神様は「数式」で、僕は「ちくわ」だった

Gaku

文字の大きさ
9 / 15

第8話 幸せの正体

しおりを挟む
視界の端から端まで、一点の染みすら許さない純白が支配する、静謐な虚無の空間。
天も地も、遠近感さえもが消失したその場所は、まるで色の概念が生まれる前の世界のように無機質で、絶対的な静寂に包まれていました。
しかし、その完璧な静止の中に、異質な不協和音が混じり始めます。
ジジッ、ジジジ……。
それはかつてのブラウン管テレビが、放送終了後の真夜中に流していた砂嵐のような、鼓膜を微かに逆撫でするザラついたノイズでした。遠い銀河のさざ波のように微かでありながら、それは確実に、この世界の滑らかな輪郭を鋭利な刃物で削り取るように侵食し始めていました。

「……そろそろ、時間みたいですね」

女神が、どこまでも続く無垢な空――あるいは、そう形容するほかない頭上の空白を仰ぎ見て呟きました。
その鈴の音のように清らかな声にさえ、今は電子のささくれのようなノイズが混じり、耳元で火花が散るような痛痒さを残します。彼女の透き通るような肢体の輪郭は、時折、古いビデオテープの映像が乱れるように微かにブレては、危うい均衡を保って元に戻りました。

「僕の体……向こう側では、どうなってますか?」

僕は、自分の両手を視線の先に掲げました。指先はすでに、境界線を失い始めています。まるで薄い朝霧が日の光に溶け出すかのように、わずかに透けて見えるその向こう側に、どこまでも白い背景が虚ろに映り込んでいました。

「血圧が急速に低下しています。脳への酸素供給も、もう限界ギリギリの数値。お医者さんたちも、懸命な蘇生措置を続けてきましたが、その手をそろそろ止めようとしていますね。モニターが刻む鼓動の波形は、今まさに、命の起伏を持たない平らな地平線になろうとしています」

死。
その言葉が持つ氷のような冷たい感触が、足元からじわじわと、静かにせり上がってくるのを感じます。末端から感覚が失われていくその過程は、ひどく穏やかでした。
けれど、不思議なほど恐怖はありません。ただ、この真っ白な静寂が完全にノイズに飲み込まれて消えてしまう前に、どうしても魂の奥底に残った澱(おり)のような未練を、言葉として形にしておきたかったのです。

「ねえ、女神様。僕は……結局、幸せだったんでしょうか?」

吐き出した言葉は、ひどく頼りなく、湿り気のない空虚な空間に霧散していきました。自分でも、なんて情けない質問だろうと自嘲します。でも、自分の人生という名の物語が最後の幕を下ろそうとしている今、何かしらの「合格証」というか、未完成なままの自分を許せるための、確かな証拠が欲しかったのです。

「もっと、誰もが振り返るような大きなことを成し遂げたかった。世界中に名を知られるような有名人になりたかったし、使い切れないほどの大金に囲まれて暮らしたかった。でも、結局、僕は何も達成できずに終わる。何一つ形に残せないまま、砂の城が波にさらわれるように消えていく……。これじゃあ、救いようのない、完全なバッドエンドですよね?」

乾いた唇を震わせ、力なく笑った僕の表情は、おそらく見るに堪えないものだったでしょう。
すると女神は、まるで自分のことのように痛みをこらえるようにして、優しく眉を寄せました。彼女は僕へと歩み寄り、ひんやりとした、けれど羽毛のように柔らかな両手で僕の頬を包み込みました。

「マサキさん。あなたは、決定的な、けれどとても愛おしい勘違いをしています」
「勘違い……?」
「ええ。あなたは『達成感』と『幸せ』という、似て非なる二つの色を、パレットの上でごちゃ混ぜにしてしまっているんです」

彼女が細い指先で空間をなぞると、白一色の世界に、燐光を放つギザギザとした折れ線グラフが浮かび上がりました。
それはまるで険しい連峰のように、天を突くほど高く鋭く尖った部分と、その麓に広がる、どこまでも穏やかで平坦な土地に分かれていました。

「『有名になる』とか『大金を得る』というのは、この一時的に突き出た、鋭利な山(スパイク)のことです。これは脳内に強烈な物質が溢れ出し、神経が焦げ付くような興奮状態――いわば『やったー!』という爆発的な達成感ですね」

彼女は、ガラス細工のように鋭く尖ったグラフの頂点を指差しました。その光は強烈ですが、同時にどこか冷徹で、危ういバランスの上に立っているように見えました。

「でも、これは『幸せ』の本来の姿ではありません。ただの、一過性の『興奮』に過ぎないのです。劇薬と同じで、その効果は一瞬で切れてしまう。そして刺激が消えた後は、以前よりもさらに強い刺激を求め、逆に心が飢えて苦しくなる。これは『安らぎ』ではなく、どちらかといえば『中毒』に近いものです」
「達成感は……幸せじゃないんですか?」

僕が呆然と呟くと、彼女は静かに、けれど慈しむように首を振りました。

「ええ。多くの人間は、この『一瞬のスパイク』こそが幸福の全てだと信じ込み、一生をかけて、血を吐くような苦しいマラソンを走り続けます。あのゴールテープさえ切れば、その先に永遠の幸福が待っていると盲信して。でも、テープを切った瞬間の高揚感なんて、数分もすれば秋の夕暮れのように速やかに消えてしまう。そのわずかな一瞬のために、何十年もの人生を犠牲にするなんて、あまりに切ない計算だと思いませんか?」

その言葉は、冷たい雨のように、僕の乾いた胸の隙間へ染み渡っていきました。
思い返せば、昇進を勝ち取った夜も、何ヶ月も食費を切り詰めて憧れの車を手に入れた日も、心が震えたのは最初だけでした。翌朝にはもう「もっと上の役職を」「もっと新しいモデルを」と、目に見えない何かに追われるような焦燥感に支配されていた。
あの時、僕は満たされていたのではなく、ただ喉の渇きを一時的に癒やしていただけだったのかもしれません。

「じゃあ、本当の幸せって……一体何なんですか?」
「それは、こっちですよ」

彼女はグラフの派手な頂点ではなく、その下に広がる、広大で豊かな「土台」の部分を、愛おしそうになぞりました。
高さはないけれど、地平線の向こうまでずっと続いている、なだらかな面積の部分。そこには柔らかい陽だまりのような、黄金色の光が溜まっていました。

「凍えるような冬の日に、温かいお風呂に肩まで浸かって『はぁ~』と深い溜息をつく瞬間。
 静かな朝、淹れたてのコーヒーの香りを深く吸い込み、『うまいな』と心から思う瞬間。
 気が進まない誘いを思い切って断り、家で使い古した毛布の感触にくるまって、心ゆくまでゴロゴロすることを選んだ瞬間。
 あなたが日常の中で、ほんの少しずつ『不快』を丁寧に取り除き、自分のために『心地よい』を拾い上げてきた、その穏やかな時間の積み重ね(積分)のことなんです」
「積分……」

「そう。幸せというのは、人生の最後に首にかけられる金メダルではありません。あなたが生まれてから今日この時まで、どれだけ『心地よい時間』を積み上げられたか。その合計の『面積』そのものなんです」

彼女が手をかざすと、グラフの土台部分がいっそう眩い黄金色の光で満たされました。
派手な突き上げは少ないけれど、その土台は驚くほど厚く、どっしりとした重厚感を持ってそこに横たわっていました。

「見てください。あなたの人生のグラフ、こんなに面積が広いんですよ」
「え……そうかな。自分では、ただ周囲に流されるだけの、地味で退屈な人生だと思っていましたけれど」
「いいえ。あなたは、理不尽な上司から逃げて、傷ついた自分を守るために自分の足で立つ道を選んだ。お腹が空いた時には、他人の目なんて気にせず、その時本当に食べたいと思ったサンドイッチを頬張った。週末には誰に邪魔されることもなく、大好きな映画の世界に深く浸った。あなたは、その時々の『自分』が一番楽に、一番素直になれるように、ちゃんと自分自身を愛して選択し続けてきたんです。その『地味な心地よさ』の結晶が、これほどまでに分厚く積み上がっている」

彼女は僕の胸に、そっと掌を当てました。その微かな温もりが、今にも霧散しそうな僕の魂の輪郭を、辛うじて繋ぎ止めてくれているようでした。

「未来の成功のために『今』を殺し続ける人は、いつまで経っても幸せにはなれません。だって、幸せを感じることができる受容器は、この『今』という瞬間にしかないのですから。
『今』心地よいことを選ぶ。それを、ただ淡々と、祈るように重ねていく。
あなたはそれを無意識に、けれど誰よりも誠実にやってきた。だから、マサキさん。これは決してバッドエンドなんかじゃありません。これ以上ないほど、豊かな物語の結末なんですよ」

熱いものが込み上げ、視界を滲ませました。
僕は、何か巨大なモニュメントを人生の荒野に打ち立てない限り、自分の歩みには価値がないと思い込んでいました。
でも、違ったんだ。
冬の朝、布団の中で感じる微睡みの多幸感。夏の夕暮れ、火照った肌を通り抜ける風の涼しさ。雨音をBGMにしながら、誰にも邪魔されず本を読む静けさ……。あの一瞬一瞬の、名前もないような些細な心地よさこそが、僕の人生を密やかに満たしていた「幸せの正体」だった。

「……そっか。僕は、ずっと幸せの中にいたんですね」
「ええ。ちゃんと、たっぷりとね。誰に誇る必要もない、あなただけの贅沢な面積です」

彼女が慈しむように微笑むと、空間を揺らすノイズがいっそう激しく、耳をつんざくような激動に変わりました。
僕の足元から、白い光が細かい砂のような粒子となって、天に向かって静かに舞い上がり始めています。肉体という檻から解き放たれ、データの海へ、あるいは宇宙の大きな循環へと、僕という存在が分解されていく合図でした。

「さて、いよいよです。マサキさん、怖くないですか?」
「不思議と、もう怖くないです。だって……」

僕は彼女を、真っ直ぐに見つめました。
この美しい、けれどどこか寂しげなシステムとの対話。
古いプログラムが起こした、単なる感情のバグだと言われたとしても。この知的で、穏やかで、深く自分を受け入れている今この瞬間の充足こそが、僕の人生で一番「心地よい時間」だと、魂の震えが教えてくれていたからです。

「だって今、この瞬間が、これまでの人生で最高に満たされていますから。これが僕の人生の、最後の一片を埋める積分のピースです」

僕が確信を込めてそう答えると、彼女は嬉しそうに目を細め、そしてゆっくりと、母が子供を迎え入れるように両手を広げました。

「ふふ。合格です。……さあ、おいでなさい。その重たいハードウェア(肉体)を脱ぎ捨てて、ただ光のように軽くなる時間ですよ」

僕の意識は、眩い光の粒子の中に溶け込み、重力からも、時間からも、あらゆる焦燥からも解き放たれていきました。後に残ったのは、ただ穏やかで、広大な黄金色の面積だけでした。

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

転生したら世界一の御曹司だった〜巨乳エルフメイド10人と美少女騎士に溺愛されています〜

まさき
青春
異世界転生した最強の金持ち嫡男、 専属エルフメイドと美少女騎士に囲まれて至福のハーレム生活   現代日本で「地味だが実は超大富豪」という特殊な人生を送っていた青年は、ある日事故で命を落とす。   しかし目を覚ますと、そこは魔法と様々な種族が存在する異世界だった。   彼は大陸一の富を誇る名門貴族―― ヴァン・バレンティン家の嫡男カイルとして転生していたのだ。   カイルに与えられたのは ・世界一とも言える圧倒的な財力 ・財力に比例して増大する規格外の魔力   そして何より彼を驚かせたのは――   彼に仕える十人の専属メイド全員が、巨乳美少女だったことである。   献身的なエルフのメイド長リリア。 護衛騎士でありながら隙あらば誘惑してくる女騎士シルヴィア。   さらに個性豊かな巨乳メイドたち。   カイルは持ち前の財力で彼女たちの願いを叶え、最高級の装備や生活を与えていく。   すると彼女たちの忠誠心と愛情はどんどん加速していき――   「カイル様……今日は私が、お世話をさせてください」   領地を狙う貴族を金と魔力で圧倒し、 時にはメイドたちの愛が暴走して甘すぎる時間に巻き込まれながらも、   最強の御曹司カイルは 世界一幸せなハーレムを築いていく。 最後までお読みいただきありがとうございました。よろしければ応援をお願いいたします。

番を拒み続けるΩと、執着を隠しきれないαが同じ学園で再会したら逃げ場がなくなった話 ――優等生αの過保護な束縛は恋か支配か

雪兎
BL
第二性が存在する世界。 Ωであることを隠し、平穏な学園生活を送ろうと決めていた転校生・湊。 しかし入学初日、彼の前に現れたのは―― 幼い頃に「番になろう」と言ってきた幼馴染のα・蓮だった。 成績優秀、容姿端麗、生徒から絶大な信頼を集める完璧なα。 だが湊だけが知っている。 彼が異常なほど執着深いことを。 「大丈夫、全部管理してあげる」 「君が困らないようにしてるだけだよ」 座席、時間割、交友関係、体調管理。 いつの間にか整えられていく環境。 逃げ場のない距離。 番を拒みたいΩと、手放す気のないα。 これは保護か、それとも束縛か。 閉じた学園の中で、二人の関係は静かに歪み始める――。

(完)百合短編集 

南條 綾
恋愛
ジャンルは沢山の百合小説の短編集を沢山入れました。

サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします

二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位! ※この物語はフィクションです 流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。 当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

バッドエンド予定の悪役令嬢が溺愛ルートを選んでみたら、お兄様に愛されすぎて脇役から主役になりました

美咲アリス
恋愛
目が覚めたら公爵令嬢だった!?貴族に生まれ変わったのはいいけれど、美形兄に殺されるバッドエンドの悪役令嬢なんて絶対困る!!死にたくないなら冷酷非道な兄のヴィクトルと仲良くしなきゃいけないのにヴィクトルは氷のように冷たい男で⋯⋯。「どうしたらいいの?」果たして私の運命は?

再婚相手の連れ子は、僕が恋したレンタル彼女。――完璧な義妹は、深夜の自室で「練習」を強いてくる

まさき
恋愛
「初めまして、お兄さん。これからよろしくお願いしますね」 父の再婚によって現れた義理の妹・水瀬 凛(みなせ りん)。 清楚なワンピースを纏い、非の打ち所がない笑顔で挨拶をする彼女を見て、僕は息が止まるかと思った。 なぜなら彼女は、僕が貯金を叩いて一度だけレンタルし、その圧倒的なプロ意識と可憐さに――本気で恋をしてしまった人気No.1レンタル彼女だったから。 学校では誰もが憧れる高嶺の花。 家では親も感心するほど「理想の妹」を演じる彼女。 しかし、二人きりになった深夜のキッチンで、彼女は冷たい瞳で僕を射抜く。 「……私の仕事のこと、親に言ったらタダじゃおかないから」 秘密を共有したことで始まった、一つ屋根の下の奇妙な生活。 彼女は「さらなるスキルアップ」を名目に、僕の部屋を訪れるようになる。 「ねえ、もっと本気で抱きしめて。……そんなんじゃ、次のデートの練習にならないでしょ?」 これは、仕事(レンタル)か、演技(家族)か、それとも――。 完璧すぎる義妹に翻弄され、理性が溶けていく10日間の物語。 『著者より』 もしこの話が合えば、マイページに他の作品も置いてあります。 https://www.alphapolis.co.jp/author/detail/658724858

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

処理中です...