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第四十六話:究極の予防医学「未病治」
しおりを挟む桜の花びらがすっかりと緑の葉にその座を譲り、季節が目に見えてその速度を上げる四月下旬。東堂漢方クリニックの庭は、息づく生命の力で満ち溢れていた。数週間前まで淡い薄紅色に染まっていた空は、今や、目に眩しいほどの新緑によって縁取られている。萌黄色、若草色、常盤色。ひとくちに緑といっても、その色合いは木々の種類によって様々で、幾重にも重なった緑のグラデーションが、春の強い日差しを浴びて、生き生きと輝いていた。
風がクリニックの庭を吹き抜けるたび、若葉がさわさわと音を立てて揺れる。その風はもはや春先のそれとは違い、どこか湿り気を帯びた、温かな南風だった。雨上がりの土の力強い匂いと、若草の青々しい香りが混じり合い、深く吸い込むだけで、体の内側から生命力が湧き上がってくるようだった。
研修医の本田未来(ほんだみらい)は、クリニックの縁側に立ち、その生命力に満ちた庭を眺めていた。この一年、彼女の世界は根底から変わった。病気は「倒すべき敵」ではなく、「体からのメッセージ」であり、その背景には、患者一人ひとりが紡いできた、かけがえのない「物語」がある。
前回の研修で東堂宗右衛門(とうどうそうえもん)から教わったその考え方は、未来の医療観に革命をもたらした。病名というラベルの向こう側にいる、一人の人間。その人生の喜怒哀楽すべてに寄り添うこと。それこそが、自分が目指すべき医療なのではないか。
その思いは、今も未来の胸の中で確かな光を放っている。だが同時に、新たな問いも生まれていた。そもそも、その「メッセージ」が送られてくる前に、つまり、本格的な病気になる前に、私たちにできることはないのだろうか、と。
その日の午後、一人の男性が少し不安げな顔でクリニックを訪れた。五十代前半の、恰幅の良い会社員だった。
「先生、先日、会社の健康診断を受けまして…。一応、どこも『異常なし』とは言われたんですが…」
彼はそう言って、検査結果の用紙をテーブルの上に置いた。未来も、東堂の隣でその用紙を覗き込む。確かに、どの項目も基準値内に収まっており、病名がつくような異常はない。しかし、血圧、血糖値、コレステロールといったいくつかの項目が、正常範囲の上限ギリギリ、いわゆる「境界域」にあった。
「医者からは、『このままの生活を続けていると、数年後には高血圧や糖尿病になりますよ。少し食生活に気をつけて、運動してください』なんて、毎年同じことを言われるだけでして。でも、病気じゃないなら、特に何もしなくていいんですよね?薬が出るわけでもないですし」
彼は、そう言って苦笑した。その言葉には、「病気と診断されない限りは大丈夫」という、多くの現代人が抱きがちな楽観論が滲んでいた。
未来も、大学病院にいれば「今のところは経過観察ですね。また来年、検査を受けてください」と答えていただろう。しかし、東堂の答えは全く違った。
「いいえ、山田さん」
東堂は、穏やかだが、きっぱりとした口調で言った。
「病気ではない、今だからこそ、やれることが、そして、やるべきことが、たくさんあるのです。あなたは今、健康と病気を分ける、非常に重要な境界線の上に立っておられるのですよ」
東堂の真剣な眼差しに、男性は少し驚いたように背筋を伸ばした。東堂は、彼の生活習慣や、最近感じる体の些細な不調(肩こり、寝つきの悪さ、日中の眠気など)を丁寧に問診した後、いくつかの養生法を具体的に指導し、体質を整えるための穏やかな漢方薬を処方した。
男性が、どこか納得したような、それでいて少し神妙な面持ちで帰っていった後、未来は興奮を抑えきれずに東堂に尋ねた。
「先生!今のが、先生がおっしゃっていた『未病』ということなんですか?」
「その通りだ、未来先生」
東堂は、窓の外の生き生きとした緑に目をやりながら、満足そうに頷いた。
「今日の君は、まるで答えを知っていて質問している生徒のようだ。その通り、山田さんの状態こそ、東洋医学が何よりも重視する『未病(みびょう)』の典型なのだよ」
東堂は、書棚から一冊の古びた、糸で綴じられた和本を取り出してきた。それは、東洋医学を学ぶ者なら誰もが知る、二千年以上の時を超えて読み継がれてきた医学の原典、『黄帝内経(こうていだいけい)』だった。
彼は、その一節を、慈しむように指でなぞりながら言った。
「この『黄帝内経』の中に、こんな言葉がある。『聖人(せいじん)は既病(きびょう)を治さずして未病(みびょう)を治す』」
「せいじんは、きびょうをちさずして、みびょうをちす…」
未来は、その荘厳な響きを持つ言葉を、唇の上で繰り返した。
「そうだ。現代語に訳せば、『本当に優れた聖人のような医者というのは、すっかり病気になってしまった人を治療する者ではない。病気になる前の、"未だ病ならざる"段階で、それを防ぐ者のことである』という意味だ。これこそが、東洋医学の根底に流れる、究極の予防医学の思想、『未病治(みびょうち)』なのだよ」
東堂は、未来に分かりやすいように、健康から病気に至るプロセスを、三つの段階に分けて説明し始めた。
「まず、第一の段階が『健康』だ。これは、心身ともに陰陽のバランスが取れ、気・血・水の流れもスムーズで、何の不調も感じない、理想的な状態だ。我々が常に目指すべき場所だな」
「そして、第三の段階が『既病』。つまり、"既に病んでいる"状態だ。体のバランスの乱れが深刻化し、臓器や組織に何らかの器質的な変化が起こり、血液検査や画像診断で、はっきりと異常が見つかる。これが、君たちが学ぶ西洋医学でいうところの『病気』だ。高血圧症、糖尿病、胃潰瘍、といった病名がつく段階だな」
そこまで言って、東堂は未来の目をじっと見つめた。
「そして、この『健康』と『既病』の間に、非常に長く、そして重要な、第二の段階がある。それこそが『未病』だ。この段階では、体のバランスはすでに崩れ始めている。気の流れが滞ったり、血が不足したり、余分な水が溜まったりしている。だが、まだ器質的な変化にまでは至っていない。だから、西洋医学の精密な検査を受けても、『異常なし』と診断される。しかし、本人の体は、すでに悲鳴を上げ始めているんだ。『何となく体がだるい』『よく眠れない』『イライラする』『肩が凝って仕方がない』『冷えが辛い』…。これらはすべて、『未病』の段階で、体が送ってくる必死のメッセージなのだよ」
未来は、雷に打たれたような衝撃を受けていた。西洋医学では「不定愁訴」や「気のせい」として片付けられてしまう、あの無数の声。それこそが、東洋医学が最も重要視する治療のターゲットだったのだ。
「西洋医学の予防医学も、もちろん素晴らしい。ワクチンで感染症を防ぎ、生活習慣指導で『既病』への進行を遅らせる。だが、東洋医学の『未病治』は、さらにその手前の、もっと繊細な段階に光を当てる。病気という火事が起きてから消火活動をするのではなく(既病の治療)、ボヤが起きた段階で火を消し止めるのでもなく(生活習慣病の管理)、そもそも火の気のない、火事が起きにくい家(体質)を造ることこそが、最上である、と考えるのだ」
東堂は、よく手入れされた庭に目をやった。そこでは、様々な草木が、それぞれの場所で太陽の光を浴び、伸びやかに枝を広げている。
「未来先生、医療を園芸に例えてみよう。西洋医学は、病気という雑草や害虫を見つけ出し、最新の農薬や技術で、それらを的確に取り除く、非常に優れた専門家だ。そのおかげで、多くの作物は枯れずに済む」
「だが、我々が目指すのは、少し違う。もちろん、生えてしまった雑草は抜く。だが、それ以上に大切なのは、土壌そのものを豊かにすることだと考える。日当たりや風通しを良くし、栄養と水分のバランスを整え、土の中にいる微生物の多様性を育む。そうして、土そのものが生命力に満ちていれば、雑草はそもそも生えにくく、害虫も寄り付きにくい、健やかな畑になる。これこそが、『未病治』の発想なのだよ」
園芸の比喩は、未来の心に深く染み渡った。対症療法ではない。生命そのものを、根本から育む医療。なんて豊かで、希望に満ちた考え方だろう。
「『黄帝内経』には、こんな言葉も出てくる。『下工(げこう)は已病(いびょう)を治し、中工(ちゅうこう)は人(ひと)の未病なる者を治す』と。つまり、三流の医者は病気になってから治し、二流の医者は病気になる前に治す、という意味だ。ちなみに、最上級である『上工(じょうこう)』が何を治すか、分かるかな?」
「…国、ですか?」
どこかで聞いた故事を、未来は思い出した。
「その通り。上工は国を治す。民が病気にならないような、健やかな社会を造る為政者こそが、最高の名医である、という壮大な思想だ。我々はせめて、患者さん一人ひとりの『国』、つまり、その人自身の心と体の平和を守る『中工』でありたいものだな」
未来は、自分がこれから歩むべき道が、はっきりと見えた気がした。最先端の西洋医学の知識と技術で、生命の危機にある「既病」の患者を救うこと。それは、医師としての自分の、揺るぎない使命だ。しかし、それだけではない。クリニックの扉を開けてくれる、「未病」の段階にいる人々の、些細な声に耳を傾け、彼らが自らの力で健やかな畑を耕す手伝いをする、伴走者のような医師。その二つの翼を持って、初めて自分は、本当に人を癒す医療者になれるのではないか。
診察室の窓から、爽やかな初夏の風が吹き込んできた。それは、庭の新緑の匂いをいっぱいに含んでいた。力強く天に向かって伸びる木々の枝、生き生きとした葉の艶めき。そのすべてが、「未病治」という思想が目指す、健やかな生命の輝きそのもののように見えた。
未来は、深く、その生命力に満ちた空気を吸い込んだ。それは、彼女の心の中に生まれた新たな決意を、祝福するような、希望の香りだった。
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