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四部
第17話:たった一人の戦場
しおりを挟む水の王国アクアフォールの王宮は、緊張と絶望に満ちていた。
謁見の間の中央に広げられた巨大な軍事地図。
その北を示す一点を、居並ぶ王国の将軍や大臣たちが、まるで死刑宣告でも見つめるかのように、暗い表情で睨みつけている。
季節は夏。
窓の外では、太陽の光が、この水の都が誇る美しい運河の水面に反射し、天井に、ゆらゆらと光の模様を映し出している。
水のせせらぎと、街の穏やかな喧騒が、風に乗って、この息の詰まるような部屋にまで届いていた。
だが、その平和な音は、かえって、この場にいる者たちの絶望感を際立たせるだけだった。
「―――ガレマール帝国の先遣隊が、三日前に、国境の砦を突破したとの報告が入っております」
騎士団長を務める、白髪の老将軍が、かすれた声で報告した。
「我が国の兵力は、全兵力を結集しても、わずか五千。そのほとんどは、実戦経験のない若い兵士たちです。対する帝国軍は、十万。しかも、百戦錬磨の正規軍。籠城したとしても、一週間と持たないでしょう。…もはや、万策、尽きましたな…」
重いため息が、部屋のあちこちから漏れた。
ある者は天を仰ぎ、ある者は固く目を閉じる。
誰もが、この美しき都が、北の軍事大国の鉄蹄に蹂躙される未来を、ありありと幻視していた。
その、通夜のような重苦しい雰囲気を、まるで意に介さない声が、唐突に響いた。
「よし」
声の主は、健太だった。
彼は、会議の間、ずっと、用意された高級そうな椅子が、自分の尻にフィットするかどうかを試すことに夢中だったが、ようやく話が一段落したとみて、ぽんと膝を打ったのだ。
「じゃあ、俺が、なんとかするわ」
その、あまりにも軽い、緊張感のかけらもない一言に、部屋にいた全員の視線が、一斉に彼へと突き刺さった。
国王が、すがるような目で問いかける。
「…おお、ケンタ殿。引き受けて、くださるか」
「うん。まあ、なんか、困ってるみたいだし」
健太は、あっさりと頷いた。
その返答に、隣に座っていたゴルドが、呆れたように、その見事な髭をわしづかみにした。
「はっ、言うと思ったぜ、この朴念仁が。で、どうするんだ? まさかとは思うが、一人で、あの十万の軍勢に、喧嘩を売りに行く、なんて言わねえだろうな?」
「うん」
健太は、ゴルドの問いに、にこやかに、そして、即答した。
「そのまさかだけど。一人で行ってくるわ」
「「「なっ!?」」」
今度こそ、健太以外の全員が、驚愕の声を上げた。
アクアフォールの老将軍が、血相を変えて立ち上がる。
「無謀だ! 若者よ、いくら貴殿が、神の如き力を持つと噂されていても、それは、あまりにも、無謀すぎる! それは、勇気ではない! ただの、自殺行為だ!」
「そうですよ、ケンタさん!」
フィーナも、青い顔で彼に詰め寄る。
「危険すぎます! 私たちも、一緒に行きます!」
「いやいや」
健太は、そんな彼女たちの心配を、ひらひらと手で制した。
「だってさ、その方が、早いじゃん。それに、みんなで行ったら、足手まとい、っていうか…まあ、俺、みんなを守りながらだと、全力を出せないかもしれないし?」
その言葉には、悪意はなかった。
ただ、純粋な事実として、そう言っただけだった。
だが、その言葉は、彼の仲間たちに、改めて、自分たちと彼との間にある、絶対的な力の差を、痛感させるものだった。
ルミナが、深いため息をついた。
その翡翠色の瞳には、諦観と、そして、どこか、この常識外れの男への信頼が入り混じった、複雑な色が浮かんでいた。
「…分かりました。どうせ、私たちが、何を言っても、あなたは、聞く耳を持たないのでしょう」
彼女は、やれやれ、といった風に、首を振った。
「…どうせ、やるんでしょ」
それは、もはや、このパーティーにおける、決定事項に対する、合言葉のようになっていた。
***
出陣の朝。
アクアフォールの、北の城壁の上に、健太は、たった一人で立っていた。
夏の朝の空気は、どこまでも澄み渡っている。
昇り始めた太陽が、眼下に広がる巨大な湖の水面を、黄金色の絵の具で染め上げていた。
キラキラと輝くその光景は、この世のものとは思えないほどに美しい。
だが、北から吹いてくる風は、その美しさとは不釣り合いな、不吉な匂いを運んできた。
遠い、鉄の匂い。
そして、大軍勢が巻き上げる、乾いた土埃の匂い。
戦の、匂いだ。
健太は、いつものように、簡素な旅人の服を着ているだけだった。
武器も、鎧も、持っていない。
彼が、これから、十万の軍勢と対峙しようとしているなどとは、その姿からは、到底、信じられないだろう。
彼の後ろには、仲間たちと、国王、そして、数人の将軍たちが、不安げな表情で、彼を見守っていた。
「ケンタさん…これを…」
フィーナが、お守りとして、王家に代々伝わる、小さな銀のペンダントを、彼に差し出した。水の精霊のご加護が宿っているという、由緒ある品だ。
健太は、そのペンダントを一瞥すると、にっと笑って、彼女の手に、そっと押し返した。
「気持ちだけ、貰っとくわ。大丈夫だって。俺、頑丈なのが取り柄だから」
その、根拠のない自信に満ちた笑顔に、フィーナは、不安ながらも、こくりと頷くことしかできなかった。
「…おい、朴念仁」
ゴルドが、ぶっきらぼうに言った。
「絶対に、死ぬなよ。てめえに借りを返すまでは、勝手に死ぬんじゃねえぞ」
「無茶だけは、しないでください」
ルミナも、静かに、しかし、その瞳には、強い心配の色を浮かべて、言った。
「あなたの命は、もはや、あなただけの者ではないのですから」
「ケンタさん…お気をつけて…」
セシルは、ただ、胸の前で、小さく手を組んで、祈っていた。
仲間たちの、それぞれの言葉を受け止め、健太は、ひらひらと、軽く手を振った。
「んじゃ、ちょっくら、行ってくらあ」
彼は、そう言うと、城壁の階段を降り、たった一人で、城門をくぐり、北の広大な平原へと、歩き出していった。
城壁の上から、仲間たちが見守っている。
巨大な城壁を背景に、平原を歩いていく彼の背中は、あまりにも、小さく、頼りなく見えた。
***
その頃、遥か北。
地平線の果てまでを埋め尽くす、鋼鉄の軍勢が、その進軍の足を、止めていた。
ガレマール帝国、北方方面侵攻軍。その数、十万。
整然と組まれた歩兵の方陣は、まるで、巨大な鉄の櫛のようだ。
その間を、重装鎧に身を包んだ騎士団が、騎馬の上で、微動だにせず、命令を待っている。
後方には、巨大な投石機や、破城槌といった、おぞましい攻城兵器が、まるで、古代の怪物のように、いくつも鎮座していた。
兵士たちの、統率された呼吸。
鎧の擦れる、かすかな音。軍馬の、いななき。
それらが、一つの巨大な生き物の、唸り声のように、大地を、低く、震わせていた。
その、圧倒的な軍勢の、さらに先頭。
一頭の、神々しいまでの純白の軍馬の上に、一人の女性が、静かに座っていた。
皇女ヒルデガルド。
雪のように白い肌。氷のように冷たい、サファイアの瞳。銀糸で縁取られた、漆黒の軍服。その姿は、まるで、戦場に舞い降りた、死を司る女神のようだった。
彼女の周りだけ、夏の熱い空気さえもが、凍てついているかのような、絶対零度のオーラを放っている。
彼女は、その氷の瞳で、遥か南、アクアフォールの、か細い城壁を、見据えていた。
「―――報告!」
一人の斥候が、馬を走らせ、彼女の元へとやってきた。
「前方より、敵性存在を確認! …数は、一名! 丸腰です!」
その報告に、ヒルデガルドの周囲に控えていた、歴戦の将軍たちが、思わず、嘲笑の声を上げた。
「一名だと? 降伏の使者か?」
「あるいは、自らの死に場所を求めて、さまよい出た、狂人ですかな、姫様」
しかし、ヒルデガルドは、笑わなかった。
彼女は、手に持っていた、精巧な魔道具の遠眼鏡を、すっと、目に当てた。
レンズの向こうに、平原を、一人で、のんびりと、こちらに向かって歩いてくる、若い男の姿が、はっきりと見えた。
その姿は、あまりにも、無防備。
あまりにも、緊張感がない。
狂人か、あるいは――。
ヒルデガルドの、美しい唇の端が、微かに、吊り上がった。
「…面白い」
彼女は、呟いた。
「全軍、停止。あの男が、何をしようとしているのか、見届けてやろう」
彼女の、その一言で、十万の軍勢は、まるで、一つの生き物のように、その動きを、完全に、停止させた。
***
健太は、帝国軍の、巨大な陣営の、ちょうど、矢が届くか、届かないか、という、絶妙な距離で、ぴたり、と足を止めた。
目の前には、地平線を埋め尽くす、鋼鉄と、殺意の壁。
普通なら、その圧倒的な威圧感だけで、気を失うか、発狂してしまうだろう。
だが、健太は、そんなことには、全く、興味がなかった。
彼は、ふぁ~あ、と、大きな欠伸を一つすると、その場に、どかっと、あぐらをかいて、座り込んだ。
その、あまりにも、予想外で、あまりにも、ふざけた行動に、帝国軍の最前列にいた兵士たちの間に、どよめきが走った。
「な、何をしているんだ、あの男は…」
「我々を、愚弄しているのか…?」
健太は、そんな彼らの困惑など、知ったこっちゃない、といった風に、目を閉じ、何やら、ぶつぶつと、呟き始めた。
それは、詠唱ではなかった。祈りでも、なかった。
ただの、彼が、その場のノリで、適当に考えた、お願い事のようなものだった。
「さて、と。…えーっと…。神様、仏様、ご先祖様。…この世界にある、全ての武器という武器は、人を殺したり、傷つけたりするためのモンじゃなくて、本当は、畑を耕したり、美味しい料理を作るための、平和な道具でしたー、みたいな感じに、なりませんかねぇ…? なったら、ウケるよなー…うん」
彼は、まるで、七夕の短冊に願い事を書くような、ごく、軽い気持ちで、心の中で、そう、念じた。
彼自身、それで、一体、何が起こるのかなんて、全く、分かってはいなかった。
ただ、彼の能力『絶対不干渉』は、彼の、その、無自覚で、無邪気で、しかし、絶対的な「願い」を、「世界のルールを書き換える命令」として、忠実に、実行した。
最初は、何も起こらなかった。
ただ、静寂があった。
帝国軍の、ある将軍が、「やはり、ただの、たわけか! 全軍、構え!」と、叫ぼうとした、その瞬間だった。
―――カシャン。
小さな、乾いた音が、どこかで響いた。
それを皮切りに、その音は、次々と、伝染していった。
カシャン。
カラン。
ポトリ。
グニャリ。
帝国軍の、最前列の兵士が、自分の手に持っていた、鋭利な刃を持つはずの、鋼鉄の剣を見た。
その剣の、切っ先が、まるで、熱した飴のように、ぐにゃり、と、だらしなく、垂れ下がっていた。
「な…なんだ、これは…!?」
彼が、驚いて、剣を振ろうとすると、剣身全体が、まるで、茹で過ぎたパスタのように、ふにゃふにゃになってしまった。
その、奇妙な現象は、一つの部隊だけではなかった。
地平線の果てまで続く、十万の軍勢、その全てで、同時に、起こっていたのだ。
兵士たちが、その身に纏っていた、硬いはずのプレートアーマーが、湿ったパン生地のように、ぐにゃぐにゃと、形を崩し始めた。
兜は、その重みを支えきれず、へしゃげて、兵士たちの視界を塞いだ。
弓兵たちが構えていた、強靭な弓の弦は、弾力のない、ただの、だらしない紐になった。矢の、鋭い鏃は、なぜか、ふわふわの、マシュマロのような感触に変わっていた。
後方で、威容を誇っていた、巨大な攻城兵器も、その構造を維持する「物理法則」そのものが、その場から消え失せたかのように、ゆっくりと、自重で、メキメキと音を立てながら、崩壊していく。
十万の軍勢は、その、暴力の象徴たる「武装」を、一滴の血も流すことなく、完全に、奪われた。
彼らはもはや、「軍隊」ではなかった。
ただの、「奇妙な形をした、鉄屑と、布切れを持った、十万人の、人の群れ」へと、成り下がっていた。
パニックが、波のように、広がっていく。
「う、腕が、鎧から抜けん!」
「俺の槍が、コンニャクに…!」
「何が起きたんだ、これは! 呪いか!?」
皇女ヒルデガルドもまた、その例外ではなかった。
彼女は、自らの腰に佩いていた、帝国の至宝にして、伝説の魔剣『グラム』が、鞘の中で、ただの、装飾過多な、鉛の棒になっていることに、気づいた。
彼女の、常に、氷のように冷静沈着だった、完璧な貌に、生まれて初めて、亀裂が走った。
驚愕。
混乱。
屈辱。
そして、目の前の、たった一人の男が引き起こした、理解不能な現象に対する、原始的な、恐怖。
「……ば…かな……」
その、美しい唇から、か細い、信じられない、といった響きの声が、漏れた。
健太は、そんな、大混乱に陥った、十万の軍勢を、一瞥すると、もう一度、大きな欠伸をした。
そして、彼は、ゆっくりと立ち上がると、ズボンの埃を、ぽんぽんと、手で払った。
まるで、ちょっとした、畑仕事でも終えたかのような、気軽さで。
彼は、もう、帝国軍には、何の興味も示さなかった。
ただ、アクアフォールの、美しい城壁の方へと、向き直ると、来た道を、のんびりと、とぼとぼと、歩き始めた。
「あーあ、腹減ったなー。今日の昼飯、なんだろなー」
そんな、呑気な呟きが、風に乗って、誰に聞こえるでもなく、消えていった。
彼の背後には、ただ、呆然と立ち尽くす、かつて、軍隊だったものの、残骸が、地平線の果てまで、広がっているだけだった。
それは、この世界の、誰もが語り継ぐことになる、「たった一人の戦場」と呼ばれる、あまりにも、シュールで、あまりにも、圧倒的な、神の悪戯のような、光景だった。
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