滅びた国の絶望王女が勇者を探していたので、俺(勇者)も一緒に探してみることにした件

Gaku

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第1部:出会いと勘違いの旅路

第2話:瓦礫の中の伝承

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意識の浮上が、まるで冷たく湿った石の床から、こびり付いた皮膚を一枚一枚、ゆっくりと、痛みを伴いながら引き剥がしていくような感覚だった。それは覚醒というにはあまりに鈍重で、泥濘の底から無理矢理に引き上げられるような不快感を伴っていた。

最初に鼻腔を刺したのは、閉ざされた空間特有の、濃密でよどんだ大気の匂いだった。長い年月をかけて染みついた黴の、土気を含んだ酸っぱい匂い。打ち捨てられた書物や布が朽ちていく、乾いた埃の匂い。そして、それら全てを覆い隠すように漂う、遠い場所で何かが決定的に腐敗していく、甘ったるい死臭。それは生命が終わりを告げた後に放つ、最後の自己主張のようでもあり、これから訪れるであろう自分たちの未来を暗示しているかのようでもあった。

次に、背中に広がる硬く、肌を刺すような冷たさが、じわり、じわりと体温を奪っていくのを感じた。上質な寝台の柔らかな感触しか知らなかった身体が、石という絶対的な拒絶の感触に悲鳴を上げていた。ごつごつとした凹凸が、横たわる身体の節々に食い込み、鈍い痛みを刻みつけていく。

重い瞼をこじ開けても、そこに光はなかった。物理的な意味で、一切の光が存在しない、完全な闇。目を閉じているのと開けているのとの区別がつかないほどの、絶対的な黒。それは視覚を奪い、方向感覚を麻痺させ、己の存在すら曖昧にさせる、底なしの闇だった。闇は音を際立たせる。すぐ近くで、誰かが浅く、苦しげな呼吸を繰り返す音が聞こえる。吸って、吐いて、その間のかすかな途切れに、死の予感が滲んでいた。そして、忘れた頃に、ぽつり、と。壁を伝った水滴が、どこか遠くで水たまりを打つ、冷たく澄んだ音が響いた。その一滴の音が、この無限にも思える静寂と闇の中で、唯一、時が流れていることを証明していた。

「……姫様……お気づきに……なられましたか……」

漆黒の闇の中から、声がした。まるで風化した骨が擦れ合うような、か細く、力のない声。その声の主が、年老いた侍従、バルフォアであると認識するのに、数秒を要した。かつては朝の謁見の間で、朗々と響き渡っていたはずの張りのある声は、見る影もなかった。まるで燃え尽きる寸前の蝋燭の炎のように、か弱く揺れ、今にも消え入りそうだった。

シルフィアは、何も答えなかった。声の出し方そのものを、忘却の彼方に置き忘れてきてしまったかのようだった。ただ、ゆっくりと、軋む身体に鞭打って上半身を起こす。腕に力を込めるたびに、肩の関節が悲鳴を上げた。背骨の一つ一つが、錆びついた蝶番のようにぎこちなく動き、頭の奥、芯の部分で、大きな鐘を内側から鈍器で殴られたような痛みが、ゴウン、ゴウンと鳴り響いていた。

その時、闇の一点で、ちり、と小さな火花が散った。火打石の硬質な音に続き、硫黄の焦げる匂いが微かに漂う。やがて、ぼうっ、というくぐもった音と共に、松明に橙色の炎が灯された。頼りない、今にも風に消されそうなその光が、周囲の闇を hesitant に押し退けていく。

光が照らし出したのは、王城の地下深くに広がる、巨大な貯蔵庫の一角だった。かつては王国の豊かな収穫を象徴するように、ワインの樽や穀物の袋が天井まで高く積まれていたはずの場所。しかし今、そこにあるのは、崩れた壁の瓦礫と、砕け散った樽の残骸、そして、あの日、天から降り注いだ「罰」から、奇跡的に、あるいは悪夢の続きとして生き残ってしまった、十数人の人間たちの姿だった。

誰もが、煤と垢に汚れ、着ているものは擦り切れて色褪せ、その瞳からは生きる意思という光が完全に失われていた。顔には深い皺が刻まれ、頬はこけ、唇は乾ききっている。彼らはもはや、王国の最後の臣下ではなかった。ただの生存者。いや、死に損なった者たち、という表現が、あまりにも正確に、この場の空気を言い当てていた。彼らは動かず、ただ松明の光をぼんやりと見つめている。その姿は、まるで自らの意志を失った、粗末な人形のようだった。

何日、眠っていたのだろう。
最後に意識があったのは、いつのことだったか。
そんな問いすら、シルフィアの心には浮かばなかった。どうでもいいことだった。過去も、現在も、そして、もはや存在しない未来も、全てが等しく無価値に思えた。

***

その日からの日々は、色も、味も、音も、感情もない、ただ緩やかな死へと向かって時間が腐敗していくのを、じっと待つだけの繰り返しだった。

国は、滅びた。
その言葉が意味する絶望の深さを、正確に理解することは不可能だった。完全に、跡形もなく。
王は死んだ。民は死んだ。王国が誇った無敵の騎士団も、壮麗な王城も、活気に満ちていた城下の街並みも、全てが光の中に溶け、熱の中に歪み、最後には灰と化した。ここにいる十数人が、かつて大陸にその威光を轟かせた王国の、最後の、惨めな遺物だった。

朝とも昼ともつかぬ時間に、痩せ細った侍女が、木の椀に入った何かを運んでくる。それは水で薄められた、正体不明のスープだった。灰色がかった液体からは、わずかに土の匂いがするだけで、味というものが存在しなかった。シルフィアは、ただ唇を湿らせるだけで、それ以上は頑なに拒んだ。侍女の、何も映さない瞳が、物言いたげに彼女を見つめるが、やがて諦めたように椀を下げていく。生きるための栄養を摂るという行為そのものが、彼女には理解できなかった。なぜ、生きなければならないのか。この、何もかもが終わってしまった世界で。

バルフォアが、日に一度、松明の燃えかすを持って彼女の元を訪れた。彼の語る言葉は、もはや再興への希望などという甘い幻想ではなかった。それは、死へのカウントダウンを告げる、無慈悲な報告に過ぎなかった。

「……北の貯水槽も、壁の亀裂から泥水が入り込み、もう飲めません。濁りがひどく、腹を壊す者も……」
彼の声が、湿った地下の空気に重く響く。どこかで誰かが、乾いた咳をする音が聞こえた。
「備蓄してあった最後の干し肉も、あと三日で尽きますな。その後は……壁の苔を食むしか……」
乾いた唇を舐めながら、彼は視線を落とした。その視線の先には、絶望しかないことを、誰もが知っていた。
「西の通路は、先ほどの崩落で完全に埋まってしまいました。もう、地上へ出る道は……」
ゴゴゴ、という地響きのような音が、少し前に確かに聞こえていた。それが、最後の希望を断ち切る音だったのだ。

一つ、また一つと、生きるための選択肢が、音を立てて消えていく。それを、ただ確認するだけの作業。誰も、もう泣かなかった。嘆きさえしなかった。涙も、嘆きも、とうの昔に枯れ果てていた。感情の起伏は、ただでさえ残り少ない生命力を無駄に消費するだけだと、身体が理解しているかのようだった。

シルフィアは、壁際に置かれた粗末なベッドの上で、膝を抱えて過ごした。その瞳は、松明の光が届かない、部屋の隅の深い闇を、ただじっと見つめていた。その闇の向こうに何を見ているのか、誰にも分からなかった。おそらく、彼女自身にも。

時折、何の脈絡もなく、あの日の光景がフラッシュバックする。
それは、脳裏に焼き付いた、決して剥がすことのできない烙印だった。

燃え盛る街。赤黒い炎が空を舐め、 পরিচিতなはずの建物が、黒い骸となって崩れ落ちていく。熱風が運び込むのは、肉の焼ける匂いと、断末魔の悲鳴。
狂気に染まった父王の横顔。玉座の間で、天に向かって何かを叫んでいた。その目は大きく見開かれ、正気の色はどこにもなかった。
そして、目の前で。
音もなく、光の粒子となって、桜の花びらが散るように消えていった、アランの、最後の優しい瞳。彼が最後に何を言おうとしたのか、その唇の形を、彼女は永遠に知り得ない。

その映像が脳裏をよぎっても、彼女の心は、風のない湖の水面のように、何の波も立たなかった。悲しみも、怒りも、絶望さえも、もはや感じなかった。感情を抱くための器が、あの日、彼の存在が世界から消滅したのと同時に、完全に砕け散ってしまったからだ。

彼女は、生きることをやめたのだ。
ただ、心臓が惰性で動き、呼吸を無意識に繰り返しているだけの、美しい抜け殻になった。生きているという事実そのものが、耐えがたい罰となって、彼女の魂を、静かに、ゆっくりと蝕んでいく。それが、彼女の世界のすべてだった。

***

変化が訪れたのは、最後の食料が尽き、松明の油も今夜限りで底をつき、誰もが、すぐそこまで迫った死の冷たい息遣いを、肌で感じ始めた、ある夜のことだった。

地下の空気は、いつもよりさらに冷たく、重く感じられた。生存者たちは、最後の松明の周りに、寄り添うように集まっていたが、言葉を交わす者は誰もいない。ただ、炎の揺らめきが、彼らのこけた頬に深い影を落としていた。

その日もシルフィアは、皆の輪から離れたベッドの上で、膝を抱え、ただ闇を見つめていた。そんな彼女のいる空間に、バルフォアの、喘ぐような声が響いた。まるで水の中から顔を出した人間が、必死に空気を求めるような、切羽詰まった声だった。

「……姫様……最後に……これを……お聞き届けください……」

彼は、壁に寄りかかりながら、最後の力を振り絞るようにして、松明の燃えかすをシルフィアの近くに寄せた。震える手で掲げられた松明の光が、彼の顔を照らし出す。その額には脂汗が浮かび、目は落ち窪み、まるでミイラのような相貌だった。その手には、表紙が擦り切れ、ページが茶色く変色した、ボロボロの一冊の古文書が握られている。それは、彼が崩れた王の書斎の瓦礫の山の中から、奇跡的に、たった一つだけ見つけ出した、王家に代々伝わる、建国の記録だった。

「どうせ……皆、ここで果てる身。ならば、せめて……我らが国の始まりの物語を……聞きながら……」

それは、もはや慰めですらなかった。死にゆく者たちが、自らの墓標に刻むための、鎮魂歌にも似ていた。自らが仕えた王国が、確かに存在したのだという証を、最後に心に刻みつけて、死んでいこうという、老いた忠臣の、最後の務めだったのかもしれない。

バルフォアは、ゴホッ、ゴホッと乾いた咳をしながらも、震える指で羊皮紙の頁をめくった。ぱらり、と乾いた、脆い音が静寂に響く。そして、かすれた声で、その内容を読み上げ始めた。
天地創造の物語。混沌の中から女神が現れ、光と闇を分かち、大地を創ったという、ありふれた神話。
その女神から聖剣『アスカロン』を授かり、この地に国を興した初代国王の英雄譚。魔物を討ち、悪竜を退け、民に安寧をもたらしたという、聞き古したおとぎ話。

その退屈な朗読が、死を待つ者たちのための、静かな子守唄のように、薄暗い地下空間に響き渡る。他の生存者たちは、目を閉じて、その声に耳を傾けていた。もはやその内容を理解しているのかさえ怪しかったが、人の声が聞こえるというだけで、孤独な死から少しだけ救われるような心地がしたのかもしれない。

シルフィアの意識は、その声を聞きながら、ゆっくりと、心地よい闇の底へと沈んでいこうとしていた。もう、永遠に目覚めることのない、深い、安らかな眠りへ。それでいい。それがいい。全てを終わらせることができる。

「……第五章、最後の節……『――国の歴史、千の年を経て、大いなる災厄、天より来たりて地を裂き、人の子が流す血、川となりて国を覆う時……』」

その一節に、シルフィアの沈みかけていた意識が、まるで眠りの中に冷たい針を突き立てられたかのように、ほんのわずかに、しかし鋭く反応した。瞼の裏で、何かがチカリと光った気がした。

「『……民の嘆き、天に届き、女神の涙、灰色の雨となって降り注ぐ時、心せよ。それは終焉にあらず、始まりの兆しなり。古の契約に基づき、世界の理の外より、一人の来訪者が現れるであろう』」

バルフォアの声が、最期の力を振り絞るように、ほんの少しだけ強くなる。彼の目が、落ち窪んだ眼窩の奥で、微かな光を宿したのを、シルフィアは闇の中で確かに見た。

「『その者、人の形をすれど、人にあらず。神の理不尽をその身に宿し、星を砕き、大地を揺るガす。その者の名は――』」

一瞬の、沈黙。
バルフォアが息を吸う、ひときわ大きな音が響いた。
そして。

「『――"勇者"と、呼ばれる』」

勇者。

その、たった一言が。

まるで、完全に動きを止めた心臓に、天から落ちてきた雷を直接撃ち込まれたかのように、シルフィアの身体を貫いた。
空っぽだったはずの心に、空虚な闇が広がっていたはずの魂に、その言葉だけが、灼熱に熱せられた鉄となって、ジュッという音を立てて突き刺さる。止まっていたはずの何かが、錆びついた巨大な歯車が、ギ、ギギギ、と悲鳴のような軋む音を立てて、無理矢理に動き始めた。

「……勇者……」

シルフィアは、何日ぶりかに、自らの声を発した。それは、喉の奥から絞り出された、ひどくかすれて、乾ききった、彼女自身のものとは思えない声だった。

バルフォアは、彼女の反応に力を得たように、言葉を続けた。
「『"勇者"は、世界の涙を拭うために現れる。その理不尽なる力をもって、歪みし因果を正し、絶望を希望へと塗り替えるだろう。ゆえに、諦めることなかれ。最後の王よ、希望を胸に、その者を待て』」

バルフォアが古文書を読み終えるのと、シルフィアがベッドから転がり落ちるようにして、彼の足元に這い寄ったのは、ほぼ同時だった。ガタリ、とベッドが音を立て、他の生存者たちが、驚いたように彼女を見た。

「……それを……!」

抜け殻のようだった彼女からは、到底想像もつかないほどの力だった。シルフィアは、泥と埃にまみれるのも構わず、四つん這いでバルフォアに駆け寄ると、その手から古文書をひったくった。羊皮紙の、ざらついた乾いた感触が、やけに生々しく指先に伝わる。古びたインクの、鉄錆のような匂いが、強く鼻をついた。

彼女は、松明の頼りない光に古文書をかざし、食い入るように、その一文を、何度も、何度も、繰り返し読んだ。
震える指先で、"勇者"という文字を、確かめるように、狂ったようになぞる。その文字だけが、周囲のどの文字よりも黒く、深く、そして絶対的な意味を持って輝いているように見えた。

「姫様……?」

バルフォアが、彼女のあまりの豹変ぶりに、怯えを含んだ声を漏らす。彼の目に映るシルフィアは、もはや彼が知る王女ではなかった。

これだ。
これしかない。
この、どうにもならない世界。神に見捨てられ、運命に見放された、何もかもが思い通りにならない、この絶望的な現実。それを覆すことができる、唯一の可能性。
言い伝え? おとぎ話?
そんなことは、どうでもいい。理性的な思考は、とうの昔に灰と化した。
今の彼女には、これ以外の「意味」が存在しないのだ。生きる意味も、死ぬ意味さえも失った彼女の空っぽの世界に、たった一つだけ投下された、絶対的な「命令」。

彼女の虚ろだった瞳に、初めて、明確な光が宿った。
しかし、それは希望の輝きではなかった。
それは、何かに憑かれた者の、どこまでも冷たく、そして、凍てつくほどに狂信的な光だった。

***

その日を境に、シルフィアは別の生き物になった。
彼女は、生きるためにではなく、「勇者を探し出す」という、ただ一つの目的を遂行するためだけに動く、精密な機械と化した。

朝、まだ地下の闇が最も深い時間に、彼女は自ら起き上がった。他の生存者たちが、死んだように眠り続ける中、彼女は貯水槽に残された最後の水を、泥の臭いも構わずに飲み干し、壁に生えた、わずかに緑色がかった苔を、指でこすり取って口にした。味など感じない。舌の上でざらつく、土と水の感触だけがあった。それは食事ではなく、この身体という名の機械を動かすための「燃料」補給に過ぎなかった。

昼、彼女は貯蔵庫の僅かな空間で、身体を動かし始めた。まずは筋力を取り戻すための運動。そして、壁に立てかけてあった錆びた剣を手に取り、素振りを繰り返した。ヒュッ、ヒュッ、と空を切る音だけが、静寂の中に響き渡る。その動きには、一切の迷いも感情もなかった。ただ、目的のためにプログラムされた動作を、正確に、寸分の狂いもなく繰り返すだけ。汗が流れ、呼吸が荒くなっても、彼女の表情は変わらなかった。

夜、彼女はバルフォアから取り上げた松明の、残りわずかな炎を頼りに、古文書を隅々まで調べ上げた。"勇者"に関する記述が、他にないか。どんな些細な情報でもいい。来訪者の特徴、現れる場所、その時期。しかし、記述はあの数行だけで、それ以上の手がかりは見つからなかった。それでも彼女は、羊皮紙が擦り切れるほど、そのページを何度も何度も読み返した。

その姿に、バルフォアをはじめとする生存者たちは、喜びではなく、静かな、そして深い恐怖を覚えた。
姫様は、生きる気力を取り戻されたのではない。
何かもっと、得体の知れない、恐ろしいものに、その身を乗っ取られてしまったのではないか、と。
彼女の口から出る言葉は、問いかけに対して、ただ一つ。

「勇者を、見つけなければならない」

それは、希望に満ちた決意の言葉ではなかった。
それは、死ぬことさえ許されない者に課せられた、絶対的な「使命」。
それは、彼女の心を永遠に縛り付ける、新たな、そしてより強力な呪いの言葉だった。
「もし、勇者が見つからなかったら?」
その問いは、もはや彼女の中には存在しなかった。見つける。それ以外の未来は、彼女の世界には設定されていなかった。見つからなければ、探し続ける。永遠に。それだけのことだった。

そして、三日後。
松明が完全に燃え尽き、完全な闇が再び地下を支配した、その夜。
シルフィアは、決意を固めた。

生存者たちが、浅い眠りと覚醒の間を彷徨う中、彼女は音もなく静かに動き出す。手探りで、彼らが生き延びるためにと、壁際にまとめておいた最後の水袋と、残りわずかな干し肉を、何の躊躇もなく自分の鞄に詰めた。誰かの弱々しい寝息が聞こえたが、罪悪感など、一欠片も湧いてこなかった。彼らは、ここで死ぬ。それは決定事項だ。自分は、使命を果たすために、生きなければならない。ただ、それだけのことだった。論理的で、単純な、事実。

父の書斎からバルフォアが持ち出していた、粗末な革の鎧を身に着け、腰には父の形見である長剣を差す。ずしりとした重みが、彼女の覚悟をさらに固くした。

「……姫様……お待ち、ください……」

暗闇の中から、か細い声で、バルフォアが彼女を呼び止めた。彼は、眠ってはいなかった。全てを察していたのだ。

「……どうか……ご無事で……」

それが、老いた忠臣が、最後に絞り出した言葉だった。そこには、非難も、悲しみもなく、ただ純粋な、祈りだけが込められていた。
シルフィアは、一度だけ、声がした方を振り返った。しかし、闇の中で、その瞳に何の感情も映ることはなかった。彼女は小さく頷くと、踵を返し、瓦礫で半ば埋まった西の通路とは別の、かろうじて人が一人通れるだけの隙間が残っている、北の通路の暗闇へと、一人、消えていった。

地上へと続く、長い、長い、闇。
一歩、また一歩と、瓦礫に足を取られながら進むたびに、死を待つ者たちの気配は遠のいていく。地下の黴と死の匂いが薄れ、代わりに、灰の、物が燃え尽きた後の乾いた匂いを含んだ、冷たい風が、彼女の頬を撫でた。

どれほどの時間を歩いただろうか。やがて、傾斜が緩やかになり、前方に、闇とは違う、灰色の光が見えてきた。
見慣れた、しかし変わり果てた城門の前に立つ。
かつては精緻なレリーフが施され、王家の威光を示していたはずの巨大な門は、半分が崩れ落ち、無残な骸を晒していた。門の向こうには、どこまでも、どこまでも続く、灰色の荒野が広がっている。空も、大地も、全てが同じ、希望のない灰色に染まっていた。風が吹き抜け、乾いた灰を舞い上げる音が、さあと、耳元を通り過ぎていく。

シルフィアは、一度だけ、自分の故郷を振り返った。
崩れ落ちた王城の、黒いシルエット。完全に静まり返った街の残骸。そして、全てを覆い尽くす、分厚い雲に閉ざされた鉛色の空。
彼女は、その光景を、瞬きもせずに目に焼き付けると、乾いた唇をきつく結んだ。

「……見つけ出す」

その誓いは、誰に聞かせるでもない、彼女自身の魂に刻み込んだ、絶対的な命令だった。
それは、この国を救うための、希望の言葉ではない。
自らの心を、感情を、人間性そのものを縛り付け、この先の長く、過酷な旅路で、彼女を人間でなくさしめるための、重い、重い呪いの言葉だった。

夜明け前の、最も暗く、冷え込む時間。
荒野を吹き抜ける冷たい風が、彼女のフード付きのマントを、まるで亡霊の衣のように、ばさばさと揺らした。

王女シルフィアは、たった一人、滅びた世界の灰色の荒野へと、その小さな一歩を、踏み出した。
ザリ、と。灰と化した大地を踏みしめる乾いた音が、世界の終わりに、やけに大きく響き渡った。
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