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第十六章 誘拐
しおりを挟む貧乏旗本の成れの果てだと言われてきた
俺は許せなかった。だから奴を刺した
しかし不覚だった。
あいつの上に跨りながら胸を一突きするところを頭に見られてしまった
顔を青ざめさせて逃げる頭を追いかけると吉原にたどり着いた
バラされるのではないかと冷や冷やしながら、見世に忍び込んだ
だが、拍子抜けした。汚らわしい女とヤリたかっただけだったようだ
女に覆いかぶさる頭の首を後ろから掻っ切った
返り血を浴びた女は驚愕絶叫する素振りも見せず、偉そうに俺に説教してきた
さすがは一端の女郎だ。俺が頭以外に人を殺ったことに気付いている様子だった
俺はすぐさま手を下そうとするとあの女は俺に酒をぶちまけ、燭台を蹴った
一面火の海になった。おかげで俺は火傷を負った
今度はあの女を殺す。女が死んだなら、お前を殺る……奈桜藤
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正月一日───────
元日であるこの日は大門を固く閉じた。お客の登楼は常連客のみに限られたが、今年は珍しく潜り戸を通る客は疎らであるため、多くの見世は暖簾を仕舞った。正月は毎年、女郎のみならず雇い人皆々、心晴れる気持ちに浮足立っていたのだった。
「夕風屋」での元旦は楼主による新年の挨拶から始まった、
「昨年は、新たな御上がお立ちになり、なお一層のご公儀との関係を強化させねばならぬ。今年も前年以上に精進し、益々の発展を祈ると参ろう」
遊佐が屠蘇が注がれた盃を掲げると、楼主を見上げる女郎や若い衆たち、それぞれが持つ盃を押し戴いてから口をつけた。
今年は吉野にとって忙しくなる年となる。隣で美味そうに屠蘇を飲むひめ野が【突出し】を迎える。突出しとは、名実ともに振袖新造から新たな後継者としてお披露目の道中を行い、初めて客を取ることが出来ること。
しかし、その突出しの儀の前に、開花の手ほどき、言わば【水揚げ】を受けて貰わねばならず、お客の選出が肝心であった。吉野は、夕顔太夫時代のお客の一人を初体験の相手として推薦したいと考えていた。
雑煮が皆に配られた後、楼主は女郎たちや若い衆、男衆たち全員を一人ずつ呼び、仕着せを進呈する儀式が始まった。何人かが嬉しそうに衣装櫃を抱えて内証を出るのを見送りながら雑煮を食べていると、ようやく吉野が呼ばれた。
遊佐と松枝に向かって両手を付いた吉野は、改めて新年の挨拶を落ち着き払った声で述べた、
『新たなる年明けに準じんして、誠にめでたきことに存じ奉りんす。本年も豊年となりんすよう勤めて参りんす』
「うむ」と、ひとこと頷いた遊佐は幾重にも積まれた衣装櫃を前に差し出した。
一昨年の火事で経営が厳しくなった頃と比べると三棹ほど多く、吉野は胸が高鳴った。いつもなら厳しい遊佐だが、正月は毎年見世の者たちに仕着せを与え、それぞれの好みに合った物を見繕ってくれる。吉野も楼主の見立てには毎度毎度、感心させられたほどであった。
昼八ツ───────、
吉野は新造と禿を伴って、各引手茶屋へ新年の挨拶に出掛けた。
元日の吉原は張り詰めた空気もあって凍えそうだった。
跡着小袖を表着にして、中には三枚の暖かな綿入れを着込んだ。ひめ野としず葉たちにも、お揃いの跡着小袖を着せて、中にもたくさん着込ませたが、外に出てふと見やると、白粉で塗られた顔がまるで頬紅を付けたかのように赤みを帯びていた。
「どうしんして足袋を履いてはいけんのでありんしょうか……」
手を揉み摩りながら、楓がひめ野の事を上目遣いで訴えた。同じく寒そうに手を袖に引っ込めていたひめ野が唇を震わせて諭した、
「素足を見せるのが女郎の粋ってもんだ。足袋なんて野暮なもん履きたいなんて考えるんじゃないよ」
そう言った直後、ぶるっと肩を震わせる姐女郎を楓が怪訝そうに睨む様を見て、吉野は笑いそうになった。
仲之町とそれを横断する八つの町には、見世に表を向けた門松と注連縄で飾られていて壮観だった。吉野以外の花魁も上の女郎たちもまた、思い思いに着飾って馴染みの茶屋へ挨拶へ向かうため道中を張った。
挨拶を済ませた後、女郎たちはそれぞれ自由なひと時を過ごす。
吉野は遣り手婆に何かと理由を付けて帰らせ、その足で「芒屋」へ向かった。店には甘味を求める客で賑わっており、それぞれ美味しそうに雑煮を食べていた。
縁台に腰掛けた吉野はしず葉と楓に、嬢香を呼ぶよう差し向けた。客が次々に減って行くと、嬢香が盆を持って現れた。見れば、普段とは違って絹地の宝尽くしの小袖に松林柄の帯を合わせている。
吉野が新年の挨拶をすると、嬢香が縁台に人数分の茶と菓子を置いた。今日の菓子は落雁だった。しず葉ら禿たちの前に嬢香が色鮮やかな落雁が載った皿を置くと、全員が我先にと菓子の奪い合いが始まった。
それを目にした吉野はすかさず帯に挿していた扇を取り出し、勢いよく縁台に叩きつけた、
『これ! がっつくんじゃないよ!』
「あ……ごめんなんし姐さん……」
厳しく諭されたしず葉たちは、花魁の顔色を窺いながらひとまず合戦を休戦させて静かに菓子を手に取った。
『ごめんね。菓子になると目が無いんだからこの子たちは』
美味しそうに落雁を口に運ぶ禿たちを一瞥しながら、吉野はやれやれと首を振った。
「しょうがないさ、禿だもの。菓子が好物だろうさ」
解け掛かった前掛けを結び直した嬢香がぎこちなさそうに続けた、
「それにしても、あんた……花辺のおっかさんに似て来たね」
『え、本当?』
思わぬ内懐の友からの褒め言葉に吉野の顔が綻んだ。
「ああ、普段は優しいのに時に厳しくなるところなんか特に。あんた、ちゃんと姐さんやってんだね」
落雁を一つ手に取りながら、吉野は「流う楼」で過ごした正月を思い起こした。粗末ながら、正月には酒を飲んで新年を祝ったものだ。
今でも十分、幸せな日々を送っているが、花魁として新造や禿、下の女郎に至るまでを取りまとめることに重荷を感じ、孤独すら感じている。
「流う楼」での思い出と共に、ふと大助の顔が頭をよぎった。「夕風屋」に来て三年、近頃はそうそう気持ちを吐露するような間柄には至っていない。「流う楼」の頃とは違い、身分の差ははっきりとしているからだ。
花魁と番頭。間違いが起きてはならない関係になった。二度とあの頃のように身体の交わりをしてはいけない。
「どうかしたか?」
急に俯き出す吉野に向かって、嬢香が顔を覗き込んで来た。
『え!? あぁ……ううん、なんでもない!』
「ふ~ん」
『あ、そういえばさ嬢香ちゃん! 頼みがあるの』
ああ、なに? と後ろ手で寄りかかりながら脚をバタバタさせる嬢香に、吉野は「芒屋」に来た目的を明かした、
『これをお願いしたいんだ』
そう言って懐から取り出したのは三枚の封筒だ。受け取った嬢香が宛先を見るとそこには「浄閑寺住職」と書かれている。吉野を見つめ返し、疑問を投げた、
「あんな寺に? どうして?」
『夕顔姐さんと高尾姐さん、そして花辺のおっかさんのお布施だよ。お経を百八ずつ。金子も入っている。三人が眠る総墓に手を合わせた後で住職に渡して欲しいんだ』
「はぁ? なんで、あたしが──」
小さく溢した嬢香だったが、すぐに言葉を切った。廓の外に出られない吉野だから、こうしてわざわざ頼んできているのだ。女郎ではなくなり、吉原の住民となった嬢香にしか頼めなかった。だからと言って若い衆に他見世の分の代参を任せる訳にも行かなかったのだろう。
下駄を二足飛ばした嬢香は、分かったよ! と言って封筒を大事そうに風呂敷に包み直した、
「あたしに任せな! 籠の鳥の花魁のために行ってやるよ」
『ほんと? ありがとう、嬢香ちゃん!」
吉野は目を輝かせ、嬢香に抱き着いた。離れろ気持ち悪い! ともがいたが、吉野は笑いながら離れようとしなかった。
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正月二日───────
吉原の新年二日目は、馴染みのお客限定の登楼が再開される。
一日で【年礼】と【仕舞日】【催し】と、行事が目白押しで目の回る忙しさが毎年恒例だ。しかし、吉野にとってこの日は新年で一番好きさえある。
吉野花魁に年頭の挨拶がしたいと言う大尽らが挙って吉野の座敷に上がり、待機した。前夜にはそれぞれの大尽らから贈られた小袖とし掛けを纏い、お客のもとに顔を出す。贈ったし掛けを着た花魁もしくは女郎と新年のあいさつをした後、酒を飲み交わす。この至福がお客にとって最上級の楽しみなのだ。
まずはじめに、宇野屋忠義の待つ座敷へ向かった。上座に座ると、新年の挨拶を述べた宇野屋が、下人に持たせた漆塗りの大きな箱を受け取って吉野の前に差し出した、
「店で作らせた特別なものだ。皆でお使い」
宇野屋は江戸で小間物屋を営んでいる。吉野がそれを受け取り開けてみると、べっ甲の簪と匂い袋が入っていた。吉野のだけじゃなく、禿と新造の分もあると言って、下男がそれぞれの前に漆塗りの箱を置いて行った。
『有難きお年玉でござんすねぇ。大事に使わせて頂きんす』
舐めるように見てくる宇野屋を見返して、吉野は感謝の意を述べた。
「ほっほう~! 嬉しいねぇ。ああそうだ、壊れたりしたら遠慮なく言っておくれ。直す故な」
『そう言って、最近は滅多に顔を見せに来てはくれんではありんせんか。最後に来んしたは、呼出になった祝いの席でありんすねぇ?』
「すまないねえ……実は店を京、大坂にも広げようと思ってね。それでバタバタしてたんだ」
『左様でござんすか』
満足したように盃を傾ける宇野屋を一瞥して、吉野は次なる大尽の座敷に向かうため席を辞した。名残惜しそうに冗談を言って宇野屋は手を挙げていたが、先ほどの発言で見世にはしばらく来ない事を示していると分かった。
自室に戻って着替えてから、今度は杉原庄次郎の座敷に向かった。禿が障子を開けると、杉原はすでに出来上がっており、ちょうど、芸者の幸緒の衿の中に手を突っ込もうとするのを目の当たりにした、
『あんれまぁ……旦さん、あちきより幸緒がお好みでござんすか?』
「よ、吉野! こ、これは違うっ!」
酔いが醒めたのか、呂律の回らない口で必死で弁明しようとするも、頬が赤く染まっていて説得力が感じられなかった。幸緒は裾を絡げて、後じさり、頭を下げたまま押し黙っている。芸者を追及するつもりはなかった吉野は、杉原の前に立って畳みかけた、
『旦さんとお酒を酌み交わしんしょうと思いんしたが、気が無うなりんした。どんぞ、お楽しみなさいなんし。もっとも、芸者は見世で肌を脱ぐんは御法度ゆえ、旦さんの思い通りにはなりんせんすなぁ』
杉原から贈られたし掛けと帯を脱ぎ、杉原の頭に被せて座敷を出て行った。夕顔時代の馴染み客に対する無礼に、ひめ野は冷や冷やした。
「姐さん! 夕顔姐さんのお客であられた旦那様に対してあのような仕打ちは……」
自室の障子を開け放った吉野が、
『芸者に手を出したあの旦那が悪いんだよ。お前さんもよくよく覚えておきな』
次に待つ大尽から贈られた跡着に着替えて、吉野は三橋屋直五郎が待つ座敷に向かった。先ほどの一件を忘れるかのように、新年の挨拶を交わした後、吉野は酒を呷った。何も口にしていなかったせいか、身体中を熱い酒で覆われ、目の前が多少ぐらついた。
「おやおや、花魁。どうしたんだい今宵は。正月だからと言って呑むではないか」
『大事ありんせんよ。旦那様にお会いできんしたのが余りにも嬉しゅうて、うれしゅうて』
手練手管で嘘を簡単に漏らす。それが花魁の鉄則である。まもなく吉野の元を巣立つひめ野は、じっとその様を肝に銘じた。
「可愛いことを言いよる」ひめ野の酌でゆっくりと盃を傾けた三橋屋が徐に口を開いた、「そういえば、吉野。ひめ野の水揚げはいつだったかな?」
『九月に執り行おうと思いんす。親父様にその事について話そうと考えていんすが、なかなか強情な人でありんすゆえ……』
「私からも遊佐殿に伝えて頂こう。ひめ野も、私となら安心するであろう?」
ひめ野は銚子を持った手を盃に当てながら、ええ、と嬉しそうに愛嬌を振りまいた。
三橋屋直五郎は夕顔太夫が若い頃からの馴染みであり、田藤屋治左衛門の一件でとうとう腰を上げた夕顔と再会してから大尽へと昇格した人物だ。
油問屋の主にしては惜しげもなく金子を落としてくれるので、吉野はひめ野の水揚げに、三橋屋を推挙したいと考えていた。本来ならば花魁が独断で決めることはできない規則だったが、吉野は何としても夕顔太夫の引込禿だったひめ野のために慣れ親しんでいる相手をあてがいたかったのだ。
それからは、座敷で待っていた栗原藤右衛門と竹井兼善に挨拶と少しの盃を交わしただけで、どのお客とも陰雨ることなく、自分の室で眠ることにした。
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ひめ野に偉そうに言ったものの、豪商の杉原庄次郎を切ったのは大きな痛手だった。大尽らが帰って後、同席していた遣り手婆から報告を受けた松枝にこっぴどく叱られ、仕着せを七日間没収されるという結果となった。
円窓を少し開けて、枠に腰掛けながら煙管を吹かしていると、夕華が火鉢を置きに入室した。ちらと横目で見た吉野は声を掛けた、
『いつまで口を利かないでいるつもりだい?』
炭を火箸でかきまわすのに集中しているのか、夕華は丸火鉢を見下ろすだけで一度も顔を上げなかった。
この二ヵ月間、二人は言葉を交わしていなかった。
「瓜葉楼」の座敷を出て行った夕華はその後、茶屋へ戻って来ることはなかった。気が触れて本当に足抜けしたのではないかと不安になったが、「夕風屋」に帰ってみると、室で待機していたので安堵した。
三味線を片手に、一階で芸者が夜通し鳴らす清掻きに被せるように弾いていた。声を掛けてもこちらを振り返ることはなかった。しかし、ひめ野としず葉にだけは口を利いていた。その姿に、吉野は寂しく思った。
この二ヵ月、夕華から話し掛けるのを待っていたが、年が明けた今、意地を張るのはやめようと思い、自分から声を掛けたのが先ほどのことである。
『留新は花魁を護ってくれる監督役なのはお前さんも分かってるだろう? 初めて登楼する客がどんなお客かを見定める時、──先ほどの杉原様の件においても、お前さんの慧眼が必要なんだ。お前さんより、あの旦那を選んだことを許してはくれまいかえ?』
夕華にどれほど一目置いているかを吉野はありありと説得し、初めて許しを請うた。しかし、横顔しか見えずこのまま無視される羽目になると考え、吉野は立ち上がりかけた──。
「姐さんが、あちきよりあの絵描きの旦那を選んだのが許せないのではありんせん──」
徐に夕華がこちらを向いて訥々と話し出したので、吉野はゆっくりと膝をついた。
「あの場で逃げ出したあちきが許せんのでありんす。吉野姐さんの考えてることは手に取るように分かりんすよ? 共に、夕顔姐さんに付いて、一緒に囲碁をして過ごしんしたゆえ」
『夕華……』
「吉野姐さんは、ずっとあちきの心から憧れる花魁でありんす。……この二月、姐さんを軽んじたことをお許しくださいなんし」
両手を付く前に、吉野は夕華を抱き寄せた。じんわりと、つっかえていた心が解き放たれるようだった。
『あちきこそ、あの日はどうかしていた。傍で仕えてくれるお前さんよりお客を選ぶなんぞ……、浅はかだった……ごめんなんしよ』
「けんど、花魁としては当然のことでありんす。姐さんは間違えたことをしてはおりんせんよ」
ようやく言葉を交わせることが出来、より一層絆を強めようと心に決めた吉野だった。
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正月三日───────
翌日の三日から七日までは、【初買】といって女郎らの年の評判が決まる。まばらだった客の入りが増え、「夕風屋」も茶屋も準備などで大童となった。
昼見世終わり、吉野が今宵に供えて身体を清めようと新造と禿を伴って湯屋へ向かった、
「毎年のことながら人が多ござんすなぁ」
『ほんにな? ──しず葉、楓! 手ぇ離したりすんじゃないよ』
人混みに巻き込まれぬように、禿のふたりは不安そうにぎゅっと吉野の手を強く握った。夕華は花魁に誰にも触れさせないように道の先頭を歩いて通行人を掻き分けたが、出店を目的に賑わう人々と時折ぶつかった。「夕風屋」がある京町一丁目から湯屋のある通りまでは、ほんのちょっとなのだが、なかなか辿り着けないでいた。
傍を通り掛かる人々の顔を凝視していると、吉野は頭巾を目深に被った男がこちらに近付いて来るように感じた。警戒して、通り沿いの店に駆け寄るとふいに腕を掴まれた、
「花魁!!」
夕華がすかさず男の手を振り払おうとすると、男は腕を上げて夕華を突き飛ばした。
『夕華!』
朝から続く町の囃子のせいで、この騒ぎに誰一人気付かなかった。吉野はとにかく自由な片方の手でしず葉たちを後ろに回り込ませ、不審者に目を向けると、その男の面影に見覚えがあった。不意に言葉が衝いて出て来た、
『ゆう……いちろう……さま? 悠一郎様なのでありんすか?』
唇から首筋にかけて漂う色気が、熱く交わし合ったあの頃と同じだった。
「ああ、奈桜藤……いや、今は吉野花魁か。出世したな」
男のその言い方は、はじめから吉野だと知っていたような口ぶりだった。徐に頭巾を取り払うと、衝撃が吉野の中を駆け巡った。
逞しかった身体は見る影も無く弱々しい。目の下には深い隈が刻まれ、月代も伸び放題、着物は継ぎ接ぎだらけだった。二年の間、一体どこにいたのか? 吉野は問い詰めたい思いに駆られた。
だが今は、禿と新造を従えている。夕華を支えていたひめ野が怪訝そうにゆっくりと近づくので、吉野は二人に命令した、
『ひめ野、夕華。しず葉たちを連れて先に湯屋へ行きなんし』
「で、ですが花魁!」
ひめ野は怪しい男に腕を掴まれている状況で放ってなどおけないとでも言うように身を乗り出した。吉野は手で制した、
『後生だ……』
新造と禿の背中を見送った後、吉野と悠一郎は人の出入りが少ない京町二丁目の通りに入った。ここはかつて、高尾花魁の行方を追った通りだ。裏茶屋と茶屋がある陰湿な空気が一年経った今でも変わっていなかった。
しばらくぎこちない空気が続き、吉野は耐えきれず自分から切り出した、
『どうして今までお顔をお見せにならなかったのでありんすか? 菊次様がお亡くなりになられたの……ご存じでありんすか』
悠一郎を見つめて言うと、彼は途端によろけ出した。そして建物の壁に背中を凭せかけ、額に手を当てた。やがてゆっくりと肩を震わせ、声を上げて笑った。
「くくく……あははは」
『何を笑って……! あなた様の主ではありんせんか』
「ほとぼりが冷めるのを待っていたんだよ。この機会をずっとな」
意味の分からない発言に吉野は更に問い質そうとしたが、手で制された。吉野はその手を掴みたいという衝動に突き動かされそうになった。
「ひとまず、今日の所はここまでだ。二日後の夕七ツ、奥の柳の木の下で落ち合おう……遅れるな」
悠一郎は京町二丁目の奥に見える柳の木を指し示した。そこは羅生門河岸にある九郎助稲荷の柳の木だ。吉野が指された方を見てからもう一度、悠一郎を振り返ると、跡形もなく消え去っていた。
探し求めていた愛しい人との再会に、不覚にも心を弾ませた。不穏な雰囲気を纏った悠一郎は声色も昔の面影を残さず、かなり冷たかった。言葉を発する度に全身が脈打ち、震えるほどだった。
しかし、浸っている暇はない。自分は女郎だ。廓の女将でも、団子屋の女主でもない。客が求めれば侍るように道中をしなければならないのだ。
吉野は重い足を引きずりながら一歩を踏み出した。
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呼出された「瓜葉楼」で待っていたのは、花房だった。今日もまた絵を描く気満々らしく、紙が手当たり次第に溢れ返っている。上座に座ると、ようやく花魁の参上に気付いたのか、手早く新しい紙を広げ、四つん這いの姿勢になった。
筆を素早く走らせて下書きらしき線を構築させていった。その間、花房は一言も発さなかった。
吉野は何も考えずに、じっと絵の雛形になることに専念した。今日は本来、三度目の【馴染み】で、松枝から口を酸っぱく寝るように言われたが、絵筆を走らせている花房にその兆しは無いし、前回「花魁と寝る気はない」と断言された。お客にその気が無いのなら、こちらから誘惑するのも億劫だった。
「何故だ?」
膝元にある煙草盆に目線を流すように落としながら片膝で座っていると、突然花房が声を荒らげて筆を放り投げた。吉野は思わず顔を上げた。
「何故そのような目をわしに向けるのだ?」
訳が分からないことを言われ、吉野は押し黙ろうとも考えたが我慢できずに反論した、
『別に、旦那様に目を向けてるわけではありんせん。ここにある、あちきの煙草盆に目を向けているのでありんす』
「言い訳を申すでない!」
「花魁に向かってなんて口の利き方を!!」
痺れを切らして夕華が声を張り上げた。
「お前たちは気付いておらんのか? 長く共に暮らしておるのではないのか?」
花房が今度は新造と禿に唾を飛ばす勢いで言った。
『あちきの目がそんなにおかしいのでありんしょうか?』
吉野が訊ねた。夕華が止めに入ろうとするが吉野は手で制した。
『仰ってみてくださんし! あちきの目がどうだというのでありんす!』
花房と目を合わせながら、吉野は今にも泣き出しそうになった。考えを見透かされているようで悔しかったのだ。
行方が分からなくなった過去の間夫に遭遇して心が動いた己が、然様に分かりやすい素振りを見せているのかと。花魁として恥ずかしく思ったのだ。
「初めて食って掛かりおったな」花房が唇を曲げた。「わし以外に想い人がおっても構わん。じゃがな、そんな想いはわしと居ない時にせよ。花魁になってまだ浅い証拠じゃ。三~四年太夫をしていた女郎の方がまだましじゃ」
花房はそう吐き捨て、筆と紙を置き去りにして室を出て行った。吉野は、そのまま居残ろうと思ったが居ても立っても居られず、後を追いかけた。背後で夕華の止める声がしたが無視した。
『お待ちくださいなんし!!』
花房の大きな背中がピタリと止まり、階段の前に足を下ろそうとしている所だった。
『確かに、あちきはかつての想い人に会いんした。三日後の夕七ツに柳の木の下で会おうと言われ、どうすればいいか分からず……。旦那様が目の前にいるにも関わらず、思い悩んでおりんした……お許しくださいなんし』
告白した後で、吉野は自分が口走ったことに思わず唇に手を添えた。花房はゆっくりと振り向いた。その顔は意外そうにも困惑しているようにも見えた。
「絵にはその者の想いが強く残る。わしはそんな絵は描かないと誓うたのじゃ。わしはこれまで、絵を描いて後に心中した女郎を何人も見て来た。その絵は傑作だったが残念ながら燃やした。呪われてしまっては困るからな」
神妙な面持ちで花房が語った。吉野は気の毒に思うのと同時に初めて花房の頭の中を知れたようで嬉しくさえ思った。
花房はゆっくりと吉野に近付き、徐に顎に触れた、
「わしが絵を描いておる時は考えを失くせ。でなければ、わしはもう二度とお前さんの絵を描かぬ」
顎を乱暴に下ろし、花房は階下に降りて行った。吉野はその場から動けなくなった。吉野は花房のことを更によく知りたいと思うようになった。そのためには悠一郎と会わなければならない。かつての間夫への想いを断ち切るために。
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二日後、吉野は悠一郎に会う算段を下した。まず団子屋へ出向き、新造と禿に団子を食べさせている隙に抜け出そうと考えた。
『ひめ野、夕華、しず葉と団子を食べ終えたら先に帰っておくれ。あちきは少し、茶屋に挨拶しに行く』
「あちきらも参りんす」
『だめだ!』
思わず声を張り上げると、二人は目を丸くしていた。
『すまない……これは一人で行かなければならないんだ。分かったね』
二人は力なく頷くのを見届けると、吉野は急ぎ羅生門河岸へ遠回りして向かった。
柳の木の下で、悠一郎が風に揺れる柳の枝を眺めていた。
『悠一郎様!』
そう呼びかけると彼はふっと微笑んでこちらに近付いて来た。吉野も近付こうと歩を進めると急に辺りが暗くなり、腹部に強い痛みが走った。
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「なんだ……?」
配達の帰り道だった。長話をし過ぎて、店が心配で速足になっていたが、横を通り過ぎた大きな袋を持った集団が気にかかった。しかも京町二丁目から出て来た。この辺りを配達で良く通りかかるが、そんな大荷物を持った者たちをこれまで見たことがない。
しかも、その袋からは嗅いだことのある香りがした。足繁く通ってくる厄介な友人の香の匂いに似ていた。
「よし……?」
袋を持った男を追いかけようと仲之町を出たが、見失ってしまった。
急なざわつきが嬢香の心を覆った。
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「申し訳ごぜえやせん、花房様……今、吉野は立て込んでおりまして、もうしばらくお待ちくだせえませんでしょうか」
大助は、急な呼出をしてきた花房を宥めていた。
「おお、そうか。てっきり、想い人の元におると思うておったがな」
大助は聞き捨てならず、勢いよく顔を上げた。
端下の女郎ならいざ知らず、花魁が間夫に溺れるのを知らぬ番頭はこの吉原にはまずいない。心中されては堪ったものではないからだ。
「あの……オモイ人といいますと?」
大助が訊いた。花房は、しまった! というような表情をした後、凄みのある番頭の目に根負けし、詳細を漏らした。
夕風屋 ───────
「ひめ野、夕華」
「瓜葉楼」から戻った大助は、二階の廊下で吉野の新造二人を見つけ、声を掛けた。気付けば、少し離れた所にとぼとぼと歩くしず葉もいた。
「あ、大助さま!」
「お疲れ様でごありんす大助様。どうしなんした? そないに慌てなんして」
ひめ野と夕華が頭を軽く下げて挨拶をした。大助は手を挙げながら応えた。
「よし……いや、吉野花魁は何処にいる? 団子屋に行っておったのではねえのか?」
大助が聞くと、二人は顔を見合わせて言った、
「あちきらに、先に帰るよう仰りなんした故、そう致しんした……そういえば、もう四半刻経ちんしたなあ」
「そうおすなあ」
首を傾げる姐女郎を後目に、しず葉が袖口についてるヒラヒラした大角豆を俄かに弄り始めたのを大助は見逃さなかった。二人を押し退け、禿の前に跪くと、しず葉の声が少し上ずった、
「大助さま……? ど、どうおいたしたんだすかえ?」
「しず葉、お前さん……何か見たんじゃねえのか?」
「……」
「なんでもいい! とにかく……話せ!」
得体の知れない不安が押し寄せ、思わず声を荒らげた。
「大助様……一体何を……?」
夕華が訊きながら、俯くしず葉の顔と大助を交互に見やった。しず葉は大助の手を掴み、涙目になって言った、
「大助さま! きっと……きっと姐さんが危ねえす!」
詳しく聞けば、しず葉は吉野の様子が気になって追いかけたところ、前を歩いていた花魁が忽然と消え、男数人が巨大な袋を抱えてどこかへ走り去っていくのを見たという。
禿の話に大助は真剣に耳を傾けた。夕華とひめ野もたどたどしく語るしず葉を見つめ、驚愕した。
「なんでそのことをあちきらに言わんかった!?」
ひめ野が詰め寄った。しず葉は今にも泣きだしそうな声で謝った、
「ごめんなさいなんし……。でも、そん時、風が強うなって、砂埃が目に入って痛かったんでありんす。気のせいかと思ったけんど、いま思うとあれは姐さんかもしれんせん!」
ひめ野は大助を見た。考え込むような顔になった後、しず葉の頭を優しく撫でた、
「話してくれてありがとよ」
「どうしんしょう……。大助様……よもや攫われたとしんしたら?」
大助は立ち上がって、今度は冷静な声でひめ野と夕華を見下ろした、
「良いか、ひめ野、お前は親父さんと女将さんに事情を説明しろ。夕華、お前は会所と面番所に行って、大門の見張りと花魁が攫われたことを知らせろ! 俺はよしを探す……しず葉、お前さんも来い」
四人は三手に別れた。吉野の身が危ない。それぞれの胸に、重たい空気が流れ込んだ。
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目を覚ますと、数人の影が眼前でうごめいていた。
間もなく日が暮れようとしているのだろうか、格子窓の奥が橙色に染まっていた。そのせいか室内は暗く、おぼろげだった。
目を凝らしながら辺りを良く見回すと、蜘蛛の巣の張った天井に、今にも崩れそうな柱と、継ぎ接ぎだらけの粗末な座布団があるだけだった。壁に大きな穴が開いており、入って来る風に身震いがした。
「おや、ようやく気付いたようだね」
身動きを取ろうとすると、手足が縛られているのに気づく。口にも何かを噛まされていて話せない。
「手荒な真似して済まなかった。いやぁ、天下の花魁を攫ったなんてまったく身が震えるよ」
「悠一郎、つべこべ言ってねえでさっさとヤっちまおうぜ。俺達ゃもう我慢ならねぇ」
「いやぁ待て。奈桜藤を犯すのはその後だ。全てを話して聞かすまでな。まずは口の物を取ってあげろ」
好色そうな目つきで見るみすぼらしい男が口に噛まされた物を外した。吉野は息を整えて、悠一郎を見上げた、
『悠一郎様……一体、何をなさるつもりで?』
悠一郎はゆっくりと近付いて、跪いた。
「お前さんにな? 俺がした事を明かそうと思ったんだよ。頭が死んだのも、あの女が死んだ理由もね。そのためにはこうしてお前さんを縛り上げておく必要があったんだ」
訳が分からなかった。いったい悠一郎は何の話をしているのだ。
「俺があの火事を引き起こした」
目を見張る吉野に悠一郎はほくそ笑みながら話を続けた。
「俺は貧乏旗本の生まれだった。頭に拾われ、材木問屋で働かせてもらって必死に勤め上げた。十年経った頃には木挽のまとめ役にまで上ることが出来た。しかし、同僚には蔑まれたよ。貧乏旗本の成れの果てだと言われたんだ。俺は無性に腹が立ってその同僚を刺し殺した」
悠一郎の声が途端に震え出した。
「だが不覚だったよ。殺した瞬間を頭に見られちまった。目を丸くさせ、後ろをゆっくり振り返って走って行ったよ。俺はアイツを追いかけた。告げ口されちゃたまったもんじゃねえからな? そして、辿り着いた先はなんと吉原だった。慌てて「夕風屋」に入って行くのを見て、俺は持っていた手拭いを被って見世に潜り込んだ。頭が入って行った先についていくと、頭は夕顔太夫に覆いかぶさりそのまま一発かまそうとしていた所だったよ」
吉野の脳裏に二年前の記憶が蘇った。一息つこうと、見世の外に出た時、ぶつかって来た人物がいた。確かほっかむりを被っていた。あれが、悠一郎だったのだと悟った。
「上半身だけを脱ぎ、頭は夢中で腰を動かしていた。俺は何故か耐えきれなくなり、同僚を刺し殺した包丁で頭の喉元を後ろから掻っ切った。絶命して胸に凭れてくる頭を抱きかかえながら、太夫は何度も何度も呼びかけていたよ。太夫の顔中、頭から垂れる血潮で赤く染まり、それが異様に美しかったのを覚えている」
蕩ける様な目で、悠一郎は股間を抑え始めた。吉野は初めて悠一郎に対し虫唾が走った。すると、急に悠一郎の眼の色が変わった。憎悪に満ち溢れた目になったのだ。
「だが、あの女、偉そうに俺に説教して来やがった! どうして人を殺める必要があるのか? こんなことをして心は満たされるのか? と口うるさく言ってきたよ。俺は黙らせようと、太夫も殺そうとした。その瞬間、俺に向かって酒をぶちまけて来た。そして……、手近にあった燭台を倒し、部屋が燃え盛った」
『姐さん……』
夕顔太夫らしい、と吉野は思った。咄嗟に取った行動で見世の者たちを守ろうとしたのだろう。大助や若い衆に助けを求めればよかったのにそうしなかったのは、太夫としての意地と誇りがそうさせたのだと納得が行った。
悠一郎を見ると、徐に袖を捲り上げた。腕には火傷の痕が生々しく遺っていた。吉野は思わず目をそらした。
「はははは!! お前のその顔が見たかったんだ!!」悠一郎は高らかに笑った。「どうだ? 心が掻きむしられるように苦しいだろう!? その気持ちのまま、屈辱に犯されて死ねばいいのだ!! もうあの女は死んじまった! だから今度は、お前が、俺に火傷を負わせた報いを受けるんだ!」
激しく指をさしながら、悠一郎は狂気の目を向けて笑った。反射的に吉野の身体が震えたが、それは違う意味合いを持った震えだった。
『可哀想な人……』
「あぁん?」
『何故……そのお仲間にあることないことを言われた時、あちきの元に来ては下されなかったのですか? あちきが……あなたの悩みを少しでも癒せたかもしれなかったのに……どうして?』
悠一郎は後退った。
「黙れ……! 黙れ!」
『男として恥だと思われたのですか? 女に、それも女郎に悩みを打ち明け、慰めてもらうことに誇りが踏みにじられるとでも思われたのですか?』
「黙れと言っている!!」
悠一郎は頭を両手で抱え叫び散らした。周りの仲間らしき男たちはその狂気ぶりに身を引いていた。身体を仰け反らせながら、肩で息をしている悠一郎は男たちを見据えて言った、
「お前ら、ヤっちまえ!」
ぎゅっと目を瞑り、吉野は身構えた。このまま犯されて死ぬ。そう覚悟した。その瞬間、大きな音が空気を裂いた。目の前の男たちが驚愕と叫び声を上げて逃げ惑っていた。
ちらっと目を開けると、強盗提灯を手に、与力・同心・岡っ引きが建物の扉を蹴破り、吉野の周りにいた男たちを次々と捕まえて行った。逃げ惑う一人の男を岡っ引きは全速力で追い掛け回している。
「よし! 大丈夫か?」
聞き慣れた声が耳元を包んだ。振り向くと血相を変えた大助が縛られている縄を解いてくれている。その傍らには何故かしず葉がおり、腕に縋り付いて来た。
『大助……』
「怪我はないか?」
縄を投げ捨てた大助が、吉野の身体中を摩りながら言った。
『あちきは大丈夫だよ。それより、悠一郎様は?』
辺りを見回すも混乱の最中では状況が掴めなかった。大助は同心の方を見やりながら、吐き捨てるように言った、
「あの野郎は番所のお縄だろう。直に奉行所の沙汰が下るさ」
『やめておくれ! あの方は悪くない!』
吉野は思わず大助に縋りついた。大助は困惑顔になった。
「何を言ってる? あいつは見世を焼き討ちにした首謀者だぞ! 夕風太夫と菊次様を殺したんだぞ!」
どういう訳か、大助は全てを知っていたような言い方をした。
察するに、悠一郎が事の経緯を語っていた折、格子窓の下で身を潜めていたのだろう。吉野はもはや何も考えられなくなり、力が抜けて大助に寄りかかるように倒れた。
その後の記憶は朧気で、次目覚めた時には自身の室にいた。
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