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第10話:秋空とヒーローの影
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文化祭の喧騒が嘘だったかのように、学校には、再び、穏やかな日常が戻ってきた。
十月。 空は、インクを零したかのように、どこまでも深く、そして青く澄み渡っていた。
校庭の隅にある銀杏の木は、その葉を鮮やかな黄金色に染め上げ、風が吹くたびに、きらきらと輝く金の硬貨をばらまいているようだ。 教室の窓を開けると、ふわりと、甘く、そして、どこか切ない香りが流れ込んでくる。金木犀の香りだ。
この香りがし始めると、ああ、もうすっかり秋なのだな、と実感する。 それは、夏の終わりと、冬の始まりを、同時に告げる、境界線のような香りだった。
◇
私たちの、奇妙なグループにも、少しだけ変化があった。 白鳥麗奈さんが、時々、私たちの輪の中に、混ざるようになったのだ。
彼女は、相変わらず、 「あなたたちの会話は、9割が文化的生産性のないノイズで構成されているわ」 などと、理屈っぽい分析を口にはするものの、その表情は、以前のような氷の仮面ではなく、ほんの少しだけ、人間らしい柔らかさを帯びていた。
文化祭のあの日、彼女が流した涙は、彼女を縛り付けていた「完璧」という名の、重い鎧を、洗い流してくれたのかもしれない。
そんな、穏やかな秋の昼下がり。 その事件は、起こった。
◇
その日は、私たちの高校のグラウンドが、異様な熱気と緊張感に包まれていた。
全国高校サッカー選手権、県予選準決勝。 勝てば、夢の全国大会への切符が見えてくる、絶対に負けられない大一番だ。相手は、因縁のライバル校。
全校生徒が授業を短縮して応援に駆けつけ、ブラスバンド部の演奏が空気を震わせている。
そして、その視線の中心にいるのは、もちろん、彼だった。 冬馬颯太くん。 二年三組。サッカー部の絶対的エースにして、寸分の隙もない爽やかイケメン。
透き通るような白い肌、優しげな目元、風に揺れるサラサラの黒髪。その上、成績は常に上位で、誰に対しても、平等に、そして、完璧に、優しい。 彼は、この学校の、誰もが認めるヒーローだった。
私も、輝くんたちと一緒に、グラウンドの隅から、その試合を眺めていた。
「うわー、やっぱ、冬馬くん、カッケー!」
杏さんが、興奮気味に声を上げる。
「彼のドリブルは、物理法則の範囲内で、最も美しい軌道を描いています。まるで、黄金比……」
秋葉くんが、眼鏡をくいっと上げながら、解説を始める。
「……彼に掛かるプレッシャーは、練習試合の比ではないわね。三年生の引退も懸かっている。この重圧の中でパフォーマンスを維持できるか……興味深い観察対象よ」
麗奈さんは、腕を組みながら、冷静に、しかし少し心配そうに分析している。 そして、輝くんは、何も言わず、ただ、じっと、グラウンドの中の、颯太くんの動きだけを、真剣な目で見つめていた。
試合は、一進一退の、息詰まるような攻防が続いていた。
一点ビハインドで迎えた、試合終了間際、ロスタイム。 私たちの学校が、土壇場で、ペナルティキックのチャンスを得た。
グラウンドを埋め尽くした生徒たちから、割れんばかりの歓声が上がる。 キッカーは、もちろん、冬馬颯太くん。
彼が決めれば、同点。延長戦への希望が繋がる。 彼が外せば、そこで先輩たちの夏が終わる。
全ての期待が、全ての祈りが、彼の、その細い背中に、重く、重く、のしかかっているのが、私にさえ、わかった。
しん、とグラウンドが静まり返る。 颯太くんが、ゆっくりとボールをセットする。
深く、息を吸う。 そして、短い助走から、振り抜かれた、右足。
ボールは、ゴールキーパーの、懸命に伸ばした手の、ほんの数センチ横を、すり抜けていった。 ――しかし、その軌道は、ゴールマウスの、さらに、数センチ外側を、描いていた。
ボールが、力なく、ゴールの裏のネットを揺らす。 その瞬間、非情な、試合終了のホイッスルが、秋空に、長く、長く、響き渡った。
私たちの、負け。 全国への夢が、絶たれた瞬間。
一瞬の、信じられない、というような沈黙。 そのあと、誰からともなく、泣き崩れる三年生や、立ち尽くす彼への、慰めの言葉が飛び始めた。
「ドンマイ、冬馬くん!」 「颯太くんのせいじゃないよ!」 「よくやったよ!」
チームメイトが、彼の肩を叩く。女子生徒たちが、涙ながらに、「感動をありがとう」と、優しい言葉をかける。
でも、その、優しさで、満たされた空気の中で。 颯太くんは、ただ、立ち尽くしていた。
その顔は、まるで能面のように、何の感情も浮かんでいなかった。 彼は、自分の失敗を、先輩たちの夢を終わらせてしまったという事実を、そして、周りの期待に応えられなかったという絶望を、たった一人で、その完璧な仮面の下で、受け止めようとしていた。
「……かわいそう」
杏さんが、ぽつりと呟いた。 麗奈さんも、「……残酷な結末ね」と、静かに言った。 誰もが、彼に同情し、その心を、慮っていた。
その、優しさで、満たされた空気の中で。 ただ一人、輝くんだけが、違った。
彼は、すっくと立ち上がると、両手を、メガホンのように口に当てて、グラウンドに向かって、ありったけの声で、叫んだのだ。
「――おい、冬馬ァ! 今の、ダッセーぞ!」
その声は、敗北の悲しみに暮れるグラウンドに、驚くほど、不謹慎に、そしてクリアに響き渡った。
しん、と、今度こそ、完全な静寂が、グラウンドを支配した。 え、という、戸惑いの声。 輝くんを、信じられないものを見るような、非難の視線。
特に、颯太くんのファンである女子生徒たちや、応援団からの視線は、もはや、殺意さえ、帯びていた。
「……テル、お前、何言ってんの。空気読めよ」
杏さんが、呆れたように、そして少し怒ったように言う。
「そうですよ、朝陽くん。公式戦の敗者に、それ以上、鞭打つなんて……」
秋葉くんも、同意する。 しかし、輝くんは、周りの反応など、全く気にしていないようだった。
彼は、ただ、グラウンドで、一人、立ち尽くす、ヒーローの影を、じっと、見つめていた。
◇
放課後。 応援の生徒たちも帰り、オレンジ色の西日が、長く影を落とすグラウンドに、颯太くんは、まだ、一人でいた。
ユニフォームのまま、力なく、ボールを蹴っている。 その姿は、昼間のヒーローの輝きなど、どこにもない、ひどく、孤独な、影そのものだった。
そこへ、輝くんが、一人で、歩み寄っていった。 私たち、四人は、少し離れた、校舎の陰から、固唾を飲んで、その様子を見守っていた。
輝くんは、謝るでもなく、慰めるでもなく、ただ、颯太くんの前に立つと、ぶっきらぼうに、こう言った。
「おい。一対一、やろうぜ」
颯太くんは、何も答えない。ただ、虚ろな目で、ボールを見つめている。
「なんだよ。公式戦で負けたからって、俺相手でも、また、負けるのが怖いのか?」
輝くんの、挑発的な言葉。 その言葉に、颯太くんの肩が、ぴくり、と動いた。
彼は、ゆっくりと顔を上げ、初めて、輝くんの顔を、見た。 その瞳には、深い絶望と、そして、かすかな、怒りのような色が、宿っていた。
「……いいよ」
かろうじて、聞き取れるような、声だった。
「やってやるよ」
そして、二人の、奇妙な、一対一の勝負が、始まった。
それは、サッカー、というような、綺麗なものではなかった。 もっと、泥臭くて、必死で、そして、本能的な、まるで、二匹の獣の、縄張り争いのようだった。
輝くんが、猛然と、ドリブルを仕掛ける。 颯太くんが、激しいタックルで、それを止める。 土埃が舞い、綺麗なユニフォームが、泥に汚れていく。
「らああっ!」 「うおおっ!」
荒々しい、呼吸。叫び声。 そこには、昼間の、爽やかなヒーローの姿も、優等生の姿も、なかった。 ただ、必死に、一つのボールを追いかける、二人の、むき出しの、男の子が、いるだけだった。
「どうした、冬馬! 全然、楽しくなさそうじゃんか!」
輝くんが、叫ぶ。
「お前、誰のために、サッカーやってんだよ! 学校のためか!? ファンの女子か!? 先輩のためか!?」
「……うるさい!」
颯太くんが、吠える。
「お前に、何がわかるんだよ! 俺が外したせいで、全部終わったんだぞ!」
その言葉と共に、彼は、全ての感情を叩きつけるかのように、ボールを、蹴った。 それは、洗練された技術などではない、もっと、根源的な、衝動の、塊。
ボールは、唸りを上げて、輝くんの横をすり抜け、誰もいないゴールに、突き刺さった。
どさ、と音を立てて、颯太くんは、その場に、膝から崩れ落ちた。 肩で、激しく、息をしている。顔も、髪も、ユニフォームも、泥だらけだ。 輝くんも、大の字になって、彼の隣に、倒れ込んだ。
二人は、しばらく、何も言わず、ただ、急速に、その色を、深い藍色へと変えていく、秋の空を、見上げていた。
一番星が、ちかり、と瞬いている。 どこからか、また、金木犀の、甘い香りが、漂ってきた。
「……ははっ」
輝くんが、笑った。
「やっぱ、お前、すげえな。あのシュート、マジでビビったわ」
そして、続けた。
「……今の顔、さっきの試合の、百万倍、いい顔、してんぜ」
その言葉を聞いた、颯太くんの、肩が、震えた。 そして、彼の口から、押し殺したような、笑い声が、漏れ始めた。
「は……はは……あはははは!」
それは、やがて、大きな、大きな、笑い声になった。 涙を、流しながら、彼は、子供のように、笑い続けていた。
その笑い声は、ヒーローの仮面の下で、ずっと、ずっと、彼が、押し殺してきた、本当の、叫び声のように、私には、聞こえた。
私は、校舎の陰で、その光景を、ただ、じっと、見ていた。
輝くんは、ヒーローを、慰めなかった。 彼は、「期待に応えられなかった優等生」という、その重すぎる十字架を、力ずくで、引き剥がしたのだ。 ボロボロで、泥だらけで、泣きながら笑っている、ただの「サッカーが好きな男の子」に戻るために。
優しさ、というものには、色々な形があるのかもしれない。 寄り添う優しさもあれば、突き放す優しさもある。 そして、時には、全てを、壊してしまう、優しさも。
私は、隣に立つ輝くんの横顔を、盗み見た。 彼は、何を考えているのだろう。 彼には、一体、何が、見えているのだろう。 この世界の、どんな、仕組みが。
秋の夜空は、どこまでも、どこまでも、高く、そして、澄み渡っていた。
十月。 空は、インクを零したかのように、どこまでも深く、そして青く澄み渡っていた。
校庭の隅にある銀杏の木は、その葉を鮮やかな黄金色に染め上げ、風が吹くたびに、きらきらと輝く金の硬貨をばらまいているようだ。 教室の窓を開けると、ふわりと、甘く、そして、どこか切ない香りが流れ込んでくる。金木犀の香りだ。
この香りがし始めると、ああ、もうすっかり秋なのだな、と実感する。 それは、夏の終わりと、冬の始まりを、同時に告げる、境界線のような香りだった。
◇
私たちの、奇妙なグループにも、少しだけ変化があった。 白鳥麗奈さんが、時々、私たちの輪の中に、混ざるようになったのだ。
彼女は、相変わらず、 「あなたたちの会話は、9割が文化的生産性のないノイズで構成されているわ」 などと、理屈っぽい分析を口にはするものの、その表情は、以前のような氷の仮面ではなく、ほんの少しだけ、人間らしい柔らかさを帯びていた。
文化祭のあの日、彼女が流した涙は、彼女を縛り付けていた「完璧」という名の、重い鎧を、洗い流してくれたのかもしれない。
そんな、穏やかな秋の昼下がり。 その事件は、起こった。
◇
その日は、私たちの高校のグラウンドが、異様な熱気と緊張感に包まれていた。
全国高校サッカー選手権、県予選準決勝。 勝てば、夢の全国大会への切符が見えてくる、絶対に負けられない大一番だ。相手は、因縁のライバル校。
全校生徒が授業を短縮して応援に駆けつけ、ブラスバンド部の演奏が空気を震わせている。
そして、その視線の中心にいるのは、もちろん、彼だった。 冬馬颯太くん。 二年三組。サッカー部の絶対的エースにして、寸分の隙もない爽やかイケメン。
透き通るような白い肌、優しげな目元、風に揺れるサラサラの黒髪。その上、成績は常に上位で、誰に対しても、平等に、そして、完璧に、優しい。 彼は、この学校の、誰もが認めるヒーローだった。
私も、輝くんたちと一緒に、グラウンドの隅から、その試合を眺めていた。
「うわー、やっぱ、冬馬くん、カッケー!」
杏さんが、興奮気味に声を上げる。
「彼のドリブルは、物理法則の範囲内で、最も美しい軌道を描いています。まるで、黄金比……」
秋葉くんが、眼鏡をくいっと上げながら、解説を始める。
「……彼に掛かるプレッシャーは、練習試合の比ではないわね。三年生の引退も懸かっている。この重圧の中でパフォーマンスを維持できるか……興味深い観察対象よ」
麗奈さんは、腕を組みながら、冷静に、しかし少し心配そうに分析している。 そして、輝くんは、何も言わず、ただ、じっと、グラウンドの中の、颯太くんの動きだけを、真剣な目で見つめていた。
試合は、一進一退の、息詰まるような攻防が続いていた。
一点ビハインドで迎えた、試合終了間際、ロスタイム。 私たちの学校が、土壇場で、ペナルティキックのチャンスを得た。
グラウンドを埋め尽くした生徒たちから、割れんばかりの歓声が上がる。 キッカーは、もちろん、冬馬颯太くん。
彼が決めれば、同点。延長戦への希望が繋がる。 彼が外せば、そこで先輩たちの夏が終わる。
全ての期待が、全ての祈りが、彼の、その細い背中に、重く、重く、のしかかっているのが、私にさえ、わかった。
しん、とグラウンドが静まり返る。 颯太くんが、ゆっくりとボールをセットする。
深く、息を吸う。 そして、短い助走から、振り抜かれた、右足。
ボールは、ゴールキーパーの、懸命に伸ばした手の、ほんの数センチ横を、すり抜けていった。 ――しかし、その軌道は、ゴールマウスの、さらに、数センチ外側を、描いていた。
ボールが、力なく、ゴールの裏のネットを揺らす。 その瞬間、非情な、試合終了のホイッスルが、秋空に、長く、長く、響き渡った。
私たちの、負け。 全国への夢が、絶たれた瞬間。
一瞬の、信じられない、というような沈黙。 そのあと、誰からともなく、泣き崩れる三年生や、立ち尽くす彼への、慰めの言葉が飛び始めた。
「ドンマイ、冬馬くん!」 「颯太くんのせいじゃないよ!」 「よくやったよ!」
チームメイトが、彼の肩を叩く。女子生徒たちが、涙ながらに、「感動をありがとう」と、優しい言葉をかける。
でも、その、優しさで、満たされた空気の中で。 颯太くんは、ただ、立ち尽くしていた。
その顔は、まるで能面のように、何の感情も浮かんでいなかった。 彼は、自分の失敗を、先輩たちの夢を終わらせてしまったという事実を、そして、周りの期待に応えられなかったという絶望を、たった一人で、その完璧な仮面の下で、受け止めようとしていた。
「……かわいそう」
杏さんが、ぽつりと呟いた。 麗奈さんも、「……残酷な結末ね」と、静かに言った。 誰もが、彼に同情し、その心を、慮っていた。
その、優しさで、満たされた空気の中で。 ただ一人、輝くんだけが、違った。
彼は、すっくと立ち上がると、両手を、メガホンのように口に当てて、グラウンドに向かって、ありったけの声で、叫んだのだ。
「――おい、冬馬ァ! 今の、ダッセーぞ!」
その声は、敗北の悲しみに暮れるグラウンドに、驚くほど、不謹慎に、そしてクリアに響き渡った。
しん、と、今度こそ、完全な静寂が、グラウンドを支配した。 え、という、戸惑いの声。 輝くんを、信じられないものを見るような、非難の視線。
特に、颯太くんのファンである女子生徒たちや、応援団からの視線は、もはや、殺意さえ、帯びていた。
「……テル、お前、何言ってんの。空気読めよ」
杏さんが、呆れたように、そして少し怒ったように言う。
「そうですよ、朝陽くん。公式戦の敗者に、それ以上、鞭打つなんて……」
秋葉くんも、同意する。 しかし、輝くんは、周りの反応など、全く気にしていないようだった。
彼は、ただ、グラウンドで、一人、立ち尽くす、ヒーローの影を、じっと、見つめていた。
◇
放課後。 応援の生徒たちも帰り、オレンジ色の西日が、長く影を落とすグラウンドに、颯太くんは、まだ、一人でいた。
ユニフォームのまま、力なく、ボールを蹴っている。 その姿は、昼間のヒーローの輝きなど、どこにもない、ひどく、孤独な、影そのものだった。
そこへ、輝くんが、一人で、歩み寄っていった。 私たち、四人は、少し離れた、校舎の陰から、固唾を飲んで、その様子を見守っていた。
輝くんは、謝るでもなく、慰めるでもなく、ただ、颯太くんの前に立つと、ぶっきらぼうに、こう言った。
「おい。一対一、やろうぜ」
颯太くんは、何も答えない。ただ、虚ろな目で、ボールを見つめている。
「なんだよ。公式戦で負けたからって、俺相手でも、また、負けるのが怖いのか?」
輝くんの、挑発的な言葉。 その言葉に、颯太くんの肩が、ぴくり、と動いた。
彼は、ゆっくりと顔を上げ、初めて、輝くんの顔を、見た。 その瞳には、深い絶望と、そして、かすかな、怒りのような色が、宿っていた。
「……いいよ」
かろうじて、聞き取れるような、声だった。
「やってやるよ」
そして、二人の、奇妙な、一対一の勝負が、始まった。
それは、サッカー、というような、綺麗なものではなかった。 もっと、泥臭くて、必死で、そして、本能的な、まるで、二匹の獣の、縄張り争いのようだった。
輝くんが、猛然と、ドリブルを仕掛ける。 颯太くんが、激しいタックルで、それを止める。 土埃が舞い、綺麗なユニフォームが、泥に汚れていく。
「らああっ!」 「うおおっ!」
荒々しい、呼吸。叫び声。 そこには、昼間の、爽やかなヒーローの姿も、優等生の姿も、なかった。 ただ、必死に、一つのボールを追いかける、二人の、むき出しの、男の子が、いるだけだった。
「どうした、冬馬! 全然、楽しくなさそうじゃんか!」
輝くんが、叫ぶ。
「お前、誰のために、サッカーやってんだよ! 学校のためか!? ファンの女子か!? 先輩のためか!?」
「……うるさい!」
颯太くんが、吠える。
「お前に、何がわかるんだよ! 俺が外したせいで、全部終わったんだぞ!」
その言葉と共に、彼は、全ての感情を叩きつけるかのように、ボールを、蹴った。 それは、洗練された技術などではない、もっと、根源的な、衝動の、塊。
ボールは、唸りを上げて、輝くんの横をすり抜け、誰もいないゴールに、突き刺さった。
どさ、と音を立てて、颯太くんは、その場に、膝から崩れ落ちた。 肩で、激しく、息をしている。顔も、髪も、ユニフォームも、泥だらけだ。 輝くんも、大の字になって、彼の隣に、倒れ込んだ。
二人は、しばらく、何も言わず、ただ、急速に、その色を、深い藍色へと変えていく、秋の空を、見上げていた。
一番星が、ちかり、と瞬いている。 どこからか、また、金木犀の、甘い香りが、漂ってきた。
「……ははっ」
輝くんが、笑った。
「やっぱ、お前、すげえな。あのシュート、マジでビビったわ」
そして、続けた。
「……今の顔、さっきの試合の、百万倍、いい顔、してんぜ」
その言葉を聞いた、颯太くんの、肩が、震えた。 そして、彼の口から、押し殺したような、笑い声が、漏れ始めた。
「は……はは……あはははは!」
それは、やがて、大きな、大きな、笑い声になった。 涙を、流しながら、彼は、子供のように、笑い続けていた。
その笑い声は、ヒーローの仮面の下で、ずっと、ずっと、彼が、押し殺してきた、本当の、叫び声のように、私には、聞こえた。
私は、校舎の陰で、その光景を、ただ、じっと、見ていた。
輝くんは、ヒーローを、慰めなかった。 彼は、「期待に応えられなかった優等生」という、その重すぎる十字架を、力ずくで、引き剥がしたのだ。 ボロボロで、泥だらけで、泣きながら笑っている、ただの「サッカーが好きな男の子」に戻るために。
優しさ、というものには、色々な形があるのかもしれない。 寄り添う優しさもあれば、突き放す優しさもある。 そして、時には、全てを、壊してしまう、優しさも。
私は、隣に立つ輝くんの横顔を、盗み見た。 彼は、何を考えているのだろう。 彼には、一体、何が、見えているのだろう。 この世界の、どんな、仕組みが。
秋の夜空は、どこまでも、どこまでも、高く、そして、澄み渡っていた。
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