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第二話:高速道路下の独白
しおりを挟む結論から言おう。俺のパソコンは呪われた。
いや、正確には「呪われたかもしれないし、単に悪質なアドウェアを踏んだだけかもしれないが、どちらにせよ腹立たしいことに変わりはない」状態に陥っていた。
例の「赤い部屋」の検証動画をアップロードした夜から、俺のデスクトップの右下には、血のような赤色で書かれた「あなたは好きですか?」という小さなポップアップが、地縛霊のごとく居座り続けている。何をしても消えない。あらゆるウイルス対策ソフトを試したが、スキャン結果は常に「問題ありません」の一点張り。まるで俺の焦りを嘲笑うかのようだ。
作業中、このポップアップは常に最前面に表示される。動画の編集をしていればタイムラインの上に、ネットサーフィンをしていれば記事の本文の上に、確定申告の書類を作っていれば所得金額の上に、絶妙に邪魔な位置をキープし続けるのだ。まるで、こちらの視線を追尾しているかのような執拗さである。一度、ウィンドウを掴んで画面の彼方へ放り投げてやろうとドラッグしたことがあるが、それはゴムのようにびよーんと伸びただけで、手を離した瞬間に元の位置にシュルッと戻ってきた。その動きは、どこか生き物めいていて、薄ら寒かった。
「……だから、何が好きなのかをまず聞けよ、お前は」
俺は独りごちて、モニターの右下を指で弾いた。もちろん、物理的な衝撃でデジタルの呪いが解けるはずもない。
この一件で、俺のチャンネル『カイの都市伝説探訪』の再生数は、たしかに少しだけ上向いた。コメント欄は「ガチじゃん」「編集乙」「うちのPCにも出た(嘘松)」といった書き込みで、それなりに盛り上がっている。だが、その代償として俺のデジタルライフのQOLは著しく低下した。これは割に合う取引だったのだろうか。
そんな風に、俺がモニターの中の小さな赤色と睨み合っていた時、メールの受信を知らせる通知が鳴った。差出人は、俺が登録している、様々なオカルト情報が投稿される掲示板の管理人からだった。件名には『【要検証】人面犬、都内で目撃情報多発』とある。
また、随分と懐かしいネタが来たもんだな。
人面犬。八〇年代の終わりから九〇年代初頭にかけて、日本中を席巻した都市伝説の王様だ。人間の顔を持ち、時速百キロ以上で高速道路を駆け抜け、覗き込むと「ほっといてくれ」などと喋りかけてくるという、あの犬。俺がまだ小学生だった頃、夕方の公園で友達と「人面犬が出たらどうする?」なんて、本気で対策を話し合ったものだ。ちなみに、俺たちの結論は「とりあえず謝る」だった。何に対して謝るのかは、今となっては思い出せない。
メールには、最近になって都内の、特に首都高速沿いのエリアで「それらしきもの」の目撃談が急増していると書かれていた。添付されていた画像は、どれも夜間に撮影されたものらしく、手ブレとノイズでひどく不鮮明だったが、暗闇の中にぼんやりと光る二つの目と、四つ足の獣のような低いシルエットが辛うじて見て取れた。
「……まあ、どうせ猫かタヌキの見間違いだろ」
俺はそう呟きながらも、心のどこかがざわつくのを感じていた。デスクトップの右下では、相変わらず赤いポップアップが、静かに、しかし執拗に存在を主張している。
一つの伝説は、ただのネットミームかもしれない。
だが、二つの伝説が、こうも立て続けに俺の周りに現れるのは……。
「……考えすぎか」
俺はかぶりを振った。恐怖は、最高のエンターテイメントだ。だが、それはあくまで安全圏から眺めるから面白いのであって、自分の身に降りかかるのはご免だった。だが、同時に、動画配信者としての俺の魂が囁いていた。これは、数字になる、と。再生数という、現代の錬金術の材料になる、と。
「よし」
俺は椅子から立ち上がった。
「とりあえず謝る」時が来たのかもしれない。小学生の俺たちが立てたあの日の作戦が、三十路を過ぎた今、まさか実践で試されることになるとは、夢にも思わなかった。
◇
目撃情報が多発しているという地区は、巨大な高速道路が街を分断するように走る、古びた下町だった。高架下には小さな町工場や資材置き場が並び、その合間を縫うように、昭和の時代から時間が止まったような木造アッパートや、くたびれた商店が肩を寄せ合っている。
昼間の光の下では、そこはただの変哲もない街だった。
太陽は高く、アスファルトの匂いがむっと立ち上る。俺はカメラを片手に、情報があった場所を中心に歩き回った。
「こんにちはー、すいません、この辺で、変な犬とか見ませんでした? 顔が人間みたいな……」
駄菓子屋の店先で、猫のように丸くなって日向ぼっこをしていた老婆に尋ねると、彼女はゆっくりと目を開け、しわくちゃの顔で俺をじろじろと眺めた。
「人間の顔をした犬ぅ? あんた、頭は大丈夫かい」
ごもっともな反応だった。
近所の公園で遊んでいた小学生たちにも聞いてみた。
「人面犬? 知らなーい!」
「おじさん、ユーチューバー? 有名なの?」
「チャンネル登録してあげるから、百円ちょうだい!」
子供というのは、いつの時代も残酷なほど現実的だ。俺は財布の心配をしながら、すごすごと退散した。
結局、昼間の調査では、何一つ有益な情報は得られなかった。それどころか、町工場の頑固親父には「仕事の邪魔だ!」と怒鳴られ、主婦たちの井戸端会議に割り込もうとすれば不審者を見る目で見られ、俺のメンタルは着実に削られていった。これも一種の怪奇現象と言えるかもしれない。
陽が傾き始め、空が茜色に染まる頃、俺は高架下の小さな公園のベンチに座り込んで、ため息をついた。頭上を、ひっきりなしに車が通り過ぎていく。ゴウゴウという重低音が、腹の底に響く。コンクリートの橋脚には、意味不明なスプレーの落書きがいくつも描かれていた。風が吹き抜け、砂埃と、どこかの工場から流れてくる機械油の匂いを運んでくる。
「空振りか……」
まあ、そうだろうな。都市伝説なんて、所詮はそんなものだ。噂話が、人の口から口へと伝わるうちに、尾ひれがついて大きくなっただけの幻。そうに決まってる。
そう自分に言い聞かせながらも、俺は未練がましくカメラを構え、シャッターを切った。夕暮れの光と影が作るコントラストは、ありふれた風景にどこか不穏な表情を与える。錆びついたガードレール、雑草の生い茂る金網フェンス、そして、高速道路の橋桁が落とす、どこまでも深い影。その影の奥に、何か得体の知れないものが潜んでいても、おかしくはない。そんな気にさせられた。
日が完全に落ち、街がネオンの光と闇に塗り分けられると、この場所は昼間とは全く違う顔を見せ始めた。工場の窓から漏れる明かりはまばらになり、人通りは途絶える。高架下の闇は、さらにその濃度を増し、まるで液体のように、じっとりとそこに溜まっているように見えた。
「夜の方が、雰囲気は出るな」
俺はカメラのナイトモードをオンにしながら呟いた。視聴者は、こういう分かりやすい「怖さ」を求めている。昼間の徒労も、この夜の映像さえ撮れれば、十分に元は取れるはずだ。
俺は、特に暗く、じめじめした路地を選んで足を踏み入れた。湿ったコンクリートの壁に挟まれた、狭い道。頭上では高速道路が蓋をするように空を覆い、圧迫感がすごい。遠くでサイレンが鳴り、近くのマンホールからは不気味に湯気が立ち上っている。完璧なロケーションだ。あとは主役の登場を待つだけだが。
三十分ほど歩き回っただろうか。何も起きない。さすがに諦めがつき始めた。今日はもう帰って、適当に「謎の影が映り込んだ!」みたいなテロップでも入れて、それっぽく編集しよう。そう思いながら、角を曲がろうとした、その時だった。
視界の端を、黒い影がサッと横切った。
「!」
猫か? いや、猫にしては大きい。それに、動きが妙だ。四つ足で地面を駆ける、あの独特の滑らかさがない。どこかぎこちなく、引きずるような……。
俺は、咄嗟にカメラを構えて後を追った。
「待て!」
声を出した途端、影はさらに速度を上げた。速い。だが、噂に聞く時速百キロには程遠い。全力疾走する人間くらいのスピードだ。俺も必死で走る。カメラが揺れ、まともな映像が撮れていないことなど百も承知だが、今はそんなことを気にしている場合ではない。
影は、いくつかの路地を抜け、資材置き場のフェンスを飛び越え、再び高架下の暗闇へと消えていく。俺もフェンスによじ登り、後を追った。着地に失敗して膝を擦りむいたが、痛みを感じている暇はなかった。
追い詰めたのは、行き止まりの場所だった。高いコンクリート壁に囲まれ、うず高くゴミ袋が積まれた、街の吹き溜まりのような空間。月明かりが、辛うじてその場所をぼんやりと照らしている。
影は、ゴミ袋の山を背にして、そこに佇んでいた。
息を切らしながら、俺はゆっくりとカメラを構え、ズームしていく。
それは、犬だった。
痩せて、毛並みは汚れ、あちこちが禿げている。野良犬だろう。だが、何かが決定的に違っていた。その大きさ。中型犬よりは明らかに大きい。そして、なによりも……顔。
月光の下、そいつがゆっくりとこちらを向いた。
俺は、息を飲んだ。
そこに現れたのは、犬の顔ではなかった。
疲れ果て、世の中の全てに絶望したような、中年男性の顔だった。無精髭、落ち窪んだ目、深く刻まれたほうれい線。その瞳は、濁った光を宿し、ただじっと俺を見つめている。
「……あ」
声が出た。恐怖よりも先に、あまりの異様さに、脳の理解が追いつかなかった。
その人面犬は、何も言わなかった。ただ、数秒間、俺のことを見つめると、ふいと顔を背け、信じられないほどの跳躍力でゴミ袋の山を飛び越え、壁の向こうの闇へと消えていった。
あっという間の出来事だった。
俺は、その場に立ち尽くしたまま、しばらく動けなかった。手の中のカメラの録画ランプだけが、赤く点滅を続けている。
◇
アパートの自室に戻った俺は、憑かれたようにパソコンに向かっていた。擦りむいた膝がじんじんと痛むが、気にならなかった。
撮影した映像を、何度も、何度も見返す。
例の路地裏での追跡シーンは、案の定、ブレとノイズの嵐だった。何が映っているのか、さっぱり分からない。これでは、ただ俺が夜の街で全力疾走しているだけの、間抜けな映像だ。
そして、最後の行き止まりでのシーン。
肝心の人面犬の顔が、こちらを向いたまさにその瞬間、映像は激しいノイズと共に乱れ、何も見えなくなっていた。まるで、そこに映ってはいけないものが映り込むのを、世界そのものが拒絶したかのように。
「クソッ! これじゃただの失敗動画じゃねえか!」
俺は悪態をつき、マウスを叩きつけた。だが、その時、ふと気づいた。音声は、途切れずに記録されている。
俺は、ヘッドフォンを装着し、音声トラックの波形を睨みつけた。俺の荒い息遣いと、遠くで響く車の走行音。そして、風の音。そのノイズの奥に、何か別の音が混じっているような気がした。
俺は編集ソフトを使い、ノイズリダクションをかけ、特定の周波数帯をブーストしてみる。そして、ボリュームを最大にして、その部分を繰り返し再生した。
最初は、ただの風の音にしか聞こえなかった。
だが、十回、二十回と聞くうちに、その音は、徐々に意味のある輪郭を持ち始めた。
それは、声だった。
ひどくしわがれた、か細い、疲れ切った男の声。
俺は、息を詰めて、耳を澄ます。
風の音の隙間から、それは、確かに、こう言っていた。
『…………ほっといてくれ…………』
全身の鳥肌が、ぶわりと逆立った。
俺は、勢いよくヘッドフォンを机に叩きつけた。心臓が、警鐘のように激しく鳴り響いている。
間違いない。
聞き間違いなんかじゃない。
小学生の俺たちが立てた作戦は、間違っていたのだ。謝っても、意味はなかった。彼はただ、一人にしてほしかったのだ。この理不尽な世界で、人ならざる姿になってしまった自分のことを、ただ、そっとしておいてほしかったのだ。
俺は、呆然とモニターを見つめた。
右下では、相変わらず「あなたは好きですか?」の赤い文字が、静かに俺を見つめている。
そして、今、俺の耳の奥には、あのしわがれた声が、確かにこびりついていた。
これは、エンターテイメントじゃない。
ヤラセでも、編集でもない。
俺が足を踏み入れているこの世界は、俺が思っていたよりもずっと深く、そして暗いのかもしれない。
カメラは、回っていた。
だが、その先に何を映すべきなのか、今の俺には、もう分からなくなっていた。
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