ちょっと、寝覚めが悪いよな」
その、軽い一言が、この国の運命を、大きく左右することになるのを、まだ、誰も知らなかった。
それが、大聖堂の中庭を支配する、全ての答えだった。
健太の、あまりにも単純で、しかし、世界の理そのものに問いかけるような言葉と、それを裏付ける、理解を超えた現象。
それらを前に、神聖法国が数百年かけて築き上げてきた、絶対的な権威と、揺るぎないはずだった信仰は、まるで砂上の楼閣のように、あっけなく崩れ去った。
法王グレゴリウス三世は、玉座のような椅子に腰掛けたまま、わなわなと震えていた。
その瞳からは、もはや、かつての狂信的な光は消え失せ、代わりに、自らの理解を超えた存在に対する、原始的な恐怖と、権力を失った老人の、無力な絶望だけが浮かんでいた。
百を超えるテンプル騎士団もまた、同じだった。
彼らは、砕け散った己の剣を見下ろし、あるいは、目の前の、けろりとした顔で立つ青年の姿を見上げ、ただ、呆然と立ち尽くしている。
彼らの心の中では、「神の敵」を討つという使命感と、「この男に逆らえば、死ぬ」という本能的な恐怖が、激しくせめぎ合っていた。
だが、もはや、誰一人として、健太に剣を向けようとする者はいなかった。
その、奇妙な静寂を破ったのは、レオン率いるレジスタンス『暁の翼』だった。
「――今だ! 法王を捕らえろ!」
レオンの号令と共に、物陰に潜んでいたレジスタンスのメンバーたちが、一斉に姿を現し、戦意を喪失したテンプル騎士団と、抜け殻のようになった法王を、次々と拘束していく。
もはや、まともな抵抗は、ほとんどなかった。
「…終わったのですね…」
フィーナが、震える声で呟いた。目の前で起きた、あまりにも現実離れした光景に、彼女の心は、まだ追いついていない。
「ああ。終わった、そして、始まるのさ」
レオンが、その横で、深く、感慨深げに頷いた。
「この国から、偽りの神を追い払い、人々が、真に、自らの意志で祈りを捧げられる国を、俺たちは、これから作っていく」
彼の瞳には、困難な未来を見据える、強い光が宿っていた。
健太は、そんな彼らの様子を、少し離れた場所から、興味なさそうに眺めていた。
彼は、自分の背後で、ずっと震えていた、一人の少女に、向き直った。
司祭の娘、セシル。
彼女は、解放された他の囚人たちと共に、この信じがたい逆転劇を、ただ、呆然と見つめていた。
彼女の隣では、親友であったリナが、地面に膝をつき、嗚咽を漏らしながら、何度も、何度も、セシルに謝罪の言葉を繰り返している。
「ごめんなさい…セシル…ごめんなさい…! 私は、ただ、怖くて…!」
セシルは、そんな彼女を、静かな、凪いだ瞳で見下ろしていた。
憎しみは、なかった。
軽蔑も、なかった。
ただ、深い、深い悲しみと、そして、もう二度と、元の関係には戻れないという、冷徹な諦観があるだけだった。
「…もう、いいの、リナ」
セシルは、静かに言った。
「あなたのしたことを、許すことは、できないかもしれない。でも、あなたを、責めることも、私には、できない。ただ…もう、私の前から、いなくなって」
その言葉を最後に、セシルは、リナに背を向けた。
そして、彼女を絶望の淵から救い出してくれた恩人――健太たちの元へと、ふらつく足で、しかし、確かな意志を持って、歩み寄った。
彼女は、健太の目の前で、深々と、その頭を下げた。
汚れた亜麻色の髪が、地面につきそうになる。
「あの…本当に、ありがとうございました。あなた方がいなければ、私は、今頃…」
「いーってことよ。気にすんな」
健太は、いつもの調子で、ひらひらと手を振った。
セシルは、顔を上げた。
その瞳には、涙が溜まっていたが、もはや、絶望の色はなかった。
そこには、自らの意志で、未来を選び取ろうとする、強い光が宿っていた。
「一つ、お願いがあります」
彼女は、きっぱりとした声で言った。
「私の居場所は、もう、この街には、どこにもありません。父も、友人たちも、私が『異端』の烙印を押されたことで、私を遠ざけるでしょう。そして、私自身、もはや、偽りの神を信じることはできません」
彼女は、一行の顔を、一人ひとり、順番に見つめた。
「どうか、私を、あなたたちの旅に、連れて行ってはいただけないでしょうか。私は、戦う力もありませんし、足手まといになるだけかもしれません。ですが、何でもします。掃除でも、洗濯でも、どんな雑用でも、喜んでやらせていただきます。ですから…どうか…」
その声は、最後には、懇願になっていた。
健太は、その申し出に、にぱーっと、だらしない笑顔を浮かべた。
「お、マジで? また女の子が増えるのか。もちろん、大歓迎だぜ!」
「こら、ケンタ! 少しは真面目に…!」
フィーナが、呆れて彼を窘める。
ゴルドが、腕を組んで、唸った。
「うーん、だがよぉ。こいつは、見ての通り、戦力にゃならんぞ。足手まといが増えるだけじゃねえか?」
「そうですね」
ルミナも、冷静に同意した。
「私たちの旅は、ただの遊覧ではありません。危険が伴います。覚悟のない者を、連れて行くわけには…」
二人の、もっともな反対意見。
しかし、それを遮ったのは、フィーナだった。
「――いいえ。私は、この方をお連れするべきだと思います」
彼女は、セシルの手を、優しく握った。
「彼女の気持ち、今の私には、痛いほど、分かります。故郷を失い、帰る場所をなくした、その孤独と、絶望が。だからこそ、この方を、一人にしておくことは、私にはできません」
フィーナの、王女としての、そして、同じ痛みを分かち合う者としての、強い言葉に、ルミナもゴルドも、ぐっと、言葉を詰まらせた。
最終的に、健太が、いつものように、あっさりと結論を出した。
「はい、決定ー! これで、うちのパーティーは五人な! よろしくな、セシルちゃん!」
こうして、司祭の娘セシルは、半ば強引な形で、健太一行の、新たな仲間となった。
***
法国の混乱は、予想以上だった。
絶対的な権力者であった法王が失脚したことで、国全体が、巨大な嵐に見舞われたかのように、揺れていた。
レオン率いるレジスタンスが、一時的に、街の秩序維持に努めていたが、彼らだけの力では、限界がある。
各地で、権力の空白を狙う、大小様々な派閥が、不穏な動きを見せ始めていた。
「…この街も、長居はできそうにないな」
レオンは、一行に、心からの感謝を伝えた後、そう言った。
「君たちは、この国の歴史を、動かしてくれた。本当に、感謝している。この後の、泥臭い仕事は、俺たちに任せて、君たちは、君たちの旅を続けてくれ」
「レオンさん…」
「心配するな、姫様。俺は、誓う。この国を、恐怖ではなく、真の祈りと、人々の笑顔に満ちた場所に、必ず、変えてみせる」
レオンと、固い握手を交わし、一行は、混乱するアークライトの街を、静かに後にした。
街道に戻った一行は、今後の進路について、話し合った。
「東へ向かうのは、危険でしょう」
ルミナが、地図を広げながら言った。
「この先は、魔族の支配領域に、ますます近づいていきます。フィーナ様の言う『勇者』の手がかりも、今のところ、全くありません」
「うむ」
ゴルドも、頷いた。
「一度、南へ下り、人間の国々の中で、最も栄えていると言われる、『水の王国アクアフォール』へ向かうのが、得策だろう。そこからなら、船で、大陸の別の場所へ渡ることもできるはずだ」
こうして、一行の、次なる目的地は、南の水の王国、アクアフォールと決まった。
新たにセシルを加えた、五人の旅路は、これまで以上に、賑やかなものとなった。
セシルは、最初こそ、おどおどとしていたが、フィーナが、姉のように、優しく彼女の面倒を見た。
ルミナも、口では厳しいことを言いながら、さりげなく、彼女の歩調を気遣ったり、薬草の知識を教えたりしていた。
ゴルドは、不器用ながらも、夜、焚き火の番をするセシルに、自分の上着を、黙ってかけてやったりしていた。
そして、健太は、相変わらずだった。
「セシルちゃん、これ、美味いぞ! 食うか?」
「うわっ! ケンタさん、それは毒キノコです! 食べられません!」
そんな、どこか、ちぐはぐで、しかし、温かい日々が、続いた。
***
南へ向かうにつれて、風景は、劇的に変化していった。
乾いた土の大地は、次第に、瑞々しい緑の牧草地へと姿を変えていく。
街道沿いには、無数の小川が、せせらぎの音を立てて流れ、その水面に、夏の強い太陽の光が、キラキラと乱反射していた。
空気も、変わった。乾いた風ではなく、湿り気を帯びた、穏やかな風が、肌を優しく撫でていく。
その風は、海の匂いを、微かに運んできているようだった。
そして、数日の旅の後。
一行は、地平線の向こうに、信じがたいほどに美しい、青い光景を目にした。
巨大な湖。その湖の中心に、まるで、宝石を散りばめたかのように、浮かぶ、白と青の都市。
それが、『水の王国アクアフォール』だった。
都市は、大小様々な島々が、優美な曲線を描く、純白の橋で結ばれて、構成されていた。
建物は、白壁と、鮮やかな青い屋根で統一されており、そのデザインは、どこか、貝殻や、波の形を彷彿とさせる。
街の中には、道路の代わりに、無数の水路が、網の目のように走っていた。
ゴンドラと呼ばれる、美しい装飾が施された小舟が、その水路を、静かに行き交っている。
水は、底が見えるほどに透き通り、色とりどりの魚の群れが、優雅に泳いでいた。
太陽の光が、常に、水面に反射し、街全体が、まばゆい光の粒子に包まれているかのようだ。
ランドールの、混沌とした活気とも、アークライトの、息詰まるような秩序とも違う。
アクアフォールは、穏やかで、優雅で、そして、芸術的なまでに、美しい都だった。
「……きれい……」
フィーナも、セシルも、その光景に、ただ、感嘆のため息を漏らす。
「ふむ。水の上に、これほどの都市を築くとはな。人間の技術も、なかなか、大したものだ」
ゴルドが、珍しく、感心したように言った。
「水の精霊の、ご加護があるのでしょう。この街からは、とても、清らかなマナの流れを感じます」
ルミナも、その美しい光景に、目を細めていた。
健太は、といえば。
「うおー! 水上都市! まるで、ヴェネツィアじゃんか! シーフード! シーフード食いてえ!」
と、一人、食欲に満ちた叫びを上げていた。
一行が、長い橋を渡り、街の入り口にたどり着くと、そこには、青いマントを羽織った、王国の衛兵たちが待っていた。
彼らは、健太たちを見ると、敬礼し、代表者らしき騎士が、一歩前に進み出た。
「お待ちしておりました、旅の方々。我が王が、皆様に、謁見を求めておられます」
「え?」
フィーナが、驚いて聞き返す。
「神聖法国での、あなた方の、英雄的なご活躍の噂は、既に、このアクアフォールにも、届いております」
どうやら、彼らの名は、彼ら自身が思うよりも、遥かに速く、この大陸を駆け巡っているらしい。
王宮へと案内された一行は、アクアフォールの国王と、謁見した。
国王は、壮年だが、穏やかで、理知的な雰囲気を持つ、好人物だった。
彼は、健太たちの功績を心から称えた後、しかし、その表情を曇らせ、深刻な口調で、語り始めた。
「…あなた方に、このようなことをお願いするのは、大変、心苦しい。だが、この国は今、存亡の危機にあるのです」
国王によると、北の大陸に位置する、巨大な軍事国家『ガレマール帝国』が、アクアフォールに対し、不当な領土の割譲と、莫大な貢物を要求してきたのだという。
「我々は、もちろん、その不当な要求を、拒否した。すると、帝国は、それを口実に、十万を超える大軍勢を、我が国の北の国境へと、差し向けたのです。今、この瞬間にも、彼らは、進軍を続けている」
十万。
その、あまりにも現実離れした数字に、フィーナは、息を呑んだ。
「どうか、お願いしたい」
国王は、玉座から立ち上がると、一行に、深々と頭を下げた。
「あなた方の、あの、神の軍勢すらも退けたという、信じがたい力が、我らにとって、最後の、最後の、希望なのです」
その時、遥か北。
帝国軍の、巨大な陣営の中。
豪華な天幕の中で、一人の若い女性が、地図を広げ、冷たい笑みを浮かべていた。
彼女は、この十万の軍勢を率いる、総司令官。
ガレマール帝国の、皇女にして、最強の将軍、『氷の魔女』と恐れられる、ヒルデガルドだった。
彼女の、雪のように白い肌と、氷のように冷たい青い瞳が、地図上の一点――アクアフォールを、射抜いていた。
「――伝令」
彼女が、鈴のように美しい、しかし、絶対零度の冷たさを帯びた声で、呟く。
「全軍に、伝えよ。これより、進軍を再開する、と」
彼女は、立ち上がると、天幕の外に広がる、地平線の果てまで続く、自軍の兵士たちを見渡した。
「あの、美しく、しかし、無力な、水の王国のアヒルどもに、我ら、ガレマール帝国の、絶対的な力を、見せつけてやれ。抵抗する者は、一人残らず、湖の底に沈めてしまえ」
宗教国家の、歪んだ正義が去った後。
今度は、軍事帝国の、剥き出しの暴力が、この美しき水の都を、蹂躙しようとしていた。
健太は、王宮のテラスから、キラキラと輝く、アクアフォールの街並みを見下ろしながら、ぽつりと、呟いた。
「ふーん。こんな綺麗な街が、壊されんのは、ちょっと、寝覚めが悪いよな」
その、軽い一言が、この国の運命を、大きく左右することになるのを、まだ、誰も知らなかった。
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気がつくと、空を飛んで、口から火を吐いていた!
これは?ドラゴン?
僕はドラゴンだったのか?!
自分がドラゴンの先祖返りであると知った僕は、超絶美少女の王様に「もうヒトではないからな!異世界に移住するしかない!」と告げられる。
しかも、この世界では衣食住が保障されていて、お金や結婚、戦争も無いというのだ。なんて良い世界なんだ!と思ったのに、大いなる呪いがあるって?
この世界のちょっと特殊なルールを学びながら、僕は呪いを解くため7つの国を巡ることになる。
※派手なバトルやグロい表現はありません。
※25話から1話2000文字程度で基本毎日更新しています。
※なろうでも公開しています。
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