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第11話:修学旅行、古都の夜
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私たちの高校の修学旅行先が、ありきたりにも、京都・奈良に決まったと聞いた時、私は、正直、心の底から安堵した。
これがもし、沖縄や北海道といった、より活動的で、コミュニケーション能力が要求される土地であったなら、私の胃は、出発の一ヶ月前から、その機能を放棄していただろう。
その点、京都・奈良はいい。 寺社仏閣、古い町並み。そこにあるのは、雄弁な歴史と、多くを語らない石像たちだ。私にとっては、実に親和性の高い、心の故郷のような場所だった。
――しかし。 それは、私が、まだ、孤独な「石」であった頃の話だ。
***
新幹線の車内は、すでに、地獄の様相を呈していた。
私の座る六人掛けのボックス席は、今や、二年三組、いや、この学校において、最もカオスで、最も平均偏差値の低い会話が繰り広げられる、特異点と化していた。
「なあなあ、京都着いたら、まず何食う? 抹茶パフェっしょ! 絶対!」
「いや、杏。君の思考は、あまりにも短絡的だ。ここはまず、老舗の湯豆腐で、古都の侘び寂びに触れるのが、通というものだろう」
「はあ? 豆腐とか、味しねえじゃん。てか、テル、あんた、さっきから駅弁二個目だろ。まだ食う気かよ」
「おう! 旅の基本は、食糧確保だからな!」
「朝陽くんのその理論は、現代日本の飽食時代においては、完全に破綻しています」
「麗奈ちゃん、カタいこと言わないの! それより、見てくださいよ、このガイドブックに載ってる、限定の、新選組コラボ八つ橋……! 誠の旗印が……! ああ……!」
「うるさい、秋葉。少し黙れ」
「颯太くん、クール!」
太陽、ギャル、完璧主義者、オタク、そして、爽やかイケメンの仮面を脱ぎ捨てた、ただのサッカー少年。そして、私。
この、あまりにも異質な元素が、一つのボックス席に押し込められ、激しい化学反応を起こし続けている。 先生が、時折、心配そうな顔でこちらを覗きに来るが、このカオスを制御できる人間など、この世には存在しない。
私は、窓の外を高速で流れていく景色を眺めながら、この、やかましくて、めちゃくちゃで、そして、不思議と、少しも不快ではない、この状況を、ただ、受け入れていた。
***
京都の街は、私たちの想像以上に、鮮やかな色に満ちていた。
バスの窓から見える山々は、赤や、黄色や、オレンジ色の、燃えるようなグラデーションで彩られている。 これほどの色彩が、自然界に存在しうるという事実に、私は、ただ、圧倒された。
自由行動の班分けは、言うまでもなく、この六人で、自動的に決定した。 私たちは、まず、金閣寺へと向かった。
池の水面に、その黄金の姿を映して静かにたたずむ舎利殿《しゃりでん》。 その、あまりにも完璧な美しさを前に、私は、言葉を失った。
「すげー! マジで、金ピカじゃん!」 輝くんが、子供のようにはしゃぐ。
「このアングル、超盛れるんだけど! 静、ちょっと、スマホで撮って!」 杏さんが、完璧なポーズを決める。
「鹿苑寺《ろくおんじ》舎利殿、通称、金閣。室町幕府三代将軍、足利義満によって建立され、その一層は寝殿造、二層は武家造、三層は禅宗仏殿造という、異なる様式を……」 麗奈さんが、まるで生き字引のように、淀みなく解説を始める。
「この、計算され尽くした美の構造……。我が愛する、超合金ロボット『ギャラクティカ・バスター』の合体シークエンスと、完全に、一致しています……」 秋葉くんが、涙ながらに、誰も理解できない共感を口にする。
「……はは、みんな、自由だな」 颯太くんが、人目を気にせず、心の底から、楽しそうに笑っていた。
***
次に訪れた、清水寺。 その、有名な舞台の上に立った時、眼下に広がる、錦の絨毯のような、紅葉の海に、息を呑んだ。
舞台の端に立ち、街を見下ろす。ひんやりとした、秋の風が、頬を撫でていく。 ああ、なんて、綺麗なんだろう。
私が、その感傷に浸っていた、その時。
「なあ、水無月。ここから飛び降りたら、助かる確率、何パーセントだと思う?」
隣に立った輝くんが、とんでもなく不謹慎なことを、真顔で尋ねてきた。
「……江戸時代の記録によれば、生存率は、八割五分四厘だったそうよ」
いつの間にか、背後に立っていた麗奈さんが、冷静に、補足した。
「マジで!? ほぼ助かるじゃん! よっしゃ、いっちょ、願掛けに……」
「やめろ、馬鹿!」
杏さんと颯太くんが、慌てて、輝くんの両腕を掴んだ。
***
やかましくて、めちゃくちゃで、そして、どうしようもなく、楽しい時間は、あっという間に過ぎていく。
気づけば、空は、深い藍色に染まり、私たちは、今夜の宿である、老舗旅館に、たどり着いていた。
旅館の中は、静寂に包まれていた。 磨き上げられた木の廊下。い草の、懐かしい香り。障子に映る、庭の松の影。 外の喧騒とは、まるで別世界だった。
夕食の、美しい京懐石を平らげ、広い大浴場で、手足を伸ばし、一日の疲れを癒す。 全てが、夢のようだった。
部屋に戻ると、すでに、布団が敷かれていた。 男子部屋と女子部屋に分かれ、それぞれが、枕投げという、古典的で、しかし、エキサイティングな戦闘を繰り広げた後。
ようやく、静かな、夜が、訪れた。
同室の杏さんと麗奈さんは、もう、すうすうと、穏やかな寝息を立てている。 私は、どうしても、寝付けなかった。
今日一日の出来事が、楽しかった思い出が、頭の中で、ぐるぐると、回り続けている。
私は、喉の渇きを癒やす言い訳を自分にして、そっと布団を抜け出した。 杏さんと麗奈さんを起こさないよう、慎重に襖を開け、ひんやりとした廊下へと出る。
深夜の旅館は、しんと静まり返っていた。磨き上げられた木の床を、靴下越しの冷たさを感じながら歩く。
一階の自販機コーナーで冷たいお茶を買い、部屋に戻ろうとした時、ふと、中庭に面したロビーの広いガラス戸が目に入った。そこから外の濡れ縁に出られるようになっている。
私は、吸い寄せられるようにガラス戸を開け、外へと出た。
ひんやりとした、夜の空気が、火照った頬に、心地いい。 見上げれば、都心では、決して見ることのできない、満天の星。
目の前には、ライトアップが消え、月明かりだけに照らされた、小さな、しかし完璧に手入れの行き届いた日本庭園が広がっていた。 その庭の隅で、時折、こおん、と、澄んだ音を立てて、鹿おどしが、静寂に、アクセントを添えている。
――と。
その庭に面した長い濡れ縁の端に、一つの人影が、座っているのに、気づいた。 月明かりに照らされた、その背中。 見間違えるはずもなかった。 朝陽輝くんだった。
彼は、一人で、ぼんやりと、庭を眺めているようだった。 いつも、太陽のように、周りを照らしている彼が、こうして、静かな月の光の下にいる。その光景が、ひどく、新鮮だった。
私は、吸い寄せられるように、彼の隣に、そっと、腰を下ろした。 彼は、驚いたように、一瞬、肩を揺らしたが、すぐに、私だと気づくと、にっ、と、いつものように、笑った。
「よっ。寝れねえの?」
「……うん。輝くんも?」
「まあな。なんか、興奮して目が冴えちまってさ。男子部屋、むさ苦しいし」
しばらく、二人で、黙って、庭を眺めていた。 聞こえるのは、秋の虫の声と、時折響く、鹿おどしの音だけ。 その沈黙は、少しも、気まずくなかった。
今しかない。 ずっと、聞きたかったこと。ずっと、わからなかったこと。 この、不思議な静寂が、私に、勇気をくれた。
「……ねえ、輝くん」
「ん?」
「輝くんの、周りには……どうして、自然に、人が、集まってくるの?」
私の、たどたどしい問いに、彼は、不思議そうに、首を傾げた。
「麗奈さんも、杏さんも、颯太くんも……秋葉くんも。みんな、輝くんと話してから、変わった気がする。みんな、あなたが、助けたんでしょう? ヒーローみたいに、みんなを、救ってる。……どうして、そんなことができるの?」
それが、私の、精一杯の、問いだった。 彼は、私の、スーパーヒーローだった。 私を、石ころの世界から、引っ張り出してくれた。 みんなの、心の、重い扉を、次々と、こじ開けていった。
その力の、源は、一体、何なのか。 私には、それが、不思議で、仕方がなかったのだ。
輝くんは、私の言葉を聞くと、しばらく、うーん、と、唸っていた。 そして、頭を、がしがしと、掻きながら、心底、困ったような顔で、こう言ったのだ。
「はあ? 俺が?」
「俺は、何も、してねえよ」
え、と、私は、言葉を失った。
「だって、そうだろ?」 彼は、私の方を、まっすぐに見て、続けた。
「麗奈が、勝手に、完璧なマニュアル作って、勝手に、パニックになって、勝手に、泣いただけじゃん。杏が、勝手に、迷子の子、助けただけだろ。颯太だって、俺が無理やり勝負させたけど、最後に、すげえシュート決めたのは、あいつ自身だ。秋葉なんか、俺、話の半分も、わかってねえし」
「俺は、何もしてない。みんなが、元から、面白くて、優しくて、すげえだけだろ」
その言葉は、まるで、静かな水面に、ぽとり、と落ちた、一滴の雫のように。 私の心に、ゆっくりと、しかし、確かに、波紋を、広げていった。
――そうか。 私は、ずっと、間違えていたのかもしれない。 この世界は、一人の、ヒーローが、物語を動かしているわけじゃ、ないんだ。
麗奈さんの、完璧主義があったから、あの、無茶苦茶なタピオカ屋は、形になった。 杏さんの、お節介なほどの優しさが、あの、迷子の子を、救った。 颯太くんの、負けず嫌いが、彼を、再び、奮い立たせた。 秋葉くんの、深い愛情が、彼の言葉を、輝かせた。
一人一人が、原因で。 一人一人が、結果。
たくさんの、人々が、出来事が、想いが、まるで、蜘蛛の巣の糸のように、複雑に、絡み合って、影響し合って、この、世界という、一枚の、巨大な、タペストリーを、織り上げている。
誰か一人が、中心なんじゃない。 全てが、中心で、全てが、端っこ。
そして、朝陽輝くんは。 彼は、ヒーローなんかじゃない。
彼は、その、巨大な、蜘蛛の巣の、一つの、「結び目」のような、存在なんだ。
たくさんの糸が、彼という場所で、交差し、繋がり、そして、また、新しい方向へと、伸びていく。 彼が、何かをしているんじゃない。 ただ、彼がいる、その場所で、物事が、勝手に、繋がり、動き出す。 彼の、その、全てを、面白がり、全てを、肯定する、その在り方が、糸と糸を、引き寄せているだけなんだ。
こおん、と。 鹿おどしが、また、一つ、澄んだ音を立てた。 その音が、私の、古い世界観の、終わりを、告げたような、気がした。
「……そっか」
私は、ただ、それだけを、呟いた。 でも、その一言に、私の、全ての、納得が、詰まっていた。 輝くんは、そんな私を見て、満足そうに、にっ、と笑った。
晩秋の、古都の夜。 私は、この世界の、ほんの、ひとかけらの、真実を、垣間見た、気がした。
そして、その、あまりにも、壮大で、そして、美しい、仕組みの前では。 私一人の、ちっぽけな悩みなど、まるで、夜空に消える、小さな、ため息のようなものだ、と、初めて、そう、思えたのだった。
これがもし、沖縄や北海道といった、より活動的で、コミュニケーション能力が要求される土地であったなら、私の胃は、出発の一ヶ月前から、その機能を放棄していただろう。
その点、京都・奈良はいい。 寺社仏閣、古い町並み。そこにあるのは、雄弁な歴史と、多くを語らない石像たちだ。私にとっては、実に親和性の高い、心の故郷のような場所だった。
――しかし。 それは、私が、まだ、孤独な「石」であった頃の話だ。
***
新幹線の車内は、すでに、地獄の様相を呈していた。
私の座る六人掛けのボックス席は、今や、二年三組、いや、この学校において、最もカオスで、最も平均偏差値の低い会話が繰り広げられる、特異点と化していた。
「なあなあ、京都着いたら、まず何食う? 抹茶パフェっしょ! 絶対!」
「いや、杏。君の思考は、あまりにも短絡的だ。ここはまず、老舗の湯豆腐で、古都の侘び寂びに触れるのが、通というものだろう」
「はあ? 豆腐とか、味しねえじゃん。てか、テル、あんた、さっきから駅弁二個目だろ。まだ食う気かよ」
「おう! 旅の基本は、食糧確保だからな!」
「朝陽くんのその理論は、現代日本の飽食時代においては、完全に破綻しています」
「麗奈ちゃん、カタいこと言わないの! それより、見てくださいよ、このガイドブックに載ってる、限定の、新選組コラボ八つ橋……! 誠の旗印が……! ああ……!」
「うるさい、秋葉。少し黙れ」
「颯太くん、クール!」
太陽、ギャル、完璧主義者、オタク、そして、爽やかイケメンの仮面を脱ぎ捨てた、ただのサッカー少年。そして、私。
この、あまりにも異質な元素が、一つのボックス席に押し込められ、激しい化学反応を起こし続けている。 先生が、時折、心配そうな顔でこちらを覗きに来るが、このカオスを制御できる人間など、この世には存在しない。
私は、窓の外を高速で流れていく景色を眺めながら、この、やかましくて、めちゃくちゃで、そして、不思議と、少しも不快ではない、この状況を、ただ、受け入れていた。
***
京都の街は、私たちの想像以上に、鮮やかな色に満ちていた。
バスの窓から見える山々は、赤や、黄色や、オレンジ色の、燃えるようなグラデーションで彩られている。 これほどの色彩が、自然界に存在しうるという事実に、私は、ただ、圧倒された。
自由行動の班分けは、言うまでもなく、この六人で、自動的に決定した。 私たちは、まず、金閣寺へと向かった。
池の水面に、その黄金の姿を映して静かにたたずむ舎利殿《しゃりでん》。 その、あまりにも完璧な美しさを前に、私は、言葉を失った。
「すげー! マジで、金ピカじゃん!」 輝くんが、子供のようにはしゃぐ。
「このアングル、超盛れるんだけど! 静、ちょっと、スマホで撮って!」 杏さんが、完璧なポーズを決める。
「鹿苑寺《ろくおんじ》舎利殿、通称、金閣。室町幕府三代将軍、足利義満によって建立され、その一層は寝殿造、二層は武家造、三層は禅宗仏殿造という、異なる様式を……」 麗奈さんが、まるで生き字引のように、淀みなく解説を始める。
「この、計算され尽くした美の構造……。我が愛する、超合金ロボット『ギャラクティカ・バスター』の合体シークエンスと、完全に、一致しています……」 秋葉くんが、涙ながらに、誰も理解できない共感を口にする。
「……はは、みんな、自由だな」 颯太くんが、人目を気にせず、心の底から、楽しそうに笑っていた。
***
次に訪れた、清水寺。 その、有名な舞台の上に立った時、眼下に広がる、錦の絨毯のような、紅葉の海に、息を呑んだ。
舞台の端に立ち、街を見下ろす。ひんやりとした、秋の風が、頬を撫でていく。 ああ、なんて、綺麗なんだろう。
私が、その感傷に浸っていた、その時。
「なあ、水無月。ここから飛び降りたら、助かる確率、何パーセントだと思う?」
隣に立った輝くんが、とんでもなく不謹慎なことを、真顔で尋ねてきた。
「……江戸時代の記録によれば、生存率は、八割五分四厘だったそうよ」
いつの間にか、背後に立っていた麗奈さんが、冷静に、補足した。
「マジで!? ほぼ助かるじゃん! よっしゃ、いっちょ、願掛けに……」
「やめろ、馬鹿!」
杏さんと颯太くんが、慌てて、輝くんの両腕を掴んだ。
***
やかましくて、めちゃくちゃで、そして、どうしようもなく、楽しい時間は、あっという間に過ぎていく。
気づけば、空は、深い藍色に染まり、私たちは、今夜の宿である、老舗旅館に、たどり着いていた。
旅館の中は、静寂に包まれていた。 磨き上げられた木の廊下。い草の、懐かしい香り。障子に映る、庭の松の影。 外の喧騒とは、まるで別世界だった。
夕食の、美しい京懐石を平らげ、広い大浴場で、手足を伸ばし、一日の疲れを癒す。 全てが、夢のようだった。
部屋に戻ると、すでに、布団が敷かれていた。 男子部屋と女子部屋に分かれ、それぞれが、枕投げという、古典的で、しかし、エキサイティングな戦闘を繰り広げた後。
ようやく、静かな、夜が、訪れた。
同室の杏さんと麗奈さんは、もう、すうすうと、穏やかな寝息を立てている。 私は、どうしても、寝付けなかった。
今日一日の出来事が、楽しかった思い出が、頭の中で、ぐるぐると、回り続けている。
私は、喉の渇きを癒やす言い訳を自分にして、そっと布団を抜け出した。 杏さんと麗奈さんを起こさないよう、慎重に襖を開け、ひんやりとした廊下へと出る。
深夜の旅館は、しんと静まり返っていた。磨き上げられた木の床を、靴下越しの冷たさを感じながら歩く。
一階の自販機コーナーで冷たいお茶を買い、部屋に戻ろうとした時、ふと、中庭に面したロビーの広いガラス戸が目に入った。そこから外の濡れ縁に出られるようになっている。
私は、吸い寄せられるようにガラス戸を開け、外へと出た。
ひんやりとした、夜の空気が、火照った頬に、心地いい。 見上げれば、都心では、決して見ることのできない、満天の星。
目の前には、ライトアップが消え、月明かりだけに照らされた、小さな、しかし完璧に手入れの行き届いた日本庭園が広がっていた。 その庭の隅で、時折、こおん、と、澄んだ音を立てて、鹿おどしが、静寂に、アクセントを添えている。
――と。
その庭に面した長い濡れ縁の端に、一つの人影が、座っているのに、気づいた。 月明かりに照らされた、その背中。 見間違えるはずもなかった。 朝陽輝くんだった。
彼は、一人で、ぼんやりと、庭を眺めているようだった。 いつも、太陽のように、周りを照らしている彼が、こうして、静かな月の光の下にいる。その光景が、ひどく、新鮮だった。
私は、吸い寄せられるように、彼の隣に、そっと、腰を下ろした。 彼は、驚いたように、一瞬、肩を揺らしたが、すぐに、私だと気づくと、にっ、と、いつものように、笑った。
「よっ。寝れねえの?」
「……うん。輝くんも?」
「まあな。なんか、興奮して目が冴えちまってさ。男子部屋、むさ苦しいし」
しばらく、二人で、黙って、庭を眺めていた。 聞こえるのは、秋の虫の声と、時折響く、鹿おどしの音だけ。 その沈黙は、少しも、気まずくなかった。
今しかない。 ずっと、聞きたかったこと。ずっと、わからなかったこと。 この、不思議な静寂が、私に、勇気をくれた。
「……ねえ、輝くん」
「ん?」
「輝くんの、周りには……どうして、自然に、人が、集まってくるの?」
私の、たどたどしい問いに、彼は、不思議そうに、首を傾げた。
「麗奈さんも、杏さんも、颯太くんも……秋葉くんも。みんな、輝くんと話してから、変わった気がする。みんな、あなたが、助けたんでしょう? ヒーローみたいに、みんなを、救ってる。……どうして、そんなことができるの?」
それが、私の、精一杯の、問いだった。 彼は、私の、スーパーヒーローだった。 私を、石ころの世界から、引っ張り出してくれた。 みんなの、心の、重い扉を、次々と、こじ開けていった。
その力の、源は、一体、何なのか。 私には、それが、不思議で、仕方がなかったのだ。
輝くんは、私の言葉を聞くと、しばらく、うーん、と、唸っていた。 そして、頭を、がしがしと、掻きながら、心底、困ったような顔で、こう言ったのだ。
「はあ? 俺が?」
「俺は、何も、してねえよ」
え、と、私は、言葉を失った。
「だって、そうだろ?」 彼は、私の方を、まっすぐに見て、続けた。
「麗奈が、勝手に、完璧なマニュアル作って、勝手に、パニックになって、勝手に、泣いただけじゃん。杏が、勝手に、迷子の子、助けただけだろ。颯太だって、俺が無理やり勝負させたけど、最後に、すげえシュート決めたのは、あいつ自身だ。秋葉なんか、俺、話の半分も、わかってねえし」
「俺は、何もしてない。みんなが、元から、面白くて、優しくて、すげえだけだろ」
その言葉は、まるで、静かな水面に、ぽとり、と落ちた、一滴の雫のように。 私の心に、ゆっくりと、しかし、確かに、波紋を、広げていった。
――そうか。 私は、ずっと、間違えていたのかもしれない。 この世界は、一人の、ヒーローが、物語を動かしているわけじゃ、ないんだ。
麗奈さんの、完璧主義があったから、あの、無茶苦茶なタピオカ屋は、形になった。 杏さんの、お節介なほどの優しさが、あの、迷子の子を、救った。 颯太くんの、負けず嫌いが、彼を、再び、奮い立たせた。 秋葉くんの、深い愛情が、彼の言葉を、輝かせた。
一人一人が、原因で。 一人一人が、結果。
たくさんの、人々が、出来事が、想いが、まるで、蜘蛛の巣の糸のように、複雑に、絡み合って、影響し合って、この、世界という、一枚の、巨大な、タペストリーを、織り上げている。
誰か一人が、中心なんじゃない。 全てが、中心で、全てが、端っこ。
そして、朝陽輝くんは。 彼は、ヒーローなんかじゃない。
彼は、その、巨大な、蜘蛛の巣の、一つの、「結び目」のような、存在なんだ。
たくさんの糸が、彼という場所で、交差し、繋がり、そして、また、新しい方向へと、伸びていく。 彼が、何かをしているんじゃない。 ただ、彼がいる、その場所で、物事が、勝手に、繋がり、動き出す。 彼の、その、全てを、面白がり、全てを、肯定する、その在り方が、糸と糸を、引き寄せているだけなんだ。
こおん、と。 鹿おどしが、また、一つ、澄んだ音を立てた。 その音が、私の、古い世界観の、終わりを、告げたような、気がした。
「……そっか」
私は、ただ、それだけを、呟いた。 でも、その一言に、私の、全ての、納得が、詰まっていた。 輝くんは、そんな私を見て、満足そうに、にっ、と笑った。
晩秋の、古都の夜。 私は、この世界の、ほんの、ひとかけらの、真実を、垣間見た、気がした。
そして、その、あまりにも、壮大で、そして、美しい、仕組みの前では。 私一人の、ちっぽけな悩みなど、まるで、夜空に消える、小さな、ため息のようなものだ、と、初めて、そう、思えたのだった。
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