神様は「数式」で、僕は「ちくわ」だった

Gaku

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第5話 苦しみという名のバグ

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「私はただの渦で、実体のない現象にすぎない」
 混濁する意識の淵で、自分自身にそう言い聞かせ、納得させたつもりでした。肉体という重枷から解き放たれ、ただ大気に溶けていくエネルギーの残滓。そう理解しているはずなのに、胸の奥底……かつて心臓があった場所が、灼熱の鉄を押し当てられたかのようにズキズキと疼き、その脈動を止めることができません。
 それは、アスファルトに叩きつけられた時の物理的な衝撃による痛みではありませんでした。もっと古く、魂の最深部にまで根を張った、澱のような苦しみです。

 視界の端で、色の褪せた走馬灯が次々と明滅を始めます。
 三年前、湿り気を帯びた夜の街灯の下。別れを告げて立ち去る恋人の、二度とこちらを振り返らないと決めた冷徹な背中。
「あなたと一緒にいても、未来が見えない」
 あの日、耳に張り付いたその言葉が、今さらになって心臓を直接握りつぶすような鈍い感触を伴って蘇ります。あるいは、オフィスを包む静まり返った空気の中、冷たい蛍光灯の光に晒されながら上司の前で額を畳に擦り付けるようにして下げ続けた、あの焼け付くような屈辱。親孝行の一つも叶えられぬまま、冷えたコンクリートの上で無残に散っていく自分自身への、救いようのない情けなさ。

「……くそっ」
 実体を持たないはずの視界が、じわりと熱い涙に滲みました。
 物理現象だとか、ただの渦だとか、どんなに高尚な言葉で定義されようとも、この胸を掻きむしる「悔しさ」だけは、生々しいほどにリアルでした。冷たい虚無に飲み込まれようとする今、この痛みだけが、私が私であったことの唯一の証明であるかのように突き刺さるのです。

「あらあら。渦が乱れていますね」
 不意に、透き通った鈴の音のような声が響きました。
 女神が心配そうに、私の意識の拠り所を覗き込んできます。その瞳は、暗闇の中で静かに輝く星を湛えたようで、駄々をこねる子供を慈しむ母親のように穏やかな光を宿していました。
「苦しいですか?」
「……苦しいですよ。当たり前でしょう。やり残したことばかりだ。指の間から、大事なものが砂みたいに零れていったんだ」
「どうして苦しいんだと思います?」
 彼女は、私の胸――かつて心臓が拍動し、熱を持っていたあたりに、透き通るような白磁の手をそっとかざしました。触れてはいないはずなのに、そこから微かな温もりが伝わってきます。
「それはね、あなたの心が『こうあるべきだ』という理想の形に踏ん張っているのに、無情な現実は『そうじゃない』方向へと激しく流れているから。その激しいズレが、摩擦熱のように熱を持って、あなたの心を焦がしているんです」

「摩擦……熱?」
「ええ。想像してみて。急流の中で、ただ流されるのを拒んで岩にしがみつこうとしたら、指先は剥がれ、体中に痛みが走るでしょう?
『彼女は私を愛するべきだった』
『仕事は成功するべきだった』
『まだこんなところで死ぬべきじゃない』
 そうやって、必然として流れていく現実に必死に逆らって、『私が! 私が!』と過去や執着にしがみついているから、激しい摩擦が起きて痛むんですよ」
 彼女は、残酷な真理を、まるで子守唄を歌うかのような優しさで告げました。
「本当はね、『あ、フラれたな』『あ、失敗したな』『あ、今死ぬんだな』と、ただの自然現象として流してしまえば、そこには何の苦痛も存在しません。空から雨が降ってきて、『なぜ雨が降るんだ! 痛い!』と泣き叫ぶ人はいませんよね? あなたが今苦しいのは、目の前の現実を受け入れられず、無理やりその流れを捻じ曲げようと抗っているからなんです」

「そんなこと言ったって……! 感情があるんだから、抗いたくなるのは仕方ないだろ!」
 行き場のない憤りに、私の意識の渦が激しく逆巻きました。声を荒げた私に対し、彼女は困ったように、けれどどこか悲しげに眉を下げます。
「その『感情』こそが、人間という精密な生体機械に組み込まれた、非常に厄介で原始的なプログラムなんですよ」
 彼女が虚空に指を走らせると、そこには色鮮やかな薬液が満たされたフラスコやビーカーが、ホログラムのように浮かび上がりました。
「ドーパミン、セロトニン、アドレナリン……名前くらいは聞いたことがありますよね? これらはすべて、あなたという個体を種として存続させるために操る『命令チップ』のようなものです」

 彼女は、脈打つように赤く発光する液体の入ったビーカーを指差しました。
「例えば、今あなたが感じている『寂しい』や『辛い』という切実な気持ち。これは、『群れから離脱すると生存率が下がるから、早く誰かと合流しなさい!』あるいは『この環境は生存に著しく不適切だから、一刻も早く逃げ出しなさい!』という、脳内から発せられる強烈な緊急アラートに過ぎません。ただの化学物質が引き起こす『命令』であって、そこにあなたの魂の高潔な叫びなんて、実は存在しないのです」
「……命令? 僕のこの絶望が、ただの信号だって言うのか?」

「そう。あなたはホルモンという物質の奴隷になって、『苦しめ!』『後悔しろ!』と命じられ、そのプログラム通りに忠実に反応しているだけの操り人形なんです。そうやって不快感を与えないと、生き残れないほど弱い生き物だった頃の名残ですね」
 私は、言葉を失いました。
 胸を焦がしたあの失恋の痛みも、泥を啜るような後悔も、すべてはただの脳内物質が仕掛けた「強制イベント」に過ぎなかったのか。一人で悩み、のたうち回りながら出した答えすら、あらかじめシミュレートされた化学反応の結果にすぎないというのか。

「……じゃあ、何か? 今、僕があなたを見て『美しい』と思っていることも、こうして言葉を交わして『救われた』と感じているこの気持ちも……全部、ただのバグ(誤作動)だって言うんですか?」
 震える声で、縋るように問いかけました。
 すると彼女は一瞬、きょとんとした表情を浮かべ、それから――今までで見せたどんな神聖な微笑よりもずっと、人間臭く、柔らかに微笑みました。
「ええ、そうですよ。生殖の必要も、生存の利害関係もないはずの私に対して恋心を抱くなんて、プログラムとしては完全に致命的なバグ(不具合)ですね」

 彼女はそっと、私の輪郭のない頬に手を添えました。
 触れ合っているはずのないその場所から、驚くほど熱い温度が流れ込んできます。
「でもね……私は、そのバグが嫌いじゃありませんよ」
「え……?」
「計算通りの処理しか行わないシステムは、完璧ですが、この上なく退屈です。でも、人間は違う。苦しみという摩擦熱にその身を焼かれ、ボロボロになりながらも、それでも『こうありたい』と願って、宇宙の摂理にさえ合わない巨大なエネルギーを生み出してしまう。それは確かにバグですが……宇宙で最も綺麗なエラーだと、私は思います」
 彼女の透徹した瞳が、私の存在の核を真っ直ぐに射抜きました。

「マサキさん。あなたの肉体の灯火は、もう限界を迎えています。古いプログラムに振り回され、苦しみの摩擦熱に焼かれたまま、現象として消えていくか。それとも、そのバグをあえて利用して、最後にあなた自身の意志で『何か』を選び取るか。……どうしますか?」
 その問いかけは、穏やかでありながら、究極の選択を迫る鋭さを持っていました。
 ただ流されるだけの、無力な渦として終わるのか。それとも、この幻のような女神の手を取り、運命というシステムに一矢報いるのか。

「……バグ上等だよ。どうせ最後なら、システムをぶっ壊すくらいの足掻きを見せてやる」
 私が意識の底で不敵にニヤリと笑うと、彼女もまた、共犯者を見つけた少女のように美しく、悪戯っぽく笑いました。
「ふふ。そうこなくっちゃ。じゃあ、その『後悔』という名のノイズ混じりのエラー信号、すべて私と一緒に書き換えてしまいましょうか」

(第6話へ続く)
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