官能小説家であることは絶対に隠したい大学生――好きな子にだけは純文学作家として胸を張って見せたい僕の、胸キュンと秘密だらけの毎日

すくらった

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15.彼女はそれでも目をそらす

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 私は本屋が嫌いだ。
 必要な本は大学の購買かネットで買う。

 町中の本屋は、正確に言えば、「行きたいのに行けない場所」だから嫌いなのだ。

 大学の帰り道、駅前の大型書店の前を通るたび、私は無意識に歩幅を速める。ガラス張りの入口から見える棚。新刊。平積み。ポップ。

 この建物のどこかに、できれば目をそらしておきたい種類の本が積まれている。
 
 バカだね、聖奈。私は自分に言う。

 見なければ、それで済む話じゃないか。

 そう、見なければ。

 なのにその日は。

 雨上がりで、空気が湿っていて、少し気分が沈んでいた。
 
 それだけだ。別に、特別な理由なんてなかった。

「……ちょっと、だけ」

 誰に言い訳するでもなく、私は本屋に足を踏み入れてしまった。

 空調の効いた店内。紙の匂い。
 視線を下げたまま、一直線に参考書コーナーへ向かう。

 大丈夫。
 私は参考書が欲しいだけだ。
 たまたま例の系統の書籍の前を通り過ぎるかもしれないが、それは不可抗力なのだ。遠回りになる?色んな本を見て回ってるだけじゃないか。

 そう自分に言い訳しながら通路を曲がった、その時だった。

 視界の端に、見覚えのある名前が飛び込んできた。

「原作:百ノ木ハチト」

 心臓が、どくんと跳ねる。

「……っ」

 反射的に視線を逸らした。
 でも、もう遅い。

 棚の一角。成年コーナー。
 コミカライズ雑誌の表紙に、はっきりと書かれていた。

 新連載開始!
 原作:百ノ木ハチト

 ……なんで。
 なんで、こんなところに。

 足が止まる。
 いや、止めてはいけない。

 私は、その場から逃げるように歩き出した。
 でも、数歩進んだところで、気づいてしまった。

 気になる。

 どんな絵なのか。
 何が描かれているのか。
 ……いや、違う。

 どこまで、"ヤ"っているのか。
 ふと自分の頭のなかに浮かんだ下品極まる表現に、私は青ざめる。

 頭を振る。

「だめだめだめだめ……」

 私は一度、本屋を出た。
 そして三十秒後、何事もなかったような顔で戻ってきた。

 参考書と一緒に買えば、いいだけだ。
 ただの、ついで。
 誰にも見られない。

 私は雑誌を手に取り、欲しくもない参考書の下に重ねて、誰とも視線を合わせないようにレジへ向かった。
 紙袋に入れてもらい、ぎゅっと胸に抱える。

 これで終わり。

 念のため左右を見回す。
 知り合いの顔は見えない。

 早く家に帰ろう。
 そう思った、直後。

「わっ」

 誰かと肩がぶつかった。

 紙袋が落ちる。
 お互い拾う。

「す、すみません!」

 反射的に頭を下げる。
 相手も慌てて謝っていたが、私は顔を見なかった。

 一刻も早く、この場を離れたかった。

 数歩歩いてから、ふと立ち止まる。

 ……大丈夫、だよね。

 本が、折れてないか。
 角が、潰れてないか。

 私は紙袋をそっと開けた。

 中を見て、固まる。

「……あれ?」

 入っていたのは、分厚い参考書だった。
 文学史。
 見覚えのない背表紙。

 一秒、二秒。

 理解が追いつく。

「……入れ替わってる!?」

 血の気が引いた。

 ――つまり。
 ――あの人が、私の袋を。

 中身は。
 中身は!

「だめだめだめだめだめ!!」

 彼が袋を開けたが最後、私の社会的な何かが終わる。

 顔を上げ、店の外を見る。
 ちょうど、曲がり角の向こうに、さっきの人影が消えるところだった。

「待ってください!!」
 聞こえてない。

 声が裏返る。

 私は走り出した。

 人。
 人。
 人。
 荷物。
 自転車。

 必死で左右にかわしながら追いかける。

「すみません! ちょっと! 袋が!」

 なのに、前に出るたび、なぜか誰かに道を塞がれる。

「聖奈ちゃん?」

「ひゃっ」

 正人くんだった。

「どうしたの、そんな必死で」

「ごめん、今それどころじゃ……」
 私は足踏みをしながら答える。

「あれ、聖奈先輩?」

 京子ちゃんまでいる。

「違うんです!あの袋私ので!取り違え!社会が!」

「社会……?」

 説明している暇はない。

「お願いします! あの人止めて!」

 その瞬間、向こうの人物が立ち止まり、袋を開けようとするのが見えた。

「だめぇぇぇ!!」

 叫んだ。

「ああ!」

 事情を察した正人くんと京子ちゃんが紙袋を持って駆け出す。

「すみません! その袋、こっちのです!あなたのは、こっちで!」

 ギリギリだった。

 相手は袋を閉じ、差し出してきた。

「……あ、すみません。気づかなくて」

「い、いえ! こちらこそ!」

 私は袋をひったくるように受け取った。胸に抱え、深く息をつく。呼吸が、苦しい。

 助かった。
 本当に、助かった。

「……で?」

 京子ちゃんが、にやりと笑う。

「何買ったんです?」

「な、なにも!」

 私は即答した。

 正人くんは、

「まあまあ、何でもいいじゃないか」とフォローしてくれる。

 ――その優しさが、逆に痛い。

 その夜。

 私は自室のベッドに座り、紙袋を膝に置いていた。

 ……もう、隠す必要はない。
 あの後は、誰にも見られなかった。

 そっと、中を開ける。

 コミカライズ雑誌。

 ページをめくる。

 ……ちゃんと、面白い。

 絵がついて、動きがあって。
 原作の空気を、壊していない。
 物語に飲み込まれ、思わず息が荒くなる。

 気づけば、最後まで読んでいた。

 胸が、少しだけ熱い。

 私は雑誌を閉じ、深呼吸する。

「……カルマが、生まれたっていうか」

 そう呟く。

 あなたは隠さなければならない。
 隠し通すのだ、堂本聖奈。

 アダルトコンテンツ沼に、片足を突っ込んだ自分を。

 紙袋をクローゼットの奥に押し込み、鍵をかける。ここの鍵を使ったのなんて初めてだ。

 私は電気を消した。暗闇の中、本の内容を反芻する。

 大丈夫。まだ、いつでも引き返せる。
 ……たぶん。

こうして人生で初めて、成年雑誌が隠された部屋で私は眠りについたのだった。
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