都市伝説ファイル25

Gaku

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第一話:世界は「なんか違う」で出来ている

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春の朝というのは、どうしてこうも人を裏切るのだろうか。

窓から差し込む光は、まるで昨日精製されたばかりのような、塵一つ含んでいない純金の色をしていた。カーテンの隙間から漏れ入るその一筋は、床の上でゆっくりと移動し、まるで舞台のスポットライトのように、埃をかぶった雑誌の山を神々しく照らし出している。才能の無駄遣いとはこのことだ。

外からは、ウグイスの鳴き声が聞こえる。まだ少し練習不足なのだろう、「ホー、ホケッ…キョ!」と、最後の最後で声が裏返るあたりに初々しさが滲む。風が窓を揺らすたび、アパートの庭に立つ巨大な桜の古木が「ざわり」と音を立て、はらはらと花びらを夜の間に降った雨で湿った土の上へと散らしていく。空気はひんやりと澄み渡り、土の匂いと、桜のほのかに甘い香りが混じり合って、脳の奥を優しくくすぐる。完璧な朝だ。そう、俺、神崎健太(かんざき けんた)、三十二歳、独身、デザイナー、の存在を除けば。

「……なんでだよっ!!」

鏡の前で、俺は天を仰いだ。いや、正確にはアパートの染みだらけの天井を仰いだのだが、その絶望の角度は、ミケランジェロが描いた天井画の登場人物に匹敵するほど深かったはずだ。

鏡の中の男は、頭の右側だけが重力という概念を忘れたかのように垂直に突き立ち、左側は逆に地核の引力に魂を売ったかのようにぺったりとへばりついている。まるで現代アートのオブジェだ。『都会人の苦悩と疎外』みたいなタイトルが似合う。昨夜、完璧なコンディションで眠りについたはずなのに、なぜ朝起きると世界は俺の髪型に対してだけ、こうも無慈悲な奇襲を仕掛けてくるのか。

人生は思い通りにならない。そんなことは、三十二年も生きていれば骨身に染みて分かっている。だが、せめて自分の髪型くらいは、俺の支配下に置かせてくれてもいいのではないか。

キッチンに立てば、第二の裏切りが待ち構えていた。完璧な焼き加減を目指してトースターにセットした高級食パンが、ほんの少し目を離した隙に、黒炭と化して無残な姿を晒している。食パンのくせに、潔すぎる。武士かお前は。せめて茶色で留まるという慈悲はないのか。

「チッ……」

舌打ちと共にシンクにそれを叩きつけると、スマホが軽快な通知音を鳴らした。画面に表示されたのは、俺のチームの後輩、ユミちゃんからのメッセージだった。

『神崎さーん、おはでーす! なんか今朝起きたら、小指の爪の先っぽが欠けてて、宇宙からの「今日は休め」っていう啓示だと思ったんで、休みまーす! あとのデータ、よろしくぴょん!』

ウサギが飛び跳ねる、やたらと腹の立つスタンプ付きで。

俺はスマホを握りしめたまま、般若のような顔でしばらく固まった。指先がわなわなと震える。宇宙。啓示。ぴょん。どの単語から先にツッコめばいいのか、脳の処理能力が完全に追いつかない。俺の血管がブチ切れる音と、ウグイスの鳴き声が、完璧な不協和音を奏でていた。

そう、これが俺の日常。
神崎健太の人生とは、完璧な計画と理想を打ち立て、それが現実という名の無数の想定外の連続パンチによって、ズタボロの紙くずへと変わっていく様を眺める、壮大な一人芝居なのだ。



満員電車は、人間性の巨大な実験場だ。いかにして人は、限られた空間の中で自我を保ち、同時に他者への憎悪を募らせることができるか。その壮大なテーマを、俺は毎日肌で感じている。

今日は特にひどかった。背後のおじさんの加齢臭と前の女性の香水が鼻腔で激しい陣取り合戦を繰り広げ、俺の嗅覚をマヒさせる。さらに、斜め前の学生が聞いているシャカシャカという音漏れは、まるで俺の鼓膜をやすりで削っているかのようだ。その上、ドア際に陣取った男が、これ見よがしに英字新聞を広げているせいで、俺の顔面には世界の経済動向が常に刷り込まれ続けている。知りたくもない。特にダウ平均株価の動向など、今の俺には髪の毛一本ほどの価値もない。

会社のある駅に着き、人の波に押し出されるようにホームへ降り立った時、俺の精神はすでに満身創痍だった。もはや朝の完璧な光も、ウグイスの歌声も記憶の彼方だ。

「おはようございまーす……」

デザイン事務所のドアを開けると、そこはすでに戦場だった。俺の上司である佐伯部長が、仁王像のような顔で腕を組み、モニターを睨みつけている。

「神崎! 来たか! 昨日のお前が作ったやつ、クライアントに見せたら方向性が違うってよ。もっとこう、全体的に青で、シュッとした感じがいいそうだ」

俺は一瞬、言葉を失った。脳内で、昨夜の記憶が走馬灯のように駆け巡る。

『神崎くん、このデザインいいねえ! でも、ちょっとクールすぎるかな。もっとこう、情熱的な感じで、全体的に赤を基調にして、ドーン!とインパクトのある感じで頼むよ! 明日の朝イチで先方に見せるから!』

そう言って俺の背中を叩き、颯爽と飲み会へ消えていったのは、どこのどいつだったか。

俺は、声にならない叫びを喉の奥で噛み殺した。ドーン!はどこへ行ったんだ。俺の情熱と、睡眠時間と、目の下のクマの存在価値は、一夜にして否定されたのか。シュッとした感じ、とはなんだ。擬音でデザインの指示を出すな。俺はエスパーじゃないんだぞ。

「……承知しました。すぐに修正します」

口から出たのは、あまりにも模範的な社畜の言葉だった。心の中では、荒れ狂うヘビーメタルのシャウトが鳴り響いているというのに。

自席につくと、隣の席のユミちゃんの椅子が空いている。その空虚な空間が、俺の心の荒野をさらに広げた。彼女が残していったデータを開くと、案の定、ファイル名がバラバラで、レイヤーは統合され、昨日俺が指示した修正箇所は一つも手つかずの状態だった。デスクトップには、『あげぽよデータ』という名前のフォルダまである。今すぐそのフォルダごと、虚空に放り投げたい。

「神崎さん、これ、今日の午後三時までに、先方に再提出だから。よろしくな」

佐伯部長が、コーヒーを啜りながら悪びれもなく言った。
午後三時。現在時刻、午前九時半。修正作業と、ユミちゃんの残した残骸の処理。所要時間は、どう見積もっても八時間。物理的に不可能だ。アインシュタインもびっくりだよ。相対性理論を応用したって無理だ。

だが、俺は神崎健太。この業界で十年、数々の理不尽という名の荒波を乗り越えてきた男だ。俺の辞書に不可能の文字は……いや、めちゃくちゃあるな。むしろ俺の辞書は「不可能」と「理不尽」と「胃痛」の三つの単語で構成されている。

「やるしか……ないのか……」

俺は独りごちて、マウスを握りしめた。その瞬間、俺の脳のリミッターが外れた。

そこからの俺は、もはや人間ではなかった。キーボードを打つ指は残像で見えず、マウスのクリック音は機関銃の掃射のようにオフィスに鳴り響く。時折「なぜだ!」「そこじゃない!」という謎の奇声を発し、貧乏ゆすりは震度3を記録。カフェインを燃料に、アドレナリンを添加剤にして、俺という名のポンコツエンジンは、焼き切れる寸前の轟音を上げてフル回転した。

周りの同僚たちが、遠巻きに「今日の神崎さん、鬼神モードだ」「近寄ると呪われるぞ」と囁き合っているのが聞こえるが、もはやどうでもいい。俺は今、デザインという名の宇宙で、たった一人で巨大な敵と戦っているのだ。その敵の名は「理不尽」。あまりにも強大で、あまりにもありふれた、宿敵だ。

デザインを「赤」から「青」へ。情熱の「ドーン!」から、理知的な「シュッ」へ。それは単なる色変更ではない。コンセプトの根幹を揺るгаす、創造と破壊のプロセスだ。ユミちゃんの残した地雷原のようなデータを一つ一つ解体し、再構築していく。まるで時限爆弾を解体するような、一瞬の気の緩みも許されない作業。

昼休み、同僚たちがランチに出かける中、俺はカロリーメイトを口に押し込みながらモニターを睨み続けていた。口の中の水分を全て奪われ、まるで砂を噛んでいるようだ。それでも、俺は止まらない。止まれない。

そして、午後二時五十八分。
最後のエンターキーを、俺は渾身の力で叩きつけた。

「……で、できた……」

燃え尽きた。真っ白な灰のようだ。
俺はデータを部長に送り、椅子に深く沈み込んだ。窓の外は、すっかり午後の柔らかな日差しに包まれている。午前中の純金のような光とは違う、少しだけオレンジ色が混じった、優しい光だ。その光が、オフィスの観葉植物の葉を透かし、きらきらと輝いている。

その時、クライアントから部長に電話が入った。スピーカーフォンから、能天気な声が聞こえてくる。

『あ、佐伯さん? データ見たよー! うん、いいね! シュッとしてる! ……でもさ、なんか違うんだよなあ。やっぱり、最初の赤いやつのほうが、パッションがあって良かった気がするんだよねえ!』

俺は、何も聞こえなかった。
ただ、遠くで鳴り響く救急車のサイレンの音だけが、やけにクリアに耳に届いていた。



アパートへの帰り道は、記憶がおぼろげだ。どうやって満員電車を乗り切り、どうやって歩いてきたのか、全く覚えていない。気づけば俺は、住み慣れたアパート「月影荘」の前に、亡霊のように突っ立っていた。

夕暮れの空は、燃えるようなオレンジ色と、深い藍色が混じり合った、息をのむようなグラデーションを描いていた。庭の桜は、その夕陽を浴びて、昼間とは違う少し妖艶な薄紅色に染まっている。風が吹き抜け、花びらが渦を巻くように舞い上がった。まるで、俺の擦り切れた魂を慰めるかのようだ。いや、桜にそんな意志はない。勝手に俺がそう感じているだけだ。

俺は、ゾンビのような足取りで自分の部屋に向かおうとした。その時、声がかかった。

「おかえりなさい、神崎さん。今日は一段と、魂の抜け殻感がすごいですね」

声の主は、このアパートの大家さんであり、一階で『喫茶きりん』を営んでいる、夏目凛さんだった。
彼女は、縁側に腰掛け、湯気の立つマグカップを片手に、静かに桜を見上げていた。歳の頃は、俺と同じくらいだろうか。いや、もっと若いかもしれないし、年上かもしれない。彼女の周りだけ、時間の流れが少し違うような、不思議な雰囲気を持っている人だ。ゆったりとしたワンピースに身を包み、長い髪を後ろで一つに束ねている。その姿は、まるで一枚の絵のようだった。

俺は、その穏やかな光景を前にして、ダムが決壊するかのように、言葉を垂れ流していた。

「夏目さん……聞いてくださいよ……今日という一日が、いかに理不尽で、いかに俺の思い通りにいかなかったか……朝は髪が爆発し、パンは炭になり、後輩は宇宙の啓示で休み、上司は180度違う指示を出し、俺が血反吐を吐きながら作ったデザインは、クライアントの『なんか違う』の一言で宇宙の塵になったんです……! なんなんですか、世界は! 俺に恨みでもあるんですか!?」

マシンガンのように一気にまくし立てると、俺はぜえぜえと肩で息をした。
凛さんは、俺の激昂を柳に風と受け流し、一口、マグカップの中身をすすると、ふぅ、と白い息を吐いた。そして、俺の顔を見るでもなく、風に揺れる桜の枝に視線を向けたまま、静かに言った。

「神崎さん」
「は、はい」
「あの桜の枝、神崎さんの思い通りに揺れてますか?」

「……は?」

何を言っているんだ、この人は。俺は今日一日の怒りと疲労で、幻聴でも聞こえているのだろうか。

「いえ、だから、あの桜の枝です。神崎さんが『右に揺れろ』と念じたら、右に揺れますか?」
「……揺れるわけないでしょう。風が吹いてるから、揺れてるだけで」
「そうですよね。風が吹けば揺れるし、風がやめば止まる。ただ、そうなってるだけですよね」

凛さんは、そこで言葉を切ると、ようやく俺の方に顔を向けた。その瞳は、夕暮れの空の色を映して、どこまでも澄みきっていた。

「それと同じじゃないですかね。世界も、神崎さんの心も」

「……はあ?」

「コントロールしようとするから、腹が立つんですよ」

凛さんは、悪戯っぽく少しだけ笑った。

「天気予報を見て、明日の降水確率が90%だったら、神崎さんは空に向かって『晴れろ!』って本気で怒ります?」
「怒りませんよ。傘を持っていくか、外出をやめるか、考えるだけで」
「でしょ? 雨が降るなら傘をさせばいい。ただそれだけなのに、みんな、自分の人生のことになると、空に向かって『晴れろ!』って必死で怒鳴ってるみたいに見えます。後輩さんが突然休むのも、上司の言うことが変わるのも、クライアントの気分が変わるのも、いわば天気みたいなものです。神崎さんにはコントロールできない、ただの『現象』です。それにいちいち腹を立てるのは、ゲリラ豪雨に本気でキレてるのと同じくらい、エネルギーの無駄遣いだと思いませんか?」

俺は、ポカンと口を開けたまま、何も言えなかった。
言っている意味が、半分も分からない。だが、残り半分の、何か途方もなく重要なことを言われたような感覚だけが、ずしりと腹の底に落ちた。

コントロールできない現象。
天気と、同じ。

俺が呆然としていると、凛さんは「どうぞ」と言って、いつの間にか用意していたらしい、同じマグカップを俺に手渡した。中からは、ほうじ茶の香ばしい香りが立ち上る。

「ありがとうございます……」

俺はそれを受け取り、縁側にどっかりと腰を下ろした。温かいマグカップが、冷え切った手にじんわりと熱を伝えてくる。一口飲むと、優しい甘さと香りが、ささくれだった神経をゆっくりと解きほぐしていくようだった。

「思い通りにならないのが、当たり前……か」

俺は、誰に言うでもなく呟いた。
凛さんは、何も答えず、また桜に視線を戻している。

夜の帳が下り始め、空のオレンジ色は深い藍色に飲み込まれていく。昼間の喧騒が嘘のように、世界は静けさに包まれていた。桜の花びらが、ひらり、と俺の膝の上に落ちてきた。俺の気持ちなどお構いなしに、ただ静かに、散っていく。

今日一日、俺を支配していた燃えるような怒りが、ほうじ茶の湯気と共に、少しずつ空気に溶けていくような気がした。

後輩のユミちゃんは、やっぱり腹が立つ。
上司の無能さも、クライアントの気まぐれも、許したわけじゃない。

だけど、そんなコントロール不能なものに振り回されて、自分の心をすり減らすのは、なんだかひどく馬鹿らしいことのように思えてきた。

まだ答えは、何一つ見つからない。
明日になれば、また同じように理不尽な出来事が俺を襲うだろう。

それでも。
それでも、何かが少しだけ、ほんの少しだけ、変わり始めるのかもしれない。
そんな予感だけが、ほうじ茶の温かさと共に、疲れた体にゆっくりと染み渡っていった。
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