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第1部:出会いと勘違いの旅路
*第1話:灰色の空、硝子の涙
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完璧な世界だった。
少なくとも、王女シルフィアの世界は、寸分の狂いもなく完璧に調律された、壮麗な弦楽四重奏のようだった。
うららかな初夏の陽光が、磨き上げられ、天上の乳白色をそのまま固めたかのような白亜の大理石の上で、まるで意思を持つ光の精霊のように、楽しげに踊っている。ちらちらと、金の粒子を振りまきながら。ここは王城の最も東に位置するテラス。世界中からありったけの幸福だけを丁寧に摘み取り、熟練の職人が丹精込めて作り上げた、神々のための箱庭のような場所。すぐ下に広がる庭園からは、そよ風が優しい招待状を運んでくる。風は、庭師がただシルフィアのためだけに品種改良を重ね、奇跡的に咲かせた純白の薔薇「プリンセス・ティアーズ」の、蜂蜜のように濃厚で甘く、それでいて夜明け前の朝露のように清らかな香りを、彼女の元へと届けていた。風が葉を揺らすたびに、木漏れ日がまるで万華鏡のようにその姿を変え、テラスの床に複雑で美しい模様を描き出しては、次の瞬間にははかなく消えていく。遠くからは、王宮の水路を流れる水のせせらぎが、途切れることなく耳に心地よい涼を運んできた。
「アラン。紅茶が冷めてしまいましたわ。見てちょうだい、湯気の一つも立っておりません。淹れ直してくださる?」
シルフィアは、まだ半分以上も琥珀色の液体が残っているボーンチャイナのティーカップを、白魚のような指で軽く指し示し、わざとらしく桜色の唇を小さく尖らせた。その仕草一つで、世界が彼女のために動き出すことを、彼女は生まれた瞬間から知っていた。陽光を受けてプラチナブロンドの髪が風に戯れ、きらきらと光の破片を周囲に振りまく。彼女の吐息ほどの小さな気まぐれさえも、この完璧に調律された世界においては、絶対的な法則として機能するのだ。
「かしこまりました。姫のお口に合わぬものが、この世に存在することなど、あってはなりませんから」
彼女の向かいの席に優雅に腰掛けていた騎士団長、アラン・グレイフィールドは、少しだけ困ったように眉を八の字に下げながらも、その口元にはどこまでも柔らかな笑みが浮かんでいた。深い、深い森の木々が幾千年もの月日を映してきた湖面のような、静かで理知的な緑色の瞳が、慈しむように、愛おしむように、この世の全てをそこに映すかのように、ただシルフィア一人だけを真っ直ぐに見つめている。その視線は、熱すぎず、冷たすぎず、まるで春の陽だまりのような心地よさで彼女を包み込んでいた。
彼は一つ頷くと、音もなく立ち上がった。その動きには一切の無駄がない。すらりとした長身を包む純白の騎士服が、風にはためいて微かな音を立てる。彼は黙ってシルフィアのカップを手に取ると、ワゴンに用意された銀のポットから湯を捨て、新しい茶葉を銀の匙で慎重に計り始めた。ケニルワースの春摘み。沸騰直前の湯を、少し高い位置から静かに注ぐ。立ち上る湯気と共に、ベルガモットの爽やかで華やかな香りが、薔薇の甘い香りと混じり合い、テラスの空気をさらに芳醇なものへと変えていく。その流れるような所作、シルフィアの好みを寸分違わず理解している完璧な手順、カップを彼女の前に置く際の、テーブルクロスとソーサーが触れ合うごく僅かな音さえもが、音楽の一部だった。それら全てが、彼女の世界が、彼女のためだけに秩序正しく、そして美しく動いている何よりの証だった。
「それから、アラン」シルフィアは満足げに新しい紅茶の香りを楽しみながら、次の望みを口にする。「今度の建国祭、夜会の最初のワルツ、わたくしのダンスのお相手、務めてくださるのでしょう?もちろん、あなた以外の殿方と踊る気など、毛頭ありませんわ」
その言葉は、ほとんど命令に近い響きを持っていた。だが、彼女がそう口にすれば、それは世界にとって最も自然な願い事となる。断られることなど、天が落ちてくるのと同じくらい、ありえないことだった。彼女が望めば、それが現実になる。昨日と同じように今日があり、今日と同じように、もっと輝かしく素晴らしい明日が来る。それが、この世の揺るぎない真理なのだと、彼女は何の疑いもなく信じていた。
「それは……」アランは、一瞬だけ言葉に詰まり、その緑の瞳を僅かに伏せた。長い睫毛が、彼の頬に淡い影を落とす。「望外の光栄ではございますが、私のような一介の騎士が、姫の最初のお相手など……恐れ多いことです」
「わたくしがいいと言っているのです。わたくしの騎士団長が、わたくしの手を取って踊ることの、何が問題ですの?それとも、嫌ですの?」
シルフィアは、少しだけ意地悪く、彼の瞳を覗き込むようにして言った。アランは、観念したように小さく息をつくと、顔を上げた。その表情は、幸せそうに、そして少しだけ照れたように微笑んでいた。彼の白い頬が、ほんのりと上気しているのを、シルフィアは見逃さなかった。
「……生涯の、誉れでございます。必ずや、ご期待に応えてみせましょう」
その言葉に、シルフィアは心の底から満足し、まるで小さな子供のように嬉しそうに微笑んだ。彼女は三段に重ねられたティースタンドの、一番下の皿から温かいスコーンを一つ手に取った。サクッとした軽やかな歯触り、口の中に広がる芳醇なバターと、ほのかに香る柑橘ピールの豊かな香り。添えられたクロテッドクリームの濃厚なコクと、甘酸っぱい木苺のジャムが、完璧な調和を生み出す。味覚が幸福を告げ、耳には庭園の小鳥たちの楽しげなさえずりが届き、肌には心地よい初夏の風が優しく触れる。そして視界には、ただ一人、心から愛する人の、少し照れたような、それでいて自分への愛情に満ちた笑顔がある。
ああ、なんて完璧な世界。
なんて満ち足りた午後。
この幸福は、この温もりは、この愛は、決して失われることのない、永遠のものなのだと。
彼女は、まだ、知らなかった。
本当の世界とは、人の願いを最も残酷な形で裏切るためにだけ存在する、巨大な悪意の塊であることを。
そして、幸福という名の前菜は、その後に続く絶望というメインディッシュを、より深く、より苦く味わわせるために用意された、甘く香る毒の前菜に過ぎないということを。
その、完璧に調律された世界の弦が、一本、音もなく切れた。
さえずっていた小鳥たちが、まるで指揮者の合図でもあったかのように、一斉に、ぴたりと口をつぐんだ。葉を揺らし、木漏れ日を躍らせていた風が、まるで呼吸を止めたかのように、完全に止んだ。水のせせらぎさえも、遠くなったように感じる。世界から、全ての「動き」が奪われたかのような、異様な静寂。
シルフィアが、その言いようのない違和感に眉をひそめ、顔を上げた、まさにその瞬間だった。
ゴゴゴゴゴゴゴゴ……!
それは音ではなかった。腹の底を、骨の髄を、直接揺さぶるような、低く、重い振動。ティーカップがソーサーの上でカタカタと震え、紅茶の表面に不気味な波紋が広がった。
シルフィアとアランが同時に顔を見合わせ、西の空を見やった。
信じられない光景が、そこに広がっていた。
つい先ほどまで抜けるような青空だったはずの西の地平線が、ありえない速度で、漆黒に塗りつぶされていく。それはまるで、巨大な筆に含ませた墨汁を、天という名の和紙の上にぶちまけたかのようだった。地平線の彼方から、巨大な黒い津波のように、黒煙が、絶望が、空を喰らい尽くしながら押し寄せてくる。それは、この世の終わりを告げる、巨大で荘厳な、絶望のカーテンだった。
「敵襲だ!総員、戦闘配置につけ!鐘を鳴らせ!」
アランの、今まで一度も聞いたことのない、鋼のように硬質で、剃刀のように鋭い声が、静まり返ったテラスに響き渡った。穏やかな森の湖面のようだった彼の瞳は、今や、敵意と警戒に満ちた、凍てつく冬の荒野の色をしていた。
完璧だった世界が、美しいヴェネツィアン・グラスのように、甲高い音を立てて砕け散るのを、シルフィアは確かに聞いた。
***
どれほどの時間が経ったのか。一秒が一時間にも、あるいは一時間が一瞬にも感じられるような、狂った時間の奔流の中を、シルフィアの意識は漂っていた。
彼女は、父である国王と共に、城の最上階にある謁見の間の、天井まで届くほど巨大な窓から眼下を見下ろしていた。窓枠を支える石の柱は、ひっきりなしに吹き付ける熱風によって、触れればすぐに火傷をしそうなほど熱を帯びている。
彼女が愛した、まるで宝石箱をひっくり返したように美しかった王都は、今や、阿鼻叫喚の地獄そのものと化していた。
視界の全てを埋め尽くすのは、燃え盛る炎の、狂ったような原色の赤。家々を舐め尽くす橙色の炎、何かが爆ぜて一瞬だけ輝く青白い炎、そして全てを飲み込み、天にまで届かんとする赤黒い炎。それらが混じり合い、巨大な一つの生き物のように、街を蹂躙していた。そして、空を覆い尽くすのは、希望の一欠片さえも通さない、絶望的なまでに濃い黒煙。太陽はとうにその光を失い、世界は炎の赤と煙の黒だけが支配する、終末の夕暮れを迎えていた。
風が運んでくるのは、もはや薔薇の甘い香りではない。人の肉が焼け、髪が燃え、骨が爆ぜる、聞くに堪えない音と共に鼻腔を突き刺す、 sickening な甘い匂い。鉄が錆びつき、乾いた血がこびりついた、不快な金属臭。そして、数百年かけて築き上げられた文明が、ただの灰になっていく、乾ききった虚無の匂い。
耳を劈くのは、鳥のさえずりではない。石造りの壮麗な建物が、自重に耐えきれず崩れ落ちる轟音。何かが爆ぜる、鼓膜を突き破るような甲高い破裂音。そして、何万という市民の、助けを求める声、神に許しを乞う声、愛する者の名を絶叫する声、それらが次の瞬間には断末魔の悲鳴へと変わり、やがて途切れていく、そのおぞましい瞬間の無限の連鎖。
シルフィアは、自身の耳を両手で強く塞いだが、その音は頭蓋の内側で直接鳴り響いているかのように、決して消えることはなかった。
「父様……!」
シルフィアは、隣に立つ父の、豪奢な装飾が施されたガウンの袖にすがりついた。いつもは、どんな時でも民の盾となるべく、威厳に満ち、決して揺らぐことのなかったその広い背中が、今は木の葉のように小刻みに震えているのが、布越しに伝わってきた。
魔族。古の書物にのみ記された、神話の中の災厄。その軍勢は、もはや「軍」という言葉で表せるものではなかった。それは、ただ破壊し、喰らい、蹂躙するためだけに存在する、純粋な悪意が形を取った奔流だった。王国の誇る精鋭騎士団は、まるで巨大な嵐の前に舞う木の葉のように、あまりにもあっけなく、抵抗の痕跡さえ残せずに散っていった。
「もはや、これまでか……」
国王の乾ききった唇から、砂を吐き出すような、絶望の言葉が漏れた。その瞳には、かつての叡智や威厳の光はなく、正気を失ったかのような、虚ろで不気味な光だけが宿っている。
「最後の、最後の手段を……使う」
「いけません!父様!それだけは!あれは、救いなどではありません!ただの、破滅です!私たちも、民も、この国も、全てが消え失せるのですよ!」
シルフィアは父の意図を瞬時に悟り、喉から血を吐くような、悲痛な声で叫んだ。王家に代々、最も忌むべき禁忌として封印されてきた最後の秘術。天そのものに干渉し、宇宙の法則を捻じ曲げ、巨大な隕石を召喚する。そして、指定した領域の全てを、敵も、味方も、国も、民も、草木一本、石ころ一つに至るまで、完全に、跡形もなく消滅させるという、狂気の秘術。それは救国などではない。魔族を道連れにした、壮大で無意味な心中だった。
「黙れ」
父が、地を這うような低い声で言った。その声には、何の感情も、温度もなかった。まるで、遠い世界の石像が喋っているかのようだった。
「お前のような、幸福という名の薄い硝子の内側でしか生きたことのない子供に、この絶望がわかるものか。築き上げた全てを、愛した民の全てを、目の前で蹂躙され、失っていく王のこの痛みが、わかるものか!」
その言葉は、鋭く尖った氷の刃となって、シルフィアの心を容赦なく、そして深く突き刺した。
思い通りにならない。
世界が、私の願いを裏切っていく。
父の心さえも、今や彼女の必死の叫びが届かない、遠く、暗く、冷たい場所へ行ってしまった。
父は、狂っていた。絶望という名の獣が、彼の理性を、彼の心を、とっくの昔に喰い破っていたのだ。
彼は、まるで夢遊病者のようにふらふらと窓の前まで進み出ると、両手をゆっくりと天にかざした。指先が微かに震えている。詠唱が始まった。それはもはや人間の言葉ではなかった。世界の法則そのものを無理矢理に書き換えようとする、冒涜的な響きを持った音の連なりだった。
詠唱が進むにつれて、謁見の間の空気がビリビリと震え、壁のタペストリーがひとりでに揺れ始めた。
空が、燃え盛る炎の赤から、死体が腐敗したかのような、病的な紫色へと、刻一刻とその色を変貌させていく。
見上げた紫色の空の中心が、まるで巨大な神が天蓋をその爪で引き裂いたかのように、音もなく裂けた。
その裂け目の向こう、絶対零度の漆黒の宇宙を背景にして、一つの巨大な「罰」が、ゆっくりとその姿を現す。
それは、絶望と憎悪と狂気を混ぜ合わせ、神が悪意をもって捏ね上げて創り出したかのような、巨大な岩塊だった。表面は不気味な赤黒い光を放ち、まるで地獄の業火が内側から燃えているかのように明滅している。その周囲の空間は、陽炎のようにぐにゃりと歪んでいた。眼下に見える城よりも、その背後にそびえる山々よりも、遥かに、遥かに巨大なそれが、ゆっくりと、しかし確実に、この世界に絶対的な「死」を宣告するために、落ちてくる。
シルフィアは、ただ、その光景を前に立ち尽くすことしかできなかった。
ああ、そうか。
世界とは、こういうものだったのだ。
どれだけ心から願っても、どれだけ喉が張り裂けるほど叫んでも、何一つ、私の思い通りにはならないのだ。
そして、その「思い通りにならない」という残酷な事実は、常に、私が考えうる限り最悪の形で、私の目の前に突きつけられるのだ。
***
光。
世界が、思考が、感情が、シルフィアという存在の全てが、一切の影を含まない、純粋で絶対的な「白」に飲み込まれた。
次に、音が消えた。まるで創造主がこの世界の電源を無造作に引き抜いたかのように、絶対的な無音が訪れる。悲鳴も、轟音も、父の詠唱も、心臓の鼓動さえも、何もかもが、その白い虚無の中に溶けて消えた。
そして、一瞬とも永遠とも思える静寂の後にやってきたのは、音ではなく、純粋な「破壊」という名の、圧倒的な暴力だった。
凄まじい衝撃波が、謁見の間の巨大な窓ガラスを、まるで砂糖菓子のように音もなく粉々に砕き散らし、シルフィアの華奢な体を、木の葉のようにいとも簡単に、壁へと叩きつけた。
どれほどの時間が、意識の暗闇を彷徨ったのだろう。
シルフィアが次に気づいた時、彼女はひんやりとした瓦礫の山の中に倒れていた。
降りしきる灰が、真冬の夜に降る雪のように静かに、音もなく、世界を覆い尽くしていく。先ほどまでの喧騒が嘘のように、あたりは不気味なほどの静寂に包まれていた。音という音の全てを、この分厚い灰色の雪が吸い込み、葬ってしまったかのようだった。
「……う……ぅ……」
絞り出すような呻き声が、彼女自身の喉から漏れた。身体のあちこちが、焼けるように熱く、鈍い痛みを訴えている。だが、そんなことは、もはやどうでもよかった。
朦朧とする意識の中、彼女は砕けた石に手を突きながら、必死に身を起こし、周囲を見渡した。
父の姿はどこにもない。王の権威の象徴であった壮麗な玉座も、壁に掛けられていた英雄譚を描いた美しいタペストリーも、天井から下がる巨大なシャンデリアも、何もかもが砕け散り、元の形を留めていなかった。
灰色の世界。彩度を完全に失った、死の世界。
その中で、彼女の瞳は、一点だけを見つめていた。
彼女から数メートル先。崩れ落ちた巨大な城壁の梁。その、絶望的な重さを持つ岩塊の下から、見慣れた、深い森の色をしたマントの切れ端が、僅かに覗いている。
「……アラ……ン……?」
声になっているのかいないのかも分からない、かすれた響きで、彼の名を呼ぶ。
シルフィアは、這うようにして、彼のもとへ近づいた。折れたのか、いうことをきかない右足を引きずり、鋭い瓦礫の破片で手のひらを切りながら、ただ一心に。流れる血の温かさだけが、自分がまだ生きていることを教えていた。
アランは、そこにいた。
彼は、崩れ落ちてくる梁から、咄嗟にシルフィアを庇うようにその身で突き飛ばし、自らがその下敷きになっていたのだ。身体の半分以上が、無慈悲な質量の塊に押し潰され、赤い血が、灰色の瓦礫をゆっくりと黒く染めていた。
「アラン!しっかりして!アラン!」
シルフィアは、瓦礫から覗く彼の肩を掴んで、狂ったように揺さぶった。彼はゆっくりと、本当にゆっくりと、その顔を上げた。額からは血が流れ、誇り高き騎士の鎧は無残に砕けていた。しかし、その深い森の色をした瞳だけは、いつかテラスで見た時のように、穏やかで、優しい光を宿していた。
「ひ……め……ご無事……で……よか……った……」
ゼエゼエと苦しそうな呼吸の合間に、かすれた声が彼の唇から漏れる。彼は、何かを伝えようとするかのように、ゆっくりと、震える右手を彼女に向かって伸ばした。その手は血と泥に汚れ、痛々しいほどに小刻みに震えている。
「喋らないで!お願いだから、もう喋らないで!今、助けますから!誰か!誰か来て!だから……死なないで……!」
シルフィアが、彼の震える手に自分の手を重ねようとした、まさに、その瞬間だった。
ピシッ。
まるで、真冬に凍てついた湖面に、小さな石を落とした時のような、乾いた、硬質な音がした。
アランの伸ばした指先に、髪の毛よりも細い、淡い光の亀裂が走ったのだ。
「え……?」
シルフィアの思考が、完全に停止する。
亀裂は、隕石がもたらした未知の、そして冒涜的なエネルギーによって、彼の存在そのものを内側から蝕んでいた。それは、彼の指先から始まり、手首を伝い、腕を駆け上り、肩へ、胸へと、まるで美しい樹氷が枝を伸ばすように、瞬く間に広がっていく。彼の肉体が、細胞の一つ一つが、内側から光の粒子へと強制的に変換され、世界の法則から、その存在ごと「消去」されていく。
アランは、自らの身体が消えゆくその絶望的な状況の中で、最期の力を振り絞るように、シルフィアに向かって、優しく、本当に優しく微笑んだ。そして、彼の唇が、音もなく動いた。
『ア・イ・シ・テ・ル』
その言葉が、音という形を成すことは、永遠になかった。
彼の唇が、最後の言葉を紡ぎ終える、その刹那の直前に、きらきらと輝く光の粒子となって、はかなく霧散したからだ。
次の瞬間、彼の身体は、もはやその形を保つことができず、内側から静かに崩壊した。
陽光に舞う埃よりも儚く、砂時計の砂よりも細かく。
ついさっきまで、そこに確かな温もりと生命を持っていたはずの彼の身体が、サラサラと、音もなく、灰色の塵となって風に溶けていく。
シルフィアが触れようとした指先は、虚しく空を掻いた。彼女の指の間を、彼だったものが、まるで名残を惜しむかのように、すり抜けていく。
温もりも、重さも、匂いも、声も、彼が存在したという確かな事実さえも、何もかもが、ほんの一瞬で「無」に還った。後に残されたのは、彼がいたはずの場所の、完全な空虚だけだった。
愛する国も。
尊敬する父も。
そして、今、この腕の中で、想いを寄せていた、世界でただ一人の人さえも。
自分の意志とは、自分の願いとは、全く無関係に。あまりにも理不尽に、あまりにも残酷に、全てが失われていく。
シルフィアの心の中で、何かが、ぷつりと切れた。
それは、世界と自分を繋ぎとめていた、最後の、最後の細い糸だったのかもしれない。
硝子が砕け散るような、甲高い幻聴が、頭の中に響き渡った。
ああ、そうか。
これが、答えだったのだ。
この世界に、神様なんていない。もしいるのなら、それは底意地の悪い悪魔だ。
この世界に、永遠なんてない。それは、失う瞬間の絶望を際立たせるための、甘い嘘だ。
そして、この世界は、私が最も大切だと思うものを、私が最も望まない形で、私の目の前で、粉々に砕き散らすように、最初から、そういう風に設計されているのだ。
私の思い通りにならないのではない。
私の願いと、寸分違わず正反対のことが起こるように、できているのだ。
その絶対的な、悪意に満ちた真理だけが、冷たい灰色の灰となって、彼女の砕け散った心の上に、静かに、どこまでも静かに、降り積もっていく。
涙は、一滴も出なかった。もはや、感情を抱くための器が、心のどこにも残っていなかったからだ。
シルフィアは、ただ、アランがいたはずの「無」を、大きく見開いたままの、何も映さない瞳で、いつまでも、いつまでも見つめ続けていた。
降りしきる灰が、彼女のプラチナブロンドの髪を、ゆっくりと、白く染めていった。
少なくとも、王女シルフィアの世界は、寸分の狂いもなく完璧に調律された、壮麗な弦楽四重奏のようだった。
うららかな初夏の陽光が、磨き上げられ、天上の乳白色をそのまま固めたかのような白亜の大理石の上で、まるで意思を持つ光の精霊のように、楽しげに踊っている。ちらちらと、金の粒子を振りまきながら。ここは王城の最も東に位置するテラス。世界中からありったけの幸福だけを丁寧に摘み取り、熟練の職人が丹精込めて作り上げた、神々のための箱庭のような場所。すぐ下に広がる庭園からは、そよ風が優しい招待状を運んでくる。風は、庭師がただシルフィアのためだけに品種改良を重ね、奇跡的に咲かせた純白の薔薇「プリンセス・ティアーズ」の、蜂蜜のように濃厚で甘く、それでいて夜明け前の朝露のように清らかな香りを、彼女の元へと届けていた。風が葉を揺らすたびに、木漏れ日がまるで万華鏡のようにその姿を変え、テラスの床に複雑で美しい模様を描き出しては、次の瞬間にははかなく消えていく。遠くからは、王宮の水路を流れる水のせせらぎが、途切れることなく耳に心地よい涼を運んできた。
「アラン。紅茶が冷めてしまいましたわ。見てちょうだい、湯気の一つも立っておりません。淹れ直してくださる?」
シルフィアは、まだ半分以上も琥珀色の液体が残っているボーンチャイナのティーカップを、白魚のような指で軽く指し示し、わざとらしく桜色の唇を小さく尖らせた。その仕草一つで、世界が彼女のために動き出すことを、彼女は生まれた瞬間から知っていた。陽光を受けてプラチナブロンドの髪が風に戯れ、きらきらと光の破片を周囲に振りまく。彼女の吐息ほどの小さな気まぐれさえも、この完璧に調律された世界においては、絶対的な法則として機能するのだ。
「かしこまりました。姫のお口に合わぬものが、この世に存在することなど、あってはなりませんから」
彼女の向かいの席に優雅に腰掛けていた騎士団長、アラン・グレイフィールドは、少しだけ困ったように眉を八の字に下げながらも、その口元にはどこまでも柔らかな笑みが浮かんでいた。深い、深い森の木々が幾千年もの月日を映してきた湖面のような、静かで理知的な緑色の瞳が、慈しむように、愛おしむように、この世の全てをそこに映すかのように、ただシルフィア一人だけを真っ直ぐに見つめている。その視線は、熱すぎず、冷たすぎず、まるで春の陽だまりのような心地よさで彼女を包み込んでいた。
彼は一つ頷くと、音もなく立ち上がった。その動きには一切の無駄がない。すらりとした長身を包む純白の騎士服が、風にはためいて微かな音を立てる。彼は黙ってシルフィアのカップを手に取ると、ワゴンに用意された銀のポットから湯を捨て、新しい茶葉を銀の匙で慎重に計り始めた。ケニルワースの春摘み。沸騰直前の湯を、少し高い位置から静かに注ぐ。立ち上る湯気と共に、ベルガモットの爽やかで華やかな香りが、薔薇の甘い香りと混じり合い、テラスの空気をさらに芳醇なものへと変えていく。その流れるような所作、シルフィアの好みを寸分違わず理解している完璧な手順、カップを彼女の前に置く際の、テーブルクロスとソーサーが触れ合うごく僅かな音さえもが、音楽の一部だった。それら全てが、彼女の世界が、彼女のためだけに秩序正しく、そして美しく動いている何よりの証だった。
「それから、アラン」シルフィアは満足げに新しい紅茶の香りを楽しみながら、次の望みを口にする。「今度の建国祭、夜会の最初のワルツ、わたくしのダンスのお相手、務めてくださるのでしょう?もちろん、あなた以外の殿方と踊る気など、毛頭ありませんわ」
その言葉は、ほとんど命令に近い響きを持っていた。だが、彼女がそう口にすれば、それは世界にとって最も自然な願い事となる。断られることなど、天が落ちてくるのと同じくらい、ありえないことだった。彼女が望めば、それが現実になる。昨日と同じように今日があり、今日と同じように、もっと輝かしく素晴らしい明日が来る。それが、この世の揺るぎない真理なのだと、彼女は何の疑いもなく信じていた。
「それは……」アランは、一瞬だけ言葉に詰まり、その緑の瞳を僅かに伏せた。長い睫毛が、彼の頬に淡い影を落とす。「望外の光栄ではございますが、私のような一介の騎士が、姫の最初のお相手など……恐れ多いことです」
「わたくしがいいと言っているのです。わたくしの騎士団長が、わたくしの手を取って踊ることの、何が問題ですの?それとも、嫌ですの?」
シルフィアは、少しだけ意地悪く、彼の瞳を覗き込むようにして言った。アランは、観念したように小さく息をつくと、顔を上げた。その表情は、幸せそうに、そして少しだけ照れたように微笑んでいた。彼の白い頬が、ほんのりと上気しているのを、シルフィアは見逃さなかった。
「……生涯の、誉れでございます。必ずや、ご期待に応えてみせましょう」
その言葉に、シルフィアは心の底から満足し、まるで小さな子供のように嬉しそうに微笑んだ。彼女は三段に重ねられたティースタンドの、一番下の皿から温かいスコーンを一つ手に取った。サクッとした軽やかな歯触り、口の中に広がる芳醇なバターと、ほのかに香る柑橘ピールの豊かな香り。添えられたクロテッドクリームの濃厚なコクと、甘酸っぱい木苺のジャムが、完璧な調和を生み出す。味覚が幸福を告げ、耳には庭園の小鳥たちの楽しげなさえずりが届き、肌には心地よい初夏の風が優しく触れる。そして視界には、ただ一人、心から愛する人の、少し照れたような、それでいて自分への愛情に満ちた笑顔がある。
ああ、なんて完璧な世界。
なんて満ち足りた午後。
この幸福は、この温もりは、この愛は、決して失われることのない、永遠のものなのだと。
彼女は、まだ、知らなかった。
本当の世界とは、人の願いを最も残酷な形で裏切るためにだけ存在する、巨大な悪意の塊であることを。
そして、幸福という名の前菜は、その後に続く絶望というメインディッシュを、より深く、より苦く味わわせるために用意された、甘く香る毒の前菜に過ぎないということを。
その、完璧に調律された世界の弦が、一本、音もなく切れた。
さえずっていた小鳥たちが、まるで指揮者の合図でもあったかのように、一斉に、ぴたりと口をつぐんだ。葉を揺らし、木漏れ日を躍らせていた風が、まるで呼吸を止めたかのように、完全に止んだ。水のせせらぎさえも、遠くなったように感じる。世界から、全ての「動き」が奪われたかのような、異様な静寂。
シルフィアが、その言いようのない違和感に眉をひそめ、顔を上げた、まさにその瞬間だった。
ゴゴゴゴゴゴゴゴ……!
それは音ではなかった。腹の底を、骨の髄を、直接揺さぶるような、低く、重い振動。ティーカップがソーサーの上でカタカタと震え、紅茶の表面に不気味な波紋が広がった。
シルフィアとアランが同時に顔を見合わせ、西の空を見やった。
信じられない光景が、そこに広がっていた。
つい先ほどまで抜けるような青空だったはずの西の地平線が、ありえない速度で、漆黒に塗りつぶされていく。それはまるで、巨大な筆に含ませた墨汁を、天という名の和紙の上にぶちまけたかのようだった。地平線の彼方から、巨大な黒い津波のように、黒煙が、絶望が、空を喰らい尽くしながら押し寄せてくる。それは、この世の終わりを告げる、巨大で荘厳な、絶望のカーテンだった。
「敵襲だ!総員、戦闘配置につけ!鐘を鳴らせ!」
アランの、今まで一度も聞いたことのない、鋼のように硬質で、剃刀のように鋭い声が、静まり返ったテラスに響き渡った。穏やかな森の湖面のようだった彼の瞳は、今や、敵意と警戒に満ちた、凍てつく冬の荒野の色をしていた。
完璧だった世界が、美しいヴェネツィアン・グラスのように、甲高い音を立てて砕け散るのを、シルフィアは確かに聞いた。
***
どれほどの時間が経ったのか。一秒が一時間にも、あるいは一時間が一瞬にも感じられるような、狂った時間の奔流の中を、シルフィアの意識は漂っていた。
彼女は、父である国王と共に、城の最上階にある謁見の間の、天井まで届くほど巨大な窓から眼下を見下ろしていた。窓枠を支える石の柱は、ひっきりなしに吹き付ける熱風によって、触れればすぐに火傷をしそうなほど熱を帯びている。
彼女が愛した、まるで宝石箱をひっくり返したように美しかった王都は、今や、阿鼻叫喚の地獄そのものと化していた。
視界の全てを埋め尽くすのは、燃え盛る炎の、狂ったような原色の赤。家々を舐め尽くす橙色の炎、何かが爆ぜて一瞬だけ輝く青白い炎、そして全てを飲み込み、天にまで届かんとする赤黒い炎。それらが混じり合い、巨大な一つの生き物のように、街を蹂躙していた。そして、空を覆い尽くすのは、希望の一欠片さえも通さない、絶望的なまでに濃い黒煙。太陽はとうにその光を失い、世界は炎の赤と煙の黒だけが支配する、終末の夕暮れを迎えていた。
風が運んでくるのは、もはや薔薇の甘い香りではない。人の肉が焼け、髪が燃え、骨が爆ぜる、聞くに堪えない音と共に鼻腔を突き刺す、 sickening な甘い匂い。鉄が錆びつき、乾いた血がこびりついた、不快な金属臭。そして、数百年かけて築き上げられた文明が、ただの灰になっていく、乾ききった虚無の匂い。
耳を劈くのは、鳥のさえずりではない。石造りの壮麗な建物が、自重に耐えきれず崩れ落ちる轟音。何かが爆ぜる、鼓膜を突き破るような甲高い破裂音。そして、何万という市民の、助けを求める声、神に許しを乞う声、愛する者の名を絶叫する声、それらが次の瞬間には断末魔の悲鳴へと変わり、やがて途切れていく、そのおぞましい瞬間の無限の連鎖。
シルフィアは、自身の耳を両手で強く塞いだが、その音は頭蓋の内側で直接鳴り響いているかのように、決して消えることはなかった。
「父様……!」
シルフィアは、隣に立つ父の、豪奢な装飾が施されたガウンの袖にすがりついた。いつもは、どんな時でも民の盾となるべく、威厳に満ち、決して揺らぐことのなかったその広い背中が、今は木の葉のように小刻みに震えているのが、布越しに伝わってきた。
魔族。古の書物にのみ記された、神話の中の災厄。その軍勢は、もはや「軍」という言葉で表せるものではなかった。それは、ただ破壊し、喰らい、蹂躙するためだけに存在する、純粋な悪意が形を取った奔流だった。王国の誇る精鋭騎士団は、まるで巨大な嵐の前に舞う木の葉のように、あまりにもあっけなく、抵抗の痕跡さえ残せずに散っていった。
「もはや、これまでか……」
国王の乾ききった唇から、砂を吐き出すような、絶望の言葉が漏れた。その瞳には、かつての叡智や威厳の光はなく、正気を失ったかのような、虚ろで不気味な光だけが宿っている。
「最後の、最後の手段を……使う」
「いけません!父様!それだけは!あれは、救いなどではありません!ただの、破滅です!私たちも、民も、この国も、全てが消え失せるのですよ!」
シルフィアは父の意図を瞬時に悟り、喉から血を吐くような、悲痛な声で叫んだ。王家に代々、最も忌むべき禁忌として封印されてきた最後の秘術。天そのものに干渉し、宇宙の法則を捻じ曲げ、巨大な隕石を召喚する。そして、指定した領域の全てを、敵も、味方も、国も、民も、草木一本、石ころ一つに至るまで、完全に、跡形もなく消滅させるという、狂気の秘術。それは救国などではない。魔族を道連れにした、壮大で無意味な心中だった。
「黙れ」
父が、地を這うような低い声で言った。その声には、何の感情も、温度もなかった。まるで、遠い世界の石像が喋っているかのようだった。
「お前のような、幸福という名の薄い硝子の内側でしか生きたことのない子供に、この絶望がわかるものか。築き上げた全てを、愛した民の全てを、目の前で蹂躙され、失っていく王のこの痛みが、わかるものか!」
その言葉は、鋭く尖った氷の刃となって、シルフィアの心を容赦なく、そして深く突き刺した。
思い通りにならない。
世界が、私の願いを裏切っていく。
父の心さえも、今や彼女の必死の叫びが届かない、遠く、暗く、冷たい場所へ行ってしまった。
父は、狂っていた。絶望という名の獣が、彼の理性を、彼の心を、とっくの昔に喰い破っていたのだ。
彼は、まるで夢遊病者のようにふらふらと窓の前まで進み出ると、両手をゆっくりと天にかざした。指先が微かに震えている。詠唱が始まった。それはもはや人間の言葉ではなかった。世界の法則そのものを無理矢理に書き換えようとする、冒涜的な響きを持った音の連なりだった。
詠唱が進むにつれて、謁見の間の空気がビリビリと震え、壁のタペストリーがひとりでに揺れ始めた。
空が、燃え盛る炎の赤から、死体が腐敗したかのような、病的な紫色へと、刻一刻とその色を変貌させていく。
見上げた紫色の空の中心が、まるで巨大な神が天蓋をその爪で引き裂いたかのように、音もなく裂けた。
その裂け目の向こう、絶対零度の漆黒の宇宙を背景にして、一つの巨大な「罰」が、ゆっくりとその姿を現す。
それは、絶望と憎悪と狂気を混ぜ合わせ、神が悪意をもって捏ね上げて創り出したかのような、巨大な岩塊だった。表面は不気味な赤黒い光を放ち、まるで地獄の業火が内側から燃えているかのように明滅している。その周囲の空間は、陽炎のようにぐにゃりと歪んでいた。眼下に見える城よりも、その背後にそびえる山々よりも、遥かに、遥かに巨大なそれが、ゆっくりと、しかし確実に、この世界に絶対的な「死」を宣告するために、落ちてくる。
シルフィアは、ただ、その光景を前に立ち尽くすことしかできなかった。
ああ、そうか。
世界とは、こういうものだったのだ。
どれだけ心から願っても、どれだけ喉が張り裂けるほど叫んでも、何一つ、私の思い通りにはならないのだ。
そして、その「思い通りにならない」という残酷な事実は、常に、私が考えうる限り最悪の形で、私の目の前に突きつけられるのだ。
***
光。
世界が、思考が、感情が、シルフィアという存在の全てが、一切の影を含まない、純粋で絶対的な「白」に飲み込まれた。
次に、音が消えた。まるで創造主がこの世界の電源を無造作に引き抜いたかのように、絶対的な無音が訪れる。悲鳴も、轟音も、父の詠唱も、心臓の鼓動さえも、何もかもが、その白い虚無の中に溶けて消えた。
そして、一瞬とも永遠とも思える静寂の後にやってきたのは、音ではなく、純粋な「破壊」という名の、圧倒的な暴力だった。
凄まじい衝撃波が、謁見の間の巨大な窓ガラスを、まるで砂糖菓子のように音もなく粉々に砕き散らし、シルフィアの華奢な体を、木の葉のようにいとも簡単に、壁へと叩きつけた。
どれほどの時間が、意識の暗闇を彷徨ったのだろう。
シルフィアが次に気づいた時、彼女はひんやりとした瓦礫の山の中に倒れていた。
降りしきる灰が、真冬の夜に降る雪のように静かに、音もなく、世界を覆い尽くしていく。先ほどまでの喧騒が嘘のように、あたりは不気味なほどの静寂に包まれていた。音という音の全てを、この分厚い灰色の雪が吸い込み、葬ってしまったかのようだった。
「……う……ぅ……」
絞り出すような呻き声が、彼女自身の喉から漏れた。身体のあちこちが、焼けるように熱く、鈍い痛みを訴えている。だが、そんなことは、もはやどうでもよかった。
朦朧とする意識の中、彼女は砕けた石に手を突きながら、必死に身を起こし、周囲を見渡した。
父の姿はどこにもない。王の権威の象徴であった壮麗な玉座も、壁に掛けられていた英雄譚を描いた美しいタペストリーも、天井から下がる巨大なシャンデリアも、何もかもが砕け散り、元の形を留めていなかった。
灰色の世界。彩度を完全に失った、死の世界。
その中で、彼女の瞳は、一点だけを見つめていた。
彼女から数メートル先。崩れ落ちた巨大な城壁の梁。その、絶望的な重さを持つ岩塊の下から、見慣れた、深い森の色をしたマントの切れ端が、僅かに覗いている。
「……アラ……ン……?」
声になっているのかいないのかも分からない、かすれた響きで、彼の名を呼ぶ。
シルフィアは、這うようにして、彼のもとへ近づいた。折れたのか、いうことをきかない右足を引きずり、鋭い瓦礫の破片で手のひらを切りながら、ただ一心に。流れる血の温かさだけが、自分がまだ生きていることを教えていた。
アランは、そこにいた。
彼は、崩れ落ちてくる梁から、咄嗟にシルフィアを庇うようにその身で突き飛ばし、自らがその下敷きになっていたのだ。身体の半分以上が、無慈悲な質量の塊に押し潰され、赤い血が、灰色の瓦礫をゆっくりと黒く染めていた。
「アラン!しっかりして!アラン!」
シルフィアは、瓦礫から覗く彼の肩を掴んで、狂ったように揺さぶった。彼はゆっくりと、本当にゆっくりと、その顔を上げた。額からは血が流れ、誇り高き騎士の鎧は無残に砕けていた。しかし、その深い森の色をした瞳だけは、いつかテラスで見た時のように、穏やかで、優しい光を宿していた。
「ひ……め……ご無事……で……よか……った……」
ゼエゼエと苦しそうな呼吸の合間に、かすれた声が彼の唇から漏れる。彼は、何かを伝えようとするかのように、ゆっくりと、震える右手を彼女に向かって伸ばした。その手は血と泥に汚れ、痛々しいほどに小刻みに震えている。
「喋らないで!お願いだから、もう喋らないで!今、助けますから!誰か!誰か来て!だから……死なないで……!」
シルフィアが、彼の震える手に自分の手を重ねようとした、まさに、その瞬間だった。
ピシッ。
まるで、真冬に凍てついた湖面に、小さな石を落とした時のような、乾いた、硬質な音がした。
アランの伸ばした指先に、髪の毛よりも細い、淡い光の亀裂が走ったのだ。
「え……?」
シルフィアの思考が、完全に停止する。
亀裂は、隕石がもたらした未知の、そして冒涜的なエネルギーによって、彼の存在そのものを内側から蝕んでいた。それは、彼の指先から始まり、手首を伝い、腕を駆け上り、肩へ、胸へと、まるで美しい樹氷が枝を伸ばすように、瞬く間に広がっていく。彼の肉体が、細胞の一つ一つが、内側から光の粒子へと強制的に変換され、世界の法則から、その存在ごと「消去」されていく。
アランは、自らの身体が消えゆくその絶望的な状況の中で、最期の力を振り絞るように、シルフィアに向かって、優しく、本当に優しく微笑んだ。そして、彼の唇が、音もなく動いた。
『ア・イ・シ・テ・ル』
その言葉が、音という形を成すことは、永遠になかった。
彼の唇が、最後の言葉を紡ぎ終える、その刹那の直前に、きらきらと輝く光の粒子となって、はかなく霧散したからだ。
次の瞬間、彼の身体は、もはやその形を保つことができず、内側から静かに崩壊した。
陽光に舞う埃よりも儚く、砂時計の砂よりも細かく。
ついさっきまで、そこに確かな温もりと生命を持っていたはずの彼の身体が、サラサラと、音もなく、灰色の塵となって風に溶けていく。
シルフィアが触れようとした指先は、虚しく空を掻いた。彼女の指の間を、彼だったものが、まるで名残を惜しむかのように、すり抜けていく。
温もりも、重さも、匂いも、声も、彼が存在したという確かな事実さえも、何もかもが、ほんの一瞬で「無」に還った。後に残されたのは、彼がいたはずの場所の、完全な空虚だけだった。
愛する国も。
尊敬する父も。
そして、今、この腕の中で、想いを寄せていた、世界でただ一人の人さえも。
自分の意志とは、自分の願いとは、全く無関係に。あまりにも理不尽に、あまりにも残酷に、全てが失われていく。
シルフィアの心の中で、何かが、ぷつりと切れた。
それは、世界と自分を繋ぎとめていた、最後の、最後の細い糸だったのかもしれない。
硝子が砕け散るような、甲高い幻聴が、頭の中に響き渡った。
ああ、そうか。
これが、答えだったのだ。
この世界に、神様なんていない。もしいるのなら、それは底意地の悪い悪魔だ。
この世界に、永遠なんてない。それは、失う瞬間の絶望を際立たせるための、甘い嘘だ。
そして、この世界は、私が最も大切だと思うものを、私が最も望まない形で、私の目の前で、粉々に砕き散らすように、最初から、そういう風に設計されているのだ。
私の思い通りにならないのではない。
私の願いと、寸分違わず正反対のことが起こるように、できているのだ。
その絶対的な、悪意に満ちた真理だけが、冷たい灰色の灰となって、彼女の砕け散った心の上に、静かに、どこまでも静かに、降り積もっていく。
涙は、一滴も出なかった。もはや、感情を抱くための器が、心のどこにも残っていなかったからだ。
シルフィアは、ただ、アランがいたはずの「無」を、大きく見開いたままの、何も映さない瞳で、いつまでも、いつまでも見つめ続けていた。
降りしきる灰が、彼女のプラチナブロンドの髪を、ゆっくりと、白く染めていった。
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