コミュ障ぼっちの私の目標は「石」。なのに新学期初日、隣の陽キャ王子に「お前、面白いな!」と絡まれ計画が完全崩壊。

Gaku

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第7話:海とBBQ、それぞれの波長

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夏休みという、永遠に続くかのように思われた輝かしい季節も、そろそろその終焉を告げる帳《とばり》が降りようとしていた八月の終わり。

あれだけ生命力の限りを尽くして地上を支配していた蝉の大合唱は、どこか力尽きたような、あるいは役目を終えたことへの諦めを滲ませたような、物悲しい響きへとその音色を変えていた。

真昼の太陽は未だ容赦なくアスファルトを焦がし続け、立ち昇る陽炎が遠くの景色を蜃気楼のように歪ませている。しかし、ふと見上げる空に浮かぶ雲の形は、夏の盛りを象徴する雄大で立体的な入道雲から、秋風の気配をどこかにはらんだ、刷毛で繊細に掃いたような薄い雲へと、少しずつその主役の座を明け渡し始めていた。

季節という、抗いようのない巨大で、それでいて驚くほど繊細なシステムは、誰に命令されるでもなく、ただ自らが内包する普遍の法則に従って、ゆっくりと、しかし決して止まることなく、その姿を移ろわせていく。

そして、その壮大な自然の摂理とは似ても似つかぬ、私の周囲に存在する極小で、そして極めてカオスな人間関係というシステムもまた、誰の意図も介さず、全く予測不能な方向へと勝手にその形を変えつつあった。

すべての始まりは、あの蒸し暑い夏祭りの夜。 夏野杏さんという、眩しい金髪に耳元で揺れる複数のピアス、そして伝統的な浴衣の概念を根底から覆すような短い丈のそれを着こなす、私にとっては「絶滅危惧種」ならぬ「危険生物」に分類されるべき存在が、まるで最初からそこにいたかのように、我々の「グループ(仮)」としれっと呼称している集団に組み込まれてしまったのだ。

その変化の震源は、今回もまた、あの男の一言によって引き起こされた。

「――なあ、夏休み、終わる前にさ、どっか行こうぜ! 海! 海とか行かねえ?」

夏休み期間中の、とある平日の昼下がり。 どういう経緯か、私の家の最寄り駅近くにあるファミリーレストランに集結していた私たちは、太陽のように屈託のない笑顔を浮かべた輝くんの、その爆弾としか言いようのない発言によって、しばしの完全な沈黙に包まれた。

ファミレス特有のざわめきだけが、やけに遠くから響いてくる。 テーブルの上には、すっかり氷が溶けて薄まったドリンクバーのグラスと、誰が注文したのかも曖昧になった食べかけのフライドポテトが、まるでこの場の気まずさを象徴するかのように、所在なげに並んでいた。

重苦しい沈黙を最初に破ったのは、常に冷静沈着を装う我らが理論派、秋葉くんだった。 彼は、その分厚い眼鏡の奥にある目を、まるで直視できない悍《おぞ》ましいものを見るかのように、絶望的に細めた。

「……海、ですか。輝くん、正気ですか。そもそも紫外線というものは、我々のようなインドアに最適化された種族にとっては、致死性の猛毒に等しい不可視の光線なのですが。太陽光に含まれるUVA、UVBが皮膚細胞のDNAに与える損傷は、計り知れないカタストロフを招きます。それに、砂浜を構成する微細な粒子、あれが精密機器、すなわち僕の愛するポータブルゲーム機の内部に侵入した場合のダメージは……考えただけで鳥肌が立つ」

彼はそこまで一気にまくし立てると、まるで聖遺物でも守るかのように、テーブルの隅に置いていたゲーム機をそっと胸に抱いた。

「海ぃ? マジだるいんだけど」

次に、気だるそうな声で刃向かったのは、他でもない杏さんだった。 彼女は、テーブルに片肘をつき、長い指先でスマートフォンを巧みに操作しながら、心の底から面倒くさいというオーラを全身から放っている。

「日焼けすんの、超ヤだし。てか、なんでアンタらと、わざわざ汗だくになって、ベタベタしに行かなきゃなんないわけ? 理解不能」

「いいじゃんか、別に! 夏の思い出、作ろうぜ! な、杏ちゃん!」

輝くんがキラキラした目で杏さんに同意を求めるが、彼女はスマホの画面から一瞬も目を離さずに、鼻で笑った。

「思い出とか、そういうエモい感じ、マジ無理。鳥肌立つ」

そうだ。その通りだ。 私は、杏さんの冷ややかな意見に、心の奥底から「いいね!」を百回くらい連打していた。

海などという、陽の気が煮詰まって飽和状態になったような場所は、私、水無月静にとっては地獄の釜の蓋が開いたのと同義なのだ。 見渡す限りの人混み、肌を突き刺すような強烈な日差し、そして、水着という、社会的に許容されたほぼ裸に近い格好で他者とのコミュニケーションを取らねばならぬという、あまりにも高度すぎる試練。

絶対にありえない。 私の完璧に計画された「静かな夏休み計画」の最終章は、涼しい自室で積んでおいた本を読み漁り、静寂の中で過ぎ行く夏を惜しむ、という美しいものでなければならないのだ。

「……私は、あの、遠慮しておこうかな……」

私が、蚊の鳴くようなか細い声で、しかし鋼のように断固たる意志を持って、この無謀な計画からの棄権を表明しようとした、まさにその時だった。

「BBQもやろうぜ! 肉! 肉食い放題!」

輝くんが、まるで切り札を切るかのように、そのキラーワードを意気揚々と放った。 その瞬間、ファミレスの喧騒が嘘のように遠のき、世界がスローモーションになった。秋葉くんと杏さんの動きが、寸分の狂いもなく、ピタリと止まったのだ。

「……肉……ですか?」

秋葉くんの分厚い眼鏡が、ずり落ちそうになるのも構わず、彼の声のトーンが明らかに数オクターブ上がった。

「……食べ放題?」

杏さんに至っては、あれほど執着していたスマートフォンを、パタン、と音を立ててテーブルに置き、ぐいと身を乗り出していた。その瞳には、先ほどまでの気だるさは微塵もなく、獲物を狙う肉食獣のような鋭い光が宿っている。

輝くんは、してやったりとばかりに、にやりと口の端を吊り上げた。 彼は知っていたのだ。この、価値観も趣味も、生息する惑星すら違うのではないかと思われるほど全く波長の違う二つの個体を同時に動かすための、唯一にして最強の共通言語を。

「おう! 俺んちの親父がさ、なんか取引先から、A5ランクの和牛、ブロックで貰ってきたんだよ。デカすぎて、うちの家族だけじゃ到底食いきれねえから、お前らも手伝え!」

「A5ランク……!?」

「和牛……!?」

秋葉くんの目が、今まで見たこともないほどに、カッと見開かれた。それはもはや、人間の眼球の可動域を超えているように見えた。杏さんは、身を乗り出したままの姿勢で固まっている。

かくいう私も、「和牛」という、そのたった三文字が持つ、圧倒的なまでの引力を前に、先ほどまでの鋼の決意が、まるで熱せられた飴細工のように、いとも簡単にぐにゃりと歪んでいくのを感じていた。 A5ランク。その言葉の響きには、紫外線も人混みも、すべてを凌駕するほどの魔力が宿っていた。

「どうする? 来るだろ? 俺の兄貴に頼んで、車出してもらうからさ!」

輝くんのその問いは、もはや、問いの形をした最終通告だった。 こうして、私の緻密に練り上げられた「静かな夏休みファイナルプラン」は、A5ランク和牛という名の、抗いがたい重力を持つブラックホールによって、あっけなく崩壊の運命を辿ったのだった。

          ◇

そして当日。 輝くんのお兄さんが運転する、大きなワンボックスカーに揺られ、私たちは目的の海岸へと向かっていた。車内の空気は、言葉で表現するのが極めて難しいほど、ちぐはぐで、混沌としていた。

ハンドルを握るお兄さんは、後部座席のカオスな状況に我関せずといった涼しい顔をしているが、助手席に座る輝くんは、窓を全開にして、カーステレオから大音量で流れるサザンオールスターズを、本家もかくやというほどの熱量で熱唱している。 「勝手にシンドバッド」のシャウトが、潮風の匂いを乗せて車内に渦巻く。

「胸さわぎの腰つき~!」

「うるっせえんだよ、テル! 音痴かよ!」

後部座席の真ん中に陣取った杏さんは、眉間に深い皺を寄せ、「マジ、うっさい。お兄さん、こいつ捨てていいっすよ」と悪態をつきながらも、時折、その唇が小さく歌詞を口ずさんでいるのを、私は見逃さなかった。

その隣では、秋葉くんが外界の喧騒を完全にシャットアウトし、携帯ゲーム機の世界に没頭していた。時折、「くっ……! この程度の弾幕に、僕が怯むとでも思ったか……!」などと、これから向かうのが穏やかな海岸ではなく、熾烈な戦場であるかのような不穏な独り言を呟いている。

そして、窓際で小さくなっている私は、ただひたすらに、車窓を高速で流れていく景色を、感情を無にして眺めながら、このカオスな空間から自らの意識を切り離すことに、全神経を集中させていた。

周波数が、あまりにもバラバラすぎる。 これは、もはやグループなどという生易しいものではない。たまたま、同じ鉄の箱に詰め込まれてしまった、意思の疎通が絶望的に不可能な、異星人の集まりだ。私は、このミッションを無事に生き延びることができるのだろうか。

数時間後、車は目的地の駐車場に滑り込んだ。 ドアを開けた瞬間、むわりとした熱気と共に、私の五感を強烈な情報が襲った。

肌を刺すようでいて、しかし、どこか心地よい湿度を含んだ潮風。 ザアア、ザアア、と、寄せては返す、永遠に繰り返される壮大で単調な波の音。 ギラギラと容赦なく照りつける太陽の光を一身に浴びて、無数のダイヤモンドを撒き散らしたようにきらめく紺碧の海面。 そして、その手前の砂浜を埋め尽くす、赤、青、黄色、色とりどりのパラソルの花と、けたたましいほどに楽しそうな人々の笑い声。

私は、その圧倒的なまでの「陽」のエネルギーの奔流《ほんりゅう》を前に、一瞬、眩暈《めまい》を覚えて立ち尽くした。ここは、私の住む世界とは違う次元の場所だ。

「よっしゃー! 着いたー! まずは、ウォーミングアップにビーチバレーだ!」

輝くんが、荷物を降ろすなり、天に向かって雄叫びを上げた。 運転手のお兄さんは「俺はパラソルの下で寝てるから、お前らで遊んでこい」と言い残し、さっさと日陰へ退避していった。賢明な判断だ。私もついていきたい。

しかし、私の束の間の逃避願望は、輝くんの一言で脆くも終わりを告げた。 ビーチバレー。 その単語を聞いただけで、私の全身の細胞が拒絶反応を示した。

それは、砂の上という、ただでさえ極めて不安定で足を取られやすい足場で、ボールを落とさないという、ただ一点の目的のために、複数人が高度な連携と協調性を持って動くことを要求される、野蛮で、そして極めて非合理的なスポーツである。

「よし、チーム分けな! 俺と杏ちゃんが組んで、秋葉と水無月がチームな!」

輝くんの、あまりにも無慈悲で、戦力バランスという概念を一切考慮しないチーム分け。 私と秋葉くん。もはや、勝敗は、試合が始まる前から火を見るよりも明らかだった。これは、スポーツではない。公開処刑だ。

案の定、コート(らしき場所に引かれた線)を挟んで始まった試合は、凄惨という言葉以外に表現しようのないものとなった。

ネットの向こう側では、輝くんが助走から繰り出す、凶器としか思えない強烈なスパイクが、何度も我々の陣地に突き刺さる。 杏さんも、ファッションモデルのような華奢な見た目からは全く想像もつかない、驚くべき俊敏さと反射神経で、巧みなレシーブを次々と決めていく。二人の間には、阿吽の呼吸とでも言うべき連携が確かに存在していた。

対する、我々のチーム。 秋葉くんは、ボールが自分のいる方向に飛んでくるたびに、「うわっ!」「ああっ!」「そっちじゃない!」と、まるで質の悪いホラー映画のヒロインのような悲鳴を上げ、華麗なまでにボールを避けることに全力を注いでいた。 一度、奇跡的に彼の顔面にボールがクリーンヒットしたが、彼は「ぐふっ……! クリティカルヒット……! HPが……!」と意味不明な呻き声を漏らしながら、そのまま白砂の上に崩れ落ちた。もはや戦力にならないどころか、マイナスでしかない。

私も、必死でボールに食らいつこうと試みるが、長年のインドア生活で完全に退化した私の身体は、脳からの「動け」という指令を、ことごとく無視し続けた。 深く、乾いた砂に足を取られ、無様に転ぶ。ボールは、必死に伸ばした私の手の、ほんの数センチ横を、まるで嘲笑うかのように通り過ぎていく。

「水無月! もっと腰を落とせって!」

「秋葉! ボールから逃げんな! 目を開けろ!」

輝くんからの、的確で、そして正論であるがゆえに、今の私たちにとってはあまりにも高度すぎる指示が、ヤジとなって飛んでくる。 無理だ。できない。なぜ、こんな苦行を、世の人々は「レジャー」や「楽しいこと」として認識できるのか。全く、全くもって、理解できない。

試合(という名の一方的な蹂躙《じゅうりん》)が、相手チームの体力が尽きたという理由でようやく終わりを告げた時、私と秋葉くんは、砂浜に大の字になって天を仰いでいた。空は、憎らしいほどに青かった。

息も絶え絶えの私たちを尻目に、輝くんが「よし、腹減ったな! BBQの準備するぞ!」と声を上げた。その言葉に、私たちはゾンビのようにゆっくりと起き上がる。 そして、ここで、私はまたしても、世界の複雑さと、人間の多面性を目の当たりにすることになる。

夏野杏さんが、覚醒したのだ。

「はー、マジ、使えねー。アンタら、見てな」

彼女は、汗を拭いもせず、そう悪態をつきながら吐き捨てると、まるで人格が入れ替わったかのように、驚くべき手際の良さで、BBQの準備を一人で差配《さはい》し始めたのだ。 折り畳み式のコンロの設置、慣れた手つきでの火起こし、持参した包丁でのリズミカルな野菜のカット、そして肉の下準備。その全ての動きに一切の無駄がなく、流れるように、そして完璧に進められていく。 その姿は、もはやギャルではなく、幾多の戦場を渡り歩いてきた手練れの野戦料理人のようだった。

「テル! 炭、全然足りねえじゃん! 車から予備、持ってこい!」

「秋葉! あんたが切った玉ねぎに砂、入ってんじゃん! ボウルごと洗ってこい、今すぐ!」

「静! そこ、ぼーっと突っ立ってないで、紙皿と割り箸、人数分並べて!」

彼女は、いつの間にか、この場の絶対的な司令官(コマンダー)となっていた。その指示は、簡潔かつ的確で、有無を言わせぬ凄みと迫力がある。

私と秋葉くんは、まるで新兵のように、彼女の命令に従って、ちょこまかと、しかし必死に動き回った。 輝くんだけが、「杏、かっけー! 超いい嫁さんになるぜ! 俺の嫁にしたい!」などと、この戦場において著しく緊張感のないことを口走り、杏さんに「うるせえ、手伝え!」と背中を思い切りどつかれていた。 お兄さんも匂いにつられてのっそりと起き出し、静かにビール(もちろんノンアルコールだ、運転手だから)を開けている。

やがて、杏司令官の完璧な指揮のもと、コンロの上で、あの、待ちに待ったA5ランク和牛が、じゅうじゅうと、天国からの福音のような音を立てて焼かれ始めた。 立ち上る、香ばしい煙。肉の脂が炭に落ちて生まれる、甘く、食欲を暴力的に刺激する香り。 その香りを鼻孔いっぱいに吸い込んだ瞬間、つい先ほどまでのビーチバレーでの屈辱や疲労など、遠い銀河の彼方へと消え去ってしまった。

一口、口に入れた肉は、私の貧困な語彙では表現できないほど、想像を絶するほどに、美味しかった。 歯がほとんど必要ないほど柔らかい。舌の上でとろける上質な脂の甘みと、肉本来の濃厚な旨味が、口いっぱいに、そして脳天まで突き抜けるように広がっていく。

「……おいしい」

私の口から、思わず、魂の底からの言葉が漏れた。

「だろ? 俺の親父のコネ、すげーだろ!」

輝くんが、自分の手柄のように胸を張る。

「いや、これは、アタシの焼き方が神だから」

杏さんが、トングをカチカチ鳴らしながらドヤ顔で言う。

「僕の、玉ねぎの洗い方も、完璧でした……。この甘みは、僕のファインプレーなくしてはあり得なかったでしょう」

秋葉くんが、眼鏡を光らせながら真顔で分析する。

私たちは、無我夢中で、ただひたすらに、目の前の至高の肉を頬張った。 あれほどバラバラで不協和音しか奏でていなかった私たちの周波数が、この「美味しい」という一点において、まるで奇跡のように、完璧に、そして美しく一つに重なった瞬間だった。

その後の時間は、もう、良くも悪くもカオスという言葉しか当てはまらなかった。 輝くんがクーラーボックスから取り出した、ラグビーボールのように巨大なスイカで、唐突にスイカ割りを始めた。

タオルで目隠しをされた秋葉くんは、「心の眼で、スイカの中心(コア)を捉える……! フォースを信じろ!」などと呟きながら、全く逆方向へとおぼつかない足取りで歩いていき、隣でBBQを楽しんでいた、いかつい身体のお兄さんたちのグループに、危うく木の棒で戦いを挑みそうになっていた。 その一部始終を見ていた杏さんは、腹を抱えて砂浜に笑い転げ、私は、そんな彼女の、普段のクールな姿からは想像もつかない無防備な姿を見て、また、少しだけ、つられて笑ってしまった。

そして、あれほど高くにあった太陽が西の水平線へと傾き、空が燃えるようなオレンジ色と、落ち着いた紫色にゆっくりと染まり始めた頃。 私たちは、食べ疲れて、遊び疲れて、砂浜に思い思いの格好で座り込み、ただ、ぼんやりと海を眺めていた。

ザアア、ザアア……。

波の音が、先ほどまでの喧騒が嘘のように、今はただ心地いいBGMとなって、耳に優しく届く。 誰かが何かを話すわけでもなく、会話は途切れ途切れだった。でも、その沈黙は、あの日のファミレスで感じたような、息が詰まる気まずさとは全く違う、温かくて、満たされたものだった。

「なあ」

そんな穏やかな静寂を破って、輝くんが、不意に立ち上がった。

「最後、もう一回、海、入んね?」

そして、彼は、悪戯を思いついた子供のような顔で笑うと、私の足元まで駆け寄り、ばしゃっ、と勢いよく海水をかけた。

「―――つめたっ!?」

突然の冷たさと衝撃に、思わず素っ頓狂《すっとんきょう》な声が出る。見れば、お気に入りのロングスカートの裾が、びしょ濡れになっていた。

「ははは! 油断したな、水無月!」

輝くんが、してやったりとばかりに笑う。

「て、テル! お前、マジ、ガキかよ!」

杏さんが、呆れたように、しかしどこか楽しそうに怒ったふりをして立ち上がり、輝くんを追いかけ始める。 ばしゃ、ばしゃ、と水しぶきが上がり、二人の笑い声が夕暮れの浜辺に響く。 秋葉くんは、「ひいっ! 精密機器が! 僕の聖域に水滴が!」と叫びながら、ゲーム機を天に掲げ、波が届かない安全な高台へと避難していく。

私は、ただ、その光景を、呆然と見ていた。 濡れて砂がまとわりついたスカート。砂まみれの足。 最悪だ。不快だ。非合理的だ。 そう、思うはずだった。私の思考回路は、そう結論づけるはずだった。

なのに。

輝くんが、杏さんに追いつかれ、今度は逆に海水をかけ返されて、子供のようにはしゃいでいる。 杏さんが、「ざまーみろ!」と叫びながら、心の底から楽しそうに、顔をくしゃくしゃにして笑っている。 高台に避難したはずの秋葉くんが、遠くから「もっとやれー! 輝くんに集中砲火を!」と、無責任な野次を飛ばしている。

その、あまりにも平和で、あまりにも、ばかばかしい光景を見ているうちに。 私の心の中を支配していた、理屈とか、計画とか、効率とか、そういう頑なで冷たい何かが、ぷつりと、音を立てて弾けた。

気づいた時には、私も、立ち上がっていた。 そして、冷たい海水に躊躇なく足を踏み入れ、両手で、ざばり、と海水をすくうと、一番近くで油断していた輝くんの背中に、思いっきり、かけた。

ばしゃん!

予想外の方向からの攻撃に、輝くんが、驚いたように、振り返った。 その顔は、一瞬、きょとんとして、そして、次の瞬間、今まで見たこともないくらい、嬉しそうに、くしゃりと、崩れた。

「ははっ! やるじゃんか、水無月!」

その笑顔を見た途端、まるでそれが合図だったかのように、杏さんも、遠巻きに見ていた秋葉くんも、みんなが、一斉に声を上げて笑い出した。

私も、笑っていた。 自分でも驚くくらい大きな声を出して、お腹を抱えて、生理的なものとは違う、温かい涙が出るほど、笑っていた。

なぜ笑っているのか、理由なんて、わからなかった。 頭で、考えていなかった。 ただ、楽しかった。 ただ、この瞬間が、どうしようもなく、幸せだった。

寄せては返す波の音も、空を染める夕日の色も、鼻をくすぐる潮の匂いも、友達の屈託のない笑い声も、全部が、一つの、完璧で、幸福な音楽になって、私の心を、隅々まで満たしていく。

ああ、そうか。 「楽しい」って、こういうことだったのか。

理由も、理屈も、効率も、計画も、そんなものは何もいらない。 ただ、この瞬間に、この抗えない流れに、この心地よいリズムに、何も考えずに身を任せること。 それだけで、よかったんだ。

          ◇

帰り道。 すっかり夕闇に包まれたワンボックスカーの中で、私は、窓の外を矢のように過ぎていく街の灯りを、ただ、静かに見つめていた。

運転席のお兄さんも静かで、輝くんの熱唱もなく、カーステレオの音量も控えめだ。 でも、その沈黙は、あの日のファミレスで支配していた冷たいものとは全く違う、共有された疲労感と満足感に満たされた、温かい沈黙だった。

私の高校二年生の夏休みは、私が計画した「静寂」と「平穏」とは、似ても似つかない、やかましくて、めちゃくちゃで、非効率で、そして、どうしようもなく、輝かしいものになって、静かに終わろうとしていた。
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