白衣の下 第二章 妻を亡くした黒崎先生、田舎暮らしを満喫していたやさき、1人娘がやばい男に入れ込んだ。先生どうする⁈

高野マキ

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思いがけない展開

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黒崎先生がアメリカの大学で働いていた頃、日本の医療業界も劇的に変わり、入院病床を抱える病院は、急性期対応か慢性期療養に対応するかの選択を余儀なくされ経営、存続を危ぶまれる病院が全国的に増えていた。

黒崎総合病院もその波に飲み込まれ、慢性的な赤字経営に閉院寸前まで追い込まれていた。

先生は婚外子であり黒崎本家には何の愛着も無いが、腹違いの妹池田ミチコの実家であり、彼女に後を継ぐ気持ちがあるのなら、閉院を見過ごせないと考えていた。

ミチコは自分の研究が認められ、それなりの結果を残せたなら、残りの人生は実家の再建に尽力したいと思いを黒崎先生に伝えていた。

ミチコの夫池田チハルはK大学医学部の教授だったが任期が2年半残っていた。退官後は天下り先の確保が重要になってくる。

この時、先生と池田教授の話し合いで、黒崎総合病院がかつての地域の中核を成す役割を取り戻せているなら院長になってもいいとの了解を取っていた。


先生は迷わずスタ◯◯ー◯を退職した。そして、T大、K大の協力先病院としてパイプを作り、厚労省から二次救急病院の指定を受けた。先生が院長を引き受けた期間は三年。その間、難治疾患にも対応できるスタッフを揃え、再び黒崎総合病院の屋台骨を強化して池田教授に院長の席を譲った。


先生はその後、病院院長や大学への就任のオファーを全て断り、早々と引退同様の暮らしを選んだ。

岬診療所の医師募集に自ら手を挙げたのだった。



 「さてと…チハルさん…お土産を喜んでくれるかなぁ~♪ククク~ッ」



  「お義兄さん、随分と、御心配やら迷惑をおかけしたようで…申し訳ありません…この通りです」

先生はこれでもかと言わんばかりに頭を深々と下げた。


  「僕に謝られても………返答に困る…今ははっきり言って医師会では、君の立場は微妙だよ…さすがに僕も庇いきれない、君の為にこの病院を犠牲には出来ない」

今回ばかりは池田チハルの怒りは相当だと踏んだ黒崎先生は

 

 「その…批判の原因はライブ解説を蹴ってNYCMで世界的彫刻家のオペを優先したからでしょうか?」

先生はストレートに核心を突いた。




「そっ、そうだよ…君は以前から何かと派手に動きまわり、アメリカでは通っても日本の医療会では良く思わないお歴々も多いんだ…金と名声の為だと…ね」

池田チハル自身の先生に対する思いが込められている事を先生は百も承知していた。


  「そうですか…お義兄さん…誠に申し訳ありません…取り返しの付かない事をしでかしてしまいました…今回、大問題になる前に引退しても良いと思っています…実は…娘に、泣きつかれまして…  」

黒崎先生は苦渋に充ちた屈辱的な表情で池田チハルの自尊心を満足させる。

  「ヒカル君…そこまで君が…反省しているとは…済んでしまった事だが………君が医療界からその歳で消えたら、日本の医師会は世界からバッシング受けるのは必至だ…それは、止めてくれっ…しかし、
どうしてだ?危険を承知で無謀な仕儀になったんだい?…ユキちゃんが泣きつくとは…」



(ほらっ引っ掛かりやがった…)


  「実は…お恥ずかしい話しですが…うちのバカ娘が…シュウジ.マチダとその…勝手に婚約してまして、」



  「ええっえぇ-っ! 婚約だって!ユキちゃんはまだ18だぞっ!
それこそ大問題じゃないかぁっ!しっ、しかも相手が天才彫刻家ぁ!!!!っ、冗談にもほどがあるぞっ、ヒカル君っ」


  (もうすぐ19歳になります…)

 
「そっ、そうですよっお兄様ぁっ………わたくしも信じませんからっ」


お茶を載せたトレイを持つミチコの手が小刻みに震えている。

 「ミッちゃん、まあ座りなさいよ…お茶を頂こかな」

先生は異母妹が持つトレイを受け取りティーカップを配膳しながら、



  「お義兄さんに、将来娘の婿になるかも知れないマチダのラフスケッチをお土産に持参したんですよ…」


 
 「ラフスケッチぃ! そっ、それは…いったい………」



美術収集に目がない池田チハルが上半身を乗り出す勢いで興味を示した。

  「これです」


先生は風呂敷で包まれた四角形の代物を仰々しくテーブルの上に差し出した。


  「まぁ…どうぞっ見て下さい…一応彼にサインをしてもらってますから…」


池田チハルは風呂敷の結び目を解きほぐし、左右上下に布をひらいた。


  「おっ、おお…これは…」


チハルの細いまぶたが見開く。



  「ちょっと、待ってくれヒカル君っ」

池田チハルは急いでタブレットを持ち出してくると、マチダ.シュウジの作品を検索した。


「あったっ! ヒカル君っ、あったぞ、ニューヨーク国際展示場所蔵のビエンナーレ大賞作品!!!それのラフスケッチだよっ!…凄いじゃないかっ………………」

  (おいっ、おい…チハルさん…マジ人間性変わっちゃてるぜ、………奴のアトリエの大量のゴミ袋漁って入っていたものを記念に貰ってきただけなんだから…そんな大層な………………)


  「ヒカル君っ…本当に頂戴しても良いのかね…今後値が釣り上がると思うよ…彼が亡くなりでもしたら…」


「あなたっ!なんて事言うんですかっ仮にも医師の端くれでしょうっ!!人の命を軽々しく言葉に出さないで下さい…………恥を知りなさいっ……………」

ミチコがいきなり激しい勢いで夫を罵倒した。………………

  「お兄様、そのお土産お持ち帰りになって下さいっ、チハルさんに芸術を語る資格はございませんから…マチダシュウジさんに申し訳ありません…わたくし気分が悪いので…失礼します。」


    (いやいや…ミッちゃん、町田なんぞそんな高尚な人間じゃないよ…)


   「おい…ミチコ」



(取り合えず…とばっちりを喰らわない間に退散だ………………)


    「チハルさん…ミチコの機嫌も悪いようだし…そろそろおいとまします。‘それ’は気にしないでお手元へ置いて下さい。万が一義理息子にでもなりましたら、まだまだお宝が手に入りますよ…」


  (奴の寿命次第ですが…)


先生も池田チハルに負けず劣らずの‘ゲスい男’だった。


先生は池田邸を出たその足で鎌倉の実家に向かった。

アメリカ土産とややこしいユキの行動は母親に相談するに限る。
母親も16歳で黒崎総合病院初代院長と恋仲になりすぐに先生を私生児として産み女手一つで育ててくれた。
母が親子ほど歳の差のあるジジイを何故受け入れたのか…今でも、二人の息子だが母の気持ちは理解不能だと 先生は思っていた。



  (経験者に聴くに限るだろ… )


この料理旅館だけは昔から全く変わらず竹林の奥の静寂の中に佇み馴染み客を癒し続ける。

先生の車はハイブリッド車らしく全くエンジン音無く滑るように玄関前に到着した。

旅館の若い男性従業員が先生を出迎えた。

   「ようこそいらっしゃいませ…お車のキーをお預かりいたします。」

新しい従業員は先生がこの旅館の跡取りだと気がつかない。

   「頼んだよ…」

カギを預かった従業員は、玄関前の中居達に客の到着をこれみよがしに伝える。

  「お客様ぁお着きですぅ」

玄関前に仲居さんがそそくさと出迎えに現れるると…


  「坊ちゃまぁ!っ」

年配の仲居頭が抱き付かんばかりにかけよって来た。

  「キクさんっ、後で膝の調子診てあげるから、部屋に来なさいよ」

先生が大学生の頃から居る住み込みの仲居キクは、先生が来るときは膝関節症の治療を欠かさずして貰う。


 「坊ちゃま…いつもありがとうございます。今日はお忍びですか?」

先生は円背の目立つ仲居頭の手を握って玄関の暖簾をくぐり抜ける。

「ヒカルさん、お帰りなさい。今日か明日、帰って来るだろうと思っていましたよ…離れで良かったかしら…?」


「お願いします…それから、お母さん手が空いた時でいいので、ちょっと相談があって…」



「あら…何かしら……………母さんも貴方に報告があるの…後で離れに行きますね、まずはお風呂に入って旅の疲れを癒して頂戴」


   ………………

孫についてカヲルの意見はおおらかだった。

   「お相手が独身の殿方なら歳の差なんて何の問題も無いじゃありませんか…ユキちゃんは、父親の愛情に飢えているのでファザコンなのね」

息子のコップにビールを注ぎながら答えるカヲルに…


  「それが、そうもいかなくてね…」

先生は注がれたビールを一気にあおいだ。

 
  「あら…その方…女癖が悪いとか?」


飛騨牛の陶板焼きを手際よく準備しながら先生の相談に耳を傾ける。 


「実は…その男…まぁ 俺がオペしたのですが、かなり厳しい病状で、果たしてユキの思いが叶うのか、…………万が一の時…あいつ堪えられるのか………」



   「さあ 焼けましたよ今夜のお肉はすごく美味しいわよ…………………」

先生は母親に取り分けて貰った肉を口にいれて蕩ける口溶けに…アメリカンビーフの筋ばった硬さが信じられないと思っていた。


「ねぇ…ヒカルさん人を好きになるって、理屈じゃ無いのよね…例え相手が明日死ぬかも知れなくてもその時出逢ってしまったのよ…ユキちゃんも苦しむかもしれないけれど私はそっと応援してあげたい…あの子が傷付いたなら時間をかけて癒してあげましょう…」



「いやぁ…俺にはわからない…我が子がみすみす 問題を抱えた男と‥」


「‥ヒカルさん 都合良く 我が子と言うけれど、我が子であっても 人格は別ですからね‥ユキちゃんが選ぶ時は私達は応援してね、傷ついたら逃げ場所を作っておけばいいんじゃないの‥」


「‥そうですね、」


「そうですよ、私達がユキちゃんを信じてあげなきゃ 誰が信じるの? 病気のおじさんを好きになっちゃったんだもの‥」


「まぁ  暫く 放っておきます。」



  「まぁ、放って置くって、随分乱暴な言い方ね…それはそうと、私からも貴方にお伝えしたい事があるのよ… 」



  「はぁ…しかしこの肉美味いですね…お母さん、」


  「あらっ、追加しましょうか?」



  「いえ、もう若くはないですからね…腹八分が丁度いいんですよ…ところでお母さんの話しは…?」



「そう 実はね…温子さんの事なの」



「温っちゃん…その後…進展はあったのですか?」

先生はビールを手酌で飲み始めていた。

   「ええ、お父さんが、ねっ…さすが敏腕弁護士だわ…お相手の虐待を逆手に慰謝料も沢山勝ち取れて、晴れて大倉を離籍できたの……………ねっ…ヒカルさん今なら、わたくし反対しませんからっ………」



  「お母さん…いきなり何を言い出すんですか…全く」

先生はビールを吹き出しそうになった。



   (今だ親の許しが俺にいるのかねぇ………お袋こそ子離れ出来てないよ…)


    「あのね…有栖川の大奥様も大変お喜びで…最近はうちも御一族でご利用戴けるようになったのよ~♪」


余程嬉しいのか、カヲルは上機嫌だった。



(ふん…人間の根性なんて一生治るもんじゃねぇさ…有栖川のくそババアだってそのうち不都合が出ると手の平を返すに決まってんだ…)


  「やれやれ…お母さんはあい変わらずお人が良い」


  「まあっ…ヒカルさん…ひどい言われ様…そう、お人よしなんですっ!ついでにお節介なのよ…私…今夜は、温子さんをお呼びしていますから、貴方がおもてなしして下さいねっ」




カヲルは是が非でも二人を添わせたいと思っていた。


    (…はぁ…ったくぅ…)

先生は乱れた髪の毛を掻き上げながらほとほと母親の先走ったお節介に困惑していた…。


「女将さん、団体さんがお見えになりました」

離れ家の入口で支配人が女将を呼び出しに来た。

「あらっ…お早いお着きだこと、まだ五時半回ったとこなのに…」

女将のカヲルは腕時計で時間を確かめると…

「ヒカルさん、ごめんなさいね…貴方のお相手…出来なくて、もうすぐ温子さんがお見えになられるから、きちんとお相手して差し上げて下さいよ」


「はいはい、きちんとかどうかわかりませんが、お相手させてもらいますよ」

先生は足を投げ出すと片肘をついて寝そべり母親に背中を向けリモコンでテレビ番組を探し始めた。


カヲルは五十歳を過ぎた独身の息子に注意するのがバカらしくなってきた。


「じゃ、また後で…お父さんが帰ってきたら温子さんが来てること母屋に知らせて下さい」


先生は聞いているのかいないのか、テレビのお笑い番組を見ながら下品に笑っている。


「……」


女将が退出して間もなく、

「坊ちゃまぁ…有栖川温子さまがお見えになりましたよ…こちらにお通ししても宜しいですか?」


「キクさんかぁ?…お通ししてくれっ あっ!キクさんも入って来てっ、膝の注射ついでに打ってやるから!」


先生は鎌倉の実家に帰る時は必ず痛み止めの薬剤とシリンジを用意していた。

仲居頭のキクが膝関節症で痛みを我慢しながら今だに客あしらいに動き回っているのを見るに見かねての事だった。


  「坊ちゃまぁっお連れしましたよ……………さあ、お嬢様、御上がり下さい。」

 …60前のおっさんにお坊ちゃまって…


  「ヒカルさんっ…お邪魔します」

襖がそっと開くと初冬の冷たい空気と何とも言えな甘い上品な香りが先生の鼻先をかすめた。

横に寝そべったまま頭だけ背後に反らすと有栖川温子が先生の顔近くまで屈み込んで

   「ヒィくん、今晩は」


   「これはこれはあ…有栖川家のお姫様ご機嫌麗しく…」

先生はゆっくりと起き上がり有栖川温子の真正面に座り直した。


白いツイードのジャンバースカートとカシミアのストールを肩から下ろし、厚手の黒いタイツがか細い足をなお細く見せていた。

ストールを抑える手首にカ*ティエのアンティークウォッチ…

  

(…ヤバべぇっぞ俺好みど真ん中っ)



温子の上品で清楚な美しさにさすがの先生もつい見とれてしまう。

綿々と続く高貴な血筋を受け継ぐ女


  「ヒィくん…何をジロジロ見てるのよっ!…早くおキクさんに痛み止めの注射して差し上げてっ」


  「あっ、そうだっ、そうだ…キクさん、そんな隅っこで待っていないでこっちにおいでっ…」


      ……………


温子は、仲居頭キクを縁側の椅子に座らせ両膝を慎重に触診しながら痛み止めの注射を打とうとする先生の横顔を見つめていた。

  「キクさん、ちょっとチクっとするよ」


   (ヒイくん…その優しい声を私にもかけて…)


近くの旅館の息子に恋心をいだき追いかけていた少女は、その背に触れられないまま相手は大学進学で東京へ旅立ち、目の前から居なくなった…

それから数十年、会おうと思えば会いに行ける距離だったが…周囲の眼がそれを許さなかった。
好きな気持ちは、会えない間に大人の恋心に熟成されていた。


  「温っちゃん…注射怖いんだろっ、見るなよっ!」



   「うん…」

温子は一気に幼い頃に引き戻された。
お転婆だった彼女はいつも失敗を先生に助けられ、庇って貰っていた。

今ならその広い背中を抱きしめ絶対に離さないと温子は先生の横顔に語りかけていた。


  「キクさん、痛かっただろ?俺は整形の専門医じゃないから、関節注射は得意じゃ無くてね…」


擦り減ったキクの膝関節は注射でその場凌ぎしているだけだった。

先生は、回復する見込みの無いキクの膝関節について、人工膝関節置換の手術をどのタイミングで彼女に勧めるか思案していた。

先生の注射で1ヶ月程度は痛みも和らぎ、動きまわるキクの仕事は何とかこなせる事が出来ていた。

  「いいえっ…坊ちゃまは、そこいらのヤブ医者とモノが違いますよ…本当に痛くない注射があるなんて…皆に宣伝したいくらいです」

先生はグローブを
外しながら、

  「おい、おい、大袈裟だよ…駄目だよ、余所でそんな事を言ったら…偽整形外科医で取っ捕まっちまうから!」

  「えっ、ええ!…そうなんですかぁっ、坊ちゃまぁ…」

キクの驚きようから既に、板場か仲居仲間に自慢でもしているな、と先生は面白がった。

  「駄目よ、おキクさん…ヒィ君の口車にのっては………昔は救急センターでお医者様していたのよ!…殆ど体の全てを診察できるはずよ…………ねっ…ヒィ君?」


  「坊ちゃまぁっそうなんですか!」

   キクの視線にニヤつきながら…

   「まぁ…な…そうとも言えるか………………………それよりさ…キクさん、ぼちぼちゆっくりしたらどうだい?…もう充分働いただろうし………………………退職金をはずむよう俺から女将に言ってやってもいいんだよ…」


キクの表情が一瞬曇ったのを感じた先生がビールに手を出そうとすると、ぱちんと温子が先生の手の甲を叩いた。


  「飲み過ぎよっ…まだ酔わせるわけにいかないの…私の相手をしてくれなくっちゃ………沢山お話があるんだから…」



  「そうですとも、お嬢様のお相手をするようにキクも女将さんから坊ちゃまにって言付かっていますから」

温子の助け舟でキクの引退勧告はうやむやになりそうだった。


  「じゃ…キクさん邪魔だから、もう出ていって…よ」


   先生の言いようが小憎たらしくて、

  「おキクさん…‘坊ちゃま’の言う事なんか鵜呑みにしないで………この人は、昔からおへその向きがへんてこだから」


   「ええ、ええ、そろそろ…おいとまいたします。本館も今夜は団体のお客様が入って、てんてこ舞いのはずですから…お嬢様…ヒカル坊ちゃまのへそ曲がりは、お小さい頃からで…キクは何とも思っちゃいませんよ…」


      「…」

(…温子っ…!肝心な所で…邪魔しやがって!)


キクが離れ家を出て行くと先生は、

  「あ―あっ…ったくうぅ…面倒くせぇなぁ~」

青畳にばたんと大の字に寝そべり、船底造りの天井板の一枚一枚の微妙に違う木目の波模様を見つめた。

  「これって…一本の大木をスライスしてんだなぁ!」



   「えっ?何…」

温子は先生の言っている意味が理解出来なかった。


   「天井板さ…ほらっ 温子も寝転んで見てみろよっ…でっかい木だったんだろうなぁ…」



有栖川温子は座ったまま天井を見上げた。



  「あら…本当ぉ!木目が少しづつ変化しているっ…切る位置で変わってくるのね…全て合わせると…ものすごく大きな木だわ…」




   「おいっ お姫様っ首が曲がって痛いだろっ 寝転がってみろよ…………」


先生は無造作に下がっていた温子の手を掴むと、強引に引っ張り寄せた。


   
    「あんっ………」


手首を掴まれ引き寄せられた弾みで温子の上半身は先生の胸に倒れ込んだ…

温子は、時間が止まってしまったような一瞬を先生の逞しい胸板に頬を寄せてうっとりしていた。



   「こら…いつまでも俺の胸で休んでるんじゃないよ…ほらっ…温子も天井をみてみろ…この巨木は、こんなちんけな旅館の為にまだ先何百年か、の寿命をばっさり絶たれちまったんだよ…………… 」



    「そうかしら…そのまま人の手入れもうけず野ざらしで、その先何百年も厳しい自然の風雪に堪えられたかしら?私は伐採されてもここにこうして私達の目を楽しませてくれている姿のほうがずっとこの巨木も幸せだったんじゃ無いかって思う」



先生から離れ、真横に仰向けに寝転んだ温子の手の平は大きく温かい先生の手にすっぽりと包まれていた。
二人はならんで手を繋いだまま仰向けに寝転んでいた。


  

  「ふん…まあ、人それぞれの考えがあるさ、俺なら例え風雪で朽ち果てようと、ありのままの醜い姿でもいいな…」


  

   「私は一番愛している人の前でその人に綺麗だと思われながら朽ち果てたかった…もう…無理だけど……………………」


有栖川温子の言葉は先生に妻ミチルを思い出させた。奇しくも、初めて彼女と一夜を共にした旅館の離れ家で…



  「温っちゃんに、俺の嫁さんの話しはしたことなかったな………」

 
温子の手を握る先生の手に力がはいる。



   「いいのよ、ヒィ君無理に思い出さなくても…ヒィ君が愛した人は若くて綺麗なまま貴方の傍から居なくなった…そして、永遠に綺麗なまま貴方を独り占めしてしまった…すごく悔しいけど……ヒィ君が、私だけの人じゃ無くなっちゃった」


急に先生は仰向けから温子の方に向きなおると、



  「腕枕してやるからこっちへ来いよ…」




    「………」


伸びてきた男の二の腕の盛り上がった肉を温子は半身を起こしてそっと撫でてみた。

皮膚と皮膚の間を熱いほどの体温が流れ込んでくる。

  「ヒィ君…あったかいよ …」

彼女は起こした半身を先生の腕に倒して頬を載せて長い間遠ざかっていた男の温もりに包まれたかった。

先生は懐に招き入れた女を壊れ物を扱うようにそっと抱きしめた。

  

  「温っちゃん…冷たい躯だな……」



   「ヒィ君が、あったかすぎ…な…の」



懐の中の小さな女の子は、いつも子犬のように纏わり付き、親に叱られては庇ってやり失敗しては慰め、励まし…このままずっと同じ時間を共に過ごすものと疑いもしなかった…越えられない壁があるとは思いもしなかった…



   「ねぇ…前に約束した事、覚えてる?」



     ………………



  「え…っと、温っちゃんとの約束…、…な、何だったか…忘れちまった、かな」



  「ええっ! 酷いっ!絶対嘘よね…私が本気で離婚するか…試したんでしょっ………………どうせ、昔みたく、家柄とか血筋とかに縛られて…ネンネは何にもできっこ無いと思っていたんだ……………………正直に白状してみなさいよっ…   」


温子は先生に覆い被さり、シャツの胸ぐらを掴むと目一杯の力で締め上げているつもりだったが、先生には通じない。

 

  「さあっ白状しなさい、どうせ…薄汚れた私なんか!…………………………………………」

先生は胸ぐらを掴む彼女の手はそのままに、小さな形の良い頭を手の平で引き寄せ



   「馬鹿だな…ベソかく奴があるか……………………………嘘だよ…覚えているさ、だが…ここは場所があまり良くない。それにもうすぐ、綾野の親父さんが帰って来る。君に用事があるらしいから………………」


  「じゃ!私との約束ヒィ君の‘女’にいつしてくれる?」


  「あのな…温子っ女から脅されて…その気になれってかなりのムチャ振りだぞ…」


  「じゃぁ、どうしてくれる………?」

     …………
 

  「そうだなぁ…まずは、俺らがガキの頃に出来なかったデートから…やり直しってどうだ? 」


  「あら…素敵っ」


  …幾つになっても、女というものは恋愛のプロセスを喜ぶ…



   「だろ?…俺達には、たっぷり時間があるんだから焦る必要なんてねぇよ。………今となっちゃぁ…邪魔するやつもいねぇだろうし、」





先生と並んで天井を見上げながら、有栖川温子は今まで止まっていた時間の針がやっと動き出したような清々しい気持ちで先生の手を握り返していた。





  「ヒカル君っ…入るよ」


声をかけるのと入口の引き戸が開けられるのとほぼ同時に綾野ツヨシが入ってきた。


二人には起き上がってツヨシを迎える余裕すらない。


  「うわっ!こっ、こっこりゃーまずいっ」


ツヨシが踵を翻し来た入口に引き返そうとすると、

ゆっくりと起き上がって来た先生が

  

  「お義父さん、慌てないで下さいよ、俺達何にもしてませんから…」


ツヨシは背中を向けたまま、

   「いや、しかし…」



  「綾野先生、私とヒィ君は寝転んで天井板の木目を数えていたんですの…………………先生のご懸念には及びませんわ」




  「いや、すっ、すまんすまんっ………」




   「お義父さん、複雑な話しなら席を外しますよ…俺」


ツヨシが来たのは有栖川温子の離婚調停が済んだ事とその内容確認と同意を得るためだった。


  「そうだなぁ……ヒカル君には関係ない話しだからな……………そうしてもらうか」



  
  「綾野先生っ…いいんですっ、ヒィ君に関係無くもないんですっ、彼には一緒に聞いておいて欲しいんですっ」



(……てうわぁ…っ これ…また…重くなってきやがったぞ、…)



    「そうですか…ヒカル君、有栖川さんがこう言っているがどうする?」



      「いえ…今夜は…急用を思い出しましてね…温ちゃんの事頼みましたよ…お義父さんっ」


温子のすがるような視線を痛いほど感じながらも先生は逃げの選択をした。



    「温っちゃん……………………きっちりカタついたら、診療所に遊びに来いよっ歓迎するから~」


     「ヒィ君っ…別に居てくれたって構わないのよ、傍に居て欲しいのに…」


すがるように温子が立ち上がった先生を見上げた。 
先生は、大きな手で彼女の頭を撫でながら、



「心配いらないさ、親父さんに全て任せとけば上手くいくから………」


先生は乱れたネクタイを直しもせず背広を拾い上げると二人に暇(いとま)の挨拶をして離れ家を出た。


   (……危ない、危ない、温子の色香に迷いそうだ…)




有栖川温子のような女と関係を持ってしまうと身動き出来ないようになると先生の野生のオスの本能が働いた。

    先生に飛び火した女達の問題…

娘と町田柊士…藍川繭と町田、…そして、来月には、診療所を辞めて紛争地域の難民支援に向かうと云う藍川夢…



(……もっとシンプルに生きろよっ なぁ…どいつもこいつも、くそ  面倒くせぇ~)






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