花魁吉野畢生

翔子

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第十三章 白露の彼岸花 ー流う楼ー

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 昼見世が始まる数刻前、お目当ての人物が吉野の部屋を訪ねた、

「失礼いたしやす。花魁、又次でごぜえやす。本日もよしなに」

 襖を開けたしず葉に礼を述べ、膝を摩りながら座った髪結いの又次は両手を付いて、いつものニッコリ笑みを見せた。
 普段なら何かしら声を掛けるのだが、今の吉野にはそのような余裕は無かった。真っすぐ鏡台と向き合い、白粉で荒れた肌を凝視している。

 これから又次に酷なことを告げようとしている。老齢の髪結いを惑わせ、不安を煽らせてしまうのではないかと心苦しかった。

 直孝と熱い情事を済ませた同衾の夜、吉野は自身の悩みを打ち明けた。
 自分を育ててくれた二人の女将、花辺と志乃に会い、花魁になれたことを直接報告したい、と。直孝は三度しか顔を合わせていない、取るに足らない女郎の話を親身になって聞いてくれた。
 身分を偽って切見世へ向かうか──、はたまた、花魁道中を行って廓中を練り歩き、その折に女将に会いに行くか……いや、さすれば天下の花魁が切見世出身だったという事が客に露呈してしまい、名声を落とす危険性がある。それは出来る限り避けたい。
 様々な案を講じた末、直孝は手を叩いて、吉野を見つめた。

「私の名を使いなさい。私と廓内を漫遊するなどと理由を付け、見世を出るんだ。そうすればそなたは、慕って已まないその女将たちに会えるだろう?」

 吉野は直孝の優しさに涙が溢れそうになった。しかし、なんとか堪えた。たとえ大尽であっても泣くところをそう容易く見せては女郎の矜持が廃るというものだ。直孝の温かい眼差しを受けながら、吉野は感謝の意を込めた口づけをした。

 唇を離すと、直孝は慌てて付け加えた、

「本当なら、共に行ってやりたいが、残念ながら明日は棚卸日なのだ。朝から夕刻まで手伝わねばならない。すまぬ……」

 悲し気に眉をひそめ、謝罪する直孝に吉野はその大きな手を握りながら首を振った、

『ご心配入りんせん、直孝様。一人でやって見んす。もし、おっかさんたちに会えんしたら、お知らせ致しんすね』

 直孝は見事なまでの花魁の強い意志にいたく感動した。

 花魁の存在は、伊勢崎屋の店頭で以前、客から聞いたことがある。気に入らないお客は当たり前のように袖を振り、威厳を携えて禿や新造という将来の花魁となる女郎を育て上げ、見世を背負って立つという責務を担い、【馴染み】までの三段階を超えれば身体を重ね合わせることができる、と。

 その気力と忍耐というものは並大抵ではないだろう、と当時の直孝は思ったものだ。しかし、今こうして三段重ねの布団の上で、手を取り見つめ合っている。金子は無論掛かるが、店の金には手を付けていない。誰からも咎められることなく、悠々と目の前の花魁を愛すことが出来る。

 二人は微笑み合いながら、二度目の行為に及んだ。


 小脇に置いた髪結い道具が詰まった箱を再び抱え、吉野の後ろに膝立ちになった又次は肩もみをし始めた。程よい力加減の又次の按摩は、髪を結う前と後の二度行ってくれる。今日のは特に心地が良く、思わず褒め称えそうになった。
 吉野は深く息を吸い、勇気を振り絞って重い口を開けた。

『又次、つぶし島田に結うておくれ』

 吉野の発言にひめ野と夕華は顔を見合わせた。又次は小さな瞼を勢いよく見開き、鏡越しで首を傾げた、

「だ、伊達じゃなくていいんですかい?」

『後生だよ。何も聞かず、つぶしに結うておくれ』

 鏡合わせのまま、花魁は又次に懇願した。
 何か言いたげな新造たちを無視し、吉野はゆっくりと髷に掛けた鹿の子絞りの元結を解いた。しばらく異様な沈黙が流れた。蝶のように艶やかで豪奢な伊達兵庫ではなく、ひめ野たちがしているつぶし島田に結い上げるとはどういう了見なのか。ひめ野たちは、状況を理解できず無邪気に遊ぶしず葉と楓を恨めしそうに見つめた。

 やがて又次は目にも止まらぬ速さでつぶし島田に結い上げた。

「終わりやした。あの……女将さんになんと報告すれば良いので……」

 鏡越しで又次が言った。彼の不安そうな声を初めて聞く。吉野は平静を装いながら、

『すまぬ、又次。おっかさんには滞りなく伊達に結い上げたって伝えておくれ。礼は余分であちきが払いんす』

 吉野は抽斗ひきだしから巾着を掴み、そこから金小判を一枚取り出して又次の膝元に置いた。ところが、又次はそれを受け取ろうともせず、皺のある手で突き返した。

「これは頂けませんでい、花魁」

 意外な反応に吉野だけでなく、ひめ野たちも声が出た。一両でどれほどの米が食えることか。髪結いの月に貰える禄は高が知れている。又次は頭を下げたまま続けた、

「あっしは一度たりとも、花魁方から余分な金子を受け取ったことはごぜえやせん。月末の見世よりの支払いで十分でさぁ。あくまであっしは職人でごぜえやす。どういう訳があられてつぶしに結われるかは知りやせんが、女将に言い付けるほど、口がやわではありやせん」

 真剣な顔の又次はそう言うと、低頭して部屋を出て行った。いつもの優しい笑みを湛えず、無言のまま去って行った。吉野は自分がしようとしていることが本当に正しいのかどうか悔やみかけ、心がくじけそうだった。しかし、そうクヨクヨしてはいられない。
 吉野はすっくと立ち上がり、唖然としている夕華の前に立ちはだかった、

「ね、姐さん……な、何か──」

『夕華、お前さんの着物を貸しておくれ』

「姐さん! まさか、足抜けする気では……」

『安心をし。お前が考えているような馬鹿なことはしないよ』

 立ち上がりかけで引き止めようとするひめ野に、吉野は厳しい目を向け、これ以上口を開くなとでもいうように首を振った。

『いいかい、おっかさんと親父様には言うんじゃないよ。……大助にもだ』

───────────────────────

 吉野は、ゆっくりと階段を下りて行った。夕華から借りた、紅黄土の縞木綿と黒繻子の帯を後ろで締め、町娘風に仕上げた。これで誰も花魁だとは気付かれまい。

 一階を見渡すと、若い衆らが忙しそうに行き来している。張り見世座敷の掃除をし、煙草盆を人数分置き、座布団の埃を掃っていた。吉野は、初めて「夕風屋」の暖簾を潜った日の事を思い出した。あの頃の初心を今ではとうに忘れ去られてしまっていることに改めて気付かされた。

 いや、何を考えてる。今はとにかく、見世を出なければ!── 心の中でそう呟き、かぶりを振った。もう一度よく見世を見渡すと、幸いにも女将や遊佐、女郎たち誰一人、表に出ていなかった。若い衆らの往来が止めばすり抜けることが出来る。
 しばらく待っていると、階段から出口に向かって無人になる瞬間が出来た。吉野は裸足のまますかさず駆け出し、しかし平静を装いながら、見世の暖簾を上げて外に出た。

 裏路地に入り、砂で汚れた素足を掃い、袖の袂に忍ばせていた草履を取り出してそれを履いた。意気揚々と仲之町に出ようとすると、後ろから声を掛けられ心臓が飛び上がった、
 
「よし?」

 振り向くと、大助だった。

「その恰好……どうした……?」

 額の汗を拭いながら大助が訝しげに訊ねて来た。手には雑巾を持っている。張り見世格子の拭き掃除をしていたのだろう。格子柱の下には桶が置かれていた。

『こ、これは……』

 吉野はボソボソと呟いた。誰かに見つかった場合の言い訳をあらかじめ用意していたのだったが、選りにもよって大助に見つかってしまい動揺を隠しきれなかった。呼吸を整えながら、吉野は口を開いた、

『伊勢崎屋様と廓内を廻ろうって昨夜の晩、話してたんだ。大門の手前で落ち合う約束してる……んだ』

 見抜かれないように必死で早口で説明しようしたのが仇となり、土壇場で言葉が詰まった。

「番頭の俺が知らねえってどういうことだ? 見世を出る時にゃ親父おやっさんと女将さん、または俺に報告すること。お前、一年「夕風屋」にいて、その規則忘れるわけねえだろ。本当はどこに行くつもりだったんだ」

 語気を強くし、じっとこちらを見つめる大助に怯みそうになった。以前、若い衆を叱りつける大助を見かけたことがある。その凄みは見世中を沈黙に包むほどであった。今の吉野はいわば若い衆と同じだ。この前、高尾花魁の跡を付けた時よりも怒りの度合いが高い。
 しかしここは花魁らしく、吉野は嫣然さと威厳を保とうとした、

『花魁のあちきがいちいち報告するわけないだろう。寝ぼけたことを言ってんじゃねえよ』

「花魁は見世の主か、違うだろ? まさかお前、薄雲花魁の道中で話した事を履き違えてんじゃねえだろうな」

『そんなことは無い!』

 吉野は既に気を弱くし、もはや泣きそうになった。
 大助の言ったあの時の言葉が活力を生み、外八文字を成功させることが出来たのだ。感謝してもしきれないほどなのに、目の前の恩人の言い様に胸が張り裂けそうだった。

 気付けば、仲之町で話してる二人を訝しげに見つめる人々で群がっていた。

「来い」

 大助はとっさに見世の裏路地まで吉野の腕を引き、壁に押し付けた。髷がつぶれるほど押し当てられ、吉野は久しぶりに恐怖を感じたが、何故か、大助ならめちゃくちゃにされてもいいと思い始めていた。
 透明な玉のような汗がきらきらと輝き、吉野は触れたがった。しかし、今はそんな状況ではない。

「理由を話せ。親父おやっさんには告げ口しねえから」

 吉野は迷ったが、正直な考えを大助にだけは告げようと思った。俯き加減で言葉を必死に選び、直孝に告げた時のように大助に打ち明けた、

『「流う楼」のおっかさんと、「大生屋」のおっかさんに、あちきが花魁になったことを伝えに行きたいんだ。お願いだよ大助……あちきを行かせてくれよ……』

 しばらく二人の間に静寂が流れた。大助の顔は険しくなり、頭の後ろを掻き困惑しているように見えた。

 奇跡的に、今宵はお客の登楼の予定が無く、昼見世に出なくとも問題は無いはずだ。吉野は心の中で祈りながら、大助を見つめた。かつては油の臭いが充満していた体中からは今は品の良い白檀の香りと銀杏髷を結う折に使う鬢付け油の香りが鼻をくすぐった。

 大助はため息をつきながら上目になって言った、

「必ず、夜見世までに戻ること。昼見世の予定が無くとも、夜はさすがに分からねえからな」

 吉野は思わず胸を撫で下ろし、大助の目を真っ直ぐと見つめた。初めて彼の瞳が、黒く光る宝珠のような輝きを携えていることに気付いた。

『大助……恩に着るよ……』

「俺は今日、お前と会わなかった。いいな?」

『うん』

「じゃあ、気い付けて行け。品ある素振りは絶対見せんじゃねえぞ」

 大助はそう言って、懐から銭を数枚出して吉野に握らせて背中を押した。呆気に取られ、突き返そうと懐に手を伸ばすが華麗にかわされ、大助は見世の中へ消えて行った。
 
───────────────────────

 大助と別れた後、吉野は京町二丁目を過ぎた辺り、羅生門河岸へ歩を進めた。狭い道筋へと近付くにつれ、お歯黒どぶの言い表せようのない臭いに袖口で鼻を覆った。
 「流う楼」は九郎助稲荷に程近い所にあるはずだ。ここを真っ直ぐ歩き、左に曲がったところに見世がある、はずだった……。

『え?』

 吉野は目の前の場景に思わず声が出た。見世があった場所は荒れ果て、屋根に掲げられていた看板は跡形もなく消えて寂れ果てていた。先輩女郎のくれ葉と浮ふね、朋輩の嬢香、そして女将の花辺の姿は無く、共に寝起きしていた置屋も今に崩れそうだった。
 吉野は訳が分からず、荒れ家となり果てた「流う楼」の中に入って辺りを見回した。茶碗がそこかしこに散らばり、座布団や布団が埃を被って放り出されている。記憶を辿るも、過去の原形を留めぬ景色に気落ちし、一縷の不安が走った。
 
 羅生門河岸全体も昔と比べ惨憺さんたんとしていた。

 陰鬱な空気に包まれ、活気があった以前と比べて今は見る影も失っている。途方に暮れながら路を進むと、二軒先のあばら家の障子が勢いよく開かれ、髪も着物も乱れた女郎が桶を抱え、井戸端の傍に座り込んだ。
 吉野は思い切って、手拭いを洗う女郎に声を掛けた、

『もし、聞いてもよろしゅうおざんすか? 二軒先の「流う楼」という見世のことでありんすが、何があったのでありんしょう?』
 
 出来得る限り無礼にならないように留意しながら質問を投げかけた。しかし、女郎は友好的な態度を示してくれず、歯をむき出しにして来た、

「あぁ!? お前さん誰だい? きれぇなべべ着やがって。その言葉遣い……仲の女郎だな!?」

 ”仲”とは仲之町のこと言っているのだろう。そもそも答えになってない返しに、吉野は初めて、切見世女郎の成れの果てを見たような気がした。黙って元来た道を引き返そうとすると、女郎は手拭いを桶に殴り捨てて呼び止めた、

「逃げんじゃねえよ! 仲の女郎がなんの用だって言ってんだ! おいらたちを捨てやがった仲のもんがよお!!」

 捨てた……? 吉野は振り返り、女郎の瞳を見つめた。その目は憎悪と悲しみで満ち溢れている。

 そうだ……。切見世は、病気や行き場を失った女郎たちが堕ちていく最終地点だった。誰からも雇われているわけでもなく、女将と切見世女郎という形態をとらず、一人で小さなあばら家でお客から金を受け取り、男の欲望を受け止めているのだ。

『あ……あちきは──』

 吉野が言いかけると、隣のあばら家の障子が勢いよく開き、怒号が響き渡った、

「──おいおい、何ごとだい? 」

「うっせえなぁ、こっちゃ寝てんだけど?」

「喧嘩かい? 面白そうじゃねえか」

 女郎の咆哮で、周りの建物から続々と他の切見世女郎たちが出てきた。誰もが威圧的で、しかめ面をしている。鳥肌が全身を巡った。──このままでは殺られる! そう思った吉野は、すかさず九郎助稲荷の方へ踵を返し、全速力で走った。それを見た切見世女郎たちは「待ちやがれ!!」と声を荒らげながら追いかけて来た。

 京町二丁目の路地を通り、見世と見世の間の裏路地を右往左往、迂回しながら、吉野は全速力で走った。仲之町に出ないように気を配りながら、なんとかして、この者たちを遠ざける手段は無いものかと、熱を帯びてくる頭で考えを巡らした。

 切見世を統括する番所の人間が出て来ないところを見ると交代途中の引き継ぎで不在なのだろう、はたまた、番所にまで見捨てられたのか? 余計な考えが頭を覆い尽くしながら、吉野は再び羅生門河岸の道沿いに戻って来た。後方から切見世女郎たちの吼え声が続いている。後ろを振り返ろうとすると、突然腕を引かれ、口を塞がれた。

 胸の鼓動と、何者か分からない人物に口を閉じられ、吉野は困惑した。聞こえてくる、女郎たちの乱暴な言葉が右から左へと消えて行き、しまいには男の怒号が響き渡った。

「こらぁああ!! 何を騒いでる!! とっとと見世の中に戻りやがれこの鉄砲女郎がぁあ!!」

 おそらく番所の人間だろう。しかし、女郎を人とも見ていないような口ぶりに吉野は腸が煮えくり返る思いだった。

 ほどなく、口元に覆われた手が退かれ、吉野はすかさずその場から離れて匿ってくれた人物の顔を見つめた。すると驚いたことに、その顔には見覚えがあった。

「やはり、お前さんだったんだね? よし」

『浮ふね……姐さん?』

 吉野は堪らず、浮ふねに抱き着いた。居所も分からず、もしもの事があったのではないかという不安が暖かな空気となって消えていくのを感じた。


「元気そうで何よりだよ、さぁ、掛けな」

 浮ふねは欠けた茶碗に白湯を注ぎながら言った。

「茶が出せなくて悪いね? 生活が苦しくってさ」

『気持ちだけでうれしいよ。姐さんの方は? 元気だった?』
 
 欠けた茶碗を「ほらよ」と言って浮ふねが手渡すと、腰を摩りながら平たい座布団に座り込んだ、

「元気ではないかな。最近じゃあ、腰が痛くて痛くてたまらねえよ。もう年だしな」

 「流う楼」に初めて来た頃、何気なく訊ねた浮ふねの年齢は三十七だった。単純に計算すれば、今は四十四。この劣悪な世界でここまで生きているのは不思議と言えよう。

 燃えカス同然になった煙草を煙管に詰め、浮ふねは吹かし始めた。煙管は相変わらずだなと吉野は思いながら、この羅生門河岸が何故荒れ果てているのかを訊ねた。見知った顔と再会した事で、もはや心が軽くなっていた。

「七か月ぐらい前からかな、こんな状態になっちまったのさ。楼名主らが作り替えた廓の法ってんで、仲之町にも安い女郎が増えたらしいじゃんか。汚くて臭え切見世に来るヤツなんて、好き者しか居ねえのよ。昨日なんて、なけなしの銭しか持っていないジジイと下手クソな若者しか来なかったさ」

 浮ふねの話を聞いていると壁一枚隔てた隣の家から咳や痰の絡む音がした。おそらく、医者に診てもらえていないのだろう。拙い線香代では、医者にかかるより、生きていくための食事にありつけるかどうかが要なのだ。浮ふねの家も内装は粗末で、「流う楼」の頃に好き好んで集めていた春画も無く、壁の塗装が剥がれ、格子窓も折れていた。前かがみになる浮ふねの背中には骨がくっきりと見え、頬もこけていた。

 話し終えて、煙管を吹かし続ける浮ふねを見て、巾着に入ってる小判を差し出そうとしたが、浮ふねは固い信念と誇りを持つ性格だ。吉野はそう思い、腕を引っ込めた。
 いつまでも経っても煙が出て来ない煙管にイラつき、灰吹きに勢いよく叩きつけると、浮ふねはまじまじと隈だらけの目を吉野の顔に近づけた、

「それにしてもあんた、ぺっぴんさんになったねぇ。「夕風屋あっち」では良い暮らしさせてもらってんだね?」

 浮ふねの優しい口調のおかげか、嫌味には聞こえなかった。苦しい生活を送ってるはずの浮ふねは、まるで我が子のように吉野を想っているのだと感じ、吉野はずっと伝えたかった事を浮ふねに告げた。

『あちき、花魁になったんだ』

「おいらん? ……あぁ、太夫の事かい! なんのことかと思ったよ。え? ってことは何かい? あんた、約束果たせたんだ!」

『うん。まだ一度も向こうのおっかさんに顔を出してないから「約束が果たせた」って言えないんだけど……あちきの夢が叶ったって言えばそうかな」

 吉野の肩を叩きながら浮ふねは嬉しそうに「よかったじゃん」と喜びの声を上げた。痩せても力強さは変わらずで、痛かった。痛がりながら吉野は礼を述べた。
 白湯を一口啜った後、吉野は疑問に感じた事を訊ねた、

『姐さん……聞いてもいいかい?』
 
 浮ふねは、さきほどの満面の笑みから急に暗い顔になり、手で制して吉野を黙らせた、

「……「流う楼」の事かえ?」

 確信めいた言葉を言わずとも、その事を聞かれるのを待っていたかのように浮ふねは訊いた。吉野は驚きながら小さく頷くと、浮ふねは続けた、

「九郎助のお稲荷さんにはもう行ったのかい?」
 
 浮ふねの問いに吉野はもう一度頷いた。瞼を閉じれば、閑散として荒れ果てた「流う楼」の見世跡が蘇ってくるようだった。吉野は突然、心にのそのそと、二度目の不安が押し寄せて来た。

「おっかさんたちは死んだよ」

『え……?』

 目の前が真っ暗になった。

 日本堤の土手が決壊し、廓の囲いが隅田川によって押し流されるような感覚だった。息が次第に荒くなり、浮ふねの声もまともに聞こえず、傷だらけの畳に手をついた。


 それは一年前の三月のことだった。春の吉原は桜を見物する客で溢れた。切見世でも仲之町と変わらずの賑わいを見せ、久方ぶりの盛況となった。

 しかし、悲劇は突然起きた。

 酒が進んで酔った客が多いのが河岸の常である。しかし、時に嬢香を襲った暴れ客同様、前触れもなく豹変する客も少なくない。見世の前で呼び込んだ客の相手をしていたくれ葉が、行為中、髪に挿していた銀簪を奪われ、首目掛けて突き刺して来た。首から滴り落ちる返り血を浴びた男は奇声を上げ、事切れたくれ葉の首根っこを掴み入り口に放り投げた。何事かと思った他の客たちは状況を把握しきれなかったが、胸を露わにした死体を見、忽ち辺りは阿鼻叫喚の嵐と化した。

 男は帯無し姿のまま、のそのそと下に降りて来、手元を見ると、血塗られた簪を持っている。事の状況を理解した客たちは一目散に逃げようとするが、入口に立つ男は手当たり次第に簪を振りかざし、怪我を負わせて行った。

 花辺は慌てて止めに入ろうとするが、暴れ客の俊敏さにかなわず巻き添えを食らい、負傷した。一時いっときの間、切見世は騒然とし、花見の雰囲気があっという間に地獄へと変貌した。
 無惨な状況が永遠に続くと思った矢先、巡回していた会所の同心が騒ぎを聞きつけ、暴れ客を捕縛し、これ以上の被害者が現れることは無かった。

 しかし、「流う楼」の見世内は酷い有様だった。怪我人がそこら中に倒れ、飛び散った血の跡が悲惨さを物語っていた。重傷を負ったお客は少なくとも十人。死亡者はくれ葉一人だった。花辺は医者の治療を受けるも傷の具合が悪く、数週間後に亡くなった。

 奇しくも凶器として使われた銀簪はくれ葉にあげた贈り物であったと、浮ふねは涙混じりで語った。白湯で渇いた喉を潤した後、浮ふねは吉野の肩を摩りながら声を掛けた、

「大丈夫かい? よし……」

『ごめん、姐さん……取り乱しちまって』

「仕方ないさ。あんた、おっかさんのこと好きだったからね」

『おっかさんだけじゃないっ……くれ葉姐さんが哀れで……そんな死に方、あんまりだっ』

 涙が果てることなく頬を伝い落ちた。物心がつく五年の月日を共に過ごした時間は幸福なものであった。苦労はあれど笑いが絶えない満ち足りた日々は「夕風屋」でも過ごしたことはなかった。花魁になれたことを二人に告げられたら先ほどの浮ふねのように自分のことのように喜んでくれていただろうに、と憎くてたまらなかった。
 浮ふねによれば、暴れ客は番所に引き渡されて詮議に掛けられることになったのだが、酔いが醒めた翌日、獄中で自ら起こした卑劣な行いに茫然自失になり、壁に頭を打って自害したという。

『でも、姐さんが生きていて、本当によかった……』

 吉野は思わず浮ふねの手を握った。二人の手が優しく絡み合い、しばらくは涙の時が流れたのだった。やがて気持ちが落ち着き、吉野はふと嬢香の事を思い出した。考えれば浮ふねの話に嬢香が出て来なかった。

『嬢香ちゃんはその時、どうしてたんだい? 話に出てこなかったけど』

「運のいいことに、嬢香はその頃にはもう「流う楼」を出てったんだ」

『え、何処に? もしかして……?』

 すでに亡くなっていた。という最悪な展開を想像した。しかし、それは単なる思い過ごしであった、

「生きてはいる。廓にもいる。ただ、色を売る女にはなっちゃいない」

 吉野は白湯を口に運びながら生きている事を知って安堵の気持ちに浸った。横目で浮ふねを捉えると徐に文机に向かい、汚れた紙の裏に筆を走らせ、吉野に差し出した。

「ここに行ってごらん。きっとびっくりするさ」

 紙切れを受け取るとそれは吉原の絵地図だった。五丁町のうち、大門からほど近い江戸町二丁目の入り口付近が丸く囲われていた。紙を懐に入れ、吉野はゆっくりと立ち上がった、

『さっそく今日行って会ってみるよ。──じゃあ姐さん、また顔出すから──』

「──なあ、よし……悪いが、もう二度とここには来ないでおくれ」

 真っ直ぐ見つめる浮ふねを見下ろしながら吉野は首を傾げた、

『え? どうして……』

「またさっきみたいに他の切見世女郎に絡まれたらどうすんだい? またわっちがお前さんを助けられるとは限らないんだ。それに……次に客と一、二回ヤったら、わっちはぽっくり逝っちまうだろうさ」

『そんなこと言わないでおくれよ……姐さんまで失ったら……あちき……』

「あんたが切見世出でよかったよ。少しでもここの辛さを分かってくれる太夫──いや、花魁がいてくれるだけで救われたようなもんさ。今日、あんたとまた会えて嬉しかった……けど、もう悲しんで欲しくないんだ」

 浮ふねの悲痛な思いに、吉野は膝から崩れ落ちた。浮ふねの優しさと気遣いに、吉野は今すぐにでも「夕風屋」に連れて行きたいと思った。自身の傍で遣り手として雇い、何くれとなく手ほどきを受け、話をしたいと……。しかし、四十路の女郎をどこの見世が雇うというのだ? 遣り手婆の籍は十分だし、吉野の事を一目置いている松枝でさえ首を振るはずだ。

「それに、わっちが逝っちまえば地獄の底でおっかさんとくれ葉に会えるしな! あんたはもうここから巣立った……わっちらのことなんざ忘れておくれ」

 「絶対忘れない。姐さんがなんて言ったってあちきは会いに来る!」そう口から衝い出そうになった吉野だった。
 しかし、切見世女郎の寿命は幾ばくしれないのが本当のところである。瘡毒そうどくに罹る確率なんて高が知れている。切見世は一回の線香代は安い。そのため、不特定多数の男とヤらざるを得ない。運といえばそれきりだが、彼女らは苦境の中で必死に生きている。

 吉野は溢れ出そうな気持ちをぐっと抑えながら、

『分かったよ。姐さんがそう言うんならその通りにするよ』

 二人は、この後二度と訪れないであろう最後の抱擁を交わした。吉野は姐女郎の温かさ、細くなった身体、鼻をつんざく程のどぶの匂いを忘れまいと身に沁み込ませ、抱き合った。

「ありがとう。元気でな」

 浮ふねの言葉に吉野は「姐さんこそ」と返そうとしたが、頷くにとどめた。

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