5 / 17
第4話 眠り姫
しおりを挟む
疑念というものは、一度芽生えると毒草のように心に根を張る。
私は、自分の中に巣食ったその醜い感情を否定したかった。だからこそ、あえて愚かな賭けに出ることにしたのだ。
「今日はフィニッシングスクールの課題が長引きそうですの。帰りは夜遅くになりますわ」
朝食のテーブルで、私は努めて明るい声でそう告げた。
「あら、大変ね」
姉のイザベラは、焼きたてのクロワッサンにラズベリージャムを塗りながら美しく微笑んだ。
「無理はしないでね、アリーナ。あなたは真面目すぎるのが玉に瑕だわ」
「ええ……ありがとうございます、お姉様」
姉の笑顔に曇りはないし、私の嘘を見抜いている様子もない。その完璧な聖女の仮面に、私は胸の奥が冷えるのを感じた。
放課後。私は学園を出ると見せかけて、裏門からこっそりと屋敷に戻った。執事やメイドたちの目を盗むのは難しかったが、幸い使用人たちは夕食の準備で厨房の方へ集まっていた。
私は靴音を忍ばせ、二階のサロンへと向かった。姉とギルバートがお茶をするなら必ずこの部屋だ。
サロンの奥には、予備の椅子や季節外れの調度品を収めるウォークインクローゼットがある。換気のために木製の扉には鎧戸のようなスリットが入っており、中は暗くとも外の様子は音と光で感じ取れる。
私はクローゼットの中に身を滑り込ませた。鼻をつくのは、古びたビロードと防虫香の匂い。狭くて薄暗い空間にうずくまり、私は膝を抱えた。
(……来ないで)
心臓が早鐘を打っている。私が願っていたのは、彼らが密会することではない。誰も来ないことだ。
静寂が続き、私が「なんだ、やっぱり考えすぎだったんだ」と笑ってここを出る。それが最高の結末だ。
時間は緩やかに流れた。一時間、二時間。サロンには誰も来ない。聞こえるのは遠くの風の音と、屋敷がきしむ微かな音だけ。
緊張の糸が、次第に緩んでいく。それと同時に、強烈な睡魔が襲ってきた。連日のマナーレッスン、夜遅くまでの予習復習、そして昨夜の一睡もできなかった焦燥感。それらが一気にのしかかってくる。
クローゼットの中は温かく、羊水の中にいるように静かだった。
(……少しだけ、目を閉じよう。誰も来ないなら、それでいい)
私は安堵と共に重いまぶたを下ろした。
ふと、意識が浮上した。どれくらい眠っていただろうか。周囲は真っ暗で、スリットから漏れる光も消えている。もう日が暮れたのだろうか。
(……そうだ、私は隠れていたんだ)
私は寝ぼけた頭で状況を整理した。
(身体が痛い)
でも、それ以上に心が軽かった。
(……誰も、来なかった)
その事実に、涙が出そうになった。ああ、私はなんて愚かな妹だろう。
(姉様とギルバート様を疑って、こんな場所に隠れるなんて)
二人は清廉潔白だったのだ。私の醜い嫉妬心が見せた幻影に過ぎなかった。
(早く部屋に戻ろう。そして明日、二人に心の中で詫びよう)
そう思って扉に手をかけようとした、その時だった。
「――んっ……あ……」
暗闇の中で、甘く濡れた声が響いた。
私は、自分の中に巣食ったその醜い感情を否定したかった。だからこそ、あえて愚かな賭けに出ることにしたのだ。
「今日はフィニッシングスクールの課題が長引きそうですの。帰りは夜遅くになりますわ」
朝食のテーブルで、私は努めて明るい声でそう告げた。
「あら、大変ね」
姉のイザベラは、焼きたてのクロワッサンにラズベリージャムを塗りながら美しく微笑んだ。
「無理はしないでね、アリーナ。あなたは真面目すぎるのが玉に瑕だわ」
「ええ……ありがとうございます、お姉様」
姉の笑顔に曇りはないし、私の嘘を見抜いている様子もない。その完璧な聖女の仮面に、私は胸の奥が冷えるのを感じた。
放課後。私は学園を出ると見せかけて、裏門からこっそりと屋敷に戻った。執事やメイドたちの目を盗むのは難しかったが、幸い使用人たちは夕食の準備で厨房の方へ集まっていた。
私は靴音を忍ばせ、二階のサロンへと向かった。姉とギルバートがお茶をするなら必ずこの部屋だ。
サロンの奥には、予備の椅子や季節外れの調度品を収めるウォークインクローゼットがある。換気のために木製の扉には鎧戸のようなスリットが入っており、中は暗くとも外の様子は音と光で感じ取れる。
私はクローゼットの中に身を滑り込ませた。鼻をつくのは、古びたビロードと防虫香の匂い。狭くて薄暗い空間にうずくまり、私は膝を抱えた。
(……来ないで)
心臓が早鐘を打っている。私が願っていたのは、彼らが密会することではない。誰も来ないことだ。
静寂が続き、私が「なんだ、やっぱり考えすぎだったんだ」と笑ってここを出る。それが最高の結末だ。
時間は緩やかに流れた。一時間、二時間。サロンには誰も来ない。聞こえるのは遠くの風の音と、屋敷がきしむ微かな音だけ。
緊張の糸が、次第に緩んでいく。それと同時に、強烈な睡魔が襲ってきた。連日のマナーレッスン、夜遅くまでの予習復習、そして昨夜の一睡もできなかった焦燥感。それらが一気にのしかかってくる。
クローゼットの中は温かく、羊水の中にいるように静かだった。
(……少しだけ、目を閉じよう。誰も来ないなら、それでいい)
私は安堵と共に重いまぶたを下ろした。
ふと、意識が浮上した。どれくらい眠っていただろうか。周囲は真っ暗で、スリットから漏れる光も消えている。もう日が暮れたのだろうか。
(……そうだ、私は隠れていたんだ)
私は寝ぼけた頭で状況を整理した。
(身体が痛い)
でも、それ以上に心が軽かった。
(……誰も、来なかった)
その事実に、涙が出そうになった。ああ、私はなんて愚かな妹だろう。
(姉様とギルバート様を疑って、こんな場所に隠れるなんて)
二人は清廉潔白だったのだ。私の醜い嫉妬心が見せた幻影に過ぎなかった。
(早く部屋に戻ろう。そして明日、二人に心の中で詫びよう)
そう思って扉に手をかけようとした、その時だった。
「――んっ……あ……」
暗闇の中で、甘く濡れた声が響いた。
39
あなたにおすすめの小説
旦那様は、幼馴染との真実の愛に目覚めたらしいです。
睡蓮
恋愛
ルーグ第一王子はナータリアとの婚約関係を築き、二人の関係は貴族会から非常に好印象であった。しかしある日、ルーグは自身の幼馴染であるリーフォとの真実の愛に目覚めたと言い始め、ナータリアの事を婚約破棄してしまう。ルーグとリーフォは互いに新たな婚約者としての関係を築こうとしか考えていなかったものの、次第にその関係は険しいものとなっていく。それは、ナータリアの事を婚約破棄したことにあるきっかけがあったからなのだが…。
捨てられた令嬢と、選ばれなかった未来
鍛高譚
恋愛
「君とは釣り合わない。だから、僕は王女殿下を選ぶ」
婚約者アルバート・ロンズデールに冷たく告げられた瞬間、エミリア・ウィンスレットの人生は暗転した。
王都一の名門公爵令嬢として慎ましくも誠実に彼を支えてきたというのに、待っていたのは無慈悲な婚約破棄――しかも相手は王女クラリッサ。
アルバートと王女の華やかな婚約発表の裏で、エミリアは社交界から冷遇され、"捨てられた哀れな令嬢"と嘲笑される日々が始まる。
だが、彼女は決して屈しない。
「ならば、貴方たちが後悔するような未来を作るわ」
そう決意したエミリアは、ある人物から手を差し伸べられる。
――それは、冷静沈着にして王国の正統な後継者、皇太子アレクシス・フォルベルト。
彼は告げる。「私と共に来い。……君の聡明さと誇りが、この国には必要だ」
婚約なんてするんじゃなかったが口癖の貴方なんて要りませんわ
神々廻
恋愛
「天使様...?」
初対面の時の婚約者様からは『天使様』などと言われた事もあった
「なんでお前はそんなに可愛げが無いんだろうな。昔のお前は可愛かったのに。そんなに細いから肉付きが悪く、頬も薄い。まぁ、お前が太ったらそれこそ醜すぎるがな。あーあ、婚約なんて結ぶんじゃなかった」
そうですか、なら婚約破棄しましょう。
最後に一つだけ。あなたの未来を壊す方法を教えてあげる
椿谷あずる
恋愛
婚約者カインの口から、一方的に別れを告げられたルーミア。
その隣では、彼が庇う女、アメリが怯える素振りを見せながら、こっそりと勝者の微笑みを浮かべていた。
──ああ、なるほど。私は、最初から負ける役だったのね。
全てを悟ったルーミアは、静かに微笑み、淡々と婚約破棄を受け入れる。
だが、その背中を向ける間際、彼女はふと立ち止まり、振り返った。
「……ねえ、最後に一つだけ。教えてあげるわ」
その一言が、すべての運命を覆すとも知らずに。
裏切られた彼女は、微笑みながらすべてを奪い返す──これは、華麗なる逆転劇の始まり。
あなたが後悔しても、私の愛はもう戻りません
藤原遊
恋愛
婚約者のアルベルトは、優しい人だった。
ただ――いつも、私より優先する存在がいただけで。
「君は分かってくれると思っていた」
その一言で、リーシェは気づいてしまう。
私は、最初から選ばれていなかったのだと。
これは、奪われた恋を取り戻す物語ではない。
後悔する彼と、もう戻らないと決めた私、
そして“私を選ぶ人”に出会うまでの、静かな恋の終わりと始まりの物語。
幼馴染以上、婚約者未満の王子と侯爵令嬢の関係
紫月 由良
恋愛
第二王子エインの婚約者は、貴族には珍しい赤茶色の髪を持つ侯爵令嬢のディアドラ。だが彼女の冷たい瞳と無口な性格が気に入らず、エインは婚約者の義兄フィオンとともに彼女を疎んじていた。そんな中、ディアドラが学院内で留学してきた男子学生たちと親しくしているという噂が広まる。注意しに行ったエインは彼女の見知らぬ一面に心を乱された。しかし婚約者の異母兄妹たちの思惑が問題を引き起こして……。
顔と頭が良く性格が悪い男の失恋ストーリー。
※流血シーンがあります。(各話の前書きに注意書き+次話前書きにあらすじがあるので、飛ばし読み可能です)
【完結】誠意を見せることのなかった彼
野村にれ
恋愛
婚約者を愛していた侯爵令嬢。しかし、結婚できないと婚約を白紙にされてしまう。
無気力になってしまった彼女は消えた。
婚約者だった伯爵令息は、新たな愛を見付けたとされるが、それは新たな愛なのか?
悪女の私を愛さないと言ったのはあなたでしょう?今さら口説かれても困るので、さっさと離縁して頂けますか?
輝く魔法
恋愛
システィーナ・エヴァンスは王太子のキース・ジルベルトの婚約者として日々王妃教育に勤しみ努力していた。だがある日、妹のリリーナに嵌められ身に覚えの無い罪で婚約破棄を申し込まれる。だが、あまりにも無能な王太子のおかげで(?)冤罪は晴れ、正式に婚約も破棄される。そんな時隣国の皇太子、ユージン・ステライトから縁談が申し込まれる。もしかしたら彼に愛されるかもしれないー。そんな淡い期待を抱いて嫁いだが、ユージンもシスティーナの悪い噂を信じているようでー?
「今さら口説かれても困るんですけど…。」
後半はがっつり口説いてくる皇太子ですが結ばれません⭐︎でも一応恋愛要素はあります!ざまぁメインのラブコメって感じかなぁ。そういうのはちょっと…とか嫌だなって人はブラウザバックをお願いします(o^^o)更新も遅めかもなので続きが気になるって方は気長に待っててください。なお、これが初作品ですエヘヘ(о´∀`о)
優しい感想待ってます♪
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる