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第1部:出会いと勘違いの旅路
第10話:殴ったら、なんか飛んでった
しおりを挟む「秒で終わらせてくるから、ちょっとだけ待ってて!」
ユウは、そう言うと、まるで近所のコンビニにでも行くかのような気軽さで立ち上がった。そして、初めて、まっすぐに魔族の方へと向き直る。
その瞬間、森の空気が変わった。
いや、ユウ自身は何の変化も起こしていない。彼から発せられる気は、相変わらず春の陽だまりのようにのほほんとしたままだ。変化したのは、魔族の方だった。
ようやく自分に意識を向けた獲物を前に、魔族の身体から、黒いオーラが陽炎のように噴き出した。それは純粋な殺意と、絶対的な力の顕現。周囲の空間が、彼の怒りに呼応するようにビリビリと震え、降りしきる雨が彼の周りだけ蒸発して霧散していく。さえずっていた鳥の声は完全に途絶え、風さえも吹くのをやめた。森の全ての生命が、その圧倒的なプレッシャーの前に息を殺しているかのようだった。
「ようやく、我と向き合う気になったか、小僧」
魔族の声は、地の底から響くように低く、重い。
「その余裕、後悔に変えてくれる。我が名はガザリオス。魔王軍が一人、魔将ガザリオス! その名を、貴様の墓標に刻んでやろう!」
その、あまりに格好をつけた自己紹介に、ユウは「へぇ」と間の抜けた相槌を打った。彼の頭の中は、今、別のことでいっぱいだった。
(ガザリオス、か……名前、長いな。覚えるのめんどくさそう。それより、早くこいつをどかして、あの子とおしゃべりの続きをしなきゃ。そういえば、さっき自己紹介の途中だった。名前、まだ聞いてない。なんて名前なんだろう。天使みたいに綺麗な名前だといいな。よし、この戦いが終わったら、まず名前を聞こう。それから好きな食べ物と、血液型と……)
「聞いているのか、貴様ァッ!」
思考が完全に明後日の方向に飛んでいるユウの態度に、ガザリオスの額の青筋が、さらに一本増えた。
その、あまりにも異常な緊張感の無さを、ザンナはクレーターの縁から、わなわなと震えながら見ていた。
「(こいつ、分かってんのか……? 相手は、あの魔族だぞ!? さっきまでの威圧感、そこらのモンスターとは次元が違う。なのに、なんであいつは、これからデートの約束でもするかのような顔してやがるんだ……!)」
シルフィアもまた、混乱の極みにいた。
(この方は、一体……? あのガザリオスを前にして、微塵も動じていない。これが、伝承に謳われた勇者の器……? それにしては、あまりにも、その……しまりがないというか……)
そんな三者三様の思惑が渦巻く中、ついにガザリオスの我慢が限界を超えた。彼のプライドは、ユウの無関心によって、すでにズタズタに引き裂かれていた。
「もういい……言葉は不要! その魂ごと、無に還れッ!」
ガザリオスが両手を天に掲げると、暗雲が渦を巻き、彼の掌に、夜そのものを凝縮したかのような、高密度の闇のエネルギーが集束していく。それは、ただの魔力ではない。因果を捻じ曲げ、存在そのものを消滅させる、禁忌の破壊魔法。
「後悔しながら死ね! <ダークネス・エンド>!!!」
ザンナが「やべぇぞ! 全員伏せろ!」と地面に突っ伏した。シルフィアもまた、その絶望的なまでの魔力の奔流に、かつて国を滅ぼした天変地異の記憶が蘇り、息を呑んだ。
放たれた闇の奔流は、音もなく、しかし空間そのものを削り取りながら、ユウへと殺到する。
しかし、ユウは。
「うおっ、なんかヤバそう」
そう呟きながら、その極大の破壊魔法を、まるで隣のクラスから飛んできた、コントロールの悪い野球ボールを避けるかのように、ひょい、と首を傾けてかわした。
魔法は、ユウの背後、遥か彼方の森に着弾した。
次の瞬間、世界から音が消えた。視界が真っ白に染まり、遅れて、大地そのものが絶叫するかのような、凄まじい轟音が鼓膜を突き破った。地平線の彼方に、巨大な、禍々しい紫色のキノコ雲がゆっくりと立ち上っていくのが見えた。かつてそこに緑豊かな森があった場所は、完全に消し炭と化し、溶けた大地がまるで黒曜石の鏡のように、不気味な光をキラキラと反射していた。
「…………あぶな」
ユウは、自分の頬をかすめていった熱風に、そんな小学生並みの感想を一言漏らした。そして、彼はゆっくりとガザリオスの方を振り返る。その顔に浮かんでいたのは、恐怖でも、驚愕でもない。
ただ純粋な、「俺と天使ちゃんの甘い時間を邪魔しやがって」という、一点の曇りもない、清々しいほどの苛立ちだった。
「邪魔」
ユウは、そう呟くと、ガザリオスに向かって駆け寄った。ガザリオスは、自らの最大最強の魔法が、まるで子供の石ころのようにあっさりと避けられたことに動揺し、一瞬、反応が遅れる。
その、致命的な一瞬の隙を、ユウは見逃さなかった。
彼は、振り上げた右手の人差し指を、ガザリオスの額の中心に、
「ぺちん」
と、軽く弾いた。
そう、デコピンだった。
およそ、この世のどんな戦いの歴史を紐解いても、これほどまでに緊張感のない攻撃方法は存在しないであろう、あまりにも牧歌的で、あまりにも脱力感に満ちた、デコピンだった。
「ぐえっ!?」
ガザリオスは、カエルが踏み潰されたような、魔将の威厳もクソもない断末魔を上げた。
かと思うと、彼の黒曜石の鎧に身を包んだ巨体は、物理法則という概念をこの世から抹消するかのような、ありえない速度と角度で、空の彼方へと吹き飛んでいった。
それは、もはや「飛んでいく」という生易しいものではない。何かの間違いで発射されてしまった大陸間弾道ミサイルのようだった。
みるみるうちに小さくなっていくガザリオスの姿。やがて、夜空でもないというのに、その姿は、キラリ、と小さく光る一番星となって、青空のキャンバスに溶けるように消えていった。
「「「「「…………」」」」」
森に、再び、今度は墓場よりも静かな、絶対的な沈黙が訪れた。
シルフィアも、ザンナも、いつの間にか意識を取り戻していた団員たちも、全員が、口をあんぐりと開けたまま、ガザリオスが消えていった空の一点を、ただただ呆然と見つめていた。
シルフィアの脳内で、必死の思考が、火花を散らしながら、しかし空回りしながら巡っていた。
(え……? 今のは……デコピン……だったわよね?)
(あの、父王の秘術をもってしても倒すことができず、我が国の誇る最強の騎士団を、まるで赤子のように蹂躙した、魔族の将軍が?)
(デコピン一発で……星に……なった?)
(ありえない。ありえないわ。人間の力ではない。こんなことが、あってたまるものですか。これは……これは、神の御業……?)
(そうだ……古文書に、記されていたわ。伝承の勇者は、神の化身。その力は人の理を遥かに超越する、と……)
(まさか……この、底抜けに明るくて、ちょっと、いえ、かなり頭のネジが緩んでいるようにしか見えない、この人こそが……!)
絶望の淵にいたからこそ、彼女の心は、理解不能な奇跡を受け入れる準備ができていた。いや、むしろ、奇跡にすがるしか、もう道は残されていなかったのだ。
やがて、我に返ったシルフィアは、ふらふらと立ち上がると、ユウの前に、崩れるようにひざまずいた。そして、泥に汚れるのも構わず、深く、深く、頭を垂れた。
「お願いします! どうか……どうか、私を、私の国を、お助けください!」
その声は、悲痛な祈りだった。最後の希望に、全てを託す、魂の叫びだった。
ユウは、ひざまずく美しい少女の姿に一瞬驚いたが、すぐに彼女の手を優しく取り、太陽のような、一点の曇りもない笑顔で答えた。
「もちろん! こんな可愛い子のお願い、断れるわけないじゃん!」
その約束は、二人の間で、しかし全く違う意味で結ばれた。
シルフィアは、魔族と戦い、世界を救ってくれるという「救国の英雄」に。
ユウは、ただただ一目惚れした名前も知らない女の子と、仲良くなれるという「恋の始まり」に。
この、英雄譚史上、最も緊張感のない出会いと、最も壮大な勘違いが、今、ここに成立した。
その甘ったるい、そしてどこまでも噛み合わない空気に、ついに我慢の限界を超えたザンナが、二人の間に仁王立ちで割って入る。
「こんなところでイチャついてんじゃないわよ! とにかく帰るぞ、アジトに! 話はそれからだ!」
彼女の鶴の一声で、ようやく、この場にいた全員の時間が、再び動き始めたのだった。
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