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朝にかかってきた電話
しおりを挟む朝の駅はいつも人でごった返していた。都心へ一本でつながる路線で、急行も停まる駅だが、古いつくりのせいでホームは狭い。通勤時間には人で埋め尽くされる。
コジマは行列の後ろと壁のわずかな隙間を縫って、上り線の先頭まで歩いた。改札から最も遠く、そのため、少しは空いている……ような気がする。
もう少し早くに出てくれば、少しは空いている電車に乗れるのだろうか、などと電車待ちの列に並びながら、思う。
そんなことはわかっているのだけど、マンションを出るのはいつもギリギリで、二十九にもなって毎朝遅刻寸前、課長に口うるさく言われて、毎朝、ブルーになるのが常だった。
そうこうしているうちに、ホームに急行電車が入ってくる。ドアが開き、ボロボロと乗客が出てくるが、その多くは、奥から本当に降りてくる乗客のためのスペースで、ホームでくるりと回転して、その場で元の隙間になんとしても戻ろうと決意を滲ませていた。ホームの列も崩れ、最後の乗客が人の壁を抜け出てくるのを待ち構えている。
そのときだった。スーツのポケットからスマホの呼び出し音が聞こえてきた。
コジマは思わず立ち止まる。非難めいた視線が突き刺さり、人々は彼を追い抜いて電車へ押し寄せた。
呼び出し音なんて無視してそのまま乗ろうかとも考えた。満員電車だったんで、気づきませんでした、と言い訳できる。
というかそもそもマナーモードにしていたはずだ。
すでに電車のドアの前はおしくらまんじゅうの状態で、とても入れそうになかった。
壁際まで下がって、ポケットからスマホを取り出してみる。
スマホの画面に、番号の表示がなかった。「非通知」の文字すらない。
どういうことだ?
とりあえず出てみた。
「もしもし」
耳元で、息をのむ気配がした。だが、次の瞬間、通話は切れてしまった。
なんだよ。
急行電車はすでに走り去っていた。
乗り損ねてしまった。こんなことのために……。
それから……マナーモードは解除されていなかった。
誤動作だろうか。すっかり古くなったスマホだった。バッテリーももたなくなって、そろそろ買い替えを考えているところ。
次にやって来た各駅停車に乗り込む。
急行電車ほどではないが、そこそこ混んでいる。幸い、後からやってくる急行電車を抜かれることなく都心まで行く便だった。ただ、遅刻は確定だった。
誰かに電話して、不正にタイムカードを押してもらおうかと考えたが、今日は課長が朝からいるはずだった。
いっそのこと、どこかで電車が止まって、遅延証明でも出ればいいのに──と考えてしまう。
二駅、進んだところだった。
突然、電車がきしむような音を立てて急停止した。
すぐにスピーカーから落ち着いた声が響く。
「ただいま、緊急停止いたしました。お客様にはご迷惑をおかけいたします。安全確認が終わるまで、このままお待ちください」
スピーカーからは無線の混線したような音が漏れ、車掌室から緊張した声が断片的に聞こえてきた。言葉までは判然としないが、切迫した空気だけが伝わってくる。
数分の沈黙のあと、再びアナウンスが入る。
「ご乗車のお客様にご案内いたします。先行する電車で人身事故が発生しました。ただいま全線で緊急停止がかかっております。当列車に危険はございません。警報解除と安全確認が終わり次第、運転を再開いたします。恐れ入りますが、そのまま車内でお待ちください」
乗客たちの吐息や小声が、静まり返った車内に広がった。
コジマは思わず心の中で「遅延証明、ゲット」とつぶやいた。あとになって……後ろめたく思い出すことになるのだが。
電車は動かないまま十五分ほど経過した。
そのうち、車内のあちこちで携帯電話を取り出して、口元を抑えながら小声で話をする乗客が現れ始めた。
勤め先への電話だ──。
コジマもスマホを取り出したが、画面を見て、思わず「ちくしょう」と声に出して言っていた。
勝手に発信を始めていたのだった。慌てて切ろうとするが、タッチもボタンも効かない。
何ごとかと、となりに立っている中年の会社員がコジマの顔を覗き込んだ。
コジマは曖昧な笑みを浮かべ、スマホを耳に押し当てた。
受話器の向こうから、不機嫌そうな声が聞こえてきた。
「もしもし──」
だが、次の瞬間、通話が切れてしまう。
なんなんだよ、このポンコツ、とまた声に出しそうになって、飲み込んだ。
となりの中年男は、コジマがスマホをしまうと、それに満足したようにうなずいた。
何か誤解されているような気はしたが、コジマは黙っていた。
コジマの職場の始業時刻である八時半を過ぎたころ、ようやく運転が再開された。しかしそれも次の駅までで、本日中の全線復旧は断念され、乗客を最寄り駅で降ろす対応が取られることになったらしい。
コジマの乗っている車両も、のろのろと動き出し、次の駅にたどり着くと、乗客をすべて吐き出すように降ろした。
到着した駅の行き先表示には「運休」の文字が点滅している。改札はすべて開放され、自由に出入りできるようになっていたが、わざわざ駅に入っていく者はいない。
駅前のバス乗り場では代替輸送のために便が増やされていたものの、すでに長蛇の列ができ、かなりの混雑ぶりだった。
コジマは長蛇の列に並びバスに乗り、地下鉄へ回り、どうにか会社へたどり着いたが、十時を過ぎていた。
オフィスのドアを開けたところで、遅延証明をもらい忘れたことに気づいた。
てっきり怒鳴られるものと覚悟をしていたが、逆に心配されていた。
なんでも、事故を起こした急行電車は停車中の電車に突っ込み、先頭車両は大破。死者も出る大事故だったという。
「事故を起こした電車に乗っていたんじゃないかって、みんなで心配してたんだぞ。無事なら電話くらい入れろよ」と課長。
会社には結局連絡をしていなかったのだ。
いや、問題は、とコジマはオフィスのデスクにつきながら考えた。もしあのまま急行電車に乗っていたら、自分も無事では済まなかったということだ。
スマホを取り出して、デスクに置いてみた。履歴を確認してみたが、着信も送信も今朝は記録されていなかった。
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