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第78話 暗闇の底での清算
ぽたり、ぽたりと、どこからか冷たい水滴が落ちる音がする。
レインバーグ侯爵邸の裏手、鬱蒼とした雑木林の奥にひっそりと佇む古井戸の底。
そこは光も温もりも人間の尊厳すらも届かない。絶対的な暗闇の牢獄だった。
「うぅ……くそっ……寒い……出してくれ……」
湿った土と苔、そして自分自身の排泄物の饐えた匂いが充満する狭い円筒形の空間で、オスカー・フォン・レインバーグは泥だらけの膝を抱えガタガタと震えていた。
かつて社交界で「麗しの侯爵様」と持て囃された金髪は泥と脂で固まり、衣服は見る影もなく汚れ破れている。
一日に一度、上から紐で吊るされた籠が下りてくる。中に入っているのは、硬く干からびた黒パンの欠片と、泥水よりはマシという程度の濁った水だけだ。
「私を誰だと思っている! ここから出たら、全員叩き潰してやる!」
最初の数日、彼は怒り狂い上に叫び続けていた。
しかし、誰も答えない。数日間、完全な暗闇と極寒の中に放置され、飢えと孤独に苛まれるうちに彼の傲慢な精神は徐々に削り取られ、今や恐怖と混乱に支配されていた。
かつてノアをこの底へ突き落とした時、七歳の息子がどれほどの恐怖に泣き叫んだか。その痛みを理解して反省する知性は彼にはない。
「私がこんな不当な扱いを受けるいわれはない。誰でもいいから助けてくれ……」
彼の頭の中にあるのは被害妄想と、哀れな生存本能だけだった。
ズズ……ズズズ……。
ふいに、頭上から重い木と石が擦れる音が響いた。オスカーが弾かれたように顔を上げると、井戸を塞いでいた分厚い木板がわずかにずらされ、一条の眩しい光が差し込んできた。
「あ……ああっ! 光だ! 誰かいるのか!? 助けてくれ! 私だ、オスカーだぞ!」
オスカーは井戸の壁に張り付き、泥だらけの手を頭上へと伸ばして狂ったように叫んだ。
光を背にして、井戸の縁に一つのシルエットが浮かび上がる。シャンパンシルバーのドレスを着た凛とした女性の姿。
「エ、エリザ……!? エリザか!」
オスカーの顔に、下品な歓喜の笑みが浮かんだ。
(そうだ、妻が自分を見捨てるはずがない。いくら自分が浮気をしようと少しキツく当たろうと、彼女は自分に惚れ抜いている従順な女なのだ。きっと自分の身を案じて、助けに来てくれたに違いない)
彼の頭の中には、いまだにそのような甘い幻想が渦巻いている。
「エリザ! すぐにこの板を退けろ! 使用人どもを呼んで、縄を下ろさせるんだ! 全く、酷い目に遭ったぞ。だが許してやる、お前が私を助け出すなら――」
「――本日付で、王宮の法務院より『正式な通達』がありました」
オスカーの言葉を遮るように、上から降ってきたのは氷のように冷たく、一切の感情を含まないエリザの声だった。
そのあまりにも平坦な響きに、オスカーはビクッと息を呑んだ。
「貴方のレインバーグ『侯爵位の返上』、および『王籍からの除外』が正式に決定いたしました。併せて、私との婚姻関係も白紙に戻されました」
「な……何を、言っている……?」
「慰謝料およびノアの養育費として、レインバーグ家の財産と領地はすべて私とノアに譲渡されます。貴方はもう、貴族でもなければ、私の夫でも、ノアの父親でもありません。……それを伝えるために、最後に足を運びました」
淡々と告げられたのは、オスカーという人間の社会的な死の宣告だった。
理解が追いつかず、オスカーは口をパクパクと開閉させた。
レインバーグ侯爵邸の裏手、鬱蒼とした雑木林の奥にひっそりと佇む古井戸の底。
そこは光も温もりも人間の尊厳すらも届かない。絶対的な暗闇の牢獄だった。
「うぅ……くそっ……寒い……出してくれ……」
湿った土と苔、そして自分自身の排泄物の饐えた匂いが充満する狭い円筒形の空間で、オスカー・フォン・レインバーグは泥だらけの膝を抱えガタガタと震えていた。
かつて社交界で「麗しの侯爵様」と持て囃された金髪は泥と脂で固まり、衣服は見る影もなく汚れ破れている。
一日に一度、上から紐で吊るされた籠が下りてくる。中に入っているのは、硬く干からびた黒パンの欠片と、泥水よりはマシという程度の濁った水だけだ。
「私を誰だと思っている! ここから出たら、全員叩き潰してやる!」
最初の数日、彼は怒り狂い上に叫び続けていた。
しかし、誰も答えない。数日間、完全な暗闇と極寒の中に放置され、飢えと孤独に苛まれるうちに彼の傲慢な精神は徐々に削り取られ、今や恐怖と混乱に支配されていた。
かつてノアをこの底へ突き落とした時、七歳の息子がどれほどの恐怖に泣き叫んだか。その痛みを理解して反省する知性は彼にはない。
「私がこんな不当な扱いを受けるいわれはない。誰でもいいから助けてくれ……」
彼の頭の中にあるのは被害妄想と、哀れな生存本能だけだった。
ズズ……ズズズ……。
ふいに、頭上から重い木と石が擦れる音が響いた。オスカーが弾かれたように顔を上げると、井戸を塞いでいた分厚い木板がわずかにずらされ、一条の眩しい光が差し込んできた。
「あ……ああっ! 光だ! 誰かいるのか!? 助けてくれ! 私だ、オスカーだぞ!」
オスカーは井戸の壁に張り付き、泥だらけの手を頭上へと伸ばして狂ったように叫んだ。
光を背にして、井戸の縁に一つのシルエットが浮かび上がる。シャンパンシルバーのドレスを着た凛とした女性の姿。
「エ、エリザ……!? エリザか!」
オスカーの顔に、下品な歓喜の笑みが浮かんだ。
(そうだ、妻が自分を見捨てるはずがない。いくら自分が浮気をしようと少しキツく当たろうと、彼女は自分に惚れ抜いている従順な女なのだ。きっと自分の身を案じて、助けに来てくれたに違いない)
彼の頭の中には、いまだにそのような甘い幻想が渦巻いている。
「エリザ! すぐにこの板を退けろ! 使用人どもを呼んで、縄を下ろさせるんだ! 全く、酷い目に遭ったぞ。だが許してやる、お前が私を助け出すなら――」
「――本日付で、王宮の法務院より『正式な通達』がありました」
オスカーの言葉を遮るように、上から降ってきたのは氷のように冷たく、一切の感情を含まないエリザの声だった。
そのあまりにも平坦な響きに、オスカーはビクッと息を呑んだ。
「貴方のレインバーグ『侯爵位の返上』、および『王籍からの除外』が正式に決定いたしました。併せて、私との婚姻関係も白紙に戻されました」
「な……何を、言っている……?」
「慰謝料およびノアの養育費として、レインバーグ家の財産と領地はすべて私とノアに譲渡されます。貴方はもう、貴族でもなければ、私の夫でも、ノアの父親でもありません。……それを伝えるために、最後に足を運びました」
淡々と告げられたのは、オスカーという人間の社会的な死の宣告だった。
理解が追いつかず、オスカーは口をパクパクと開閉させた。
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