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ふみきり
しおりを挟むお盆の帰省ラッシュ初日ということもあって、立ち寄ったサービスエリアのフードコートは夜中の九時を過ぎてもまだざわついていた。
蛍光灯の白い光の下、テーブルの上には食べ終えたトレーや紙コップがいくつも残され、遠くでは子どもの笑い声と、食器を片づける音がまじり合っている。
家族連れの姿もちらほら見える。みな、どこか浮き足立っていて、すでに旅の非日常に入りこんでいるようだった。
ケンスケは特に食欲もなかったが、なんとなく温かいものが欲しくて、うどんを注文した。
番号札の数字が呼ばれるのをぼんやり待ち、受け取った丼をトレーに乗せて空いた席を探す。
カウンター席の端に腰をおろすと、彼はようやくポケットからスマホを取り出した。
着信の通知がいくつも並んでいる。郷里に残った友人たちからのメッセージだった。
「帰省したら飲もうぜ」「久しぶりに集まろう」──そんな内容がいくつも届いている。
ひとつには、「車買ったんだって? これでBBQ行けるな」とあった。
画面を眺めながら、ケンスケは「そんなふうになるのか」とつぶやき、苦笑した。
返事を打ちながら、ふと、自分がこの数年、昼食を取りながらのメール返信が早くなったことに気づく。
それは社会人としての“慣れ”かもしれないが、さほど自慢できることでもない。
うどんを食べ終えたあと、思いついて実家に電話をかけた。
呼び出し音のあと、母親が出た。
ケンスケが「到着が零時を過ぎそうだ」と告げると、母親は「あら、気をつけてね。玄関の鍵は開けとくから」と言った。
田舎だよな、とぼんやり思う。都心では考えられない防犯意識だ。
電話を終えたケンスケはサービスエリアの建物を出て、駐車場に向かう。
夜風が生ぬるく、アスファルトから立ち上がる熱気がまだ残っている。
並んだ車の間を抜けていくと、フロントガラスに照明が反射して、まるで水面のようにゆらいでいた。
ケンスケの車は、今年の春に買ったばかりのものだった。
27歳。東京で働き出して5年。そろそろ車を、という年齢でもあるが、実際のところ都内の生活では必要性を感じたことはなかった。
それでも買ったのは、帰省のたびに感じる“肩身の狭さ”のせいだった。
地元の友人たちは皆、車を持っていた。
夜に集まれば、自然と「どこか行こう」となる。
運転できない自分は、いつも誰かの助手席で、申し訳なさそうに窓の外を眺めていた。
「次に帰るときは、自分の車で来よう」──それが春の決心だった。
けれど買ってからというもの、乗る機会はほとんどなかった。
首都高を何度か走ったくらいで、夜間に地方の高速道路を走るのは、これが初めてだ。
午後に余裕を持って出たつもりが、首都圏を抜けるのに思いのほか時間がかかってしまった。
ナビの画面には、まだ「目的地まで3時間」の表示。
ため息をついて、車をスタートさせる。
サービスエリアを出てからは渋滞もなく、道路はすぐに暗くなった。
街灯の間隔が次第に広がり、周囲の景色は闇に溶けていく。
トラックの車列を抜きながら、ケンスケは淡々と走り続けた。
日付が変わるころ、ようやく高速を降りた。
ローカル線の無人駅の看板が見え、あたりは一面の田畑。
店はすでにどこも閉まっていて、人気がない。
眠気がじわじわと押し寄せてくる。
ガソリンはあと二目盛。まあ、明日入れればいい。
そう思って、ハンドルを切り、見覚えのある青い案内標識のほうへ車を向けた。
まっすぐな田舎道に出る。
左手にはローカル線が並走しており、右手には夜風に揺れる稲の海。
遠く、道路の先に小さな集落の明かりが浮かんでいる。
あのあたりが実家のある地区だ。
あとはこの道をまっすぐ行くだけ。
そう思った矢先だった。
先のほうで、赤い点滅が見えた。
踏切が鳴っている。
昼間でも一時間に一本通るかどうかの線だ。
こんな時間に列車が走るなんて、記憶にない。
それでも警報灯は確かに点滅しており、遮断棒がゆっくりと降りていくのが見えた。
ケンスケはスピードを落とし、車を停めた。
暗闇の中で「カン、カン、カン」という音だけが響く。
周りにはほかの車も、人影もない。
車内に流していた音楽が、いつのまにか止まっていた。
スマホの画面をタップしてみても、反応がない。
オーディオの電源を入れ直しても無音のままだ。
まるで車全体が、一瞬にして音を吸い込んでしまったようだった。
フロントガラスの向こうでは、赤い光が点滅を続けている。
遮断棒はすでに下がりきっており、しかし列車の姿はどこにも見えない。
いくらなんでも長すぎる。
終電はとっくに過ぎているはずだ。夜行の貨物列車でも通るのだろうか。
ハンドルの上に手を置き、ケンスケは息を整えた。
眠気のせいで幻聴でも聞こえているのかもしれない。
そう自分に言い聞かせたそのときだった。
車が、わずかに前へ動いた。
ずるりと何かに押されるように。
慌ててブレーキを踏む。
「……え?」
ペダルの下に確かな抵抗があるのに、車体が前へ進む感覚が消えない。
まるで、背後からゆっくりと押し出されているようだ。
シフトレバーを「P」に入れ直し、再び強くブレーキを踏み込む。
それでも車は、じりじりと遮断棒へ近づいていく。
フロントガラスの向こうで、赤い光が反射して揺れている。
「やめろよ……」
思わず声に出した瞬間、「ドン」という鈍い衝撃音が響いた。
フロントが遮断棒に当たった。
慌ててバックに入れるが、車はほとんど動かない。
アクセルを踏み込むと、タイヤが空転する音が響く。
そして、次の瞬間だった。
遠くの闇の向こうから、白い光が現れた。
線路の彼方で、何かがゆっくりと近づいてくる。
やがてそれが、列車のヘッドライトだとわかった。
汽笛が鳴る。
重く、長く、夜を震わせるような音。
フロントがすでに線路内に入り込んでいる。
ルームミラーを見た。
ケンスケは息をのんだ。
──後部の窓一面に、無数の“手”が貼りついていた。
泥のように汚れた跡がびっしりと重なり、指がガラスを押しつけるたびに車体が軋む。
……押している。
何十もの手が、車を押している。
喉がからからになりながら、ケンスケはギアを「D」に入れた。
ブレーキを外し、アクセルを思いきり踏み込む。
遮断棒が跳ね飛ぶ音がした。
フロントが線路に乗り上げ、底をこする。
次の瞬間、列車の光が目前に迫った。
ほんの数メートルの差で、車は踏切を抜けた。
反対側の遮断棒も吹き飛ばし、畦道へ飛び出す。
車体がぐらりと傾き、右側のタイヤが畑に落ちかける。
ブレーキを強く踏み込みながら、なんとかハンドルを戻し、車を道路に戻した。
そのとき、沈黙していたカーオーディオが突然、爆音で車内に鳴り響いた。
心臓が跳ね上がる。慌ててボリュームを絞る。
ようやく音が消えて、ルームミラーを見る。
何も映っていない。
息を殺し、ゆっくりと振り向く。
後部座席にも、誰もいない。
エンジンをかけたまま、ケンスケは車を降りた。
夜の空気がひんやりと肌を撫でる。
踏切のほうを振り返ると、遮断棒はすでに元どおりに上がっており、警報灯も消えていた。
列車の音も、風の音も、何もない。
ただ、どこからともなく、カエルの鳴き声がしていた。
線路脇には小さな祠があり、石のお地蔵さんがぽつんと立っている。
その顔が、月明かりの下で、どこか困ったように見えた。
ケンスケは無言のまま車へ戻り、再び走り出した。
実家にたどり着くと、玄関の鍵は本当に開いていた。
布団に入っても、しばらくは眠れなかった。
とりあえず、話としてはそれだけのことだった。
翌日──もちろん昼間だが──に見に行ってみたが、遮断棒はやはり無事だった。地面には自分のらしきブレーキ痕があったが、それをもって何かを言えるものでもなかった。
地元の友人たちと過ごし……無事、BBQにも行った。そして、休暇を終えて東京に戻っていった。
東京に戻って、数日して、洗車をした時のことだ。
リアガラスにひとつだけ、小さな手の跡があるのを目にした。
ケンスケは洗車の手を止め、その小さな手の跡をなぞってみるのだった。
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