花魁吉野畢生

翔子

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第十四章 白露の彼岸花 ー大生屋ー

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 二年ぶりに再会した浮ふねと永遠の別れをし、吉野は羅生門河岸を後にした。

 あの切見世女郎たちは会所の役人の叱責によって鳴りを潜めた様子で、河岸は再び静かな寂れ路に戻っていた。吉野は明石稲荷の方面へ足を進めた。江戸町二丁目の路地に入ると他四町とは違った趣きがあった。大見世が並び、大門から近いということもあって、江戸市中にあるような菓子屋や食事処が軒を連ねている。
 浮ふねが描いてくれた絵地図を頼りに歩いていると、突如として聞き覚えのある声が耳に届いた、

「だんご~! 団子いかがだ~い!」

 軒下で女人が通行人に向かって声を掛け続けている。しかし、行き交う誰もが、まるでその声が聞こえないかのように無視し、昼見世が始まった見世の格子女郎を品定めしている。

 朱色の店構えに、軒先には「芒屋すすきや」と書かれた暖簾と「団子」の垂れ幕が掲げられていた。桜色の前掛けに、襷掛けしている女人は通り過ぎる通行人にべーっと舌を突き出しているのを見、吉野は懐かしさを感じた。
 女郎じゃなくなっても、相変わらずあの時、あの頃のままの性格なのに安堵した。

『お団子ひとつください』

 店の外にある毛氈が敷かれた粗末な床机しょうぎに腰かけ、団子を注文すると、女人が軒先から顔を出し満面の笑みで返事をした、

「はいよー! 毎度あり……」

 徐々に声が遠のき、女人はまるで化け物を見たかのように目を丸くしていた、

「あんた……どうしてここに?」

『団子を、ください』

 女人の顔をじっと見つめながら吉野は語気を強くして再度注文した。間近で見れば見るほどあの頃の面影を残す嬢香がそこにいた。

 やがて、三本の団子と茶が出てくると、嬢香は盆を小脇に抱えながら、仁王立ちで睨めつけて来る。吉野はそんな朋輩を気にも留めず、団子を一串頬張った。ほどよく弾力がありながら口の中に広がる柔らかな甘さに、吉野は穏和の安らぎを感じた。

「あんた、どうやって来たの?」

 低い声で詰め寄る嬢香に、吉野は構わず二本目の団子を手に取った。

「話聞いてる?」

『ん? ううん』

「どうやってここに来たかって聞いてんの!」

『嬢香ちゃんの居場所を他に誰が知ってると思ってるのよ』

 最後の一串を口に運びながら、横目流しで嬢香を見るとハッとした顔になって今度は項垂れた。それを見た吉野はニヤリとし、茶を飲み干した。気付けば嬢香は吉野の隣に腰かけていた、

「じゃあ、話……聞いたんだ?」

 例の事だと思った吉野は、胸が痛む思いで、そっと応えた、

『うん……噂がすぐ広まるこの吉原で、あんな騒ぎがあったなんて知らなかったよ』

 大門から仲之町を通りゆく人々の姿を目で追いながら、花辺たちの死がまるで遠い昔に聞いたような気分になった。嬢香は大きくため息をついて、襷を解いた、

「女郎が起こした間違いや大事だいじはすぐ広まっても、客が起こした殺しは、風評被害になり兼ねないから広まらないんだろうな。世知辛いねえまったく」
 
 簪を抜いて頭を掻く嬢香を見つめ、吉野はふと思ったことを尋ねた、

『嬢香ちゃん、どうしてまた団子屋に?』

「問いに答えるなんて誰が言ったよ」

『言いたくなければ……いいよ』

 突然、俯き始めた吉野に舌打ちしながら、嬢香は後ろに手を置いてもたれ、ため息交じりに語り始めた、

「二年前に身請けされたんだよ。ここの旦那に。まっさか、廓の中で身請けされるなんて思ってもみなかった」

『あの人?』

 吉野は店の小窓から、店内奥の調理場で串を回す動作を繰り返す白髪頭の大柄な男を指さした。

「うん、彦三郎さん。歳は行ってるけどいい人だよ。切見世でしか女郎やれない出来損ないのあたしなんかを気に入ってくれてね。女将として任せて貰ってる。色々と教えてくれたから、その分恩返ししてやってんだ」

『よかったね』

 吉野は心から喜んだ。いつか切見世を出たいと野心を抱いていた嬢香を知っていただけに、色を売る女としてではなく、一人の女として生きられることが出来た事に祝福の意味を込めて言葉を手向けたのだった。

「あんたは? そんな格好してさ、中見世に鞍替えしたんじゃなかったの?」

 嬢香の問いに、吉野は夕華から借りた紅黄土の縞木綿を見下ろしながら、笑ってごまかした。

『ま、まぁ色々とね』

「なんなのよ、ったく。あたしだけが問いに答えたの馬鹿みたいじゃない」
 
 そう言うと嬢香は皿と茶碗を盆に乗せ、下げた。怒らせてしまったかと思ったがすぐに「茶のおかわりは?」とぶっきらぼうに訊く素直になれないところが嬢香らしかった。吉野が頷くと小さく舌打ちをして店の中に戻って行った。

 二杯目のお茶を飲んでいると、仲之町側から紺色の裾引きを帯に挟んだ女人が店に近付いてきた。風格がいかにも茶屋の女将であると察し、吉野は気づかれまいと河岸側の方を向きながら耳を欹てた、

「嬢香ちゃん! をおくれ」

「あぁ、「巴月屋はづきや」の女将さん! 毎度ありがとうございます」

 やはり女将であった。「巴月屋」は「夕風屋」とは取り引きが無いので不安を覚える必要は無いが、道中を行った身、気付かれる危険性がある。中見世の花魁がここで油を売っていては何を言われるか、また、何を思われるかしれない。吉野は、じっと身構えながら背を向け続けた。
 嬢香は「巴月屋」の女将に愛想よく振舞った。先ほどの吉野に対する態度とは違っていて、本当に団子屋の女将として頑張っているのだと吉野は感心した。

「なんだい、相変わらず客の出が悪いね」

 一人しかいないじゃないか、という女将の発言に、吉野は飛び上がり思わず咳き込んだ。

「仕方がないよ、団子を買ってくれる客なんて禿か若い女郎ぐらいしかいないから。──はい、おまたせ。こし餡饅頭二十八個と三色団子十八個ね~! またご贔屓に」

「ここの団子美味しいからいつも助かるよ! じゃっ」

 饅頭と団子のひと揃えを風呂敷に包んだ後、女将はせっせと仲之町へと消えていった。隠れる必要のなくなった吉野は嬢香に声をかけた、

『ちゃんと団子屋の女将やってるんだね』

「馬鹿にしないでくれる?」
 
 先ほどの愛想の良かった声色から一転して声を低くして悪態をつき、吹き出しそうになった。会計台に肘をつきながら嬢香が訴えるような目を向けた、

「そろそろ帰ってくんないかい? 配達しに行かなきゃならないんだけど」

『配達もしてるの?』

「揚屋や置屋でお客に出す甘味と女郎たちの八つ刻用の菓子を出前してんだ。さっきのは茶屋の女将だから取りに来れるけど、この時間帯の見世は準備でてんやわんやだからね。若い衆でさえも取りに来れないのさ。今から大見世に配達しなきゃ──」

 こんな絶好の機会はないと悟った吉野は、思わず身を乗り出し、嬢香に顔を近づけた、

『嬢香ちゃん!』

「な、なんだよいきなり」

『お願いがあるの。聞いてくれるかい?』


─────────────────────── 


 禿の時分、人知られず離れた「大生屋おおうや」。

 見世の在り所はここ数年の間、吉野の記憶にはとどめ置かれず、消え去っていた。幸いにも嬢香がこの大見世への配達をしてくれていたおかげで、見世の在り処が明らかとなった。
 吉野は、およそ七年ぶりに「大生屋」の敷居を跨いだ。
 
大生屋 ───────

 見世の内装に見覚えはなかった。改装が施されているのかも、七年もそのままなのかも分からない吉野は、屋内を見回さないように苦労した。そんな真似をすれば、余所者に間違われること請け合いだ。
 通り過ぎる誰も彼もが知らぬ顔ばかりで余計に体を強張らせた。風呂敷に包んだ菓子箱を固く握り締めながら、横を素通りして行く若い男衆に声をかけた、

『もうし、ご注文の菓子をお届けにあがりました「芒屋」でございます。どこへ持てばよろしゅうございましょう?』
  
 自分は一応、仲之町の道中を飾った花魁だ。中見世の看板を張る女郎が変装して大見世にいることが露見してしまったらどうなるか。嬢香から借りた手拭いを目深に被ってるものの、声や雰囲気でバレないとも限らない。今更ながら、心臓が激しく脈打った。

「あぁ!「芒屋」さんかい。奥に台所でえどころがありやすからそこへ持ってってくれや。こちとら、ちいと忙しいもんでね!」

 そう言うと男衆は額にかかる汗を袖口で拭いながら、せっせと二階へ駆け上がって行った。

 焦っている調子の男衆と出くわしたおかげで、運よく難をすり抜けた吉野は、座敷を通り過ぎ、台所に向かった。賄い方の男衆に先ほどの若い男衆にしたような挨拶をし、菓子箱を置いたあと、夜見世が始める数刻の間、志乃の姿を探した。手っ取り早いのは内証なのだが、見世の番頭や顔も覚えていない楼主に出くわさないとも限らない。

 台所へ続く土間と座敷との間の欄干で立ち往生していると後ろから突然、声をかけられた、

「よしちゃん?」

 気付かれた! と、吉野はそう思った。しかし、思い返せばその名を知る者はごく一部の人間しかいないはず。声の主はもう一度吉野の昔の名を呼びかける、

「よしちゃん……だよね?」

 そっと振り向くと、覚えのある顔がそこにあった。常時には思わずとも心の奥底に引っかかるあの頃の記憶。太夫の大旦那に襲われた際に熱を出し、たった一人、看病してくれた、同輩のかほりだ。

『かほりちゃん……? かほりちゃんなの?』

「やっぱり! よしちゃんだ!」

 二人は互いに手を取り合い、七年ぶりの邂逅かいこうの喜びにどちらからともなく抱き合った。


大生屋・二階 ───────

「さあ、入って。ここなら誰にも見つからないから」

 案内されたのは、広い座敷だった。

 床の間と違い棚の間柱かんちゅうには歌舞伎の役者絵が貼られており、窓際に置かれた文机には橙色の毬と珍しい舶来の置物、上座に置かれた座布団は梔子クチナシ柄、脇息には空色で牡丹の花が染められていた。さらに、入口の横には背丈ほどの高さの盆栽があり、個性的で愛らしい意匠で溢れていた。

『ここってかほりちゃんの部屋? もしかして、部屋持ち?』

 室を見渡しながらかほりの方を振り返ると新造に向かって何かを話していた。新造から受け取った座布団を手にすると、すっくと立ちあがり、上段の間にそっと丁寧に置いてニコッっと微笑んだ、

「今年の春にね。旦那様のお引き立てがあって部屋持ちになったんだよ──さっ、お座りなんし」

 かほりは笑みを絶やさぬまま、上座に置いた座布団を指して座るよう促した。吉野は懐かしい同輩からの勧めを快く受け入れ、彼岸花柄に紅色で染められた座布団に脚を休めた。かほりも続いてちょこんと身を落ち着かせた。

「しかし、どうしてまた「大生屋」に? そんな格好して」 

 かほりは吉野の着ている物を嘗め回すように見た後、クスっと笑った。

『これには、ワケがあってね……。それよりもかほりちゃん、元気そうでよかった』

「嘘ばっか! どうせわっちのことなんて忘れてたんでしょ~?」

『そんなことないよ。また会えて嬉しいよ』

 しみじみと、かほりを見つめながらこの上ないほどの穏やかな気持ちが体中を覆った。かほりもそれに応えるように弾けるような笑顔を見せた、

「ふふ、わっちも!」

 しばらくして襖が開かれ、縹色の紋付引き振袖を着た新造が盆に載せた二つの茶碗を持って現れた。襖の向こうには稚児髷の禿が二人、平伏していた。
 吉野とかほりにそれぞれ茶碗を茶托に添えて膝退すると、かほりは袂から小さな紙包みを三つ取り出し、礼を述べた。新造は嬉しそうに笑みを浮かべながら静々と室を去って行った。そして丁寧に頭を下げて襖を閉めた。
 そのあと、外からキャーキャーと騒ぐ新造と禿の声が聞こえ、思わず笑みがこぼれそうになった。さすがは大見世だと吉野は感心した。新造と禿への教育が行き届いている。こちらも見習わねばと、固く念頭に置きつつ、吉野は出された茶を一口啜った。

「ところで、ここに来た理由を教えて。でないと男衆に見つかりでもしたら厄介だよ?」

 もったいぶっていたが、ここに来た訳を話さずどうする? 吉野は意を決してかほりに告げた、

『かほりちゃん、驚かないで聞いてね? あちき、花魁になったんだ』

「花魁? よしちゃんが?」

『今は吉野花魁で通ってるよ。何度か道中張った』

「そっかぁ! すごいね! 天下の花魁がわっちの同輩だったなんて! うれしい!」

 かほりは脇に置かれた抽斗ひきだし棚を開けて、中から包紙を取り出した。「お客からもらった落雁だよ」と言って吉野の前に包みを広げた。それをつまみながら、かほりは続けた、

「でも、道中かぁ~。いいなぁ」

『【部屋持ち】なら茶屋へお客を迎えに道中張るでしょ?』

 落雁を口に運ぶと、かほりは急に表情を暗くして、虚ろな目をどこにでもなく向けた、

「今の「大生屋」に、道中張る金は無いよ。一部の客から『格が落ちた』『不器量ばかりだ』と罵られるばっかり。親父は、女衒に金を払って『器量よしの娘をさらえ』と頼むんだけど、その女衒が極悪でね。金を持って逃げ出して、他の見世に高値で売ってやがる始末さ。すっからかんの「大生屋」には道中なんて、夢のまた夢なのよ」

『そんなことになってたんだ……知らなかった』

 口に広がった落雁の柔らかな甘さが一気に消え失せるほど、沈んだ空気が一気に立ち込めた。

 事実この頃、大見世の楼主たちは名誉回復に勤しんでいた。安い女郎が吉原のほとんどを占め始め、中見世、小見世が台頭し籬の数を増やす見世も多くなっていた。堅苦しい掟に縛られることに我慢ならなかった気風粋人たる町人・商人のお客も大見世を利用することは少なくなったという。

 斯くいう吉野のいる「夕風屋」も、籬を増やすのではないかと若い衆たちが噂し合っていたのを耳にしたことがある。

「ごめん、話反らせたね。続けてよしちゃん」

『ありがとう。……あちきが、花魁になったことをおっかさんに伝えたくて危険を承知で「 大生屋ここ」に来たんだ。なあ、かほりちゃん。なんとかして、おっかさんをかほりちゃんの室に呼んでもらうことはできるかな?』
 
 かほりの表情が再び曇りを見せた。息を呑み、言葉を詰まらせているようだった。

『かほりちゃん?』

「よしちゃん、落ち着いて聞いて? 実は……おっかさんはもう……この世にはいないんだ」

『え……?』

「二年前に、労咳で……。六十過ぎてたし、そろそろ引退をって考えていた矢先に、朝起きて来ないので親父が起こしに行ったらすでに事切れてたって……」

『そんな……』

 心がかきむしられる思いだった。

 明け切らぬ夜の内に見世を出、月光の中「流う楼」の前で不安がっていた吉野に「太夫になる素質がある」と勇気づけてくれた。
 子供相手にすかしただけの偽りだったかもしれない。しかし、たとえ嘘だったとしても吉野はその言葉を信じた。そして、偶然と偶然が重なって、切見世女郎という拙い身分から中見世花魁へとのし上がることが出来た。「太夫になる」という夢がようやく果たせたのに、肝心の志乃はもうこの世にはいないと聞かされた。

 涙も枯れ果てた吉野は、ただ茫然と宙を見つめることしか出来ないでいた。

「大丈夫? よしちゃん……」
 
 かほりは吉野の顔を覗き込みながら心配そうに声をかけた。吉野は茫然自失のていで呟いた、

『「流う楼」のおっかさんも死んでたんだ……』

「「流う楼」って……切見世の?」

『え、かほりちゃん、どうして切見世だって分かったんだい?』

 切見世の頃の吉野をかほりが知るはずはなく、吉野は一気に我に返った、かほりは訥々とつとつと語った、

「今年の正月に【太夫選出】の内示が出た時、親父が番頭さんと話していたのを聞いて知ったの…‥。座敷持ちになった奈桜藤花魁ってのが、あのよしちゃんなんじゃないかって。ごめんね、よしちゃん……おっかさんが亡くなったこと、すぐに知らせに行こうとしたんだけど……よしちゃんがどこの町にいるのか知らなかったから。それに大見世という格のせいで、他の見世に聞いて回ることもできなくて……」

『どうしてもっと早くっ──』

 吉野は訳も分からず取り乱し、掴みかかろうとしたが空で拳を引き止めた。

 すべて何もかもが悪かったのだ。かほりはその頃、一介の女郎だ。部屋持ちの女郎で無かったが為にお客以外、自由に文を送ることができなかったのだろう。
 奈桜藤花魁という名を知っていたのなら、知らせに来てほしかった。その言葉を胸に収め込んだ。吉野にかほりを責めることなど出来ようか。

『ごめん、かほりちゃん……。かほりちゃんの所為って訳じゃないのにさ、あちき……』

 しばらく沈黙が流れた。芸者か女郎のだかしれない三味の音が一階から聞こえてきた。茶を一口啜った時ふと、あの女の顔が思い浮かんだ。

『かほりちゃん……紫太夫は今どうしてるんだい?』

「あぁ……あの人……」
 
 かほりは俯き加減で、両手の人差し指をくるくると弄び始めた。吉野は一瞬心が躍った。だが、違った。

「残念だけどあの人なら生きてるよ。今はこの見世の……遣り手してるよ」

 期待外れな返答と共に吉野は驚いた。女郎が遣り手婆に転身することはよくある話だ。しかし、自分の禿よりお客を選んだあの女にしては意外な最後だ。年季が明けても未だ「大生屋」に居座っているなんて。

『会わせて……』

 口から衝いて出た言葉だった。本来なら会う必要は無いが、何故か面と向かって会いたいと思った。禿の頃の己を知るもう一人の人物なのだから。

「でも、よしちゃん……あいつは昔より酷い 性質たちになったんだよ? あいつが廊下を通る度に女郎はヒヤヒヤして、顔も上げられないほどに──」

『──いいの。あの頃に受けた仕打ちを、あいつに仕返ししてやりたいのさ」

 かほりは、花魁というのはこんなに人を強くさせ、変えるものなのだろうかと思った。熱意に根負けし、とうとう首を縦に振った、

「分かった……行こうか」

 二人は部屋を出、奥まった屋根裏部屋の真下に向かった。そこに、かつて栄華を極めた太夫・紫がいるという。他の女郎たちが楽しそうに部屋で話しているのが聞こえる。こんなに、楽し気な場所だったかと吉野は思ったが、かぶりを振った。今は、かつての主に会って、どう言葉を告げるか考えねばならない。

 屋根裏下に着くと、天井戸には、細い梯子が掛けられていた。普段は壁に立て掛けられてあり、中にいることを示しているのだという。
 吉野は、裾を帯に入れ込んで、梯子に手を掛けた。するとかほりは、振りを掴み引き止めた、

「ねぇ、やっぱり止めた方が……」

『……お願いかほりちゃん。あちきを止めようと考えず、誰も来ないように見張ってて』

 吉野の決意は固く、そのまなざしは真剣そのものであることに、初めて”よし”という女郎の誇りを身に染みて気付かされた。かほりは、頷くだけで屋根裏へ踏み込む勇敢な花魁の姿を見送ることしか出来なかった。



大生屋・二階・遣り手の部屋 ───────

 何人たりとも、たとえ親父でさえ、声もかけずに入ることはこの見世では罷りならない。

 遣り手になって四年が経った。誇りを高く持ち過ぎたおかげで、納得の行く身請け金を払ってくれない男たちを断り続けた果てに待っていたのは、苦界の中の地獄だった。
 
 歳は既に三十路過ぎ。かつての美貌は跡形もなく、性欲の欠片も消え失せ、借金を今も尚、払い続け。得た賃銀は脆くも手の内から落ちていく。雇い主の親父に命じられるままに女郎たちに厳しい眼を向け続け、恐れられる日々。

 正直言って今も昔も変わらない。性欲なんて初めから無かったし、お客と熱い夜を過ごすのも新しい着物や良い食い物を得たいからで、愛やら快楽が欲しいわけでは無かった。かつての旦那衆は今の己を見限って離れて行った。冷たい棒持ち野郎たちだ。

 好かれることが無いのが遣り手なのだが、こんな自分が、果たして生きていて良いものなのだろうか。最近はそればかりが頭の中を埋め尽くし、簪を手首に突き付ける毎日。

 しばらくすると、三味が奏でられ、紫は重い身体を起こした。気が付けば襦袢姿のままでいた。見世の開始が間もなくの所に迫っている。目の前の机にある目録には、予定されている客の数も少ないとある。先月からずっとこうだ。
 十代将軍就任で江戸には各地の領主が出府し、町に武士らが集まっているというのに……大見世「大生屋」はもはやこれまでか、と紫はくだらない考えを巡らせた。
 衣装櫃から黒紋付のお引きを取り出してそれに着替え終え、帯を締めると、徐に後ろの押し上げ式の扉が開け放たれる音がした。勢いよく振り向き、紫は威嚇の声を上げた、

「誰だい?!」

 こじんまりとした狭い部屋に訪問者は誰一人とて入れたくないのが紫の本音だ。空気も悪く、お香と煙草の匂いでただでさえ息苦しいのに、この空間に二人も人間がいたら厄介だ。片隅に追い込んだ布団の山と長持が部屋の面積を奪い、立ち上がるのも腰をかがめねばならないほどだ。
 煙管を手に持ち、侵入者か訪問者か分からない者に声を荒らげ、唾を飛ばした、 

「あんた! どちらさんだい? こんな不躾なことをする輩、うちんとこの女郎じゃないね。人を呼ぶよ!」

『あちきのこと、覚えておりんせんか。紫太夫』

 侵入者は黄土色の縞木綿を着ており、明らかに新造でも芸者でもない事は一目瞭然だった。しかしこの者はどこか気品があり、廓に住まう娘でも無さそうだと紫は思った。もとより、紫のことを”太夫”と呼ぶ者は、この見世には居ない。あのかほりでさえ、紫のことは遣り手と呼んでくる。それが廓の習わしだ。
 その時、紫の脳裏に一人の禿が浮かび上がった。かつての大旦那に犯されて破瓜されたちっぽけな禿を。

「よし……? あんた、あ、あの時の禿かい? 」
 
 手に持っていた煙管を落として、過去に人知れず離れ去った元禿に向かって頭を下げた。何故、花魁でもない人物に平伏さなければならないのか自分でも分からなかったが、どうしても叩頭こうとうしなければならないような気がしたのだ。

『遣り手になったのでありんすね。てっきりあれから身請けされたもんだと思っていんした。姐さんは、付き従っていた妹女郎の見舞いよりも、旦那様との戯れを楽しんでいたくらいでありんすからなあ』

「わ、悪かった! 悪かったよ……。……あ、あちきは……わ、若かったんだ」

『何が若かったって? 若いも年寄りもあるかよ』

 体中が震えだした。目の前にいる女人は、もはや花魁なのではないかと察した。言葉からは溢れ出てくる威厳と凄みを感じた。大見世の遣り手なら、花魁の素質にぴったりな女郎を見出す力を心得ている。明らかにこの者からはその域を超えていた。

 何も言えず、ただただ頭を下げ続けていた紫は、歩み寄って来るよしの足元を見つめた、

『けんど、あちきは姐さんを恨んではおりんせん。姐さんに見捨てられたおかげで切見世行きになり、度重なる縁のめぐりあわせがあって今のあちきがありんす。ただ……』
 
 俄かに跪き、よしは紫の顎を掴んで強制的に顔を上げさせて来た。突然の事で、声が漏れてしまった。

『感謝はしんせん。あんたなんかに礼の言葉なんてもったいない。せいぜいしぶとく生きるんだね。その皺だらけの眼であちきの晴れ姿をとくと見ておくんなんし』

 乱暴に顎を押し、よしは華麗に踵を返して梯子を下りて行った。紫の胸は激しく脈を打ち、悶え苦しみ自身でも訳が分からぬまま涙がとめどなく流れて来た。

 少しは親切に接してあげればこのような思いはしなくて済んだかもしれないと紫は後悔した。今更仕方が無いとは分かっていながらも、数多の所業を禿と新造に強いらせた己の浅はかさを呪った。

───────────────────────

「話せた?」

 梯子を下り、扉が完全に閉まるのを見届けた後、下で待っていたかほりが吉野の身体を支えながら、声をかけた。吉野はかほりに笑みを向け、『うん。ガツンと言ってやったよ』と得意げに言った。

「さっすが花魁!」かほりが背を叩くと、新造による見世清掻みせすががきが本格的に鳴り響いた。「ほら、もうすぐ夜見世が始まる。裏口から出て」

 長居してしまい、間もなく【廻し方】による巡回が始まろうとしていた。吉野は素早く、厨に入ったことで楼主に見つからずに済んだ。裏口に出るとすでに辺りは薄暗くなっており、秋風が身体を震わせた。

『本当にありがとう、かほりちゃん』

 黄昏時の中、かほりの顔を覗き込みながら吉野は感謝を述べた。二人はどちらからともなく互いの手を取った、

「ねえ、また会ってくれるかい? よしちゃんとまだ話したい事がいっぱいあるんだ」

『何、水臭いこと言ってるの。あちきも話したいことがたくさんあるよ。次は外で会おうね! 約束さ』

「うん! 約束」

 吉野とかほりは指切りをした。心中立ての意味を成さない女郎同士で交わされる契り。この後、二人はかつての幼馴染として、この苦界を生きる心の支えを得たのであった。

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